半歩踏み出す、そこは未踏の地 初めて入った喫茶店。落ち着いた雰囲気ながらも、改まり過ぎていないところが好感触だ。親しい人との穏やかな時間を約束してくれるような暖かみに満ちている。きっと、提供される品の味わいも素敵なものなのだろうと、自然と思えてしまう。そういう店だ。
そんな場所で自分は何故か、眉間に皺を寄せた髭の紳士と向き合っている。
仕事を終えて帰路についたのが三十分ほど前。特に用事も約束もなく、帰ったら軽く食事を摂って、日本語の勉強をしようと思っていた。何か買い足さなければならないものはないか、頭の中で考えを巡らせながら歩いていると、思い掛けない人物が視界に入ってきた。
吸血鬼としての親に当たる男、ノースディンだ。一人でいるらしい。誰かと待ち合わせをしているのか、何かの用事の途中なのか、その出で立ちから読み取ることは難しかった。しかし、挨拶くらいはしてもいいだろう。そう思って、声を掛けた。
「久しいな。こんなところで見かけるなんて珍しい」
「あぁ、久しぶりだな」
「誰かと待ち合わせか?」
「いや、そういうわけではない」
「そうか」
「あぁ」
楽しい会話ができるとは思っていなかったが、予想以上に広がりを見せることなく終息したやり取りに、若干面食らってしまった。以前にも似たようなやり取りをしたことがある気がする。
やはり、彼からはあまり良く思われていないのだろうか。邪険にされるわけではないが、固く組まれた両腕に真一文字に結ばれた口元、あまりに素っ気ない回答に加え、視線がほとんど合わないところを鑑みるに、おそらくそれが正解なのだろう。
それならば、この場から早く去った方が互いのためだと判断し、「それでは、これで」と片手を挙げた。すると、彼から返ってきたのは意外な反応だった。
彼は音がしそうなほどの勢いでこちらに顔を向けたのだ。口は開かれなかったものの、目は丸く見開かれていた。そうして、やっと彼と視線が合った。それもすぐに逸らされてしまったが、今度は何か言い淀むようにしている。その様は、迷子なのに助けを求められない子供のような、必死だがどうにもならない行き詰まりを感じるように映った。
そう思ってしまえば立ち去ることも出来なくなり、
「何も予定がないなら、少し話をしないか?」
と声を掛けてしまったのが、今回の始まりだった。
そうした流れで現在に至る。今何をしているかといえば、彼と向き合ったまま、注文した飲み物が運ばれてくるまでの時間を持て余している。話しかければ何かしら反応は返ってくるのだが、
「お前はこの街によく来るのか?」
「そうでもないな」
「そうか」
―しばらくの沈黙
「そういえば、最近仕事を始めたんだ」
「ほう?」
「猫カフェというところでな、捨てられた猫の保護をすることもあるんだ」
「そうか」
―しばらくの沈黙
といった状況であり、キャッチボールが続かない。先日、「会話の間に皆が黙っちゃうことを、天使が通るって言うんですよ」と友人から教えてもらったが、この短い時間でどれだけの天使が通り過ぎたか分からない。これから、ミカエルが大軍勢を率いてこないことを願うばかりだ。
彼はといえば、変わらず腕を固く組んでおり、眉間には深い皺が寄せられている。その表情はどうみても不機嫌そのものなのだが、先ほどの反応もあり、無下にするのも躊躇われた。かといって、こちらから一方的にしゃべり倒すのもどうかと思うし、自分はそれほど話し上手ではない。
どうしたものかと内心では首を捻るばかりだ。そうしていると、ふと彼の弟子が言っていたことを思い出した。
「あのヒゲは、他人のことにはズケズケとうるさく口出しする癖に、自分のことはちっとも表に出さないので面倒くさいんですよ。自分の気持ちとかそういうものを素直に口に出したら世界が終わるとでも思ってるのか知りませんがね。それでいて、察してほしい気持ちばっかり強いんだから、本当に手に負えませんよ。まぁ、私は完璧な存在なので、そんなヒゲヒゲにも気を遣ってやれるんですが~」
という、彼から見た師匠に対する見解だ。一緒に生活した時期もある彼の意見だ。これを参考にすれば、現状の打開策を打ち出せるかもしれない。
そうして考えを転換させようと思ったタイミングで、注文の品が運ばれてきた。白くて柔らかい丸みを帯びたポット、同様に白くシンプルな形のカップとソーサー、それから、砂時計。店員が言うには、砂時計の砂が全て落ちたらポットから茶葉を出すように、とのこと。
店員が去ると、その場に再び沈黙が満ちる。彼が口を開く気配はない。それならば、と砂時計を見ながら彼に声を掛けた。
