氷の花が咲くところ1.花に秘める
―花というものは、これほど冷たいものだっただろうか
頬に、額に、唇に。触れるどころか視界を塞がんばかりの花々に埋もれながら、そんなことを思った。
頭を振ってみれば、冷たくて甘い匂いのするそれらは音もなく落ちていった。そうして漸く視界が開けた。それでも目に映るのは花ばかり。
青・白・紫。そんな色が散見される。種類も多様なようだ。
何故、これほどまでに花に埋もれているのかといえば、例の如く吸血鬼のポンチ能力のせいである。
街中で能力を発動させる吸血鬼が現れ、ひと騒動起きる。それに巻き込まれるのも、最早何の変哲もない日常である。
しかし、今回に限って言えば、一筋縄ではいかなかった。その能力というのが、
『人には言えない思い出や気持ちを花に変化させる』
というものだったのだ。
この能力の厄介なところは、思い出や気持ちを花で表現するのではなく、文字通り花に変化させるということだった。花になってしまえば、素材となったものはどうなるか。これは想像に難くないだろう。
そう。頭の中から消えてしまうのである。
しかも、思い出や気持ちは任意で選べないときた。大体の場合は所謂“黒歴史”というものがひっそりと花に変わる程度らしい。とはいえ、各個人にどの程度の影響が出るのかは、能力を発動させた本人にも分からないようだった。
そんなわけで、能力の影響が及んでいると思われる対象はVRCに足を運び、経過を観察することになった。
とある対象からは小さなブーケが現れた。当然のことだが、自分の中から何が抜け出ていったのかは分からないようだった。加えて喪失感もないとのこと。彼は失った記憶よりも予想外に消化してしまった有給休暇の方が惜しいと話していた。
とある対象は、どれだけ時間が経っても花が現れることはなかった。本人いわく、人前で堂々とできないような人生を送ってきていないとのこと。
とある対象からは花びらばかりが現れた。駆け付けた家族からは数々の恥ずかしいエピソードを暴露され、幸か不幸か本人はそれを全て覚えていた。これを受けて、「これ以上のことがあって、しかも私はもう覚えてないの?なにそれ、こわ……」と慄きながら帰路についた。
では、自分は一体どうなってしまうのか。悔いも過ちもなかった人生とは言い難い。秘めておきたい思いだって抱えている。とはいえ、自分の中からそれらを消してしまいたいか、消えてもいいかといえば、否である。何も失いたくはないが、抗えないのであればせめて小さなものであってほしい。先日、就寝前に食べてしまった栗蒸し羊羹のことを思い浮かべつつ、戦々恐々としながら時が来るのを待っていた。
そうして冒頭に至る。
自分の中から何が抜け出てしまったのか。冷たく甘いこれらの花は何を素にして形作られているのか。何も分からない。
それでも、花を見れば美しいと感じた。花になってしまえば、どんなものだって美しくなれるのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えつつ、自分の手元に目を遣った。
そこにあったのは一輪の薔薇だった。淡く色付いた花弁は紫色と言うべきなのだろう。しかし、何故だか、その薔薇は「青い」のだと認識していた。
青い薔薇など存在し得ないはずなのに、どうしてそのように考えてしまったのか。我ながら不思議なこともあったものだ。そうして、手元の薔薇をまじまじと見つめていると、部屋の外で賑やかな音がすることに気付いた。しかも、その音はこちらに近付いてきているようだ。何事かと身構えていると、ついにはドアが開かれた。
けたたましい音と共に姿を現したのは、自分の身元引受人である。蹴破らんばかりの勢いでドアを開けたのだろう。髭の彼にしては、珍しく息を乱している。
「わざわざすまない」
彼にそう詫びたかったのだが、それより早く彼から矢継ぎ早に質問が飛んできた。
「私のことが分かるか?」
「今いる国はどこだ?」
「お前の職業は?」
