父への献身 これは夢だと気付いている。夢魔の仕業かと見紛う悪夢だ。しかしそれを認識できたからといって、眠りから覚めることはない。どこか遠くから話の行く末を眺める自分と、哀れな登場人物としての自分がぼんやりと交わっていく。
夢の中で自分は羊になっていた。黒と白の斑の羊だ。荒野を当てもなくさまようのだが、やがて力尽きて動けなくなってしまう。歩みを止めると、何処からともなく鷲が舞い降りてきて体を突かれる。毛皮は既にボロボロで、自らを守るすべと言えば体を丸めて目を閉じるくらいしかない。なされるがまま、肉を食い破られる。血が止めどなく流れ出し、体が冷え切っていくのを感じた。
満足した鷲が飛び立っていくと、今度は鴉の群れがやってきた。普通の羊であればとっくに絶命しているはずなのに、意識が鮮明に保たれているのは、やはりこれが夢だからなのだろう。痛みはぼやけているが、生きたまま血肉を食われる感覚は何物にも代え難い恐怖となって襲ってきた。それでもまだ目は覚めない。
鴉が去ると、残った肉や皮が腐臭を放ち始めたのが分かった。それにつられて今度は蟻や蛆、蝿、夥しい数の虫が群がってきた。みすぼらしい全身を虫食まれ、ついには骨だけが残された。それでも意識は保たれていた。このまま骨が朽ちるまで、どれほどの年月がかかるのか、と途方に暮れたところで目が覚めた。
心地の良いベッドで目が覚めた。最悪の目覚めだ。まずは自分の両手を確認する。指が十本ある、人間の手だ。安心すると同時に、あのまま朽ち果ててしまえれば良かったのに、とも思った。ぼんやりと靄がかかったような頭を叱咤しながら体を起こした。遮光カーテンの隙間から零れ出ている光を見るに、今は日中なのだろう。
周囲を見渡すが、誰もいない。両足に力を入れてみると、自分の意思で動かせた。今なら部屋の外に出られるかもしれない。そう思って、足を床に下ろした。その瞬間、木の軋む音が響き、心臓が飛び跳ねた。ひんやりとした冷気が流れ込んでくる。それだけで、顔を上げなくても、誰がそこに立っているのは明白だった。
「こんな時間に目を覚ますなんて、どうしたんだ?」
穏やかな声色と固い靴音が不協和音を奏でながら近付いてくる。問いかけられたのだから、答えなければならない。そう思うのに、喉から漏れ出てくるのは吐息ばかり。声帯は言葉の発し方を忘れてしまったらしい。そうしているうちに、視界に彼の黒い靴が映りこんできた。
「眠れないのか?」
頭上から降ってくる声は優しい。しかし纏った空気は冷たいままだ。顔を上げられないでいると、彼の腕がこちらに伸びてきた。すると、自分の意思とは関係なく、体が強張った。彼の腕は止まってくれたが、代わりに大きな溜息が聞こえてきた。彼の気を悪くしてしまったのではないかと慌てて顔を上げると、もう一度「眠れないのか?」と尋ねられた。やっとの思いで頷くと、彼の手が頬に添えられた。壊れ物を扱うような手付きなのに、触れられたところから自分の意思を抜き取られるような感覚に陥った。
「素足のままでは冷えるだろう」
そう言われて、自分が両足を投げ出していたことを思い出した。既に冷え切っていて、感覚も乏しいくらいだ。
「あぁ、そうだな」
今度は意味のある言葉を発せられた。のろのろとした動きで両足を毛布に引き込もうとしたが、その途中で、
「なんだ、もう自分で動かせるのか。今度は腱だけ取り除いてみるか」
と彼が言ったのを聞き逃さなかった。声の調子を鑑みるに、新しい調味料を試してみようか、というくらいの何気ない発言だったのだろう。実際、彼にとっては造作もないことだ。
そして、彼ならやりかねない。そんな恐怖に突き動かされて咄嗟に両膝を抱える。すると、彼はまた大袈裟に溜息をついて、
「悲しいな。どうしてそんなに父を怖がることがある?」
と、こちらに一歩踏み込んできた。今度は何をされるのだろう、と両手を組み、体を固くして衝撃に構える。しかし、待てども、身に降りかかるものは無く、時間だけが過ぎていった。重苦しい沈黙に耐え切れず、恐る恐る彼を見上げた。
すると、そこには虚ろな洞穴が広がっていた。真っ赤な眼は凍り付いて、ただこちらを見つめている。それなのに殺気立った気配は強まっており、彼の濃紺の髪の毛が逆立つのではないかと思われた。そして、彼の足元から霜が広がって、室内の温度は降下の一途を辿っていく。
不意にベッドの軋む音が聞こえた。体に伝わってくる振動で、彼が自分の隣に腰を下ろしたことを理解した。両手を組んだ姿勢のまま、そっと抱きしめられると寒気が止まらなくなった。しかし、彼はそんなことお構いなしにこう続けた。
「なぁ、お前はいつまで神に祈るんだ?」
と。もう何度繰り返したか分からない、一方的なやりとりが始まった。
「お前がどれだけ正しい行いをしても、やつは何も返さない」
「理不尽で、不公平で、薄情だ」
「私の方が、お前に多くのものを与えてやれる」
「私の方がお前のことをずっと大事にしているだろう?」
「私はお前に、私を選んでほしい。それだけなんだ」
彼の分厚い手が、自分の両手に重ねられる。こちらを真っすぐに覗き込んできたかと思えば、哀れっぽく目を伏せて逸らしていく。これでは、どちらが被害者なのか分かったものではない。
彼からもたらされたことは沢山ある。まずは、衣食住。それ以外は、痛いこと、怖いこと、恥ずかしいこと、厭らしいこと、酷いことばかりだ。それでいて、「神より私を選べ」なんて縋ってくる。度重なる優しい蹂躙に、感覚はすっかり麻痺させられてしまった。
彼が「神は存在しない」と繰り返し述べていたなら、自分の心は折れていたかもしれない。しかし、そうはならなかった。何より、彼が神の存在を信じている。執着しているといってもいいかもしれない。彼の言葉や考え、感情の端々からそう察せられた。だからこそ、私は自己を保っていられているのだろう。積み重なった恐怖の支配は広がりつつあるが、崩壊は免れている。本当に皮肉なことだ。
野兎のように人畜無害を装った彼に、子どもを寝かし付けるような手付きで押し倒される。腹に触れてくる手は蛇のように冷たく、蛸のように纏わりついて這い上がってきた。
「眠くなるまで、お父様と一緒に遊ぼうか」
彼の醸し出す雰囲気は、庇護に満ちた言葉とは裏腹に、淫靡さすら漂っている。主導権がこちらに委ねられることはない。それなのに、やはり縋られているような気分だった。
諦めて、覆い被さってくる体を見上げると、彼と目が合った。誰よりも、助けを、救いを求めているこの男は、山羊の眼を持っている。
完