魔法にかけられて 「それでは、失礼します」
深めに礼をして、現場を後にした。ファミリー層向けイベントのアシスタントということで、テンションを高めにしたり、予想外の事態に見舞われたりと非常に忙しかったが、イベント自体は賑やかながらも穏やかに進行した。主催している会社もイベント担当者もしっかりとしており、臨時で雇われているスタッフに対しても丁寧な対応がなされた。むしろ、丁寧過ぎるくらいだった。
その最たるものが、自分が手にしている立派な紙袋だ。中には、クマのぬいぐるみと、可愛らしくラッピングされた菓子の詰め合わせが入っている。
「ほんのお礼ですが」
という言葉と共に手渡された善意であるが、正直なところ困惑しかない。三十代独身男性がこれを貰ってどうしろというのだろうか。自分には、これらを喜んで受け取ってくれるような子どもや家族もいなければ、パートナーだっていないのだ。そして、ぬいぐるみを収集、愛玩する趣味も持っていない。
作家業に勤しんでいる友人なら引き取ってくれるだろうかと思ったが、彼の作品でぬいぐるみに活躍の場が与えられるとは考えにくい。彼の奇行のお供になることはあるかもしれないが、それは流石に気の毒だろう。
ということで、結局、ふりだしに戻ってしまった。
手元で揺れる紙袋に視線をやれば、柔らかいベージュ色をしたクマの頭がちらりと覗いていた。ぬいぐるみにしては、少し長い毛足の耳にはしっかりとしたタグがついている。きっと、良いものなのだと思う。とはいえ、自宅に置きたいかと言われれば、趣味ではない、の一言に尽きる。
歩きながら、脳内で引き取り手になり得る人物を検索するが、なかなかヒットしない。できれば最終手段には踏み切りたくないのだが、どうにも良案が浮かんでこない。途方に暮れかけていると、後ろから馴染みのある声に呼び止められた。
予想していなかった事態に驚きながらも振り返れば、親しくなってしばらく経つ、ご近所さんが笑顔で手を振っていた。癖の強い黒髪に、尖った耳、春先にもかかわらずもこもこのコートを着込んでいる。クラージィだ。
「ミキサン、オ仕事、終ワルシマシタカ?」
そう言って早足で近付いてきた彼女と並んで歩き出す。
「はい。今、帰るところですよ」
「私モ、デス。ミキサン、背ガ高イ。スグ、見ツケル、デキマシタ」
「それは良かったです」
ゆるゆるとした会話をしながらマンションに向かって歩を進める。
そのうち、一生懸命に日本語を繰り出す彼女と話していて新たな発見があった。それは、彼女とは歩きながらでも視線が合いやすく、声も聞き取りやすいということだった。大抵の日本人は自分よりも背が低く、異性となれば頭一つ分以上の差が開くことも珍しくない。そのため会話の際は、視線を合わせようとして首を痛めたり、声を聞き取ろうとして背中を屈めたりするのが常だ。しかし、日本人の成人男性の平均身長を上回っており、姿勢も良い彼女はそれに当てはまらなかった。
先程まで子どもを相手にしていたからだろうか。体を痛めず、気も遣わずに会話ができることが有難く感じられた。
しばらくは、彼女の仕事の話をしたり、先日の巨大料理の話をしたりしていたが、ふと彼女の視線が自分の手元に向けられた。
「オ買イ物、シタデスカ?」
小さく首を傾げる彼女を見て、ピンとくるものがあった。漫画だったら、頭の上で電球が光っていることだろう。彼女なら引き取り手になってくれるかもしれないと思い、
「いいえ、仕事で貰ったんです」
と、紙袋の中身を彼女に見せた。そして、
「ただ、俺の趣味ではなくて、クラさん、こういうものって好きですか?」
続けて探りを入れる。彼女にとっても好ましいものでないのであれば、無理に押し付けることはしたくなかった。しかし、彼女から返ってきたのは、肯定でも否定でもなかった。