等々。
どれほどの質問に答えたのか最早分からなくなった頃、漸く彼は、
「とりあえず、無事なようだな」
と安堵の息を吐いた。そんな彼に、
「あぁ、そうだな」
と返して、部屋の外で待機していたらしいVRCの職員に状況を伝えた。現れた花はひとまず全て保管するとのことだったが、手元の薔薇だけはどうしても手放してはいけない気がした。自分の持てる日本語能力を全て駆使して交渉したところ、なんとか許可をもらうことができた。
それから、薔薇を傷付けないように細心の注意を払いながら帰り支度をしていると、
「今回ばかりは肝が冷えたぞ、クラージィ」
とこちらを叱るようで労わってもいるような、それでいて拗ねているようにも聞こえる声が降ってきた。
これまた、
「面倒を掛けてすまない」
と謝ろうとしたのだが、叶わなかった。
彼に名前を呼ばれた瞬間、涙が溢れてきたのだ。
そんな自分を見て狼狽する彼に対して弁明することも、こんこんと溢れ出てくる涙を止めることも出来なかった。
八方塞がりの中、縋るような心地で目を向けた薔薇は、何も答えてくれなかった。
2.失うということ
気付けば、あの事件から数日が経過していた。日常生活に支障が出るかと言えば、そんなことはなかった。
ただ、心のどこかにぽっかりと穴が開いてしまった。そんな感覚があった。
痛いような、悲しいような、寂しいような。込み上げてくる虚しさを確かに感じるのに、どこから溢れてくるのか分からない。
そうして、開いた穴がどこにあるのか見つけられないまま、それでも日常を過ごすことはできている。それが酷く悲しかった。
「私の中の何が君になってしまったんだろうな」
相手は物言わぬ花だと分かっていても、そう零さずにはいられなかった。
透明なグラスにあって凛と咲き誇る淡い青は、あの日から少しも衰えていなかった。それだけが虚しい心を慰めてくれたのだった。
3.柔らかい土
VRCから連絡を受けた。例の花々のことだ。様々な技術を駆使して検査をした結果、そのいずれも特筆すべきことは何もないただの花だった、とのこと。
その結果を受けて、安心したような気落ちしたような、なんとも言い難い気持ちになったものだ。
しかし幸いだったのは、未だ回収こそできないが、写真を撮る許可が出たことだった。
赴いた先で目に映った花々は、どれもあの日から姿を変えていないようだった。甘い匂いも、触れた時の冷たさも、そっくりそのまま残っていた。
自宅の薔薇も同様だが、なんの変哲もない植物にしては些か生命力が強いような気がしてならない。パシャリ、パシャリとその姿を端末に収めながら、そんなことを思っていた。
そうして、自宅に戻るや否や端末を覗き込んだ。
画面を埋め尽くすのは白、青、紫の花々だ。よくよく見てみると、名前の分からないものがあるものの、よく見知った植物が多かった。
スズラン、スノードロップ、カンパニュラ。アネモネにユリ、スズラン。マーガレット、カミツレ、ラベンダー。
葉や茎がついているものもあれば、萼から上しかないものもある。野草が多いことも影響しているのかもしれないが、ブーケには到底向いていない顔触れだと感じた。
とはいえ、眺めているうちに不思議と愛しさが沸き上がってきた。どこか寂しさを感じさせつつ、だからこそ大切にしたいような、そんな気持ちを伴っていた。
自分の内から生じたものなのだから、当然といえばそうなのかもしれない。しかし、あの吸血鬼の能力は『人には言えない思い出や気持ちを花に変化させる』だったはず。ともすれば、憎しみや怒りといった思いが素になっていてもおかしくはないだろう。
そこで、これまでの人生をふと振り返ってみた。勿論、何かを憎いと思ったことがないわけではない。理不尽な出来事に怒りを覚えたことだってある。ただし、今に至るまでに引き摺るような強い感情なのかと問われれば、答えは否だ。
それに、もし、それほどまでに強い思いを抱いていたのであれば、『人知れず』という範疇には収まっていないような気がするのだ。つまり、これらの花の素になっているのは敵意ではないのだろう。
