貴方のお気に入りが少しでも増えますように 「ミキさん、あれはなんですか?」
軽く裾を引かれて振り向くと、隣を歩く男が物珍しそうな表情をしていた。指差す先には小さな屋台があった。
「ああ、あれは鯛焼き屋さん、ですよ」
「タイヤキヤサン?なにをするところですか?」
「鯛焼きっていう食べ物を売っているところです。鯛焼きは甘いお菓子ですよ」
「なるほど…」
彼はとても好奇心旺盛で、気になるものを見つけるとすぐに一緒にいる誰かに質問をする。このようなやりとりも慣れたもので、気付けば彼が使うこの手の日本語は随分流暢になっていた。
「買ってみます?」
鯛焼きなんて一人ではなかなか食べないものだから、自分としてもつい気になってしまった。夜中に食べるものではないかもしれないが。
「アー…」
あんこにしようか、カスタードもいいな、なんてすっかり鯛焼き気分になってしまったが、隣から唸り声が聞こえてきてハッと我に返った。甘いものは嫌いではないと聞いているが、違っただろうか。欧米出身の人の間で甘い豆は好き嫌いが分かれるとも言うしな。
「甘いの苦手でした?」
「イエ、エット、タイヤキはアジがコイデスカ?」
「いや、べったべたに甘いことはないですけど……あー、そっちか」
一瞬、何を言われているのか分からなかったが、以前彼が言っていたことを思い出した。彼はどうやらこの二百年ほど眠っていたらしい。そのせいか、現代の食文化にまだ馴染んでいない。吸血鬼なので人間の食べ物を摂取する必要はないが、彼は血液摂取の方が苦手らしく、人間と同様の食事を好んでいた。しかし彼が生きていた時代とのギャップのせいか、現代の食事は塩気も甘味も濃すぎて辛いようだ。地域差もあると思うが、この二百年は科学の発展もあり、味の世界は相当広がってしまったのだろう。何を食べても刺激が強く、驚いてしまうと、申し訳なさそうに頬を掻いていた姿を思い出した。
さて、どうしたものか。好きな食べ物をみつけてほしいが、行き当たりばったりの挑戦はしんどいだろう。しかし鯛焼きを食べたい自分もいる。もう一度屋台に目を向けると、ちょうど人の列が途切れており、店主が鯛焼き器に生地を流し込んでいるところだった。良いことを思いついた。
「ちょっと待っててください」
「ハイ、あ、ミキさん?」
好奇心と食欲と警戒とその他諸々に板挟みになりモジモジしている男に声をかけてから屋台に近付いた。とあるお願いをしてみたところ、店主は快く受け入れてくれた。あとは待つだけだ。
「お待たせしました。あと十分くらいで焼けますって」
「ア、ありがとうございます?」
展開についていけないという表情だったが、あとは見てのお楽しみということでいいだろう。近くのベンチに座って待つことにした。彼はとても酷い冷え性らしく、コートのポケットから貼らないタイプのカイロを出して両手で握りしめていた。カイロはまとめ買いするとお得であること、おすすめのドラッグストアの場所、湯たんぽの存在など他愛のないことを話しているとあっという間に時間が経ってしまった。屋台まで戻り、鯛焼きを二つ受け取ってから店主にお礼を伝えると、「タイミングが良かったな」と気持ちのいい笑顔を返してくれた。世の中意外といい人がいるよなと思いつつ、ベンチで待つ寒がりの元へ戻った。
「はい、こっちがクラージィさんの分ね」
「ありがとう。エット、オカイケイハ?」
「いいよ、俺の奢り」
「ソウイウワケニハ…」
「じゃあ今度英語教えてください。授業料の前払いってことで」
「ソレハイイデスケド、ワタシノエイゴはフルクサイデスヨ」
「それがいいんですよ。仕事で使えるので」
「ソウデスカ…」
「そうそう。さ、冷めないうちに食べましょう」
色々と協力者はいるらしいが、生活が安定していないのに律儀というか、真面目な人だなと思うのはこういうところだ。なんだか言いくるめてしまった気もするが、折角の鯛焼きが冷めてしまうよりもずっと良いだろう。
隣を見ると、鯛焼きをまじまじと見つめ、目をキラキラさせている男がいた。
「スゴイ、サカナのカタチ」
「そう。鯛っていう魚がいるんです。今度スーパーで見てみましょう」
「ゼヒ!」
子どものように無邪気で、鯛焼き一つでこれだけ喜んでもらえるとこちらも嬉しくなる。そんな姿に罪悪感を覚えるが、言わなければならないことがある。
「それで、ちょっと割ってみてください」
「エッ!?」
彼は手元の鯛焼きと自分の顔とを交互に見て、オロオロし始めた。予想はしていたが、自分が極悪人になったような気分だ。そこまで困惑されるとは。しかし、割ってみなければならないのだ。
