隠蔽上手の狼さん 彼はとても背が高い。話す時には、その大きな背を屈めてくれる。
彼はとても歩くのが早い。一緒に出掛ける時は、歩幅を合わせてゆっくり歩いてくれる。
彼の話す言葉はとても易しい。難しい言葉も丁寧に噛み砕いて説明してくれる。
親切で、面倒見の良い、気さくな人。それは、関係性が「ご近所さん」から変わっても、変わらない印象だった。
それが、どうして、こうなったのだろう。
今、目の前にいるのは、同じ人物なのだろうか。
ぎらりと鋭い視線を向けられて、声が出せないまま、そんなことを思った。
今日は、彼の部屋にお邪魔していた。足を運んだ回数は既に両手で足りないほどになっており、すっかり見慣れたリビングで、のんびりお茶を飲んでいた。
仕事の話、日本語の話、休日の過ごし方の話、いずれも他愛のないことばかりだ。しかし、これが彼と過ごす時間の常だった。
この雰囲気を変えてしまった始点はいつだったのか、今となっては分からない。しかし、自分の発言が起爆剤になったことは確かだ。
「コノ前、同僚ノ人カラ言ワレマシタ。彼氏サン我慢シテル、ジャナイカト。デモ、私、コンナ身体ナノデ、三木サンから見タラ、魅力?ナイ、思ウ、シマシタ」
そう。自分の身体にはいくつも傷跡がある。小さいものから大きなものまで、手足にとどまらず、胴体や背中にも跡が残っている。体付きをとったところで、肉感的とは言い難い。
思い返してみれば、彼と過ごす時間の中で色っぽい雰囲気になったこともなかった。なので、彼はそういったことを重視していないのだと思っていた。だから、自分と恋仲でいられるのだろうと。
しかし、これを伝えたところ、彼の表情と動きが固まったのだ。それから、低い声で何か言っていた。内容は分からなかった。いつもよりも早口で、かつ、難しい言葉を使って長々と話すものだから、何を言っているのか殆ど理解できなかったのだ。ただ、彼の纏う雰囲気が険しくなったことだけは感じられた。
いつもと違う彼の様子に困惑していると、彼がじりじりとこちらに距離を詰めてきた。気付けば、壁を背に追い込まれてしまった。
膝立ちになっても高い上背は、正面に立たれると影が差すのだと知った。
長く逞しい両腕に囲まれると、逃げ場がなくなるのだと知った。
大きな掌に力を込められると、自分の両手は全く無力になってしまうのだと知った。
こちらを射抜かんばかりに見つめてくる彼の両目に、欲が宿ることがあるなんて、知らなかった。
「身体目当てとか思われたくなかったし、そういう年でもないし、っていうことだったんですけど、まさかそんな風に思われていたとは心外ですね」
両手は壁に縫い付けられたままだが、彼の言葉がやっと聞き取れた。こちらが分かるくらいの速度と言葉を選んでくれたのだろう。だからといって、会話を成立させられるような雰囲気ではなかったが。
すっぽりと覆われてしまった掌はそのままに、指をなぞられる。彼の長くて武骨な指が纏わりついてくるもどかしさに、短い爪が指の股を引っ掻くじれったさに頭がおかしくなりそうになる。強く頭を振ってしまえば、彼を拒否することも、浮かんできたはしたない考えを追いやることもできるのかもしれない。しかし、彼の欲を孕んだ両目から目を逸らすことは許されず、身体を小さく震わせることしかできなかった。
じっと見つめられたまま、どれだけ時間が経ったのだろう。ふと、掌に押し付けられていた力が緩んだ。やっと許された。そう思った次の瞬間、彼の口が弧を描いた。
全く目が笑っていない、準備を整えた捕食者がそこにいた。
食われる、と思ったが、時すでに遅し。
目の前が真っ暗になり、息が出来なくなっていた。
完