にげないぼくら 薄ら白く幽鬼のように浮かび上がる、レースに似た花を視界の端に捉える。冷たい夜の空気の中、煽したばかりの火が風に吹かれて頼りなく揺れていた。乾いた枝を投げ込むと、ぱちりと小さな火花を散らして焚き火が爆ぜる。驚いて手を引いくアシュトンの様子を見ていた隣の青年が、思わずといった様子で小さく噴き出した。気恥ずかしさに、頬が照る。
「ごめんごめん。そうむくれるなって」
言葉とは裏腹に、深まる青年の笑みにつられてアシュトンも笑った。
「クロードよりぼくの方が野宿には慣れてるんだよ」
「知ってるよ。ぼくはアシュトンみたいに食材を上手く扱えないし」
そんなわけで、はい。道具袋をあさり始めたかと思えば、クロードが眩しい笑顔で肉の塊を突き出してきた。最後に立ち寄った村で仕入れた少し値の張る上質の肉だ。本来、野宿の延長で調理し、振る舞うような肉ではない。
「分かったよ。火にかけるだけで良ければ」
渋々といったていでアシュトンは肉を受け取る。本当は初めから受け取らないという選択肢はなかったが、クロードに悟らせたくなかった。理由はアシュトン自身にも分からない。
「そこは叩かないか。何ならぼくがやるよ。ひと手間かけよう」
「それだとハンバーグになっちゃうよ。ぼくは好物だから良いけどね」
「……ハンバーグにしよう。アシュトンは玉葱を切って炒めて」
「せっかくの良い肉なのに」
「いいから」
「……玉葱、切るところまではクロードも一緒にやってよ」
根負けしたアシュトンが、最後はクロードに押し切られる形になった。
二人並んで、安定しないまな板の上で玉葱を切る。案の定、すぐに目に滲みて涙が出た。クロードも似たような有り様で、隣で鼻を啜っている。
「涙が出ない方法がある、って母さんが何か言ってたんだけど」
思い出せない。こんなことならもっと真面目に聞いておけば良かった。ぶつぶつと恨み言をこぼしながらクロードは玉葱を刻み続けた。親子は――家族は、そういう会話をするものなのだな、とアシュトンは思った。
玉葱の処理さえ終えてしまえばあとは楽なものだった。途中、つなぎを入れるか入れないかで小さな諍いが生じたものの、つつがなくハンバーグは完成した。程良く焦げ目のついた粗挽きの肉塊を割り開けば、たちまち溢れ出した肉汁が皿いっぱいに広がる。良い出来だ。味も申し分ない。それでも、とアシュトンは思う。やはりステーキにしたかった。
「この肉、やっぱりステーキにして食べた方が美味しかったかもな」
食後のお茶をマグカップに注ぎながらしみじみといった様子でクロードが言った。
「……ぼく、最初にそのまま焼こうって言ったよね?」
「そうだな。言ってたかも。でも、アシュトンとハンバーグが作りたかったんだよ」
だからいいんだ。クロードは付け足して、マグカップを差し出して来た。道すがら摘んだカモミールの柔らかな香りが鼻腔を突く。今度こそステーキを作ろう。喉元まで出掛けた言葉を、アシュトンはカモミールを流し込んで飲み下した。
「クロスで別れよう。この先はぼく一人で行く」
マグカップに唇を押し当てたまま、クロードは言った。彼の明るいブロンドが炎を照り返して、目が眩むほどに煌めいていた。
「……うん」
「最近、エクスペルの各地でぼくと同じような服の人間が目撃されてるだろ……きっと、カルナスの信号が途絶えたことを不審に思った銀河連邦が調査隊を寄越したんだ」
「ネーデはもう、ないもんね」
「ああ。だから、カルナスの信号が途絶えた座標近くのエクスペルに取り敢えずの目星をつけたんだろうな」
クロードは肩を竦める。返す言葉を持たないアシュトンは、黙ってマグカップの中身へと視線を落とした。カップの中にはまだ少し、お茶が残っている。
「……彼らとの接触は、君が地球に帰る最後のチャンスかも知れないね」
ツウシンキという遠方と連絡を取る手段を、クロードはなくしてしまったらしい。そんな彼にとって、調査隊との接触は故郷に一番近い道だとアシュトンは考えた。
クロードとアシュトンの間に沈黙が横たわる。夜に囁く梢の葉擦れが、潮騒のようにアシュトンの心ろを掻き乱した。今は遠い、ラクアで過ごした海を思い出す。あの頃から予感はあった。だが、いざ突き付けられるとつらい。
