<実を結んだたったひとつの可能性、もうひとつの未知への道>アイン(無)が、アイン・ソフ(無限)が、
アイン・ソフ・オウル(無限の光)となった世界。
都市は光に包まれ、希望の種が撒かれた。
しかし。
本来は7日の間、世界を照らす光のはずだった。
その光はわずか3日の間しか、世界を照らすことはできなかった。
最後の最後、生を望んだ者によって。
生を受けたその瞬間から、存在を否定され続けてきた者によって。
世界は、都市は、暗闇へと堕ちる。
それは、光源ですら例外ではなかった。
L社と呼ばれたその場所に突如現れた巨大な塔。
後に『図書館』と呼ばれる、その中で。
L社から図書館へと存在を変えるその瞬間、セフィラは、職員たちは、闇の中で眠りにつく。
その存在は、本の中の記録として残される。
はずだった。
……
もし。
その眠りを拒否できる存在が居たとしたら。
皆が眠りにつくその瞬間、『彼』の意識は新たな道の始まりに立つ。
納得できない結末を目の当たりにしたその決意は、納得できる結末を探しに、やり直すために、始まりの瞬間へと。
それは皮肉にも、心によって至った結末を、心によって否定する道。
自身を取り巻く常識が覆ってしまった、因果律を歪める特異点。
それが『彼』の決意。
因と果を歪め、もう一つの納得できる結末を作るため、
『彼』は何度でもやり直す。無限の可能性の中から、自身が望む結末へと至るために。
予め定められた台本の結末をも覆し得る役割。
「これでいいんです、ダフネさん。これが、Aさんの……カルメンの願いだから」
――違う。
「だから、僕がやらなくちゃいけないんです。僕が負った責任なんです」
――違うだろ。
「アイン。この名前を、どうか覚えておいてください」
――あんたは、Aじゃない。あんたは、あんたの名前は、……
――エックス!
「ッ!?」
半身を起こし、目を見開いたまま、まだ靄のかかる思考を必死に手繰る。
どうやら、自分の寝言で目が覚めてしまったらしいと気づくまでにしばらくかかった。詰まっていた息をゆるゆると吐き出す。一呼吸、二呼吸。ようやく思考が動き出してきた。
額には玉の汗。頬に髪がひっつく不快な感覚。先程まで寝転がっていたベッドのシーツはひんやりと湿気ており、身体に張り付くタンクトップはじっとりと未練がましく纏わりついてくる。ひどく寝汗をかいていたのだろう。何となくで掛けておいたタオルケットは、ベッドからずり落ちてくしゃりとその身を縮こまらせていた。改めて自身の身体に意識を向ければ、すっかり体表は冷え切っている。身体の奥底から背筋にかけてぞわりとしたものが走り、鳥肌が立つのを感じた。
もう一度、大きく息をつく。
こりゃぁ風邪ひいちまうかもなぁ。
冴えてきた思考が、やけに客観的な現状を伝えてくる。さっきから固まったように半身だけ起こしていた身体を一度横たえ、若干の反動をつけて起き上がる。そのまま体を捻ってベッドから降り、ひとまずこれ以上冷えないようにと、寝る前に脱いで放ってあった薄手のパーカーを羽織る。オーバーサイズのだぶついたシルエットが、薄い胸板を、浮き出た肋を、触れたら折れてしまいそうな細腕を、申し訳程度に世界から遮った。
ふと、部屋に置かれた姿見に映る自分の影がちらと見えた。
背丈(タッパ)だけあったって、目立つだけで大した得なんかない。裏路地で日陰の生活を送っていた頃は、自分の体格についてそのくらいしか考えたことはなかった。入社してしばらくは、己の身体が周囲と比べてひどく歪で頼りなさげに感じて、それを恨めしく思ったこともあった。自分を取り巻く環境が激変しすぎて、自分自身と人とを比べる余裕ができたということにすら気付けなかった。知らず知らずコンプレックスとなっていたのか、特に知り合いなど居ないこともあり、共同浴場のほうへ足を運ぶのを避けていた。
――
「ダフネさん、サウナ行ってみませんか?」
いきなり何言ってるんだこいつ、と訝しんだものだ。
他人とあまり接しない、というよりもどちらかといえば他人を避けるようにしていたつもりだったのだが、よれよれの白衣を着たこの男はやたら馴れ馴れしく接してくるどころか、業務終了後の自由時間、突然サウナへ行こうなどと突飛なことを言い出してきた。
