One and Only 目の覚めるような青空の下に、黄金色に光り輝く小麦畑が拡がっている。ラクールではあまり目にしたことのない砂利道には、青やピンクといった色とりどりの矢車菊や、ニゲラ、スカビオサといった野花が乱れ咲き、その合間を蝶が揺らめくように飛んでいた。水車を回す小川には日差しが降り注ぎ、光を照り返した魚の鱗が時折強く煌めいては眼を焼き、レオンはその度に薄く目を細める。
小さな木陰に身を寄せたレオンは、フェルプール特有の優れた聴力で小麦畑の奏でる、潮騒にも似た麦穂のせせらぎを拾いながら、半刻前にクロードが姿を消したアーリア村の村長の家を見上げた。
故郷に——地球に帰る。
宇宙の命運を賭けた戦いを終え、エクスペルを取り戻してから暫くして、歳上の友人はレオンに告げた。最後の戦いを前に、星の海の向こうへ帰って行く彼との別れを予感していたレオンは、落胆はしたがあまり驚かなかった。だが、友人は更に「一緒に来ないか」と言葉を続けた。レオンはそのとき、いつかのエル大陸の集落でのやり取りを思い出した。一度はレオンを集落に置いていくこと提案した彼は、考えを改めた。同じだ。
だから、レオンは彼の気が変わる前に、その腰に抱き着いた。少しの迷いもなく頷いた。
再会した両親をクロードと二人がかりで説き伏せて、エクスペルを経つ目処が経つと、彼は今まで世話になった人たちに挨拶をして回りたいと言った。
共に十賢者と戦ったかつての仲間たちとの再会や、十賢者に破壊された町の復興の進捗を確かめながら各地を転々として、最後に辿り着いたのが彼がエクスペルに最初に降り立った始まりの村だった。
レナとの再会を喜び、その母親への挨拶を終えると、クロードはアーリア村の村長であるレジスの家に向かった。村長と面識がないに等しいレオンはレナの家で彼の帰りを待つことを選んだが、出されたジュースを飲み終わる頃には暇を持て余し、村の中を散歩すると母娘に告げてクロードの後を追うことにした。レナも明日、クロスで落ち合う予定のプリシスに渡す手土産を選びにサルバまで足を伸ばすとのことで一緒に家を出た。
そして、今に到る。
村長の家の扉が開く様子はない。数羽の無防備な椋鳥が、黄色い嘴で地面を突っついている。人の気配が遠いからだ。
レジス村長、良い人なんだけどちょっと話が長いんだよな。クロードのボヤきを思い返す。
これはまだ時間がかかるかな、とレオンは欠伸を噛み殺して扉から目を逸らした。
葉擦れの音を縫うような羽音が鼓膜を揺らしたのはその時だった。慌てて視線を戻すと丁度扉が開き、レオンが待ち望んだ姿が漸く覗く。玄関まで見送りに来た村長に会釈をすると振り返ったクロードは、すぐにレオンを見付けて顔を綻ばせた。
「レオン」
裏を勘繰る必要性を全く感じさせない嬉しそうな声音で、クロードがレオンの名前を呼んだ。忌々しいことに、たったそれだけでレオンの胸は締め付けられるように高鳴った。その事実に苛立ちを覚え、身を寄せた木陰から動かずにいるレオンに、彼は一切の迷いを感じさせない足取りで真っ直ぐに近付いて来る。
自分ばかりが浮ついて、感情一つままならない子供であることが本当に忌々しく、もどかしい。
少しの悔しさに苛まれて、レオンは異変に気が付くことに遅れた。
「お兄ちゃん!」
クロードを呼ぶ甲高い声は、レオンの発したものではない。青い影が視界の端を掠めて、陽だまりの新緑を駆け抜けていく小さな背中を見た。そして、青い髪の子供は吸い込まれるように、レオンの目の前でクロードに抱き着いた。
「……ケティル?」
クロードは驚いた様子で、けれどそうすることが当たり前であるかのような自然な所作で、腰回りにまとわり付く子供の肩に手を置く。その感触を、レオンも知っている。
そこはボクの場所なのに。叫び出したくなる衝動を飲み込んで、レオンは木の暗がりから二人の姿を睨み付けた。
ケティルと呼ばれた子供の年齢は、レオンと変わらないか、少し下であるかのように見える。以前アーリアに訪れた際、簡単な紹介をされた気がするが、詳細は覚えていない。あの頃のレオンの関心はエナジーストーンの採取と、両親からの承認にしか向いておらず、同年代の子供に興味がなかったからだ。
「お兄ちゃん、来てたの?」
「ああ。ついさっきね」
親しげな様子で、クロードとケティルは話し続ける。だが、レオンが立ち尽くしたままでいることにクロードはすぐに気が付いた。
クロードに手招きされると、レオンは渋々といった体を装い、努めてゆっくりと木の傍から離れる。何処かの子供のように、周囲の視線も気にせず足早に駆け寄ることはしたくなかった。つまらないプライドがそうさせた。
「村長さんに挨拶は出来たの」
クロードの傍らに立つと、蒼穹のように深く澄み渡る青い瞳を見上げてレオンは訊ねた。レオンが傍に来てもクロードの腰に抱き着いたまま離れない子供の存在は、視界に入れないようにした。