「君の身体のことだけが気掛かりだ」
アシュトンの胸中を見透かしたかのような言葉が溢れ落ちてきた。顔を上げると視線が克ちあう。すべらかなクロードの頬の輪郭が、炎の橙色に染まって浮き上がって見えた。
「ごめん。責任を取るって言ったのに」
クロードの手が伸びて来た。触れられる。反射的に身構えたアシュトンを素通りした手に、背中の赤龍が応えた。顎を撫でられて気持ち良さそうに目を細めている。
「……大丈夫だよ。ぼくらのことはレオンもウェルチも気にかけてくれてる。君が心配することも、これ以上責任を感じることもない」
端的に事実だけを連ねた。
「クロード、君は自由だ」
龍を撫でる手が止まる。それから、クロードは小さく喉を鳴らして笑った。行き場をなくした指先が、今度こそアシュトンの髪に絡んだ。
「引き留めてはくれないんだな」
諦念の籠もった声色に胸が疼く。髪を弄ぶ手指を握り込んで引き寄せたい衝動に襲われる。それらすべてを抑え込んでアシュトンは笑みを作った。クロードは一瞬だけ眉根を寄せてから、笑みの色を強めて口を開く。
「薄情者。泣いて声を上げて縋って引き留めてみろよ。他でもないぼくに責任を押し付けて、誰でもない君じゃなきゃ駄目だ君がいなきゃ寂しい、って言ってみろよ」
うっそりとした手付きでアシュトンの髪を撫で梳かしながらクロードは言った。
「そうしたらぼくは、何もかも捨てて君とこの星で生きていくことだって選べるのに」
消えかけた蝋燭の火のように頼りない声が、冷え冷えとした夜の空気に溶けて消えた。それが何だかとてもおかしな響きで、アシュトンも声を上げて笑った。一頻り笑ってから吐き捨てた。
「……ぼくが薄情ならクロード、君は卑怯者だ。全てを捨てる理由に、ぼくを利用しようっていうんだから」
クロードから笑みが引いた。強く髪を手繰り寄せられて、上体が揺らぐ。マグカップが滑り落ちて、足元に転がった。顔が近い。鼻先に吐息がかかる。アシュトンの頬を、クロードの細い金糸がくすぐった。
「帰るんだ、クロード」
髪に絡む手指に籠もる力が強くなる。痛いくらいだ。けれど、アシュトンは怯まなかった。
「故郷に君を待つ人がいるのなら、君は帰るべきなんだ。君はまだ全てを失くしたわけじゃない……何もないぼくからしてみたら、クロードは贅沢なんだよ。望んで手放すなんて、我がままだ」
クロードが目を見開く。近くで見る彼の夜の瞳は、まるで満天の星空のようだ。そこに、初めて薄い膜のようなものが見て取れて、アシュトンは狼狽えた。けれどそれも一瞬のことで、次の瞬間には射殺されそうなほどの鋭い眼光に貫かれて言葉に詰まる。
「……なら、これからは誰がアシュトンの帰りを待つんだよ。家族みたいに思ってる、って言ったのは君じゃないか」
低く、唸るような声でクロードは言った。
彼の父親が死んだ日のことを思い出した。悲しみ、憤る彼の慟哭と激情を思い出した。平静を欠いた彼の剥き出しの感情に、あの日、アシュトンは初めて触れた。
薄く笑んで、髪を掴む手に指先を添える。その手が小さく震えていたことにアシュトンは気が付いた。
「大丈夫。ぼくは、クロードから一生分の大事なものを貰ったから」
だから、もう独りでも大丈夫。心の中で唱えた。けれど、いつも君の幸福を祈るよ。心の奥底で誓った。
「……卑怯なのは、どっちだよ」
一言だけ、そう絞り出してクロードはアシュトンを開放した。離れてゆく指先を引き留めたい強い衝動に駆られたが、堪えた。
その後、クロードは長いこと何も言わなかった。アシュトンがマグカップを洗い、丁寧に拭き上げている間も黙ったままでいた。やがて、アシュトンは毛布に包まると冷たい大地に横たわった。クロードはぼんやりと火を眺めたまま座り込んでいる。時折、寒そうに指を擦り合わせている以外の動きらしい動きはない。
「……霜焼け?」
傾いた視界に捉えたクロードの横顔に声をかけた。返事はないかも知れない。けれどクロードは火を見つめたまま、それでも小さく顎を引いてアシュトンに応えた。
