転生後記憶なし無惨様✕記憶あり黒死牟 終業時刻のチャイムが鳴る。巌勝は退勤の打刻を済ませ、パソコンの電源を落とした。
「お疲れ」
巌勝の声掛けに全員が「お疲れ様でした」と挨拶する。ただひとり、社長の月彦を除いては。
「社長、キリの良いところで……」
「あぁ、解っている。先に帰ってくれ」
「畏まりました。お先に失礼します」
巌勝は頭を下げる。貴重な週末の定時。ハメを外して遊びたいと皆が浮き足立っているのに、ボスが一番働き者なので困る……と誰もが帰りにくそうにしているので、巌勝がこう言って事務所を出てくれると他のスタッフも続いて出やすいのだ。
土日が休みの為、本当はもう少し一緒にいたかったのだが……と巌勝は思うが、月彦の側近として他のスタッフへの気配りをするのは自分の役目だと思っていた。
夏が近付き、午後5時だと空はまだまだ明るい。少しずつ空気が生温い湿り気を帯びてくる時期。このじっとりと肌にまとわりつくような湿気が強くなる2年前の今頃だった。
仕事帰り、立ち寄ったコンビニで何気無く手に取った雑誌を立ち読みしていると特集ページに月彦がいた。従業員数は少ないものの急成長している会社らしく、注目のイケメン社長として人気だそうだ。
巌勝はそのページから目が離せなかった。
一目でそれが「鬼舞辻無惨」であると解った。名前も表情も無惨とは違うが、この男は確かに鬼舞辻無惨だ。鬼の始祖である無惨が自分と同じ時代に、同じ国に、こうしてあの頃と変わらない姿で転生しているとは思わず、その姿を見ただけで胸が熱くなった。
雑誌を買い、走ってマンションへ戻った。パソコンで月彦の会社を検索し、隅々まで目を通し、彼の言葉を胸に刻み付けた。
巌勝には前世の記憶があり、数百年にも及ぶ鬼の記憶を抱えたまま生きていた。
別にそれを罰とも思わなかったし、困ることもさほどなかった。子供の頃に前世の話をポツポツと話すことがあったが、子供の作り話として誰も相手にしなかった。大人になるにつれ、本当にただの妄想だったのかもしれないと思っていたが、無惨を見つけたのだ。無惨をこうして見つけたことで、これは神の思し召しかと初めて神に感謝した。
運良く月彦の秘書が募集中であることを知り、仕事を辞め、すぐに応募した。書類選考を通過し、一次面接の時点で仕事を辞めて面接に挑んだことを驚かれたが、絶対にこの会社で働きたい思いを切々と語った。熱狂的な月彦信者だと思われたようで選考は揉めたようだが、自分は上弦の壱だという誇りを胸に挑んだ。
そして最終面接でやっと社長である月彦に会うことになった。
扉を開けるまで緊張で胸が張り裂けそうだった。大正の世で別れてから、百有余年。二度と巡り合うことはないと思っていた最愛の相手である。その姿を見て涙が出そうになった。喉の奥を締め付けるような緊張感の中、恋い焦がれたその名を呼ぼうとした瞬間、彼は笑顔でこちらに話しかけた。
「初めまして、継国さん」
頭が真っ白になった。
そういうことか……燃え盛る炎に冷水を掛けたように、巌勝の感動は静かに冷めていく。
やはり神は自分たちを許していなかった。
月彦の秘書として採用されてから、巌勝は何度も月彦に前世の記憶がないか探っていたが、やはり何もなく、ただの人間として転生したようだ。
接しているうちに無惨の片鱗は感じるものの、それは見た目や声が無惨と同じなだけであって、性格は無惨とは少し違っていた。
それもそうだろう。月彦は病に苦しむこともなく、日光の下を当たり前に歩き、好きなだけ学び、好きなだけ遊び、好きなだけ食べ、好きなだけ寝る、人生を謳歌している男だった。
毎日眩しいほどの笑顔を自分に向けてくるので、あの頃、無惨が望んだ日々は、こういったものだったのかもしれない、と青い彼岸花をひたすら探し続けていた彼の後ろ姿を思い出すと目頭が熱くなる。
「どうした、継国」
「いえ、何でも……」
自分を「黒死牟」ではなく「継国」と呼ぶ声にも少しずつ慣れ始めた。
だが、あの声で「黒死牟」と呼んでもらえたら、どれだけ幸せだっただろうか。毎晩、そんなことを考え、明日の朝、そうなることを夢見ていた。
しかし、それはただの夢だということに日々落胆しながら2年の月日が流れた。
うっかり「無惨様」と呼びそうになっていたこともなくなり、自然と「社長」と呼べるようになっていた。
その理由のひとつが、月彦は月彦で魅力的な男性であることは確かなので、無惨と違う存在として惹かれている自分がいた。
鬼ではない無惨は、きっとこういう人物だったのだろうと思う。キラキラとした太陽のような笑顔を向けられると、胸がキュンッときめいて、あの物静かで美しく寂しげな横顔を徐々に忘れていきそうになる。
だが、月彦の隣には、いつも違う女性がいた。
相変わらず、よくモテる。魅力的な容姿に経済力、世の女性が放っておくはずがない。そんな倍率が高い難関校のような月彦の恋人の座、自分にチャンスが巡ってくることなど絶対にないだろうと諦めつつも、側近である役得感を楽しんでいた。
今日は仕方なく先に帰ったが、普段は用事がなくても、こっそり2人きりで残ったり、静かに月彦の横顔を見つめたり出来るのだ。
今日も社長はカッコ良かったなぁ……と思い出し笑いをしながら、ぶらぶらと駅までの道を歩いているとスマホが震えた。
「はい、継国です」
「私だ。未だ近くにいるか?」
「はい」
月彦に呼ばれ事務所に戻ると、取引先から届いたメールの予定を確認したかったという理由だった。
「この日は……そうですね、14時でしたら空いていますよ」
「そうか、なら返事しておいてくれ」
「はい」
タブレットで予定を確認しながら相手先への返信を書く。その時、ふと思った。問い合わせ内容としては別に月曜に出勤してからでも大丈夫なのに、どうして急ぎで自分のことを呼び戻したのか。
しかも、巌勝のタブレットと無惨のスマホは同期にしているので、無惨も予定を確認しながら巌勝と電話で話せば済んだ話だ。
何故、わざわざ……と巌勝は疑問に思いながら「送信しておきました」と作業終了を伝える。
「そうか、終業後に悪かったな」
「いえ」
席を立とうとすると月彦に呼び止められる。
「あ、あのさ……」
「はい」
「業務時間外に呼び出したお詫びというか……今から一緒に飯でも行かないか? ほら、明日、休みだし……」
緊張など母親の腹に忘れてきたレベルで無縁の男が、頬を赤く染め、歯切れ悪く巌勝を誘っている。巌勝は一瞬期待するが、違う、勘違いするな、と必死に自分に言い聞かせている。
だが、断る理由もないので、巌勝はおどおどと「はい……」と答える。
その返事を聞いて嬉しそうに笑う月彦の笑顔を一生忘れないと思う反面、寂しげな無惨の背中を時折思い出していた。