月夜に満ちる、春の息吹の喜びよ 「これは、お前を思って作ったものだ」
そうして唐突に差し出されたのは、卵の殻だった。
癖毛の彼の来訪は久方ぶりだった。屋敷に招き入れたのは、日がとっぷりと暮れてからだったが、彼の近況報告やら最近仕入れた知識やらに耳を傾けていると、あっという間に時間が過ぎていった。
そして、僅かに欠けた月が輝きを増し、時計の長針と短針が重なった頃、彼は鞄から小さな箱を取り出した。机に乗せられたのは、菓子の類が詰め込まれていそうな、厚紙で出来た箱だ。彼は土産と称して、使い魔の猫のための食べ物や小物を持ち込むことがあるが、それらとは趣が異なっているようだ。かといって、中身の想像がつくかと言えばそうではない。彼の唐突な行動に対して、腕を組みながら構えるくらいしかすることはなかった。
彼は壊れ物を扱うような慎重な手付きで箱の蓋を開けた。こちらから中身は見えないが、中を覗いた彼の表情から緊張が解けていったので、扱いに配慮が必要なものが入っているのだろう。とすると、余計に見当がつかない。
何を持ち込んだんだ、と不安さえ湧きかけたところで、箱がこちらに向けられた。身を乗り出してみれば、目に映ったのは箱いっぱいに敷き詰められた綿だった。緩衝材なのだろう、それが取り払われると、いよいよ本命が姿を現した。
一面の綿に包まれていたのは、卵だった。ただし、その殻は白と青の細やかな幾何学模様で彩られている。柔らかい綿に沈み込む様子がないところを見るに、卵の中身は既に失われているのだろう。
ここまで来て、ようやく気が付いた。月が満ちたのは数日前、そして先程、日付が変わり、日曜日を迎えた。世界中に、この日を待ち侘びている者がいる。正面に座っている癖毛の彼には馴染み深く、自分にとっては遠い記憶の彼方に置いてきた行事。
つまり、イースターだ。
そうして、冒頭の彼の言葉と共に、卵が入った箱が自分の方に差し出された。しかし、自分はこの卵を手に取るべきなのだろうか。少なくとも、行事として祝う気にはならない。彼もそれを見越していたのか、
「こんなことをしておいて何だが、行事に則る気はないんだ」
と、若干気まずそうな顔をしている。そんな顔をするくらいならしなければいいのに、という言葉はぐっと飲み込んだ。代わりに、
「それなら、これはどういうことだ?」
と、卵を指差して尋ねる。すると彼の口から出てきたのは、
「さっきも言ったが、これはお前を思って作ったものだ」
という先程の言葉の繰り返しだった。真面目腐った物言いから、彼が真剣であることは察せられるが、その意図が分からなくて聞いているのに、結局何も明らかになっていない。どうも、彼は結論に一直線になるというか、物事の経過を端折る傾向があるようだ。
つまり、遠回しな言い方をしたところで、こちらが徒労するだけなのだ。
「聞き方が悪かったな。彼の人の復活を祝いたいのでなければ、どうして、わざわざこんな手の込んだものを用意したんだ?」
溜息交じりに聞き直すと、やはり彼は真面目腐った面持ちで頷いた。
「そうだな…あの頃から変わらないものも、変わっているものも多くあることが分かってきた。復活祭もそうだ。特に、この国ではなんだかよく分からない行事になっているようだな。それに、自分自身が変わってしまった。何もかも、今まで通りとはいかないと思ったんだ」
まとまりがあるようでないような、彼の語りに耳を傾ける。途中、胸に刺さる箇所があったが、顔色に出さないように、ぐっと堪えて腕を固く組んだ。幸いなことに、目を伏せながら話を続けている彼には気付かれなかったようだ。
「それで、ええと、なんだったか。そうだ。お隣さん達から、教会に行けなくても、元々は春の訪れを祝う行事なのであれば、楽しんでしまえばいいのではないか、と言われたんだ。そう思ったら気が楽になって、そうしたら、何故かお前のことが頭に浮かんだんだ。ただ、私は他に祝い方を知らないから、これを作ることにしたんだ」