とすれば、素になったのは何か。
ふと脳裏に過ったのは、『罪悪感』だった。そして、直感ではあるが、これが当たりだという確信があった。
では、何に対する罪悪感なのか。これについてはまだ分からない。
しかし、空いてしまった穴を埋められるかもしれない。その希望を手繰り寄せられただけでも十分な成果と言えるだろう。
それに、なんとなくではあるが、『彼』に対するもののような気がしてならない。
いや、むしろ、そうあってほしい。そう思った。
4.心に秘める
人の想いが花になる。あまつさえ、その想いを本人が認知できなくなるとは。そんなことがあって堪るか。そう思ったところで、起きてしまったことは覆らない。
連絡を受けて駆け付けたあの日のことはよく覚えている。彼が記憶喪失にでもなったのかと思った瞬間、血の気が引いていくのが分かった。実際のところ、記憶喪失とはまた違ったようだが、厄介事に巻き込まれたことに変わりはなかった。
そして、流石の彼も動転していたのだろう。音もなくただひたすらに涙を流す姿は痛々しく、憐れだった。それこそ、二度と目にしたくないと思うほどには。
しかし、それほどに心が掻き乱される一大事となったにもかかわらず、結局のところ、彼が認知できなくなったものが何かということは分からず仕舞いだった。
それに、彼の言動に変化が生じることもなかった。
そう。彼は彼が築いてきた日常に戻ったのだ。
祈り、働き、学ぶ。どこに出しても健全な生活だ。
なんともないように振舞う彼を見ていると、とある疑問を抱かずにはいられなかった。
そもそも、彼は「人に言えない気持ちや思い」なんてものを持っていたのだろうか。
人に言えないようなこと。一般的に考えれば、疚しいこと、後ろ暗いことだろう。感情で言えば、怨恨や敵意、殺意、妬みや嫉みといったところか。いずれも殺伐としている。
彼には似つかわしくないように思えるが、どうだろうか。彼は人間であった頃、教会から破門されても、自身の信仰と向き合い続けた男だ。その度量があって、捌ききれない負の感情が存在し得るのだろうか。
強いて、思い当たるものと言えば、一つだけ。
人間から吸血鬼に転化したことである。
本人の許可も望みもなく行われたものだ。彼は現在の生活を楽しんでいるとは言っているが、結果だけ考えてみれば彼の信仰に反しているのは明らかだ。それに、これから先、どれだけ時間が経ったとしても、彼の信仰が全うされる機会は永遠に奪われてしまっているのだ。
ここまで考えて、自分の中ではとある結論に至ってしまった。
やはり、吸血鬼に転化したことを恨みに思っているのだろう。無論、赦されることだとは思っていない。償おうとして、償えるものでもない。
それでも、彼がその憎しみを感じないで済むのであれば、無理に取り戻さなくても良いのではないか。
あれほどまでに痛ましく流れる涙はもう見たくない。
そう思った。
5.夜に息する
ベンチに座って溜息を吐く。
―花屋の人には申し訳ないことをしてしまった。
空っぽの掌を眺めながら、心がずっしりと重たくなっているのを感じた。自宅を出る前には妙案だと思っていたというのに、今となってはお先真っ暗だ。
そんなことを思っていたからだろうか。頭上から差す影が更に濃くなった。予報では空は澄んでいると言っていたが、雲が出ているのかもしれない。
背中を丸めていても物事は進まないというのに、どうにも上を向ける気がしない。せめてもの抵抗として自分の掌をもう一度見つめるが、そこには何もない。最近、似たような文学的表現を学んだ気がするが、意味するところはなんだっただろうか。
そうして現実逃避めいたことを考えていると、足元の影が更に濃くなった。そして降ってきたのは、
「ヘロー、今は欠片の氷の子」
という、宵の空気を震わせる声だった。
反射的に顔を上げると、そこには月が出ていた。
―何故、この人が?
