どんな映画よりも予測がつかない けたたましくブザーが鳴り響き、場内が暗くなる。光源となるのは物語を映すスクリーンだけだ。
隣に座る彼は、映画館にすっかり慣れたものだ。普段は金属でも入っているのかと思うほど真っすぐに伸びた背筋だが、今は力を抜いて椅子の背もたれに体重を預けている。
彼を最初に映画館に誘ったのはいつだっただろうか。きっかけが単館のリバイバル上映だったことは覚えている。ある日、小さな映画館の前を通りかかったら、昔観たことのある映画が取り上げられていた。上映時間が迫っていたが、二人とも急ぎの用事もなかったので、そのままチケットを購入してしまったのだ。
癖毛の彼にとってはこれが映画館初体験だったが、思いの外お気に召したらしい。それ以来、それなりの頻度でこの小さな映画館に足を運んでいる。理解可能な言語かつ、お手頃価格で観られるものということで、海外作品のリバイバル上映に偏りがちではあるが、彼はあまりジャンルに頓着しない性質なので問題は無い。ラブロマンス、コメディ、サスペンス、アクション、ミステリー、ホラー等々、食わず嫌いは良くないということで観てみたら、案外どれも楽しめたようだ。あまり前衛的過ぎると困惑していたが、幸か不幸か二人で鑑賞しているので、愚痴やら解釈やらを吐き出す機会を得られていた。
―どの映画の脚本よりも、あなたの辿ってきた人生の方が波乱万丈でしょうに。
そんなことが度々頭をよぎるが、人の楽しみに水を差すのは無粋なので黙っている。ちらりと横目で彼を見れば、すっかり表情を弛めている。スクリーンでは、サイレント映画で名を馳せた女優がトーキーに移行するにあたって困難に直面しているところだった。
そういえば、これはミュージカル映画だった。彼は耳が良いのか、言葉や歌をすぐに覚えてしまう。そして天然なのか茶目っ気なのか掴み兼ねているが、得た知識を日常場面でポンと出してくることがある。先日は、友人三人で集まってどこへ行こうかと話している時に、『野球につれてって』とフレーズで返してきた。思わずもう一人の友人と吹き出してしまったし、その後で野球場に行って試合も球場メシも堪能した。
今日の映画は彼にどんな知恵をもたらすのだろう。流石に土砂降りの雨の中でタップダンスをしたいと言い出すことはないだろうが。ぼんやりとした頭でスクリーンを眺めていると、あっという間にエンドロールを迎えてしまった。
ゆっくりと場内が明るくなる。自分たち以外の僅かな観客はエンドロールの途中で退席してしまったらしく、辺り一面静まっていた。とは言え、長居はしていられない。席を立って隣の彼を促そうとした。すると、目が合った瞬間、彼はこう口ずさんだ。
『あなたは私の運命だ』
彼にそんなつもりは毛頭ないのだろうが、いきなり口説かれてしまった。不意打ちを食らって動きが止まってしまったが、彼はそれも気にせず、何やらぶつぶつ言っている。おそらく、言葉の用いられ方が彼の想定と異なっていたとかそんなところだろう。しかし心臓に悪い経験をしてしまった。彼が天然なのか、お茶目なのか、不思議ちゃんなのか分からない。ただ、確実に裏表がない人間だということははっきりしている。その証拠に、
「あ、スミマセン、ミキさん。映画、面白カッタデス。早ク出マショウ」
といつも通りに笑っている。あまつさえ、フリーズしている自分に対して「疲レマシタ?」なんて心配までしてくれる。人の気も知らないで、というやつだ。
「なんでもないですよ。それより、なんか食べに行きましょう。吉田さんも仕事終わってる頃でしょうし、声かけてみましょうか」
と話題を逸らせば彼はにこやかに頷いた。
先を歩く彼の癖毛を見つめながら、彼自身が持っている周囲を振り回す力というか惹きつける力について考えていた。それは、その力の出力の加減をしてほしいからなのだが、それができる人ならこんなことになっていないんだろうなとすぐに結論に辿り着いてしまった。このままだと無自覚天然タラシになりかねない、善性に振り切っているヒトにどうやってブレーキをかけたものか。
途方に暮れるような気持ちで映画館の外に出ると、入館時と違って雨が降っていた。予報にはなかったことだし、傘を持ち合わせていない。彼にとって雨は良くないものだろうと思い、隣に目を向けると心なしかそわそわしていた。そして、彼の口から出たのはこんな言葉だった。
「ドウセナラ、踊ッテイキマセンカ?」
完