0218 19:26 今日は今年の冬で一番寒い日らしく、すこし体調が悪いし、電車は止まるし、ついでに打ち合わせがリスケになったりもして、なんだかついていない。――そう思っていたけれど、机を挟んで目の前にある一人掛けのソファにやや乱暴に置かれた黒い皮の鞄を見て、なんだか、どころかひどくついていない日だと思い直した。
「ここ、座ってもいいでしょうか」
「……できれば断りたいんだけど」
「断られると、他に席が空いていないので困ってしまいます」
たしかに土曜日の店内は賑わっていて、あたりを軽く見回しても空席は見当たらなかった。しかし、わざわざ座らせてやる義理もない。断ろうと口を開いたけれど、目の前にいる男はこちらの返答なんて聞こうともせず鞄から財布を出してレジへと向かった。こいつの、自分が嫌われているなんて思いもしない故の図々しさにはいつも呆れてしまう。
シンジュクのスターバックスにこいつが来るのはおかしいことではない、けれどこんな風に偶然出くわしてしまうなんてことがあるだろうか。先に帰ってしまおうかとも思ったが、乗り換えアプリを確認するとまだ電車は動いていないようで、低気圧でうっすらと痛む頭を抱えた。
「君が、どうしてシンジュクに?」
戻ってきた寂雷が、マグカップに口をつけながら僕に問いかける。飲んでいるのはおそらくスタンダードなコーヒーで、もちろんコーヒーショップなのだから間違いではないのだが、こいつはどこに行ったって似たようなものを飲んでいて面白みがない。
「……仕事。終わって帰るとこだったけど、電車が止まったからここで動くの待ってた」
タクシーは行列で、あまりにも寒いのでシブヤまで歩く元気もない。シンジュク西口のスタバで電車が動くのを待っていたけれど、無理してでも歩いて帰ったほうがマシだったかもしれない、と目の前に居座っている男を見て思う。
「電車はもう少しすれば動くと思いますが、今日は日付が変わる頃に雪になるらしいから、寄り道せず早く帰ってくださいね」
「あー……はいはい」
相変わらずの説教臭さにため息が出る。寂雷とまともに顔を合わせるのはディビジョンバトルの時以来で、どんな距離感で接すればいいのかわからない。けれど寂雷はというとあまり戸惑うような素振りもなく、平気な顔でコーヒーを飲んでいる、ように見える。そもそも僕を見つけてここに座ってきたということは、僕と顔を合わせるのに躊躇がないということだ。これくらい神経が太ければ、幸せに生きられるだろう。別に生まれ変わったって寂雷には絶対になりたくないけれど。
「私は、一二三くんとこの後買い物に行く約束があって。少し早く仕事が終わったので待っているんです」
「へえ、そうなんだ」
寂雷はなにをしてるの、と聞き返さなかったのはわざとで、けれど目の前の男は勝手に今日の予定を喋り始めた。もう寂雷に対して以前までのような憎しみは抱いていないのだから、邪険にするのはおかしい、けれどチームを組んでいたときのように仲良くできるかというと、それもまた違う。いったいどんな距離感で接すればいいのか見当もつかず、それを考える前に寂雷が突然こうやって絡んでくるのだから困ってしまう。
「寂雷、明日仕事?」
「いえ、休みです。雪が積もると外には出づらいので、家にいる予定ですが。君は?」
「ふーん……まぁ僕も大体そんな感じ」
逆に寂雷はどう考えているのだろうと思い適当な質問を投げかけてみたものの、まるでわからない。いや、こいつが考えていることなんてわかったためしがないのだけれど、離れている間に輪をかけてわからなくなったような気がする。
「飴村くん、行儀が悪いよ」
考え事をしていたら無意識のうちに噛んでいたらしく、ふにゃふにゃになった紙ストローに歯形がついていた。
「うるさいな、後から来て偉そうにしないで」
「偉そうにはしていないよ。注意しただけです」
「お前って本当にずっと変わらないね。口うるさい」
「君は、前はもっと素直に私が言うことを聞いてくれていましたね」
「もう聞く必要ないし」
当時の僕にとって、寂雷に近づいて思い通りにチームを動かすことは唯一の使命であり、存在理由だったので、ある程度の可愛げは必要だった。もちろん全部が演技だったわけではないし、どこからどこまでが嘘だったのかなんてもう思い出せない、けれど、今思うと数年前の僕はずいぶんと寂雷に甘かったように思う。
またなにか小言や反論が飛んでくるかと思ったけれど、寂雷は返事をせず、なにかを考え込むように目を伏せ、マグカップに口をつけた。今も昔もこいつのコミュニケーションは自分本位だ。もちろん、静かにしていてくれたほうがいいのだが、急に黙られるとすこし驚いてしまう。
寂雷の相手をしなくてよくなったので、スマートフォンを手に取り電車の運行状況をチェックする。復旧にはまだ時間がかかりそうだ。そのまま数種類のSNSのタイムラインを流し見ると、今日の深夜から明日の朝にかけて雪が降る、という投稿がいくつか目についた。なんとなく天気予報でも聞いてはいたが、やはりトウキョウではやや珍しいくらいの積雪になるらしい。家に食べるものはあっただろうか。帝統はちゃんと寝る場所があるのかも心配だ。
「飴村くん」
「なに」
画面を見たまま返事をした。LINEの通知が来て、今すぐに返事が必要なものではないので上にスワイプする。
「私たちは、友達ですか?」
「は?」