ぼんやりと静かに佇むような金色に目を奪われていると、
「お隣お邪魔するよ」
とベンチが軋む音がした。
竜の一族の真祖と並んで座ってしまった。
―思いがけないことが起こると生き物は考えることを止めてしまうものなのだな。
現実味のない状況に身を置いたせいか、思考は自分の頭上を漂っていた。しかしそんなことは意にも介さず、
「で、どうしたの?」
なんともいえない角度で、吸い込まれそうな紅い眼がこちらを覗き込んでくる。
―なんでもありません。少し休憩していたのです。
なんて言ったところで意味はないだろう。今まで碌にやりとりをしたこともないのに、不思議とそんな確信があった。それでも、
―人に話すものでもあるまい。
心の隅で引っ掛かるものがあったのも確かだ。どちらが事を荒立てないのか。脳内の天秤はぐらぐらと落ち着きなく揺れた後、静かに傾いた。
そうして再び溜息をついてから、
「実はですね……」
ここに至るまでの経緯を掻い摘むことにした。
「実物の花が手元にあれば、何か思い出せるのではないかと思ったのです」
聞きたがりの彼は、聞きたがりの割には相槌を碌に打たず、首肯だってそれほどしなかった。それでいて、ただ、じっとこちらを見つめてくるのだった。最初は座りの悪さにどうにかなりそうだった。しかし、彼の瞳がいかに雄弁であるか、それが理解できると心は次第に凪いでいった。
彼に語って聞かせたのは、先程足を運んだ花屋での出来事だった。
そう。自分は事態が好転すると信じて花屋に赴いたのだ。実際、あの時撮影した写真を店員に見せると、親身になってくれた。現在の季節で取り扱っている花は全て案内してもらった。それらは色鮮やかで、瑞々しくて、丁寧に世話されているのだと素人目にも理解できた。
「でも、どれを選ぶこともできませんでした」
それは何故か。感覚めいたところも多く、正解なんてないのかもしれない。それでも、強いて言えば、匂いが違ったから、だろうか。
冷たく甘くて、頭の芯が溶かされてしまうような、あの匂い。それがなかったのだ。
こんな感覚が勝る話をされては相手も困るだろう。終着点のない話でもあるため、そろそろ切り上げてしまおう。そう思い、次を告げようとした。すると、
「それはそうでしょ」
久方ぶりに空気が震えた。
彼の謂わんとしていることを聞き返してもよいものか。迷っていると、彼の言葉が淀みなく続いた。
「だって、その中に君の本物はないんだから。どれだけ似ていても、君のものじゃないよ」
陰っていた月から雲が離れていったような、押し寄せていた波が引いていったような、そんな心地がした。
あれほどこちらを覗き込んでいた深い紅色は、もうどこか遠いところを見つめている。その横顔がどうにも寂しいので、
―同じような経験をされたことがあるのですか?
そう尋ねたかった。
しかし、次の瞬間、月は遥か頭上にのぼってしまった。
―幻のような人だな。
そんなことを考えていると、彼と視線がかち合った。彼とよく似た髭が動く。
「君はその人とどんな時間を過ごしたの?」
そんな問いだけ投げ掛けて、姿を消してしまった。
彼と過ごした時間。おそらく長くはない。しかし薄くもない。振り返ってみると、ぽつぽつと、止め処なく湧き出てくる。
この中に答えがあるような気がする。良いことか、悪いことか。それは分からない。
それに、一人では探し出せないだろう。
ならば、二人で探しに行ってみようではないか。
6.
「それでは、出発しよう」
そう言って、癖毛の彼は歩き始めた。
つい先日のことだ。久しぶりに連絡が来たかと思えば、
「一緒に行きたいところがある」
の一点張りだ。彼からの頼み事は珍しいため引き受けたものの、何をするのか見当がつかないまま当日を迎えてしまった。
今だってそうだ。目的地も分からないまま、彼の暮らす街を散策している。
「なぁ、覚えているか?」
前を行く彼から突然尋ねられて、思わず眉間に皺を寄せてしまった。だって、無理もないだろう。ここは、癖毛の彼と漸く再会できたかと思えば、隣人達との用事を優先された場所なのだから。
「そうだな。忘れる方が難しい」
そう返せば、「それもそうだ」と彼は笑った。そして、
「あの時は随分と寒かったな。そんな中で、この花は色鮮やかだった」
と言って、掌を上に向けた。それから、ポンと軽い音がしたかと思えば、硬い掌には氷の花が乗っていた。見たところ、椿のようだった。