「ミキサン、コレハ、ナンデスカ?」
紙袋を覗き込んだ彼女は、心底不思議そうな表情でこう言ったのだ。ひとまず、ぬいぐるみを手渡してみたが、
「コレハ、クマ…?」
「ふわふわ、デス」
と言いながら、困惑している。恐る恐るといった手付きではあったが、胴体を鷲掴みにして全体を観察している様子は、あまりにも予想外過ぎた。そこで、脳裏に浮かんだのは、
「えっと、クラさん、もしかして、ぬいぐるみをご存じではない?」
ということだった。尋ねてみれば、返ってきたのは、
「コレハ、ヌイグルミ、イウノデスネ。何ニ、使イマスカ?」
と真剣に頷く様であり、思わず言葉を失った。
まさか、ぬいぐるみというものの存在を知らないとは思わなかった。
「ぬいぐるみっていうのは、何に使うとかではなくてですね…可愛がるとか、抱いて安心するとか、そういうものです」
ざっくりではあるが、ぬいぐるみについて説明すると、彼女は引き続き真剣な表情で頷いている。
「ナルホド、オ店ニ、ネコが使ッテル、けりぐるみ、アリマス。ソレニ、似テマスネ」
「うーん、まぁ、とりあえず、その理解でもいいです。というか、クラさんの時代にこういうものはなかったんですか?」
細かいことは隅に追いやっておくことにした。それよりも、彼女がぬいぐるみを知らなかった経緯の方が気になったのだ。尋ねてみると、
「ソウデスネ。人間ノ形シテイルモノ、アリマシタ。デモ、貴族ガ遊ブモノデス。ソウデナケレバ、呪術ニ使ウ、サレルモノデス」
「そうでしたか」
まさか、藁人形と同じ扱いをされるとは思っていなかった。しかし、彼女が生きていた時代を考慮すれば、当然なのかもしれない。何事にも実益ではなく、心の安定や精神的充足が重視されるようになったのは、思うよりも現代的な考え方なのだろう。
彼女についての理解が一つ深まったところで、ぬいぐるみの引き取り手となってくれるかもしれないという期待は急速に萎んでいった。駄目元でも、サラリーマンの彼に尋ねてみようか。彼の猫達の遊び相手には及ばないかもしれないが、行き場がないよりは良いだろう。
そんなことをぼんやり考えながら、隣の彼女に目を向けた。ぬいぐるみを回収しようと思ったのだが、彼女は先程よりも警戒心が薄れたらしく、優しい手付きでクマに触れていた。こちらの視線に気付くと、少し気まずそうに笑いながら、
「触ル、シテルト、気持チイイ、デス」
と言った。眉を下げてへにゃりと笑いながら、両手でクマを支える様は、いつもの彼女よりも幼く映った。彼女が、今初めてその存在を知ったとして、好ましく感じているのであれば、彼女の下に身を寄せた方がぬいぐるみとしても幸せではないか。そう思った。
「クラさんが良ければ、そのクマ、貰ってもらえませんか?」
「エッ?デモ、ミキサン、オ仕事ノ報酬デス。貰エナイデス」
「いや、うちにあっても出番はないので。クラさんがそうやって大事にしてくれるなら、その方がそのクマのためにもなりますよ」
「デモ…」
「そうじゃなかったら、吉田さんのところの猫達のおもちゃにしてもらいますかね」
「?!ネコ、壊ス、シマスヨ!」
「でしょう?だからクラさんが貰ってくれるのが良いと思います」
彼女の優しさや人の好さに付け込んでいる自覚があったが、廃棄するよりはマシだろう。予想通り、こう言えば彼女は、
「ソレナラ、私ガ、貰ウ、シマス」
と眉間に皺を寄せつつ、頷いてくれた。良い引き取り手が見つかって、何よりだ。心なしかクマの表情も明るく見える。
気付けば、マンションまでそう遠くない距離になっていた。クマはいまだ彼女の手のなかに収まっている。
