どうか、ガラスケースに収まっていて 「というわけで、この中から私に合う色を選んでほしい」
帰宅するなり、大量の化粧品が入った手提げ袋を突き付けてきた我が子は真剣な面持ちだった。全く流れについていけないが、望むことであれば叶えてやりたいと思うのが親心であり、とりあえず話を聞くことにした。
「つまり、化粧をしたいが、色の見分けがつかないから、私に色を選んでほしい。そういうことで合っているか?」
「そうだ。面倒事を押し付けて申し訳ないが、協力してほしい」
「それは構わないが…」
思いもよらぬ申し出に驚きと困惑が同時に押し寄せてきた。今までに、彼女に化粧の必要性について尋ねたことがあったが、それとなくはぐらかされてきた。その時は、化粧を贅沢や娯楽の一種と思って敬遠しているのだと思っていたが、まさかこんな理由だったとは。しかし、それを踏まえると解決する疑問もある。
「なぁ、以前、吸血鬼の眼は全員同じ赤だと言っていたが、もしかして本当に全て同じに見えているのか?」
「そうだが…そうか、違いがあるんだな、私が見えていないだけで」
「まぁ、同じ赤い宝石といっても違いがあるだろう?そういう違いだ」
「すまない、それが分からないんだ」
「そうか…私とお前の眼の色も一応違うぞ」
そう伝えると彼女は少しだけ眉をひそめた。一言余計だったかもしれない。その気まずさに耐えきれず、強引に話を戻した。
「それはともかく、今は化粧の話だろう」
「そうだな。サンプルというものを色々分けてもらったんだ。まずは色々試してみた方がいいと助言をもらった。その通りだと思うが、これだけあると、そもそも選ぶのが大変なんだ。似たような色が多くて、頭が爆発しそうだ」
そう言って、彼女はテーブルにサンプルとやらを広げた。小分けにされた色とりどりの化粧品を見ていると、彼女でなくても目がチカチカとしてくる感覚に襲われた。そして、あの退治人から貰ったものというところが若干腹立たしい。
「そもそもお前は化粧の経験はあるのか?」
「ほとんどないな。あの頃はそれどころではなかったから」
「化粧の仕方も分からんということか」
「はっきり言ってくれるな」
「事実だろう」
手に取ったサンプルと彼女の顔や肌を見比べる。何度かそれを繰り返していくうちに、頭の中でイメージがはっきりしていくのが分かった。これなら、彼女の美しさを引き立ててくれるだろう。サンプルの中からいくつか選んで席を立った。
「選んでくれたのか。じゃあ、やってみるから貸してくれ」
「いや、私がやってやるから、こっちに来なさい」
「そこまでしてもらわなくても大丈夫だ」
「いいから、化粧の仕方、分からないんだろう?大人しくしなさい」
「それはそうだが…あなた、なんだか楽しんでないか?」
部屋の明るいところに椅子を移動させる。むくれた表情の彼女を座らせると、自然と自分が見下ろす形になる。ジトっとした目でこちらを見つめる白い顔をこれから彩るのだと思うと口角が上がりそうになってしまった。
黙々と彼女の肌にクリームを塗り込む。日頃の手入れの成果もあり、彼女の肌は吸い付くような肌理を保っていた。眠りから目覚めた頃からは想像もできないほどだ。やつれて、肌の下の骨を直に感じられるようだった頬も今では肉が戻り、滑らかな曲線を描いている。薄い唇も切れて血が滲むことはなくなった。
次は目元に移るか、そう思案していると、
「なぁ、あまり黙られると不安になるのだが」
なされるがままの彼女がおずおずと目を開いた。沈黙に耐えられなかったらしい。
「手元が狂ったら大変だろう」
「あなたは器用だからそんなに心配しなくても」
「いいから口も目も閉じていなさい」
しかし作業に集中したかったため、黙っているように諫める。すると彼女は「絵付けか何かと思っていないか?」と不満を漏らしながらも再度口と目を閉じた。
絵付けはあながち間違っていない表現だろう。彼女の肌は陶器のようで、筆を走らせる度に色めいていくのだから。
赤い眼を覆い隠している瞼を濃い菫色で縁取る。サンプルには頬紅も含まれていたが、染み一つ見当たらない新雪のような頬には手を入れないことにした。仕上げのためにブラシに口紅を馴染ませてから、華奢な頤に手をかける。
