メロディ 地平線に沈む夕日があまりにも綺麗で、ふたりとも言葉が見つからず、無言で見つめていた。
いや、違う。
横で巌勝のすすり泣く声が聞こえる。
だが、自分たちの答えはこれしかなかったのだ。
それは一年前の夏だった。
子供が通う幼稚園の保護者で集まり、河川敷の公園でバーベキューをすることになった。
「るなちゃんの一番の仲良しの子と一緒のグループでバーベキューなんです」
妻の麗が嬉しそうに語る。その母親と麗も仲が良いらしく、予定を空けるように言ってきた。
「仲良しって、そいつは男だろう? るな、あまり仲良くしてはいけないよ」
「まぁ、月彦さんったら、もうそんな心配をしているの?」
「だって、るなは可愛いから……」
娘のるなを抱き上げると、るなは「お父さんが一番好き」と抱きついてくれる。
美しく、よく出来た妻と可愛い娘。仕事も軌道に乗り、順風満帆の幸せな人生だと思っていた。
日曜日、河川敷の公園に集まる。
有名私学の幼稚園の為、保護者は会社経営、医師、弁護士、パイロットなど錚々たる職業の集まりで、挨拶は名刺交換から始まった。
母親同士の微妙な派閥もあるようで、その辺りを配慮したグループ分けになっていると、こっそり麗が話してくれた。
「こっちよ、継国さん」
麗が手を振ると、背の高い男性と楚々とした大人しい女性がこちらに向かって頭を下げた。
「初めまして、鬼舞辻です」
手を差し出すと、父親の方は一瞬握手をすることに躊躇ったように見えた。
「すみません。うちの主人、人見知りで」
「いえ、こちらこそすみません。つい、癖で……」
奥さんのフォローですまなさそうに頭を下げる姿に、かなり控えめな人だなと感じた。
「継国です、宜しくお願いします」
「よろしく。あ、麗さん、そろそろ火を起こす用意をしても良いですか?」
「そうですね、では私たちは食材を用意しますね。しっかり火を着けて下さいよ、月彦さん」
並んで笑っていると、彼が不思議そうに自分を見ていた。
「……どうかしましたか?」
「仲、良いんですね」
知り合ってすぐに、そんな話を振られたので面食らっていると、彼はおどおどとした様子で話す。
「名前で呼び合っていたので……」
「あぁ」
その指摘は何度も受けたことがある。お互いに一度も「お父さん」「お母さん」と呼び合ったことがなかったので、他の保護者から見た時に不思議な感じがするようだ。
恋人気分が抜けていないとからかわれることも多かったので、いつも通りの返答を笑顔でした。
「付き合っている頃からの癖が抜けなくて。今更違う呼び方をすることも照れ臭くて」
その答えを聞き、初めて彼は笑った。
「素敵ですね、そういうの」
「そうですか? まぁ、ミスキャンだった彼女を必死に口説いたので、そんな彼女が自分の奥さんだって、未だにちょっと誇らしいんですよ」
「へぇ……」
それから会話は続かなかったが、気になってしまい彼らがどう呼び合っているのか見ていたら「あなた」と妻側が呼ぶだけで、彼は一度も自分から妻に声を掛ける場面はなかった。
物静かな夫婦だったので、つい、会話の弾む相手とばかり話していたが、どうしても彼が気になって仕方ない。時々、視線を向けると必ず目が合うのだ。
「何か気に障るようなことをしたかな?」
こっそり妻の麗に尋ねると、「大丈夫だと思いますよ」と笑顔で返された。
「継国さん、飲んでますか?」
冷えたビールの缶を持って彼の隣に座ると、軽く頭を下げて彼はビールを受け取った。
「あの、鬼舞辻さん、覚えていませんか?」
「何ですか?」
「俺、鬼舞辻さんの大学の後輩なんです」
「本当ですか?」
やっと共通の話題が出来たと思い、色々話しかけてみると、どうやら自分の2年後輩だったようで、急に親近感が湧いた。
「さっきミスキャンの話が出て、確か奥さんも見覚えがあるなと思って……鬼舞辻さんも同じ年のミスターキャンパスでしたよね?」
「えぇ、まぁ……」
「お似合いのカップルだって有名でしたもんね」
彼の話をきっかけに周りにがやがやと人が集まってきた。自慢話はやっかみの対象になるから、と麗は一切話していなかったようだが、自分たちは大学時代のコンテスト優勝者同士のカップルだと周囲に知られ、麗は居心地悪そうにしていた。質問攻めに遭い、彼と話すチャンスがないまま、お開きの時間になった。
「継国さん、今度二人で飲みに行きませんか? まさか、ここでこんな縁があるとは思わなかったので」
スマホを取り出し連絡先を交換しようとすると、彼は口許に笑みを浮かべ、少し頬を染めていた。その反応に妙にどきっとしてしまうが、酔っているからかな、と、その時は深く考えなかった。
それから、すぐに彼から連絡が来て、二人で飲みに行くことになった。
初対面の時は緊張していただけのようで、話すと気さくな気の良い男だった。大学時代の思い出話だけでなく、映画や本の趣味が合い、ダーツやビリヤード、休日にテニスやゴルフに行ったこともあった。
互いに砕けた話し方をするようになり、冗談で「巌勝」と下の名前で呼ぶと、彼は顔を真っ赤にした。
「ごめん、嫌だった?」
顔を覗き込むと、ぷるぷると顔を横に振る。
「なんか嬉しくて……鬼舞辻さんにそう呼んでもらえるのが……」
「えー! じゃあ、こっちも月彦でいいよ」
