刻みネギ入り玉子粥 昆布と梅干を添えて 「今日の集まりはパスさせてもらいますね。埋め合わせはまた今度」
ガタガタ震える手で辛うじてメッセージを送信した。
時刻は午後二時半。本来ならば労働に精を出している時間だ。それが何故自宅のベッドで横たわっているのかと言えば、体調不良だからである。
前日から体調に違和感があった。しかし、現場に穴を開けるわけにはいかないとの思いから、体調不良を押して出勤した。どうにか誤魔化せると思っていたのだ。しかし、付き合いの長い責任者には通じず、あまつさえ、「吸血鬼よりも顔色が悪い人間を働かせるわけにはいかない」と帰宅命令を出されてしまった。一度は食い下がったのだが、「体調が万全になったらまた頼むからさ」と肩を叩かれてしまえば、それ以上は何も言えなかった。
それから赴いた病院では、医者から「過労、季節の変わり目の風邪」とだけ言われ、会計ではペラペラの処方箋を渡された。小さなビニール袋を手に薬局を後にした時には、「待ち時間と診察時間の比率おかしくね?」と現実逃避染みたことを考えていた。そんなどうでもいいことを考えていなければ、その場に座り込んでしまいそうだった。
何もかもが重い身体を引き摺りながら、自宅に転がり込んだ。上着を適当に脱ぎ捨てて、カーテンを閉め切った。そうして、ベッドに体を投げ出したところで、仕事以外に予定があったことを思い出した。
「鶏の丸焼きを作りませんか?」
そんな心躍るようなお誘いがあったのは数日前だ。巨大料理が好きな眼鏡の彼と、健啖家の癖毛の彼。それぞれに予定を遣り繰りして、本日決行というところまで漕ぎ付けたのに、この体調では参加を見送るしかなさそうだ。
口惜しい気持ちを抑え込んで、簡単なメッセージだけを送った。返信を見てしまったら余計に悲しくなりそうなので、スマホはさっさと伏せて、布団を手繰り寄せた。目を閉じると節々の痛さが一層強く感じられたが、それも長くは続かなかった。まるでスイッチを切られたかのように、ぷつりと意識が途切れてしまった。
―ピンポーン
インターホンの音で意識が浮上した。どれくらい寝ていたのか分からないが、体調は悪化の一途を辿っているようだ。体を起こす気力も湧いてこない。誰が訪ねてくるわけでもあるまいし、と無視を決め込んだが、インターホンの音は再度鳴り響いた。
溜息よりも先に舌打ちが出たが、体を起こせば視界が揺らいだ。ずきずきと痛む頭を抱えながら、予期せぬ訪問者の姿を確認しに行く。「不審者だったとしても、殴る気力もねぇよ」と内心で毒突きながらモニターを覗き込めば、そこに映っていたのは見知った姿だった。
「吉田さん?!」
足を縺れさせながらも慌ててドアを開けると、そこには背広姿の彼がお盆を持って立っていた。
「あぁ、良かった。連絡しても全然繋がらないから心配で」
そう言ってへにゃりと笑った彼は、どことなく息を切らせていた。それに、なんで仕事着のままなのだろうと思っていると彼は、
「とりあえず、お邪魔しても大丈夫な感じですか?」
と、器用にお盆を抱えながら、意外と重たいドアに手を掛けた。口調はいつもと変わらないのに、どことなく断れない圧力を感じてしまった。体を横にずらして彼を招き入れると、「どうも、お邪魔します」なんて間延びした声がして、調子が狂う。
ひとまずリビングまで案内すると、彼は持参していた盆をテーブルに置いた。そして、じっとこちらを見つめてくる。余りの居たたまれなさに、
「あの…吉田さん…?」
と声を掛ける。すると彼からは、
「三木さん、熱はどのくらいあります?」
溜息と厳しい声が返ってきた。視線も心なしか鋭い。温厚な彼からそんな雰囲気を感じるのは初めてで、問い掛けには正直に答えないといけないような気がしてしまった。
「病院では、三十八度五分でした」
「それから上がってそうですね。お薬は?」
「ちゃんと貰いましたよ」
「なるほど、飲んでないんですね」
思わず目を逸らすと、再び溜息が聞こえてきた。何がそれほど、彼の機嫌を損ねているのか分からない。立っているのもやっとの状態で、どうしたものかと考えていると、眼鏡の彼が口を開いた。
「辛いところに色々聞いちゃってすみませんね。空きっ腹でお薬を飲むのは良くないので、何かお腹に入れてほしいんですが、お粥なら食べられそうです?」