そこまで言って、彼は説明責任を果たした気になったらしい。言い切ったような、すっきりした表情で、ティーカップに手を伸ばしている。
しかし、急にそんなことを聞かされて、こちらとしては堪ったものではない。開いた口が塞がらないとはこのことだ。なんとか、彼の言わんとしていることを脳内でまとめる。
「つまり、行事は関係なく、私と春の訪れを祝おうと思ったと?」
「さっきから、そう言っているだろう」
何度目になるか分からない溜息を吐けば、彼の方が呆れたような物言いをしてくる。
そして、持参した卵について楽しそうに話し始めた。現代の絵の具の性能はすごいとか、卵の殻を綺麗に残して中身を取り出すのに苦労したとか、その中身で近所に住んでいる人間が巨大なプリンを作ったとか。
どうやら、この卵にまつわる話は尽きることがないようだ。
言いたいことは山程あるが、彼の気の抜けた話を聞いているうちに、それらがさして重要ではないように思えてきた。小さく溜息を吐きながら、箱の中の卵を手に取った。それは、驚くほど軽くて、少し力を込めれば割れてしまうような脆いものだった。親指と人差し指で摘まんで月明かりに翳せば、白地の部分が浮かび上がって見えた。よくよく見てみると、予想以上に繊細な幾何学模様が施されていることに驚かされる。彼に絵心があったとは、意外なものだ。
しかし、当の彼はといえば、
「その絵の具なんだがな、どうやら描かなくても、卵に巻き付けて一緒に茹でられるものもあるらしいんだ」
と笑っている。彼の好奇心は尽きるところがないようで、これから試してみたいことについても何か話している。
そんな彼の声にも意識は向けていたのだが、月光を反射する手元の卵の方に意識が傾いてしまったらしい。徐々に、彼への返答が疎かになっていった。すると、彼が機嫌を損ねることはなかったが、
「そんなに、宝石でも扱うようにしなくてもいいんじゃないか。頑丈とまではいかないが、内側は補強してあるからな」
と苦笑交じりの指摘を受けてしまった。
しかし、それでも、卵から意識を逸らすことができなかった。
あの頃、こんなふうにまじまじとイースター・エッグを眺める機会なんてあっただろうか。
あったとして、心が動かされることがあっただろうか。
そもそも、何をしていただろうか。
そんなことが、ぼんやりと、頭に浮かんでは消えていく。心がどこか、遠いところに飛んでいくような心地さえしてきた。しかし、
「ノースディン!」
と彼に名前を呼ばれ、意識を引き戻された。鋭い声に思わず肩を跳ねさせてしまったので、慌てて腕を引き寄せた。後先考えずに勢いをつけてしまったことを後悔したが、卵は掌の上でコロンコロンと一定に揺れている。どうやら、無事だったようだ。安堵の息を吐くと、癖毛の彼が申し訳なさそうにこちらを見ていた。
「驚かせてしまって、すまない」
「いや、少し惚けていただけだ」
手元の卵を箱に戻して彼の方を向くと、一変して穏やかな顔付きになっていた。それを怪訝に思っていると、
「いや、それほど気に入ってくれるとは思わなくて」
と微笑まれてしまった。常であれば、「馬鹿なことを言うな」くらいのことは返したかもしれないが、今回に関しては否定する気が起きなかった。
しかし、余裕ぶっている癖毛に腹も立ったので、脛を蹴り上げてやった。すると彼は案の定、突然の衝撃と痛みに目を白黒させている。行儀悪く膝を折り曲げてこちらを睨んでくる様をみれば、溜飲が下がるというものだ。
「お前、まだ時間はあるな?」
立ち上がってから彼にそう問えば、「あぁ」と返ってくる。しかし、
「これの礼だ。ワインでも持ってくるから待っていろ」
と言えば、首を横に振り出す。
真面目が服を着ているような奴だ。想定内の反応だったので、気にせずにこう続けた。
「春を祝うんだろう?」
彼の顔を見ないまま部屋を出ようとすると、後ろからガタガタと騒がしい音が聞こえてくる。「物を運ぶ手伝いくらいならできる」と言って後を追ってくるが、祝宴でも開く気だろうか。呆れると同時に、笑えてきてしまった。
まぁ、いい。夜明けまで、時間はたっぷりあるのだから。
完