神の手が及ばない貴方(三木視点)
彼は息をするように祈る。
起床と就寝、食事の前後、楽しい時や困った時、驚いた時だってそうだ。何かにつけて、神に祈りを捧げている。
意外だったのは、友人宅の猫を撫でている時だった。ふくふくに膨らんだ背中に掌を当てながら、何か呟いていた。感謝なのか、健康を願っているのかは分からない。
何故内容が分からないのかといえば、彼が口にするのが日本語ではないからだ。いずれにしても “Amen.”と締め括られるので、何か神様に祈っていたんだなと勝手に推測している。
普段は余程のことがなければ日本語を使ってくれる彼が、異なる言語を口にしている。そうであれば、内容を詮索するのは野暮というもの。というわけで、彼が何を神様に伝えようとしているのかはさっぱり分からない。
それでも、彼の祈りを耳にするのは案外好きだったりする。祈っている時の彼の声は、日頃より少し低くて、穏やかな波のように広がっていくのだ。腹に響くような威厳がもたらすのは、威圧ではなく安定であり、とても心地よい。
彼との関係が少し変化してからしばらく経った頃、自分に対しても耳馴染みのない言葉が向けられるようになった。それは、就寝前にもたらされる。相変わらず、内容は分からない。しかし、短い言葉を何か唱えた後、“Amen.”の代わりに、額に口付けが降ってくるのがお決まりだ。
薄くてカサついた彼の唇が額に触れると、不思議と心に明りが灯るような心地がする。まるで、祝福を受けるような、そんな気分だ。この時ばかりは、彼の祈りの本意を掴めないことがもどかしくなる。彼からの祝福を取りこぼしているようで、酷く口惜しくなるのだ。
「祝福を取りこぼしたくない」なんて、随分と欲深いことを考えたものだ。いつから自分はそんな強欲になったのだろう。
隣に彼がいて、
「おやすみなさい」
と声を掛ければ、
「オヤスミナサイ」
と返ってくる。
それだけで、身に余る幸福を得ているはずなのに。
留まることを知らない欲が、重い蓋を持ち上げようとしている。いつまで抑え付けられるのか分からないが、自分にできるのは固く目を閉じることくらいしかないのだ。
(クラージィ視点)
時代のせいか、地域性のせいか分からないが、周囲の人間にとって「祈る」とは馴染みのないことらしい。
しかし、祈りの習慣がないからといって、彼らに信仰というものが全くない、というわけでもないようだ。彼らにとって神とは、そこかしこに宿っているものであり、取り立てて特別扱いするのではなく、日常のなかで息吹を感じるものらしい。
とはいえ、人間だった頃からの習慣もあり、自分にとって祈りとは、勝手に口を突いて出てしまうようなものだ。日用の糧への感謝、今日一日の振り返り、明日を迎えるための祈願、などなど。
吸血鬼となった今、祈りを捧げたとして、主の下に届くのかは分からない。しかし、届かないから祈らなくてもいい、とは思えなかった。
というわけで、祈りの習慣は続いている。ただし、こればかりは日本語で行うのが難しく、馴染みの言葉を用いることで事無きを得ていた。
すると、当然だが、周囲には自分の祈りの内容が伝わらない。これが気持ちを緩ませたのかもしれない。主への感謝だけではなく、大切な人達の健やかな生活や幸福といったものへの願いも口にするようになってしまったのだ。
心優しい友人の健康な長寿、友人宅の猫の健やかな成長、心穏やかな時間の継続。手放しがたく、かけがえのないものだ。
そしてもう一つ。特別な関係となった彼について。彼は昼夜を問わず、身を粉にして働いている。詳しい事情は知らないが、彼の家族のために必要なことらしいのだ。家族のためとはいえ、休みなしにいくつもの仕事を掛け持つなんて、そうそう出来たことではない。
にもかかわらず、彼はいつでも飄々としている。人の幸せのために身を費やしているのに、自分の幸せには無頓着で、いつでも一歩距離を取っているようだった。
彼だって幸せになるべきなのに。そう思うのは、きっと自分の我儘なのだと思う。しかし、認識してしまった思いが消失するわけもなく、せめて彼に伝えるだけでもしたかった。
そんな折に思いついたのが、自分の祈りの習慣だった。就寝前の祈りを終えてから、彼への思いを口にしてみたところ、彼は祈りの延長か何かと受け止めてくれたらしい。厭われずに済んでしまった。そうして、味を占めた自分は、折に触れて彼への願いを口にしている。
隣にいる彼は、今日も目の下に濃い隈を拵えている。「そろそろ寝ましょうか」という声掛けに頷き、就寝前の祈りを捧げる。それから、彼に向かい合う。
『愛しい人。この世のすべての幸いが、汝に降り注がんことを願う。幸福が汝の下を訪れる時、汝の心によって許されよ』
主の下に送る祈りではないため、結びの言葉は用いない。その代わりに、切に願いながら彼の額に口付ける。
『これは、貴方のための、貴方のためだけの祈りです』
完