先程までの厳しい雰囲気は引っ込んでおり、いつもどおりの穏やかな彼だった。彼の手元に目を向けると、小さな土鍋、冷凍ご飯、その他細々したものが盆に乗せられていた。正直なところ食欲は全くなかったが、
「ちょっとだけでもいいので。それか、他のものが良ければ用意しますよ」
と言われてしまえば、頭は既にパンク状態で、
「いえ、お粥で十分です、すみません」
と曖昧に返すのがやっとだった。
「コンロだけ、ちょっと借りますね」
そう言って、眼鏡の彼は台所に向かった。自分はといえば、「出来たら運ぶので、お布団に入っててください。あ、温かい格好に着替えてからですよ」という彼の言葉に素直に従って、着替えた後に布団で丸まっている。目を閉じても、薄く絞った灯りを眩しく感じる。横になっているのに、自分の頭がどこを向いているのか分からなくなるような、気持ちの悪い浮遊感に吐き気が増していく。唸ったところで何も解決しないのに、口からは勝手に声が漏れていく。
そうしている間に、眼鏡の彼が顔を覗かせた。
「ちょっと、こっちから動かしますね」
と言って、リビングから椅子を運び込んできた。それから、先ほどの盆に土鍋を乗せて戻ってきた。
サイドチェストに置かれたそれは、ほかほかと湯気を立ち上らせていた。黄色いところを見るに、玉子粥なのだろう。柔らかく煮られた刻みネギの彩りが目を引いた。そして、小皿には昆布と梅干。
「食べられるだけでいいですからね」
そう言って、中身が少しだけ盛られた茶碗と蓮華を差し出されると、情緒がぐちゃっと音を立てて崩れていくのが分かった。
―どうしてこんなに良くしてくれるんだろう
今日の自分はと言えば、体調管理が出来ていなかったせいで現場に穴を開け、楽しみにしていた予定にだって水を差してしまったのだ。
「吉田さん、色々迷惑かけちゃってすみません。この年で体調管理もちゃんと出来てなくて、仕事も穴開けちゃったし、しっかりしろって話ですよね。今まで仕事で怪我したことはあっても、こんな季節の変わり目の風邪なんて引いたことなかったし、年取ったってことなんですかね。仕事絞らないと、体が持たなくなるのかなとか思うと、本当に気が滅入るなぁ。これで仕事の質まで下げちゃったら、どうしましょうね。いい笑い物ですよ」
一度口を突けば言葉は止まらなかった。こんなことを言ったって、相手を困らせるだけだ。しかし、口を閉じなければ、と思えば思うほど、口は滑らかに動いた。
カチャン、と陶器が何かに触れる音がしたかと思えば、背中に軽く触れるものがあった。優しく擦られれば、じんわりと温かさが広がっていくのが分かった。彼の手だ。「もういいよ」と言うように、彼の手がゆっくりと背中を撫でてくれた。
そうしてやっと口を閉じられたが、驚きと困惑は残っていた。恐る恐る彼の方を見ると、ぽんぽんと背中を叩かれた。そして、
「僕は笑いませんよ」
とだけ彼は言った。
それは、慰めでも励ましでもなかった。気休めのための言葉でもなかった。
それでも、心にすとんと落ちてきて、荒波を凪に変えてしまったのだった。
しかし、これから、彼にどう返すべきなのだろう。
「気を遣わせちゃって、すみません」
「ありがとうございます。嬉しいです」
「いやー、うっかり弱音が出ちゃいました。聞かなかったことにしてくださいね」
頭のなかではぐるぐると、そんな言葉が巡っている。しかし、口を突いて出るものは何もなかった。
ただひたすらに、込み上げてきたのは涙だった。
声もなく、ぼたぼたと涙を零す自分の背中を、彼は何も言わずにずっと擦ってくれた。
どれほどの時間そうしていたのか分からないが、気持ちが落ち着いた頃にはスウェットの首回りは涙でびしょびしょに濡れてしまっていた。擦らなかったおかげで目が腫れることはなかったが、視界はずっとぼやけている。元から詰まり気味だった鼻はすっかり機能しなくなり、口で呼吸するしかない始末だ。
そして、頭が冷静になり始めると、今度は一気に羞恥心やら気まずさやらが押し寄せてきた。子どもの頃だって、人前でこんなに泣いたことはなかった。
「吉田さん、あの、本当に見苦しいところをお見せして、申し訳ないです」
涙声交じりに辛うじて謝罪を絞り出すと、眼鏡の彼は、
「熱がある時は不安になっちゃいますよね」
と背中をポンと叩いた。そうして温かさが離れていったのを寂しく思ったが、当の彼は、