―日本ではその状態は縁起が悪いとされているから気を付けなさい。
―随分と能力をコントロールできるようになったんだな。
心に湧いて出た二極化した意見のどちらを口にしたものか迷っているうちに、彼は持参していたらしい保存容器に氷を収納していた。
「ここで、親切な人から贈り物を貰ったんだ」
どこにでもあるような住宅地だった。
―知らない人から物を貰うんじゃない。
相手は子どもでもないのに、反射的にそんな言葉が脳裏に浮かんだ。
「その時は氷の薔薇をお返ししたんだ。もう、能力の練習をしていたからな」
そう続ける彼の表情はどこか得意そうだった。
―あの頃はまだちっちゃいものしか作れなかっただろうが。
無粋なことは言うまいと飲み込んだ言葉だが、表情には出ていたらしい。
「今、失礼なことを考えていただろう?」
少しだけ眉間に皺を寄せた彼が、再び掌を上に向けた。
そうして姿を現したのは、細長い茎と細かい花びらをいくつも掲げている花だ。あの時期に咲いていたものといえば、
「菜の花か?」
「正解だ。ケールに似ていて、なんだか馴染み深いんだ」
それから、伏し目がちにこうも続けた。
「夜になると、辺り一面が甘い匂いで満ちるんだ。姿が見えなくても、どこで咲いているのか分かるくらいに」
薄い氷が重なったその花は、いかにも大事そうに容器に収納された。
「ここは、お前の家から帰る時にいつも通る道だ」
これまた住宅街の一角だ。現状では緑の葉が茂る樹木が目立っているが、彼は一体何を見せる気なのか。
「今は葉だけだが、夏の間は花が沢山咲いていた。ピンクともオレンジとも言い難い、不思議な色でな。夜は灯りみたいに見えるんだ」
そうして彼の掌に現れたのは、トランペットのような形をした花だった。
「これは?」
「ノウゼンカズラというらしい」
「馴染みがないな」
「私もだ。こちらでは歴史が長いらしいが、似たような花も心当たりがなかったから、名前を知るにも苦労した」
彼の解説に頷いていると、
「お前に教えられるものがあるなんてな」
と口角を上げているのが見えた。
―元々は教える側に立っていただろう。
喉まで出かかったその言葉をぐっと飲み込んだ。それでも込み上げてくる苦いものを飲み下そうとしていると、
「次の夏はお前も見てみると良い」
そう言って彼は歩き始めた。
「この先は駅だ。こっちに行くと、デパートまでの近道になる」
そう言って彼が指で示した先には細い道が伸びていた。
―質素な生活が染み付いているくせにデパートとは意外だな。
ある種、失礼なことを考えていると、これはこれで読まれていたようだ。
「お前の授業がある時くらいしか行かないからな」
とのこと。
「そのことだがな、手土産なんて毎度持ってくる必要はない」
彼の面倒をみるのは自分にとって当然のことなので、彼がこちらを気遣う必要はない。そう思うのは本心だった。とはいえ、律儀な彼が納得するとは思っていない。それでも、無理をする必要はない、と伝えるのは無駄ではないだろう。
すると彼は静かに首を横に振った。それは予想通りだったが、続いた言葉は全く想定していなかったものだった。
「お前の好みが知りたいから、と言ったら?」
隘路の前に立つ彼は微笑んでいるのに泣いているようだった。彼が掌を上に向けると、ぽんぽんと音を立てていくつかの花が現れた。
そこらの空き地で、足元で咲いているものと同じ花、コスモスだ。
「こういうものは好むんだろうか、喜んでくれるだろうか。そういうことを考えながら、持っていくものを選んでいた」
彼の手は重なる氷の塊でいっぱいになっていた。いくら自分の能力と言っても冷え性の彼のことだ。辛いだろうに、彼はお構いなしに話を続けていく。
「お前は優しいから、最終的には受け取ってくれるのだろうと思っていたが、迷惑ではなかったか?」
その問いに首を横に振って応じると、彼は少しだけ肩の力を抜いて、溜息を吐いた。それでも緊張した空気が和らぐことはなかった。
「それは良かった。……本当に感謝しているんだ。親子、というのは正直ピンと来ないが、勉強家なところはとても尊敬している。それに、命の恩人だと思っている。あと、私が人間だった頃、あの時代を知っているという点については親しみを感じる、と言えばいいのだろうか。それに、意外と面倒見が良いところも、好ましいと思う」