「かもね」
「ボーマンさんに、二人で薬の作り方を教わったね」
粘度の高い生薬の材料に驚いて、クロードに泣き付いた記憶が蘇る。
「寝ないの?」
「火の番がいるだろ。魔物も、見張ってないと」
アシュトンは寝ていいよ。穏やかな声が返った。
「……こっちに来ない?」
訊ねると、やっとクロードは火から視線を外してアシュトンの方を見た。怪訝な様子で、形の良い眉根が寄っている。
「寒いんだ。温めてよ」
アシュトンは言った。自分でも信じられないようなことを口走っている。最後の夜に血迷っているのかも知れない。だが、嘘はない。吐く息も少し白い。それは、クロードも同じだった。
「いかない」
呆れたようにクロードは言った。いつものクロードだった。
「火の番も、魔物の見張りも、ギョロたちがしてくれるよ」
「それだよ。密度。ぼくはもっと伸び伸び寝たい」
「……君がぼくの身体をこんなにしたくせに」
「そのことについては謝ったろ」
言いながら、傍らに積み上げた小枝をクロードは火の中へと投げ入れる。爆ぜる火に、アシュトンは肩を竦めた。クロードが笑う。
「アシュトンが凍えないように、ぼくが火を焚くよ」
だから、君は眠っていて。柔らかな声が降って来る。その声を聞いて、何故だか彼は絶対に自分に寄り添うことはないのだろうな、とアシュトンは思った。
それから、またぽつりぽつりといくつかの言葉を交わした。話している間に、アシュトンは徐々に睡魔に蝕まれていった。眠りたくない。最後の夜なのに。いくら念じても、目蓋はどんどん重くなっていく。おやすみ、と優しい声音が耳に届くと、アシュトンの意識はそこで完全に途切れた。
目を覚ますと、既にクロードの姿はなかった。火の名残は随分前に熱を失ったように冷え切っていた。
「薄情なのは、どっちだよ」
冷めた灰を握り締めて独り言ちる。夢現の夜明けに啜り泣く声を聞いたのは、きっとアシュトンの気の所為だ。
剥き出しの岩肌が目立つ山路を、アシュトンが歩いていたときのことだ。遮る樹木もなく、雲は全て眼下に拡がる濃紺の晴天に、逆しまに流れる星を見た。
長く尾を引く真昼の星は、見たこともないような眩い光を放ちながら高く高くへと流れていく。あれはクロードだ。直感的にアシュトンは思った。
クロードと別れてから、一週間が経とうとしていた。彼の故郷はネーデ程ではないにせよ、エクスペルとは比ぶべくもない高度な文明社会を既に築き上げている。だからきっとあの流れながら登る光は、クロードを乗せて星の海を渡る船なのだろうな、とアシュトンは思った。
気が付けば大地を蹴っていた。砂埃が舞う。赤茶けた岩肌と、高山特有の星の海を宿した深い蒼穹とのコントラストが激しく揺れ、肺が破れそうな程に痛んだ。それでもアシュトンは、高みへと消えていく光を追い駆ける足を止めなかった。止めることが出来なかった。不安定な足場に躓きながら、それでもただがむしゃらに、一心に走り続けた。やがて道は途切れ、山頂に辿り着く。これ以上、光を追うことは叶わない。
「待、って」
整わない息の合間、引き攣れて掠れた無様な哀願を喉の奥から絞り出す。
「待って、クロード」
手を伸ばす。道はない。前に進むことは出来ない。けれどアシュトンは走った。足場を失くし、踏み外す寸でのところで背中の蒼龍が身体を大きくくねらせアシュトンの体勢は崩れた。平衡を失った体を強かに打ち付け、岩場に伏せる。それでもアシュトンはすぐに上体を起こし、小さくなる光を仰ぎ見た。
「行かないで」
涙と共に震える声が溢れた。
「傍にいて」
伸ばした手も、縋る声も届かない。それでも言わずにはいられなかった。後悔が衝動となって押し寄せる。
君じゃなきゃ駄目だ。君がいないと寂しい。認めて言ってしまえば良かった。こんなにも焦がれて惨めに泣き叫ぶことになるのなら、聞き分けの良いふりをして彼の安寧など願わずに、ただ利己的に全てを奪ってしまえば良かった。
けれど光は去ってしまった。眼前には、ただただ憂鬱よりも青い空だけが拡がっている。アシュトンは顔を覆うと蹲り泣き崩れた。泣き叫び、声が枯れても尚、嗚咽を零し続けた。