「お粥、食べられそうですか?温め直します?」
となんでもないように笑っていた。
それから、薄味の玉子粥を口に運んでいると、癖毛の彼が血相を変えて部屋に飛び込んできた。その慌てようは彼の母語が先立つほどで、眼鏡の彼に宥められていた。
そして、しばらくして落ち着きを取り戻した彼からは、ちょっとしたお説教を食らうことになった。
「ミキサン、私、ヨシダサンから、ミキサン具合悪イ、聞イテ、驚キマシタ」」
「ご心配おかけしましたね」
「体調悪クナル、仕方ナイデス。デモ、隠ス、駄目デス。私モ、ヨシダサンも悲シイ」
「もうしませんよ」
「約束デスヨ」
「はい」
彼にじっと見つめられては誤魔化す気も起きず、素直に反省することにした。それに、実際に彼らにこれほどの行動を起こされてしまっては、同じことをしようとは思えなかった。その気持ちが伝わったのか、彼はそれ以上何も言わなかった。
結局、癖毛の彼に見守られながら、玉子粥を完食した。体の節々は変わらず痛んでいたが、気持ちが上向きになった分、随分息がしやすくなっていた。なので、「風邪引いた時に食べる梅干って妙に美味しいよな」と眼鏡の彼に感謝しながら食器を片付けようとしたのだが、制止されてしまった。静かに首を横に振った彼から、
「私、運ブシマス。ミキサンは寝テテクダサイ」
と言われたので素直に託すことにした。この時に、盆を運ぶ彼の視線が、やたらと一点に注がれているような気がしたが、それは間違っていなかったらしい。
「ヨシダサン、コレ、ナンデスカ?」
「え?ああ、梅干の種ですよ。そっか、クラさんは梅干食べたことなかったか」
「ハイ、ドンナ食ベ物デスカ?」
「そうですね、食べてみた方が早いかな。冷凍ご飯はまだ余ってるし、僕たちの夕飯もお粥にしちゃいましょうか」
「イイデスネ!」
ドア越しに聞こえてくる会話に思わず笑みが零れた。当初の予定とは異なるが、それはそれでいいらしい。
とはいえ、今回の件はどう埋め合わせたものかと考えていると、二人が戻ってきた。眼鏡の彼が手にしている、すっかり馴染みとなってしまった盆には、コップと処方薬が乗せられていた。
「三木さん、薬飲んでくださいね。それと、もし、寝られそうだったら退散しようと思うんですけど、どうです?」
「うーん、今すぐって感じではないですね。起きてる気力はないですけど…」
「じゃあ、僕、一回うちに戻りますね。その間はクラさんにいてもらうので、何かあったらすぐ呼んでください」
「はい、ありがとうございます」
自分が薬を飲んだのを見届けると、彼は自宅に戻っていった。去り際には「お布団は首まで掛けるんですよ」なんてことまで言われてしまった。少し離れたところに座って穏やかな表情をしている癖毛の彼といい、なんだか二人掛かりで子ども扱いをされているようで面映ゆい。
「ねぇ、クラさん。今日の予定駄目にしちゃって、すみませんでした」
灯りを落とした室内で、無言でいるのはなんとなく勿体ない気がして、彼に話しかけた。静かに寝てなさいなんて叱られるかと思いきや、彼は話に応じてくれた。
「イエ、ミキサンの体調ガ優先デス。ソレニ、風邪ノ時、チキンスープが良イ、聞キマシタ。ヨシダサン、作ッテクレルと思イマス」
「ははっ、馬鹿でかいやつにならないといいけど」
「ソウナッテモ、沢山食ベテ、元気ニナッテクダサイ」
「気持ちは嬉しいんですけどねー。それにしても、なんで巨大化させるんでしょうね」
そんな他愛もない会話をしていると、玄関のドアが開く音がした。眼鏡の彼が戻ってきたようだ。廊下をそっと歩く足音がしたかと思えば、部屋に僅かに光が差し込んできた。それに応じて癖毛の彼は、
「チョット、失礼シマスネ」
と立ち上がった。そしてそのまま去ってしまうのかと思いきや、額に彼の手が当てられた。その掌は、熱のせいか、とても冷たくて心地よく感じた。
「良イ眠リヲ」
そう言って、彼は部屋から出ていった。
耳をすませば、食器の擦れ合う音、抑えた話し声が聞こえてくる。非日常的な生活音は、寂しさを感じさせず、安堵をもたらしてくれた。彼らは何の話をしているのだろうか、元気になったら自分も一緒に話をしたい。そんなことを思っているうちに、体がゆっくりと沈み込んでいく心地がした。
次に目が覚めたら、体から痛みはなくなっている。そんな気がした。
完