思いもよらない質問に驚いて顔を上げると、目の前の男は大真面目な顔をしていてまた驚いた。まるで子どもみたいな質問を真剣にしてくるのがおかしくて、寂雷の言ったことで笑うなんて悔しいけれど、つい肩が震える。
「……何がおかしいのでしょう」
「面白い理由を、言葉で説明するのは難しいよね……っ、ふふ」
笑いが止まらない僕を、寂雷はすこしむっとしたような表情で見つめている。
「はぁ、面白かった」
「そうですか」
「で、寂雷は、僕と友達になりたいの」
たしかに、昔の僕たちは友達、と呼ぶのが一番近いような関係だったかもしれないし、少し前までは敵対していたのである意味お互いの立ち位置がわかりやすかった。では、今の僕たちは何と呼ばれる関係になればいいのだろうか。
「……わかりません、でも、君とまたこうして会話をできるような間柄になれたらと」
寂雷が、机をとんとん、と指で叩く。なにかを考えながら喋る時の癖は、あの時のままだ。
「寂雷にもわからないことってあるんだね」
「ありますよ、私をなんだと思っているんですか」
寂雷と関わってついた傷はまだぐじゅぐじゅとしていてかさぶたにさえなりそうになくて、友達になんてなれるわけもない。けれど、こいつが憎しみ合っていたのが嘘みたいに話しかけてくるものだから、なんだかこちらまでつられてしまって困る。
――僕は、どうしたいのだろうか。寂雷との関係を強制するものがなくなった今、自分自身がどうしたいのかを考えてみても、さっぱり思いつかなかった。
「なに買ったの」
「アイスコーヒーです」
喉がかわいた、と言って二杯目のドリンクを買いに行った寂雷が戻ってきた。たしかに、この店内はよく暖房が効いているので少し暑い。僕もフラペチーノを飲んでいてちょうどいいくらいで、ホットのコーヒーを飲んでいた寂雷は暑かったのだろう。ストローを咥える寂雷の顔をちらりと見ると、言われなければ気づかない程度、本当にわずかに肌が赤くなっているのがわかった。
「ていうか、暑いならコート脱げば?」
寂雷は店に来てからずっとコートをかっちりと着込んで、マフラーもしたままだ。もちろん、少しスタバで休憩するくらいならありえない話ではない、けれどそこそこに長居をしていて、さらに冷たいものを買いに行くくらい暑いのに、脱がない理由はないはずだ。
「ああ……そうだね」
曖昧に笑って誤魔化そうとするのを見て、なにかある、と直感した。好奇心に煽られるままに立ち上がって、寂雷のマフラーを掴む。
「飴村くん、やめなさい」
「やだ!」
予感は当たっていたようで、寂雷が焦ったような声を出す。こいつが狼狽えているところを見るのは気分がいい。
「大きな動きをすると、周りの方への迷惑になります」
「なら、迷惑にならないようにさっさと脱いでよ」
もちろん寂雷のほうがずっと力が強いのだから本気になれば止められるはずだけれど、他の客へ迷惑をかけないことを優先したらしい。観念したように大人しくなった寂雷のマフラーを剥ぎ取って、コートのボタンをひとつひとつ外していく。
「ねえ、これ」
「……」
寂雷は、チームを組んでいたときに僕がプレゼントしたニットを着ていて、これを隠そうとしていたらしかった。あげたことは覚えていたが現物を見るのは久しぶりで、懐かしい。
「捨ててなかったの」
「……捨てられるわけがないでしょう。チームが解散してからずっと、クローゼットの奥にしまい込んでいました」
コートを脱いで涼しくなったはずの寂雷の顔が、みるみる赤く染まっていく。
「今日は数年ぶりにこのニットを着たのだけれど……君に声をかけた時は、それを忘れていて」
寂雷は最低限の弁解を済ませ、誤魔化すようにアイスコーヒーを飲んだ。
寂雷が黙り込んでしまって、僕たちの間に沈黙が流れる。やけに周りの声が大きく聞こえ、時間が経つのが遅く感じた。なんだか喉の奥がもやもやするような感覚で、気持ちが悪い。
「急に静かになんないでよ」
「……すみません」
「お前って、本当に意味わかんない。なんなの?」
一緒にいる理由がなくなっても付きまとってくる理由が、僕には本当にわからなかった。
寂雷と過ごした時間が楽しかったのは事実で、きっと寂雷もそうだったのだろう。けれど、それだけでここまで僕に執着するものだろうか。
「しつこく突っかかってきたと思えば、こうやって絡んできたり、僕があげた服まだ持ってたり……寂雷って元々変だけど、僕といるともっと変だよね。そんなの、」
――僕のことが、好きみたいじゃん。自分がそう言いかけたことに気づいて、慌てて口をつぐんだ。無意識というのは恐ろしい。寂雷が僕を好きだなんてそんなことありえない、はずなのに、一度そう思ってしまうと足元がふわふわするように落ち着かなかった。
「そんなの……なんだい?」
「なんでもない!」
「自分でもわからないから、教えてほしいのだけど」
寂雷が、僕の顔を覗き込む。僕のこと好きなんでしょ、なんて当たっていても外れていても地獄じゃないか。
「いつも上から目線でお説教してるんだから、頭いいんでしょ。それくらい自分で考えなよ。電車動いてるみたいだし、僕もう帰るね」
これ以上口を滑らせる前に、早く帰ったほうがいい。急いで荷物をまとめてコートを羽織った。
「寒いから、寄り道しないで帰ってくださいね」
別れ際まで口うるさい寂雷に向かって、ひらひらと雑に手を振って店を出る。外に出ると来た時よりもさらに寒さは増していて、冷たい空気で顔がひりひりとした。明日は本当に雪になりそうだ。外気に晒されている頬が、じんわりと熱を持ってなかなか冷めないことには気がつかないふりをした。