「口を薄く開けなさい、そう、そのまま」
彼女の唇は薄いので、細心の注意を払ってブラシを重ねていく。すると、艶やかなワインレッドが一際目を引く出来栄えとなった。彼女がその唇から人間の血を滴らせる、なんてことはこの先起こりえないのだろうが、血に濡れたような瑞々しさは何とも言い難い色気を孕んでいた。今すぐにでも食らいついてしまいたい、そう思った。
「完成だ。目を開けなさい」
彼女の顔から手を離す。それから、ゆっくりと彼女の目が開かれた。
血色が失われた相貌のなかで、意思の強さを秘めた大きな赤い眼と艶っぽい唇は一層輝きを放っていた。自分で施したにもかかわらず、思わず息を飲むほどだった。このまま箱にしまってしまいたい、そんな考えが一瞬、心を占めた。
「ありがとう。どんな顔になったのか見てもいいか?」
そう声を掛けられて我に返った。平静を装いながら、離れたところに置いてあった鏡を手に取って渡す。すると、彼女は鏡に映った自分をまじまじと見つめてから、
「なんというか、こんなに印象が変わるものなんだな」
とどこか他人事のような感想を呟いた。そして、見慣れない自分に戸惑いもあるのか、鏡はすぐに伏せられてしまった。
「自分じゃない自分になれたみたいだ。感謝する」
「あぁ、どういたしまして」
告げられた感謝の言葉に一応返事をしたものの、邪な考えが脳内をちらついて、どうにかなってしまいそうだ。しかし彼女はこちらのそんな気持ちは露知らず、「今度は他の色も試してみたい」なんて言っている。
出来れば屋敷にしまい込んで誰の目にも触れさせたくない、そんな考えを押し殺しながら、
「外にしていくなら、薄い化粧にしなさい。オフィスメイクというものがあるんだろう」
と伝えたが、自分の表情は険しいものだったのだろう。怪訝そうな彼女の視線が物語っている。しかし追及されてはたまらない。ならば先手を打つのみだ。
「ともかく、片付けはやっておくから、顔を洗ってきなさい」
いつもの彼女の顔を見れば考えも落ち着くかもしれない。そう思っての提案だったのだが、彼女は別方向に受け取ってしまったらしい。
「………あんまり似合っていないのだろうか?無理を言ってすまなかった。私に化粧は過ぎたものみたいだな」
と眉を下げて笑っていた。
傷付けてしまった。反省の念が一気に生じたが、同時に自分の言動が彼女に及ぼす影響も感じられた。それに伴い、仄暗い愉悦が流れ出てくる。
「そんなことは言っていないだろう。よく似合っている」
「…本当か?」
「本当だ。そもそも私が選んだ色だろう。信じなさい」
「はい」
彼女の両腕に手を添えて安心させるように、声の調子も落ち着けるように努めて伝える。すると、一応彼女も納得したらしい。
「普段使いできそうな色はまたの機会に試すことにしよう」
「そうだな、また手伝ってくれるか?」
「勿論だ。さぁ、顔を洗ってきなさい」
なんとか冷静を装って、彼女を洗面所に送り出そうとする。これで互いに冷静になれるだろう。そう思ったが、彼女は持ち前の律儀さを発揮して、片付けが先だと主張してくる。勘弁してくれ。
ここまで来たら無理にでも話題を転換させるしかない。必死な思いから、彼女の細い首筋に手を添えて、耳元に顔を近付けた。
「お前の唇はとても魅力的だが、生憎、私に口紅を塗る趣味はなくてね。この意味が分かったら、早く顔を洗ってきて、いつものお前を見せておくれ」
魅了の能力を使わなかっただけでも褒めてほしいものだ。幸い、彼女にはこの言葉だけで十分効果があったようで、顔を真っ赤にして部屋を出て行った。「破廉恥ヒゲヒゲ!」という罵り文句が聞こえたが、この際不問に付そう。
テーブルに広げられた各種サンプルを片付けながら、化粧を施した彼女の顔が思い出された。そして、同時に流れ出てきた自分の独占欲や執着心も。本当に、叶うことなら屋敷にしまいこんでおきたい。しかし彼女のことを思えば、実行はできない。まだ、その歯止めは利いている。しかし、それもいつまでもつのだろうか。自分の理性と欲望の我慢比べの日々を想像すると、やるせないことこの上ない。
とりあえず、彼女の帰りを待つ間、このサンプルたちをさっさと処分できるような理由を考えることにしよう。
完