朝帰り 人気の少ないボーダー内の敷地を駆け足で進む。
トリオン体ならあっという間なんけどなぁ。
隠岐が呟いた言葉は足音に紛れた。
課題を忘れたことに気づいたのは僥倖だった。
数学の谷口先生は授業中の居眠りを見逃してくれても課題提出の遅れには厳しい。それは任務に忙しいボーダー隊員だろうと変わらない。
それに隠岐は途中で猫に遭遇しても触れ合えるように、早めに家を出て通学している。一度帰ったとしても始業時間には間に合う。遅刻の心配もない。
とはいえ、のんびりはしていられない。
隠岐の足は寮の区画に踏み込んだ。先程までまばらにいた人もいない。
寮に住むのは隠岐のように県外からスカウトされてきた者や内勤の非戦闘員の者が殆どだ。未成年が多くを占める戦闘員は実家暮らしの者ばかりで(仮設住宅に住む者もいるが)利用者は少ない。
この時間はもう誰も居ないだろうと思っていた隠岐は奥の角から誰かの影が覗いて、あら、と足を緩めた。こっちの棟ならイコさんか水上先輩かも、なんて同隊の2人を思い浮かべる。
果たして、現れたのはB級諏訪隊隊長、諏訪洸太郎だった。
猫ちゃんよりレアやなぁと目を見張る。
尻尾のするんと長い野良猫が寮の近くに居を構えている。たまに見かけては触らせてもらっている赤茶の猫は野良の割に綺麗で、ここで色んな人に可愛がられてんやろなぁとにっこりしてしまう。そんな野良猫より、この寮のある区画で諏訪と出会うなんて確率はゼロに近い。ただ、ゼロではない。友人が寮暮らしだという諏訪が、その友人の部屋に泊まった帰りに遭遇したことはある。
あるにはある、けれど。
諏訪さんのお友達は別ん棟やったと思っとったけどなぁ。
隠岐は記憶違いかな、別のお友達かな、と内心首を傾げながら足を止めた。
「諏訪さん、おはようございます」
「おはようさん。足音が結構響いてたぞ。んな慌ててどうした」
「いやぁ、課題忘れてしもうたんです、谷口せんせの」
「あー、タニセンな」
諏訪がしたり顔で頷く。諏訪さんはお友達に会いに来られたんですか、そう尋ねようと口を開きかけたが、その前に諏訪に猫を追い払うかのようにしっしと手を振られてしまった。
「ほら、ここでくっちゃべってねぇで早よ行け。遅刻すんぞ」
「…そうですね、失礼します」
「おー、いってらっしゃい」
隠岐は諏訪がひらひらと手を挙げて去っていく姿を少しだけ見つめたが、言われた通り時間もないため再び駆け出した。
なんとなく、はぐらかされたような気がしていた。
少しだけもやもやとした気持ちは、数ヶ月後、水上が諏訪と付き合っていることを知ったときに解消されることとなる。