「なぁ、この砂が落ちるまで、いくつか聞きたいことがあるんだが、いいか?」
これに対して彼が無言で首肯を返してきたので、そのまま続けることにした。
「ありがとう。それで、できれば質問に対して、肯定か否定かを明確にしてもらえると助かるんだが、大丈夫か?」
そう伝えると、彼の片眉が上がり、訝しげな視線が向けられた。しかしそこから追及はなく、ため息交じりながらも頷いていたので肯定と受け取ることにした。
「では、最初に。お前にとって、私は疎ましい存在か?」
いきなり聞くには重い質問の気がするが、これを確認しないことには話が詰められないので仕方ない。そう思って尋ねると、彼の肩がぴくっと動いた。そして、不機嫌極まりない目つきで、
「それはない」
と返ってきた。これが確認できたのは大きな成果だ。残りの砂が少なくなってきたので、口早に質問を続けた。
「私と過ごす時間を苦痛に思っているのか?」
「……そういうわけではない」
「今日は何か用があってこの街に来たのか」
「そうだな、もう済んだ」
「勘違いだったらすまないが、私に何か用があったのか?」
「………………分からない」
「そうか、ありがとう」
彼の返答はいずれも苦々しい表情や口調とともに吐き出された。特に、最後の返答は長考の末に、聞き逃してしまいそうな微かな声で絞り出されていた。その様子から、返答に嘘が混じっているとは思えず、彼の律儀さが窺われた。
確認したいことが押さえられたところで、ちょうど砂が落ち切った。ポットから茶葉が入った茶漉しを取り除き、カップに紅茶を注ぐ。
彼を見遣ると、こちらの意図を掴み兼ねているのだろうが、「何が言いたいんだ」とは言いあぐねているようだ。左右に揺れる視線は不機嫌さではなく、困惑を訴えていた。「茶葉を取り出した方が良いんじゃないか」と声を掛けると、少しムッとした表情になりながらもポットに手を伸ばした。その間に、自分の意図を伝えることにした。
「お前から疎まれているのではないかということが気になっていたので、いくつか質問させてもらった。お前が何をしたいのかは分からないが、こういった時間が苦痛ではないなら、時間の許す限り付き合おう。ただ、私は話し上手でも聞き上手でもないし、悪意のない無言は苦にならない方なので、特に話すことがなければ黙っているが、容赦願いたい。お前の方で話したいことがあれば話してくれ。まとまっていなくても構わない。その場合は質問を挟むかもしれないが、聞く気はあると思ってくれ。それに、こちらに聞きたいことがあれば聞いてくれ。私も聞きたいことがあったら尋ねる。それでもいいか?」
捲し立てるつもりはなかったのだが、彼からしたらそうは思えなかっただろう。今度ばかりは、茶漉しを持ったまま唖然としている。気に障ったなら何か言及されるだろうと思っていたが、いつまで待ってもそういった展開は訪れなかった。
代わりに、彼は額に手を当て、盛大な溜息とともに俯いた。行儀の悪いことに机に肘をついている。「お前というやつは…」とか「これだから…」とかいった呟き声が聞こえるが、こちらに言葉として向けられることはなかった。
それから、彼はもう一度大きな溜息を吐いて、紅茶をカップに注いだ。カップを口に運ぶ彼の所作は洗練されていた。しかし、紅茶を口に含んだ時に、眉間に薄く皺が寄ったのに気付いてしまった。それが酷く血の通った仕草に思えてしまい、ついこう尋ねてしまった。
「それ、美味いか?」
と。すると、カップを置いた彼から、初めて返答らしい返答が返ってきたのだ。
「………うちに置いてある茶葉の方が良いものを使っている。………今度、振舞ってやるから来い。猫もいる」
と。眉間に刻まれた深い皺、盛大な溜息、机をトントンと叩く神経質な指先。尊大で傲慢な口振りで、そっぽを向いたにもかかわらず、こちらにちらりと向けられた視線は不安と後悔を湛えている。素直ではなく、どうしようもなく不器用で真面目で、生き辛いことが多そうな男だと思った。
すると、そんな彼の様子に既視感を覚えた。人間だった頃によく向けられた視線だ。それに気づいてしまえば、彼を放っておけなかった理由が少し分かった気がした。そして、彼の弟子の見解も。
今の自分は誰かに赦しを与えられる立場ではないが、自分の思いを口にしたところで世界は崩壊しないのだという実感を得るための手伝いくらいは出来るかもしれない。自分たちには長い時間があるのだから。
「ありがとう。楽しみにしている」
そう答えて、カップを口に運んだ。中身はすっかり適温になっていた。
完