「ヌイグルミ、可愛ガル、ドウシタライイデスカ?」
くるくると全体を見回していた彼女から、こんな質問が飛び出てきた。どう扱っても失敗はないと思うのだが、真面目な彼女らしいと思う。とはいえ、自分がぬいぐるみを愛玩した経験はないので、彼女の質問には少し困ってしまった。結局、
「そうですね…人によっては服を着せたりベッドで一緒に寝たりするみたいですよ。あとは、名前を付けるとか、ですかね」
という聞きかじりの情報を羅列するくらいしかできなかった。しかし彼女にとってはありきたりな意見でも、具体例として役立ったらしい。
「アリガトウゴザイマス。名前、デスカ…」
と真剣な表情でクマを見つめている。
彼女がどんな名付けをするのか、興味本位で見守ることにした。天使や聖人の名前を拝借するのだろうか。それなりの大きさがあるので、大層な名前をつけられても見劣りはしないかもしれない。
そんなことを考えているうちに、彼女は妙案を思いついたらしい。クマを少し掲げて、
「ミキサンに貰ッタカラ、名前ハ、カナチャン、シマス!」
と得意げに、そう言った。彼女はその名付けを気に入ったらしく、「今日カラ、カナチャン、デスヨ」なんてクマに向かって話しかけている。
しかし、こちらとしては、驚いたどころでは済まないほどの衝撃を食らってしまった。俺の下の名前覚えていたのかとか、なんで「ちゃん」付けなのかとか、日本人名のあだ名の付け方よく知ってたなとか、思うところはあり過ぎるほどある。
「えっと、クラさん?」
冷静さを装って彼女の名前を呼ぶと、
「ミキサン、名前、決メマシタ」
なんて笑顔が向けられた。とても、眩しい。
それを目にしてしまえば、わざわざ否定する気は起きず、「良かったですね」と答えるしかなかった。
それから彼女はぬいぐるみの手入れなどについて尋ねてきた。教えられることは少なかったが、「カナチャン、大事ニシマス」と張り切る姿を見るに、ある程度は役に立っているのだろう。
クマのぬいぐるみは既に彼女の手に馴染みつつあり、今は胸に抱き抱えられている状態だ。そのうち、「カナチャン」と呼びかけられているクマを見ていると、なんとなく自分の心に靄がかかるような心地がすることに気付いた。何故そんなことを思うのかと内心首を傾げていたが、ある考えが浮かんできた。
「俺より先に名前呼ばれてんじゃん」
心の内で呟いたつもりが、口から出てしまっていたらしく、彼女がこちらをみてきょとんとしている。
「いや、特に意味はないので、気にしないでください」
自分でも、どうしてそんなことを口走ってしまったのか分からなかったが、非常に気恥ずかしい発言だったことは明確だ。打ち消すために手を振ってみたが、顔の前を流れる風が妙に冷たく感じる。そんなことはお構いなしの彼女は、更に追い打ちをかけるようにして、こう言ったのだ。
「カナエサン?」
と。彼女の声はよく通る。凪のように落ち着いた声色は心地よいアルトで、滅多に呼ばれることのない名前を呼ばれると、まるで魔法にかけられたような心地さえした。
―これは、危ない。
本能的にそう察知した。
「あー、いつもの呼び方の方が落ち着きますね」
最早おどけて誤魔化すことも出来ず、額に手を当てながらそう答えると、
「変ナ、ミキサン、デスネ」
と彼女は再度、クマに向き合った。
ぬいぐるみのクマに対するもやもやした気持ちと、名前を呼ばれただけで飛び跳ねた心臓。その正体から目を逸らそうとしたが、顔面に集まる熱は中々冷めてくれなかった。せめて、こちらを見ないでくれという願いは、幸か不幸か叶えられ、マンションに到着する頃には落ち着きを取り戻せた。
結局あれから、彼女はクマのぬいぐるみを抱えたままでいる。エレベーターの中でも頭や腹をつついては楽しそうにしていたが、部屋の前に着いた途端、