「ああ。それで、えっと」
困ったように笑ったクロードが、レオンとケティルとを交互に見遣る。
「ちゃんと紹介したことはあったかな。この子はレオン。とても頭が良くてさ。ラクールのお城で、大人の人たちと一緒に研究者として仕事をしてるんだ」
腰にまとわり付く子供の頭を撫でながら、クロードは言った。ふぅん、とケティルは何処か面白くなさそうに唇を尖らせて相槌を打つ。
クロードはレオンにケティルの紹介をするのではなく、ケティルにレオンの紹介をすることを優先した。偶然かも知れないが、それでもその事実に少しだけ溜飲が下がる。
幼い頃から大人たちのやり取りを見てきたレオンは、紹介者——この場合はクロードから見て縁遠い相手に、親しい者を紹介することが一般的なマナーだということを何となく知っていた。傍目にそのやり取りを見ていたときは馬鹿馬鹿しいと思っていたが、こうしてクロードが先に自分を紹介してくれたことでレオンの自尊心や優越感といったものは確かに満たされた。
「で、この子はケティル。前に—ー……」
「クロードお兄ちゃんとはクリクで会ったんだよ。お兄ちゃんにお願いされて、町の中を案内してあげたんだ!」
クロードの言葉を遮ったケティルが、一層腰回りを強く抱き締めながら言った。
「きみ、ラクールでお仕事してるって言ってたよね。だったら、ぼくのが先に会ってるんだよね、お兄ちゃん」
「ん?……ああ。まぁ。それは、そうなるな」
レオンの様子を覗うようなクロードの視線が下りてくる。どうしてボクの顔色を気にするんだろう。レオンは思った。
不満を顔に出しているつもりはない。クロードを困らせないよう、口角は意識して上げている。ラクールで大人たちに混ざり、自分の頭の良さを鼻に掛けて仕事をしていたときとは違う。宇宙を救う旅の中でレオンは確かに成長した。だから、同年代の子供のマウントに目くじらを立てたりはしない。ましてや、先に会ったのはきみでも長く一緒に旅をして苦楽を共にしたのはボクの方だなどと、同じレベルでみっともなく張り合ったりはしない。自分の方が「上」だという確信があるのなら、ただ微笑むだけでいい。
「レオン、っていったけ?お兄ちゃんのヘンな格好、見たことある?クリクにあるお店でね、試着してもらったんだよ」
見たことはない。
レオンは黙ってクロードを見上げた。日差しは暖かいがどちらかというと乾いて冷たい風が吹く村の中で、脂汗を流しながら彼はレオンから視線を逸らした。
「あとね、食べ歩きもしたなぁ。お兄ちゃんがいろいろ買ってくれたんだよ。ね、お兄ちゃん!」
一緒に食べ歩きもしたことはない。
クロードはレオンを見ない。助けを求めるように、レナの家の方を凝視している。無駄だ。レナは今頃サルバでプリシスへの手土産を選んでいる。夕方までは帰らない。レナの母親もクロードとレオンをもてなす為に忙しく走り回っていた。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん。お兄ちゃんはアーリアに何しに来たの?もうずっといるの?」
「あー…っと、ずっとはいられないんだ。ごめんな」
クロードの様子などお構いなしにケティルが話し続ければ続けるほど、レオンは重く口を閉ざす。
「レオンを連れて、故郷に帰ることにしてさ。ちょっと遠いから、帰る前にお世話になった人たちに挨拶をしてるんだ」
「……その子も一緒なんだ」
ケティルの視線がレオンに向いた。
「遠いって、どれくらい遠い?エル大陸やラクール大陸よりも遠いの?……ボクも、連れてってくれる?その子が良いなら、良いでしょ?」
耳を疑う。口角が下がったのが自分でも解った。解ったところでどうしようもなかった。
「……クロード、お兄ちゃん」
レオンはクロードを呼んだ。クロードは困ったようにレオンを見詰めたが、すぐにケティルへと向き直り、口を開く。レオンは見ていることしか出来ない。ケティルの問いの答えを、レオンは持たない。
やめて。言わないで。その子なんかと一緒にしないで。ボクだけが特別だって言って。ボクだから、地球に連れて行くんだって言って。
けれど、クロードが言葉を発することはなかった。今になって、意外なところから彼に助け舟が出されたからだ。
蝶番の軋む音がする。クロードがついさっき出て来た村長の家の扉が開き、立派な髭を蓄えた老人が顔を見せた。アーリアの村長のレジスだ。その姿を見て、レオンは何故か胸を撫で下ろした。
「おお、良かった。まだ近くにいらっしゃいましたか」
「レジス村長!」
エル大陸に流れ着き、はぐれた仲間と再会したときと同じような晴れやかな表情を浮かべクロードがレジスに向き直る。安堵はしたものの、ケティルにマウントを取られるより腹が立つ気がするのはどうしてだろう。レオンは思った。