そう言って笑うと、彼はもっと赤くなった。顔から湯気が出るのではないかと思うほどに赤くなっている彼は俯いたまま静かに呟いた。
「……好きです……」
「え?」
突然の告白に頭が真っ白になった。
「巌勝、飲みすぎたのか? そんな冗談……」
「冗談じゃないです。大学時代から、ずっと月彦さんに憧れてました」
入園式で自分の姿を見た時に運命だと思ったと話す。そして、理由も言わず、妻に麗と仲良くなるよう頼んだのだと言う。
「妻とはお見合いで、好きとか特別な感情はなく一緒になりました。息子にも恵まれて、このまま静かに自分の人生は過ぎていくのだと思っていましたが、やはり貴方を見ると、気持ちが抑えられなかった」
淡々と語る彼にどう言葉を掛けて良いか解らず黙っていると、彼は席を立った。
「気持ち悪いですよね。すみません、忘れて下さい。もう二度と連絡しないので」
伝票を持って立ち去ろうとするので、思わず腕を掴んだ。
目を見開いてこちらを見る巌勝に何も言えず、ただ無言で見つめ合っていた。
「えっと……」
言い淀んでいると、巌勝はそっと手を振りほどいた。
「このまま友達でいるのはつらいので、ここで終わりにして下さい」
そういう彼の腕をもう一度掴んでしまった。
気持ちの整理がつかないが、どうしても彼の手を離せなかった。
これが間違いだったのか、正解だったのか、今となっては解らない。
それから月に2回、金曜日の夜にホテルで会うようになった。
バレないように別々で部屋を借り、巌勝がこちらの部屋に来た。
互いに子供の小学校受験や仕事の忙しさに追われながらも、二人で過ごす時間は絶対に確保した。理由も解らないまま体の関係を持ってしまったが、そこから急激に巌勝にのめり込んでいる自分がいることに気付いた。
恋人のようにクリスマスや年末年始は会うことが出来ない。麗や娘のるなとクリスマスを過ごしながら、頭の中は巌勝のことでいっぱいだった。
彼の声、肌、熱、匂い、全てを恋しいと感じていた。
娘が有名女子校の小学校に合格したので、巌勝の息子とは別々の学校になった。
3月、卒園式で顔を合わせた時、お互いに子供たちの保護者、仲の良い父親同士として接することが出来ていると思っていた。
他の園児たちと並び、こちらに手を振る娘の姿を見ながら、隣にいた麗がぽつりと呟いた。
「月彦さん」
「どうしました?」
「……どこにも行かないで下さいね」
それ以上、麗は何も言わなかったが、気付いていると確信した。
別に妻子を捨てるつもりはなかった。これまで浮気というものを一度もしたことがないと言えば嘘になる。その時も家庭を壊すつもりはなく、きっと麗も見て見ぬふりをしてくれていたのだろう。
しかし、今回、巌勝に対して、そんな遊びだと割り切った感情を持てなかった。だが、家庭を捨てられるか、そう訊かれたら、はっきりと答えは出せなかった。
自分は上手に隠せている、だから問題ないと妻子にも巌勝にも男のずるさを押し付けていたのだと痛感した。
気持ちの整理がつけられないまま、仕事が忙しいと嘘を吐き、巌勝と会うことを避けた。
そうして春が過ぎ、二度目の夏が来た。
避け続けているうちに巌勝からの連絡も途切れていたが、ある日、1日だけ自分の為に時間を作って欲しいと言われた。
「1日が難しいなら半日でも良いんです。何もかも忘れて、二人きりで過ごしたいんです」
その申し出が何を意味しているか解っていたので、麗には出張だと嘘をついて、二人で会うことにした。
初めて同室に泊まることにして、部屋に入った瞬間、シャワーも浴びずにベッドに巌勝を押し倒した。
シーツが擦れる音、互いの素肌が触れ合う音、そしてくちづけの甘い音色。
それは永遠に忘れることのできない二人だけの秘密のメロディ。
会えない間も一度も忘れたことのない、愛しい巌勝の気配だった。
言葉は何も交わさず、ほぼ無言で互いの体を貪り合い、疲れ果てて眠ってしまった。
昼頃チェックアウトをして、ぶらぶらと歩いていると、偶然、初めて出会った河川敷の公園に辿り着いた。
答えを先延ばしにするかのように互いに無言を貫いていたが、先に口を開いたのは巌勝だった。
「俺、貴方との思い出は良いことばかりだなって思うんですよ」
「私もだ」
出会った時から気になる存在で、彼と過ごした日々は楽しい思い出しかなかった。きっと、これからも良い関係でいられると思う。それは「互いに独身であれば」の話だ。
同性なので何とでも誤魔化しが利く。二人で口裏を合わせて「友達だ」と言い張れば、妻たちの追及は逃れられると思う。
しかし、それをしてしまえば、自分たちの良い思い出が穢される気がした。それは巌勝も同じ気持ちだったのだろう。
「出会えたこと、後悔していません。だから、俺は永遠に貴方を最後の恋人だと思っていたいんです」
地平線に沈む夕日が真っ赤に景色を染め上げる。その美しさに目を細めていると、横にいる巌勝が肩を震わせていた。
本当なら泣かないで、と涙を拭ってやることも許されない関係なのだ。でも、お互いにとって、最後の恋人は彼だと思って生きていくのだろう。
こちらが何を言うのか巌勝は解っている。これ以上、裏切りを重ね、家族を傷付け、互いを傷つけ合う日が来ることは避けたい。なので、この答えしかないのだ。
「別れよう」