図書館兎と霧の国 本から立ち昇る霧の中、アリスは少女らしかぬ傲慢な顔で烏と早乙女を嗤った。
「神様以外のことはどうでもいいの。家族だってどうなってもいい。邪魔だったから、ロリーナにも蛇を産む器になってもらった。イーディスは、幼すぎて駄目だったみたいだけど」
少女の唇から紡がれる冷酷な言葉に嫌悪感が膨らむ。早乙女の予想が正しければ、ロンドンを這い回っていた蛇は蛇病に罹っていた女性が産み落としたものだ。中にはロリーナが産んだ蛇もいるかもしれない。
「もうやめなさい、アリス」
烏が宥めるように声を出す。命令されたとでも思ったのかアリスは怒りで目を見開き、女王の威厳を持って立ち上がった。
「黙りなさい!この本には全部書いてあるの。過去のことも、未来のことも。ロンドンを霧でいっぱいにして神様を呼べば、私は全ての未来を知ることができるのよ」
アリスの声に呼応して霧が濃くなる。
「もうすぐ、私は全部を見ることができるようになる。だから…邪魔、しないで」
アリスの背後、霧の中に顔が浮かんだ。がらんどうの瞳と三日月のように裂けた口。不思議の国のチェシャ猫の生首。二人を見てシャーッと毛を逆立て威嚇をする。
男とも女ともつかぬ声が、アリスの声に何重にも重なる。
「……邪魔をするなら容赦はしない。全員、消えてもらうから」
カタカタと音を立てて展示してあったミイラが動き出し、両手を前に突き出して向かってくる。早乙女がレディスミスを抜いた。
その間も霧はどんどんと深くなり、アリスをその奥に隠した。そして悍ましい叫び声が上がる。途端に烏の頭に断片的な映像が過った。翻る赤いコート。冬のイルミネーション。倒れている夜鷹。見ている狐。
26年の月日。
「おい、大丈夫か。しっかりしてくれ」
放心する烏の肩を、短い間だったが息子を演じてくれた早乙女が揺らす。夜鷹と同じ赤いコート。狐と同じ頭の高さ。まるで二人を一緒にしたかのような一人の青年。
ほんの少しの懐かしさと痛みを振り払い、烏が軽く手を挙げる。
「平気だよ、しかし参ったね」
「そうだな、この霧じゃ全く視界がきかない。下手に銃を撃てばアリスに当たるかもしれないな」
早乙女が言い終わらないうちにミイラの腕が霧の中から突き出てきた。しかし動きが鈍く二人を捕らえられない。それどころか狙いの定まらない突進を繰り返している。
「動きが鈍いね。こいつらは良いとしてアリスをどうするかだが…」
再び悍ましい悲鳴が二人の耳をつんざく。頭の中を針金で掻き回されたかのような痛みが走った。今度はトラックの急ブレーキの音があちこちから聞こえてくる。
アリスをどうにかするのであれば、この霧の中を手探りで動かなくてはいけない。しかしあまり手間取っていると、この悲鳴に正気を削られてしまう。
…せめてアリスの居場所がわかれば。
ふと、アリスの部屋で見つけたアンクの事を思い出した。ここに来る途中、このアンクを霧が避けているように動いていた。霧を完全に晴らす事は出来なくとも、アリスを探す事は出来るかもしれない。
そしてこの霧は、アリスが持っていた本から立ち昇っていた。
…あの本を取り上げればもしかして霧が晴れるのか?
ミイラの鈍い攻撃をかわしながら烏が早乙女を見る。
「早乙女さん、考えがある。私が先に行くから、君がアリスを取り押さえてくれるかね?」
「わかった。…やっぱり親子なんだな」
レディスミスをホルスターに収め、ふっと早乙女が笑う。
「何がかな?」
「夜鷹にも同じ様に、俺の前を任せたんだ。親子二人で同じなんだな」
誇らしさと、申し訳無さが同時に湧き上がる。
頼んだ、と早乙女が一歩下がると、烏の周りから霧が引いた。やはりあのアンクが霧を退けている。薄くなった霧の中にいるミイラの腕を押さえて引き倒した。
一歩一歩、烏が移動すると割れるように霧が引いていった。霧の向こうに見える金髪の少女。鳩の卵を潰した図書館兎。
「早乙女さん、頼むよ!」
「任せろ!」
グッと革手袋を引き、早乙女が霧の中へ猟犬のように飛び込む。霧の裂け目を縫い、素早くアリスに組み付き、抑え込んだ。そのままアリスの手から本を取り上げる。
「放して!繋がりが、無くなっちゃう…!」
アリスが体を捻じるようにしてもがくが、現役の刑事の早乙女に敵うはずもなくそのまま床にねじ伏せられた。
烏がアンクを掲げる。
「アリス、繋がりはもっと大切な人と持ちなさい」
アンクの上部の輪を通して早乙女が見える。その姿に、夜鷹と狐が重なった。