「福祉チームへの要望が通ったらしくて、共同浴場に増設されたばっかりなんですよ。僕サウナって初めてで、」
畳み掛けるかのように話しかけてくる。無警戒だったこともあり、つい気圧されてしまった。
「なんかドキドキしちゃうんですよね。暑すぎて中でぶっ倒れちゃったらどうしようかって、だから同伴者候補を探してて」
何なんだ。何で俺なんかを相手にこんなにまくし立てているんだ。そもそも何者なんだこの男は。
わけがわからなかった。
「……ぁ、俺、は」
声と呼べるのかわからないほどの微かな音を喉の奥からなんとか絞り出した。今まで生きるにあたって会話らしい会話すらしたことがなかったうえ、まくし立ててくる相手の言葉を遮るのに使うエネルギーは予想以上だった。
まだあまり入社から日が経ってなかったし、業務も支給された端末に送られてくる指示をこなすだけ。よくわからん生き物とかよくわからん物体とかに餌やったり、収容されてる部屋の掃除をしたり。報告だって一言で済む。
そんな環境だから、誰かと会話する機会なんてほとんどなかった。裏路地暮らしの下らない言い争いがせいぜい。あとは入社時の面接で二言三言、確認事項を交わした程度。事務的なものだったが、それでも人に面と向かって声を出すだけで必死だった。翼ってそんな簡素な手続きで入っていいようなものなのか、と疑問に思う余裕すらなかった。
「俺は、いい……他の」
「あっ!もしかして自己紹介、まだでしたっけ?うわーすいません!突然でびっくりしましたよね?」
他のやつを誘え、と言いかけて、今度はこっちが遮られた。
「僕、エックスっていいます。管理人なんですけど、僕もまだ管理人の席に就いたばっかりで…指示の出し方も覚束ない有様で。ダフネさんは、僕の管轄なんですよ。何度かやりとりしたことあると思うんですけど、やっぱり入ったばっかりって緊張するだろうし、そんなこと覚えてられないですよね」
ようやっと繋がった。あぁ、こいつが俺に指示を出している『管理人』なのか。
背丈は俺より頭一つ程度低い。巣暮らしなのか、俺よりかずっと肌の色艶が良かった。だがよくよく見ると髪は結構ボサボサだったし、着てる白衣はよれよれだったし、その下のシャツにもシワが目立っていた。思い返せば、その言葉の勢いとは裏腹に、声は若干上ずっていたし、姿勢だって猫背気味で、お世辞にも堂々とした態度ではなく、むしろ相手の出方や反応を伺うような卑屈さが感じ取れた。
昔から人を観察するのが癖だった。裏路地じゃ誰も信用ならないから、己の感覚だけが身を守る術だった。見た目の様子から、そいつがどんな奴なのか大雑把にアタリをつける。あいつは食い物を持ってそうだとか、奇襲をかけたら返り討ちに遭うだろうとか。騙せそうな奴なら搾り取るし、危なそうな奴ならとっとと逃げる。そのくらいは当たり前で、それこそそのくらいじゃないとその日を生き延びることすら怪しかった。
――案外、覚えてるもんだな。
『管理人』はさらにまくし立てた。緊張すると早口になってつい喋りすぎるだの、前々からサウナに興味はあったけど機会がなかったりいざとなるとビビったりで結局入れずじまいだっただの。俺はよくもまぁあんなに口が回るもんだと思いながら時々頷くだけだった。もうこいつの話を遮るのは無理だ、と思った。
「というわけで、ダフネさん」
いつの間にかほぼ右から左へ流れていた話の途中で突然出てきた自分の名前に思わず体が跳ねた。
「新人同士のよしみで!サウナ同伴お願いします!」
ここまで来たら、もう逃げられなかった。
入社して個室を割り当てられて、生まれて初めてかもしれないまともな風呂に入れたが、おおよそ烏の行水のほうがまだマシだと言わんばかりの様相を呈していた。そもそも風呂というものに対する付き合い方がわからない俺にサウナなんてわかるはずもなく。共同浴場に向かう途中、そんなことを少しだけ話した。
自分の境遇を他人に話すのは初めてで。たどたどしく言葉を連ね、話に詰まると『管理人』が隙間を埋めるように相槌を入れてくる。ほんの少しだけのやりとり。胸の奥にむず痒さを感じた。