「こっち見てください。これは中身がカスタードです。で、そっちは…」
とりあえず自分の鯛焼きを真ん中から割って見せた。隣の男は、本物の魚を捌いてもそんな表情にならないだろうという様子だったが、恐る恐るといった手付きで鯛焼きを二つに分けた。すると、
「なにもナイ?」
不器用に割られた生地には何も入っていなかった。しかし、ホカホカとした白い湯気が立ち上り、ほんのり甘い匂いがたちこめた。
「そう。生地だけなら味にびっくりしないかなと思って。それが大丈夫そうだったら、こっちのカスタードも食べてみてください」
火傷に気を付けてくださいね、と追加で伝えると、男はこくこく頷きながら鯛焼きを口に運んだ。最初は小さな一口だったが、すぐに赤い眼がぱぁっと丸くなった。
「とてもオイシイ!アー、ナツカシイ?アジ」
「あー…そっか、パンケーキと同じか…まぁ、食べられるならよかった。こっちもどうぞ」
すっかり悪戯が成功した気持ちだったが、よくよく考えてみれば具無し鯛焼きはパンケーキと同じだ。そりゃ馴染みのある味だろう。笑っているからいいか。何故かちょっとがっかりしながら、自分の半分に割った鯛焼きを差し出した。
「デハ、コッチト…ハンブンコ、デスネ」
「そうだね。なるほど、意外と生地だけでも美味しいね」
「Owアッツイ…デモ、アマクテオイシイ。コレハ……ゼイタクなアジ」
隣の男は熱くて柔らかいカスタードに苦戦しつつも、普段は見られないような柔らかい、しかしどこか寂しさの垣間見える表情をしていた。それを見て、そういえば、今は庶民の味方だが、卵、砂糖、牛乳も贅沢品だった時代があったんだよなと学生時代の記憶を掘り起こしていると、鯛焼きはあっという間になくなってしまった。二人で「ごちそうさまでした」と言ってから立ち上がった。屋台の前を通ると店主がこちらに気付いて手を振ってくれた。ほくほくした表情の男は大きな背を屈めて「オイシカッタデス、ありがとうございます」と一生懸命伝えていた。自分もぺこりとお辞儀をしてから駅に向かって歩き出した。
「ミキさん、タイヤキ、ありがとうございます。コンドハ、ジブンデカウ、シタイデス」
「どういたしまして。随分気に入ったんですね」
「ハイ。アマクテ、アッタカイ。スゴクウレシイ」
「また、来ましょうか。俺も久しぶりに買い食いできてよかったです」
「カイグイ?」
「えっとですね、お菓子とかちょっとした食べ物を買ってその場で食べること、かな。若い子がすることが多いんです」
「なるほど…ワタシもミキさんもコドモジャナイ、デモ、カイグイ?」
「まぁ、いいんじゃないですか?」
歩きながらなんてことはない会話を続ける。「カイグイ、コドモがスル、コドモジャナクテモカイグイ、ナル、ムズカシイ…」と眉間に皺を寄せながら真剣になっている姿を見ていたら。ちょっと不埒な考えが頭をよぎった。あのね、と声をかけるとすぐにこちらに視線が向けられた。誠実で真面目な男にこれを教えるのは悪いことかもしれない。でも、現代であれば多くの人が通る道なので、これはこれで大事な経験だろう。そう、自分に言い訳をしながら彼の耳にそっと口を寄せた。
「買い食いは、内緒にしておくのが楽しいんですよ」
そう伝えると、男はしばらく唖然としていた。ちらりと牙が覗いてしまっている。ちょっとやりすぎたかなと居心地の悪さを感じていると、眉を下げた表情がこちらに向けられた。
「スゴクオイシカッタカラ、ヨシダさんニモオシエテアゲタイ、オモイマシタ。デモ、ダメデスカ?」
それは、まるで粗相を白状する子どものようだった。しかし、あまりにも善に満ちた発言だった。今度は自分が呆気にとられる番だった。それからつい、フハッと間の抜けた笑い方をしてしまった。
「いえ、ダメじゃないです。吉田さんにも教えてあげましょう」
「ソレガイイデス。ミンナデイッショニイキマショウ」
なぜかよくその場に居合わせることが多い知人を勝手に巻き込んでしまったが、良いだろう。目の前の男はなぜか人をそういう気持ちにさせる雰囲気がある。
「その時は、違う味も試してみましょうか」
「チガウアジもアリマスカ?」
「そうなんです。あんこって食べたことあります?」
中身があるような無いような、そんな他愛のない会話をしながら、いつもより少しゆったりとした歩幅で駅に向かった。いつか、白い鯛焼きも存在するということを教えたらどんな反応をするのだろう、つい、そんなことを考えてしまった。
完