突如として始まった怒涛の誉め言葉をどう受け止めるべきなのだろうか。そして、どう返すべきなのか。言葉を紡ぎあぐねていると、
「すまない。困らせてしまったな」
と到底腹から出たとは思えないほどか細い声を耳が拾った。そして、
「と、まぁ、こんな感じでお前のことを考えて、短いけれども同じ時間を過ごして、一喜一憂していたわけだ」
と今度は口角を僅かに上げた。初めてみるような、自嘲的な笑みだった。
「軽蔑するか?」
彼がそう言って目を伏せたと同時に、掌から雫が零れた。
一度溢れたものは簡単には止まらない。それでも互いに言葉もないまま、どれほど向き合っていたのか分からない。
先に沈黙を破ったのは彼の方だった。角の丸まった氷を申し訳なさそうに、労わるようにして容器に移したのだ。そして、「ありがとう、すまないな」なんて言ったかと思えば、そのあたりの側溝に中身を撒こうとした。
何故彼の行動を止めなければならないと思ったのか。そんなことは分からないまま、反射的に返されようとしていた手首を掴んでいた。
「あの、ノースディン?」
彼としても止められるとは思っていなかったのだろう。目を丸くしつつも、
「これは用の済んだものだから」
とこれまた良く分からないことを口にしている。
そう、なんの説明もされていないのだ。
「まず、お前のことを軽蔑なんてしていないし、そんな顔をするくらいなら手放すのを止めろ」
「それと、話が見えるようで見えない。まずはちゃんと話せ。最後まで聞くから」
そこまで伝えて、漸く彼と目が合った。
そうして我に返ったらしい彼の復活は早かった。
「思っていることを言わないのはお前の専売特許だと思っていたが、癖が移ったのかもしれない」
なんて憎まれ口にしか聞こえない台詞を平気で言ってのけるほどだ。そこを追及したい気持ちを抑えつつ、
「それで?この氷はなんなんだ?」
彼が手にしている容器を指差して尋ねると、彼は再び視線を逸らした。それから、思い切ったようにこちらを向き直した。
「さっき話しただろう。尊敬とか、親愛とか、感謝とか、そういうものだ」
「それらが用済みなのか?」
「……」
「この前の話が関係しているんだろう?」
この男、思いの外、往生際が悪いらしい。この期に及んでまだ本題を隠そうとしている。
「あの花を見た時、大事なものが無くなったと思った。とても悲しいのに、でも、それが何か分からなくて、ただ、何故かお前に関係しているような気がしていた」
なんとかして腹を括ったようだが、ところどころで気持ちが萎むらしい。彼にしては珍しく、ちらちらとこちらを窺うような視線を向けてくるため、こちらも視線で続きを促す。
「だから、あの花に手掛かりがないか、色々調べた。でも、どれも駄目だった」
「それでどうしようもなくなった時に、相談に乗ってくれた人から、お前とどんな時間を過ごしたんだって聞かれて、色々振り返ってみた。そうしたら、悲しいとか寂しいとかよりもさっき話したようなことが浮かんできたわけだ」
「まだ話さないと駄目か?……それでだな、考えていくうちに、お前を、慕っているんだろうな、と気付いた。つまり、慕情だ。自分でも驚いたんだ。到底許されるものではないし、受け入れられるはずもないのだからな」
「でも、その気持ちを自分で形にしたいと思った。それで、拒否されれば、諦められると思った。だからお前にも付き合ってもらう必要があった。ということなんだが、実際に拒否されると思ったよりも堪えてしまって、あんな行動に出たのだろうな」
終盤は最早他人事のようだった。呆れて言葉が出ないとはこのことか。いや、自分だって、彼の気持ちを決めつけていたのだから、似たようなものかもしれない。
今現在、確かに言えるのは、自分の気持ちを伝えなければ二人の関係性が修正不能になるということだ。
「事の次第は理解できた」
こちらが腹を括ったと思えば、あちらも覚悟を決めたような表情をしている。何故、これほどすれ違ってしまうのか。答えは簡単だ。自分の気持ちを言葉にしなかったからである。
「まず、結論から」
彼の拳に力が込められるのがはっきりと見えた。
「つまりだな、お前はそれを捨てないで良い」
「情けならいらないぞ」
またすれ違った。伝えるべきこと、伝えたいことは分かっているはずなのに、これほどまでに実を結ばないことがあるとは。
「そうではなくて、あー、それ、こっちに寄越せ」