「夕飯を少し作り過ぎてしまったようでしてな。もしレナの家に戻られるようでしたら、ウェスタに渡してやって頂けませんか」
「勿論!えっと、そういうわけだから二人とも、ぼく、ちょっと行ってくるから」
仲良くな。言い残して柔らかくケティルの腕を解き、レオンの頭をひと撫でして、クロードはレジスと共に扉の向こうへ消えた。逃げた。
無機質な扉の閉まる音が響き、残されたレオンとケティルの間に沈黙が横たわる。
視線を感じて扉からケティルの方へと視線を引き戻すと、彼はクロードの前では大凡見せることのなかった険しい顔でレオンを見詰めていた。クロードから明確な答えを得られなかったことだけが、不満という訳ではなさそうだ。
「……確かに、ボクはお兄ちゃんに町を案内なんてしたことないけど、いろんな初めてを一緒に経験したよ」
鼻を鳴らしてレオンは告げる。面白くないのはお互いさまだ。
「食べ歩きはしてないけど、お兄ちゃんの作ったごはんなら何度も食べた」
当事者がこの空気に耐え兼ねて逃げ出したというなら、レオンにも考えがある。寧ろ好都合だ。
「お兄ちゃんのヘンな格好ってのも知らないけど、殺したいくらいの憎しみを泣き叫ぶお兄ちゃんなら、知ってるよ」
レオンはケティルへと向き直り、一歩距離を詰めた。身動いだ彼は、けれど後退ることはしなかった。正面にレオンを見据えて口を開く。
「……そんなお兄ちゃん、知りたくないもん。知らなくたって、ぼくはお兄ちゃんのこと好きだからいい」
「そうかもね。ボクも、そうだった」
ケティルの言葉に、レオンも同意を示した。心意気は認めた。だが、過去形にしかならなかった。
最初は、周りの大人たちとは違う態度に苛立った。レオンの顔色を伺い、ご機嫌取りにへつらう大人たちと違って、レオンの身勝手な言動には難色を示し、時に嗜める。クロードはそんな「大人」だった。
これまで出会った誰とも違う、何もかも思い通りにならない大人は、けれどレオンを見捨てることは決してしなかった。今まで傍にいた口先だけの大人たちとはまるで違った。どうしようもない絶望の最中にあるときも、手を繋いで導いてくれた。守ってくれた。口先だけの賛辞ではなく、身を挺して行動で示してくれた。
「ボクも、強くて頼りになるお兄ちゃんだけで良かった。それだけで良かった」
それでも、知ってしまった。
目の前で肉親に迫る危機に苛まれるクロードの焦燥も、無駄だと知りながらも肉親の命乞いをする情けない後ろ姿も、全てが終わってから発露した憎悪と殺意を孕んだ怒号も、その全てが、レオンの脳裏と鼓膜とに焼き付いて剥がれない。取り繕うことのない剥き出しにされた彼の感情の濁流が、魂を掴んで離さない。知らなかった頃には戻れない。それで構わない。
「でも、あの姿を見たから、ボクはまだ、お兄ちゃんと一緒にいたいって思ったんだ」
もっとずっと一緒にいて、いろんな姿を知りたい。暴きたい。自分だけしか知らないクロードが欲しい。
何処かで、自覚することを避けていた。この仄暗い感情を認めてしまえば、もう彼の庇護下にはいられない。「弟」ではいられない。認める前には戻れない。それでもう構わない。
「だからボクは、お兄ちゃんに置いていかれるわけにはいかない。どこにだってついて行く。何を捨ててもついて行く」
遠くで、風に揺られる麦畑が黄金の海のように波打っている。いつかの異国の波打ち際で、今は滅んだ星の最後の夜の浜辺で、クロードと二人で聞いた濤声が鼓膜の裏側に蘇る。
レオンは自分より少し背の低い目の前の子供の目を見据えて名前を呼んだ。
「ケティル。君にはその覚悟はあるの。故郷を離れて、パパやママに、もしかしたらもう二度と会えないかもしれなくても、それでも、お兄ちゃんの故郷に行きたいって、本当に言えるの?」
ケティルは答えない。畳み掛けるレオンに気圧されたらしい彼は、今度こそ後退ることしか出来ない。けれどレオンは逃げ出すことを許さなかった。
クロードが先ほどまで触れていたケティルの肩を、その感触を拭い去る強さで鷲掴みにする。
「何の覚悟もない君に、ボクと張り合う資格なんてないんだよ」
レオンに解放されたケティルは何も言わない。涙の膜の張った目で、睨み付けてくるだけだ。レオンもこれ以上、彼に何も言うつもりはなかった。言いたいことは全て言った。言ってしまった。
口に出すことで、名前を付けることを避けていた感情にまで明確な意図が宿ってしまった事実に、レオンは少し途方に暮れた。だが、大変不本意だがクロードを巡って言い争いが始まったケティルを前に、そんな不安は噯にも出す訳にはいかない。
結局、無言を貫くレオンを前に、耐え兼ねたケティルが啜り泣きを始めたことが幕引きとなった。クロードの帰りを待たずに遠ざかって行く小さな丸い背中を、少しの罪悪感を抱きながらレオンは見送った。