「ミキサン、サッキ、ヌイグルミに服作ル、言イマシタ。コノ大キサの服、作ル、難シイデスネ…」
と、眉を下げてしょんぼりし出した。それに対して、
「まぁ、売ってるものもあるみたいですよ」
慰めになるのか微妙な声掛けしかできなかったが、ふと、紙袋の中身を思い出した。手元の紙袋はすっかり軽くなっていたが、中身がまだ残っていたのだ。菓子の詰め合わせのラッピングについていたリボンを解けば、充分な長さが確認できた。
「クラさん、とりあえず今は、これでどうですか?」
彼女が大事に抱えているクマの首にリボンを結んでやった。幅が太かったこともあり、ボリュームが出るようにして蝶結びをする。形を整えてやると、淡いベージュと長めの毛足のなかで、トリコロールカラーのリボンはしっかりと主張しており、なかなか様になっていた。
思いがけないところでラッピング技術が発揮されてしまったことに苦笑してしまうが、彼女はお気に召したらしい。
「ミキサン、アリガトウゴザイマス!」
と、今日一番の笑顔を見ることができた。
「いえいえ、こちらこそ、引き取ってもらえて助かりました」
ついでに、菓子の詰め合わせも渡して、彼女が部屋に入るのを見送った。
「オヤスミナサイ」なんて今までに何度も耳にしていたはずなのに、全く異なる響きに感じられた。うるさい心臓と頭を目掛けて登ってくる熱は、彼女に悟られなかっただろうか。
そんな思いを抱きつつ、少し横に移動すれば自分の帰宅も済んでしまった。しかし、ドアの鍵を閉めたところで、この短時間に起きた色々が脳裏に過り、思わず座り込んだ。
何故、この年になって思春期みたいな思いをしなければならないのだろうか。とはいえ、気のせいにするにしては、自覚した思いは鮮明過ぎた。誤魔化すよりは、向き合ってしまった方が楽になれそうな気がするほどに。
ずるずると寄り掛かったドアの金属質な冷たさを心地よく感じながら、深呼吸をすれば、心の靄が少しずつ晴れていく。
彼女が好むものを、もっと知りたい。
次に会った時は、どんな話をしようか。
―おまけ 数日後のちょっとした事件―
「クラさん、これ、取引先の人から貰ったんですけど、良かったら貰ってもらえませんか?」
仕事帰りの格好のままでサラリーマンの彼が差し出したのは、小さな紙袋だった。ホットプレートやら食器やらの準備をしようとしていた手を止めて、彼女と一緒に中を覗けば、そこにはウサギのぬいぐるみが鎮座していた。
「うちの猫に見つかったら、すぐにぼろぼろになっちゃうと思うので。あ、好みじゃなければ無理しないでくださいね」
「嬉シイデス!」
両手でウサギを包み込んだ彼女は、彼の言葉に食い気味で答えた。そして、先日の件について、報告を始めた。クマの名前やリボンのことを、それはそれは嬉しそうに話す姿は控えめに言っても可愛らしい。
しかし、同時に、彼が何か悟りはしないかという懸念に心を脅かされてしまう。彼の方をちらりと見れば、ばったりと目があった。案の定、彼の眼鏡の奥からは、申し訳なさと生暖かい優しさが感じられた。
下手に隠さないで良いのはいっそのこと楽かもしれない。二人して、こくこくと頷き合いながら、そんなことを思った。
掌のウサギを見つめる彼女はそんなやりとりを知る由もない。それは仕方がないのだが、彼女が再び、とんでもないことを仕出かす可能性に思い当たった。しかし、気付いたところで防ぎようもなく、
「ヨシダサンから貰ッタノデ、テルクン、デスネ!」
と彼女は晴れやかに笑った。
サラリーマンの彼は苦笑いを、自分は溜息を堪えることができず、内心でこう思った。
「これは、先が思いやられる」
完