「無理しないでいい。大丈夫。なかったことに出来るはずだ」
泣きそうな顔で微笑まないでほしい。それに、自分にも腹が立ってくる。今必要なのは率直な言葉であって、遠回しな含みではない。ここまで分かっていて、何故行動を伴わないのか。馬鹿馬鹿しいとはこのことだ。
「……なかったことにはさせない」
「どういうことだ?」
「一喜一憂していたのが自分だけだと思うな?こちらだって、お前が来る度に茶葉を新調していたし、お前専用のカップだって用意したんだからな」
「な、そんなの聞いたことがない」
「言えるわけがないだろう。こっちは罪悪感と罪滅ぼしに必死なんだ。思いを寄せてるなんて知られて堪るか」
一度口から出てしまえば、あとは滑らかに続くものだ。体裁も何もあったものではないが、それを気にした結果が現在なのだ。だから、そんなものは犬にでも食わせてしまえばいい。
「今、知ってしまったのだが……?」
「今言わなかったら、全部失うだろうが」
「これは口説かれていると思っていいのか?」
「お前を魅了してどうする?」
「つまり?」
「……お前が一番特別だ」
「一番、は無理があるだろう」
「人の精一杯の告白を何だと思ってるんだ」
「いや、すまない。捨てるべきと思っていたものを捨てなくていいと言われて驚いているんだ」
そこまで言って、互いに黙りこくってしまった。
いい年をした男が二人、一体何をしているんだ。しかも、人通りは少ない深夜であるものの、ここは住宅街だ。
あまりの格好のつかなさに、面白ささえ湧いて出てきた。それはあちらとしても同じだったらしい。視線が合ったかと思えば、ふはっと締まりのない笑い声が漏れ出た。
「お前、普段のご婦人への態度はどうしたんだ」
「なんだ、麗しい人、とでも呼ばれたいのか?」
「いや、特別なんだろう。だったら、同じようにされるのは嫌だ」
「さっきまでの健気さはどこへ行ったんだろうな」
「しおらしい私をご所望か?」
「結構だ。張り合いがなくてつまらん」
遠慮のいらない応酬に浮足立つも、とあるものの存在を思い出した。
クラージィの生み出した氷の花だ。
「なぁ、さっきの氷はどうした?」
「ん?それならここに」
「そのまま保存しておくか?」
「いや、それは遠慮する。だが、捨てるのは気が引けるな」
保存はしたくないが、廃棄もしたくない。なかなかに難問だ。どうしたものかと思案していると、
「……かき氷はどうだろうか」
と目の前の癖毛が呟いた。
かき氷、つまり氷菓である。これを食べるのか、と思わないでもないが、融かして飲めと言われるよりは遥かに良いだろう。
「いいんじゃないか」
「では決まりだ。私が作った分だけだと足りないだろうから、お前も氷で何か作ってくれないか」
「今ある分だけでも良くないか?」
「私の愛だけ食べるのか?」
そう言われて、ぴたりと体が止まった。
愛。何気なく言われてしまったが、愛情ときた。ついさっき、あれほど格好のつかない告白をしたというのに、ついぞ「愛」の一言はどちらからも出なかったではないか。
それがどうだ。いとも簡単に口にされたものだ。それならば、こちらも同じように応えなければならない。そう思うのに、
「そうだな。私の愛がどれほどのものか、理解してもらう良い機会だ」
どうやっても素直になれない呪いにでも掛かっているのだろうか。
とんだひねくれ者だと呆れていると、彼にとっては想定内のことらしい。
「そうか。混ぜたら美味しくなるだろうな」
と目を細めていた。
そもそもうちにかき氷器はないとか、このためだけにシロップを買うのかとか、思うところがないわけではないが、彼が大事そうに保存容器を抱えているのを見たら、どうでもよくなってしまった。
それよりも、彼に容器の蓋を開けてもらうのが先だ。金属の蓋を軽く叩くと、彼は何事かとこちらを見つめてくる。それを横目に掌を上に向けた。軽い音を立てて姿を現したのは、小さな薔薇。容器に入れてしまうと、一番小さく、目立つことはなかった。
それでも、彼と練習した、最初の思い出だった。
道を進めば、何かを思い出す。
帰るまでに語って聞かせたいこと、語り合いたいことは次から次へと溢れてきた。
出会いを、別れを、罪悪感を、それでも再会できた喜びを。
一夜には収まらない思いはこれからも続いていくのだ。
そう思うとまた一つ、新しい花が咲いた。
『氷の花が咲くところ』
完