共同浴場への道すがら、いやそこに至る話の途中あたりから、俺の体を『管理人』はずっと気にしているように見えた。多分、着慣れないスーツ越しにでもわかるだろう線の細さに気付いたようだった。いざサウナに入るとなりシャツを脱いだときに至っては、『管理人』はしばらく固まってしまった。予想以上だったのだろうか。そういや結構デカい傷跡なんかもあったか。その時の『管理人』は、まるで自分の知らない世界を垣間見たかのように、少しの間呆然としていた。
『管理人』は俺が裏路地の、それもかなり厳しいほうにあたるであろう出身だと知った途端、涙声になって。
「汗流したら、僕の部屋に来てください。あ、えと、その、変な意味じゃなくて!簡単な料理ならできますから、一緒に食べましょう」
変な意味って何だよ、と思った。それとは別に、誰かと一緒に飯を食うという行為に、ほんの少し、興味が湧いた。
それから、申し訳無さそうな声で『管理人』がそっと付け加えた。
「コントロールチームの社食、当たり外れが大きいので……」
――あん時ゃ、食えるものなら何でもいいと思ってたんだが。随分と舌が肥えちまったなぁ。
あのあと、結局素直に俺は『管理人』の部屋に行った。出迎えてくれた『管理人』は、俺が今までの人生で初めて聞くくらいの、嬉しそうな声を上げて歓迎してくれた。
「あんまり立派なものじゃないけど」と言って、炒飯と中華スープとわかめサラダを作ってくれた。香ばしい匂いと立ち昇る湯気。思わずがっついていた。初めての味だったが、今まで食ってきたどんなものよりも美味かった。
夢中で炒飯をかき込む俺の横で、『管理人』も炒飯を一口。少しして、困ったような、不安げな声でぽつりと。
「炒飯、ちょっとしょっぱかったかな?味濃すぎたらすいません。遠慮なく言ってくださいね」
その後、若干気恥ずかしそうに。
「自分以外の人に食べてもらうの、初めてで……。ちょっとコントロールチームの社食がギャンブルすぎるから、自炊できたほうがいいかなって。まだあんまり自信ないんですけど」
確かに、少しだけしょっぱかった。でもそれは、きっと調味料の加減とは違う。そう思った。
――
あまりにも鮮明に思い出せてしまったことに、思わず苦笑する。
いつだったか、なんとかして多少は見栄えのいい身体でも作ってみようかと思ったこともあった。だが悲しいことに、どうやらこの身体はカロリーの吸収が苦手らしい。何回か試してみて、結局大して変わらないことがわかってからは、もう諦めた。まぁ、男は見た目じゃないしな。と、負け惜しみをひとつ。どうせ本能作業やってりゃ筋肉はつくんだ、ほとんど見えないけどな。と、負け惜しみをもうひとつ。
パーカーを脱いでみる。姿見に映るのは、手入れもしていないぼさぼさの髪。背丈に似つかわしくない、あまりにも細い体。暗い部屋で、あのとき『管理人』が見たであろう傷跡が、サイドテーブルの薄明かりに揺られて微かに主張した。あの傷の理由は覚えている。でも、あの傷がいつついたかは、もう思い出せない。
いやに身体がべたつくと思ったら、あぁそうだ、『嫌な夢』を見たんだった、と思い出す。
そう、あれは夢。さっきまでは現実で、でも今はもう手の届かない夢。このまま進むと、きっと『また』正夢になってしまうであろう夢。身体が、震えた。
あれじゃぁ、駄目なんだ。あれだけは、やらせちゃいけない。
50日。全てが上手く行ったと思っていた。上手く行ったはずなのに。それは自分が思い描く理想ではなかった。
歯噛みする。
どうすればいい。あいつを開放してやるには、どうすれば――
……
俺が、全てやるしか、ないんだ。あいつの代わりに、俺が。
そのためには全てを知る必要がある。完全な、光の種が。
A。お前の台本、全部覚えたからな。
破綻しないように、書き換えてやるよ。
――
「……なぁ、『管理人』」
「? 何ですか、ダフネさん」
「初めてのサウナん時さ、何で俺なんかに声かけたよ」
「あぁー……、なんだかすっごく背が高くて、印象に残ってて」
「そっか」
「あ、あと」
「その綺麗な翠の、髪と目が。背が高いせいか、どうしても視界に入って……ついつい見ちゃって」
――
この時間、サウナ開いてたっけか?
夜明け前にサウナ支度を始めた男の、寝汗にまみれた翠の髪が揺れた。