心臓を掴む どうか、これ以上、私の心に入ってこないでくれ。
そう思うようになったのは、いつの頃からだっただろうか。
人との距離の取り方が解らない。それは自分の生い立ちに問題があった。しかし、それは社会に出てから気付いたことで、その環境で育っている時に、それが問題であるとは思いもしなかった。
その歪な家庭環境で育ったが故に、他人と接すると、その不可解な言動に心を乱された。
どうして、この人は自分にこんな親切にしてくれるのだろうか?
幼い自分にとって、それは最大の謎だった。
誰の利益になることもしていない、誰の役にも立っていない幼い自分に対し、誰もが我が事のように喜怒哀楽を表現してくれる。
その心の機微に触れる度に吐き気がした。
そっとしておいてほしい。誰とも触れ合いたくない。
どうせ、皆、自分に失望し、父が、そして母が自分に向けた眼差しと同じものを向けて去っていくのだろう。
見捨てられることが、裏切られることが何よりも怖い。
だから、心を閉ざし生きていきたかった。
人と上手く付き合えない人間は「心配される」対象となること、成長する過程で早めに気付いたので、壁を作る最も有効な方法は「偽りの自分」を演じることだった。
笑顔の仮面をつけ、親切な人間を演じ、明るく振る舞い、落ち着いて、理性的な人間であり続ける。それが「継国巌勝」だと周囲に思われるように完璧に演じた。
大勢の人間に慕われ、年頃になれば親しい女友達も出来て、学業や部活にも熱心に取り組み、充実した毎日を送る姿を演じながら、壁の中にいる自分は、その窮屈さで窒息しそうになる。
同年代の人間に囲まれていると、笑い方が解らなくなる瞬間があるのだ。
どうして皆、こんなくだらないことで、あんなに笑えるのだろうか。
そう思った瞬間に、未熟な自分の粗末な仮面が割れた気がした。
「継国?」
「あ、ごめんごめん」
取り繕って笑ってみせるが、笑えなかったことに不信感を持たれることより、素顔を見られた恐怖心が上回っていた。
その年、学生自治会の一員だった自分は、大学の創立記念式典の実行委員に選ばれた。
大学の卒業生の中で著名人に講演に来てもらうという企画があったのだが、大学側が紹介してくれたのが、当時、議員1期目だった鬼舞辻無惨だった。
イケメン議員として有名だったが、大学でも色々な武勇伝を残している。新入生代表のスピーチは勿論、首席での卒業だった為、卒業式でもスピーチを担当し、「流石は政治家の息子」と皆が唸るような見事なスピーチをしたと伝説になっていた。
大学院の博士課程の途中で、父親の跡を継ぎ立候補。当選し、一躍人気者になった。
甘いルックスで人目を引くということはあるが、それ以上にプレゼンテーション・スキルやスピーチ力が高いと評判だった。若さ故の無謀さも指摘されていたが、「最も総理に近い男」として、大学側も自慢の卒業生だったようだ。
「講演会の依頼は大学側からしておくけど、当日の段取りや、講演内容の打ち合わせは実行委員の君に頼んで大丈夫か?」
「はい」
政治家と密に話すチャンスなど然う然うないので、社会勉強のつもりで引き受けた。
慣れないスーツに身を包み、鬼舞辻議員の事務所に出向いた。
自分にも緊張や不安を感じることがあったのか、と新鮮な気持ちになりつつ、何度か深呼吸して、事務所のドアをノックした。
玄関はパーテーションで仕切られ、前に内線電話が置かれている。
「お忙しいところ恐れ入ります。本日、2時よりお約束していた継国と申します」
何度も練習した。淀みなく話すと、女性は奥の部屋が議員の部屋だと教えてくれた。
オープンスペースにいる事務員に軽く会釈し、会議室などいくつか区切られた部屋の奥が議員の部屋になっていた。
ノックを3回すると「どうぞ」と声が聞こえた。
「失礼致します」
ドアを開けると、鬼舞辻議員はパソコンに向かい、作業をしていた最中だったようだ。こちらに気付き、眼鏡を外してにっこりと微笑む。
「どうぞ、ソファにおかけ下さい」
「失礼致します」
再度、頭を下げ、ソファに軽く腰掛けた。緊張する。それは相手が議員だからではない。何故か妙な胸騒ぎがしたのだ。
テレビで見るより更に綺麗な顔をしているな、ということ。
たった一言、声を聞いただけなのに、その声が心地好いと感じたこと。
そして、ふわりと香る、甘い香水の匂いに胸がざわついた。
「君が創立記念式典の実行委員ですか、大変ですね」
「いえ、お忙しい中、こうしてお時間をいただきまして恐縮しております」
挨拶を済ませたタイミングで女性が入ってきて、自分と議員の前にコーヒーを置いて、一礼して部屋を出た。
「いただきます」
と礼を述べて一口飲んだ後、テーブルの端に避け、床に置いた鞄からクリアファイルを取り出し、式典の内容、そして議員に依頼したい講演内容のテーマをいくつか資料に沿って説明した。
「随分と真面目なテーマですね」
「すみません」
「いえ、私は君のように真面目な学生ではなかったので、こんなにきちんとお話する思い出話がないのです」
まさかの発言にきょとんと目を丸くしていると、議員はクスクスと笑う。
「父が議員で、大学の卒業生に身内が多く、教授の中にも、うちの親類がいるでしょう? 大分、忖度していただいたのですよ。情けない話です」
「いえ、そんなことは……」
普段、同年代や教師相手だと、こんなに返答に困ることはないが、接したことのない大人、それも議員相手だと、正解が見つからず、上手く返せずにいた。そわそわと落ち着かない態度を取っていると、議員はすっと右手を差し出し、「コーヒーを飲んで、ちょっとリラックスして」と笑った。
「本当に君は真面目ですね」
「すみません」
「謝ることではないですよ。真面目で……そうですね、人前では冷静で礼儀正しく、相手に対し失礼のないように配慮出来る、年齢より大人びた印象がありますね」
目が合った瞬間に金縛りに遭ったかのように体が硬直した。
息が出来ない。
自分の全てを見透かされている気がして、喉の奥が締め付けられるようだった。
「なに、それは悪いことではない。人前で表情の使い分けが出来る、それは大人として当然のスキルであり、建前と本音は誰しもが持っている」
自分の作った資料に目を通しながら、議員は淡々と語る。壁の中にいる自分が怯えていることが解る。この人は自分の心に踏み入ろうとしてきている、と。
「何故、そのことに君が罪悪感を持っているのか、それを聞かせて欲しいな」
「罪悪感?」
思いも寄らない言葉だった。自分の心を守る行為を、生き延びるためにしてきた、これまでの努力を「罪悪感」と言われたことに理解が追い付かなかった。
「どうした? 図星か?」
「本日はお時間をいただき、有難うございました」
急いで立ち上がり退室しようとしたが、無惨に手首を掴まれた。
「脈が速いな。そんなに動揺するような話か? 私は褒めているのだ。その歳だと学生気分で浮付いた話し方しか出来ない子供ばかりだろうに、君は落ち着いて、大人の仮面をつけている。結構なことではないか」
少し冷たい指先がすりすりと肌を撫でる。その感触が気持ち良いと感じた。
親に触れられた記憶がなく、誰と触れ合っても不快だと感じたのに、この人に触れられると、肌が火照るような気がした。
「人の顔色を見て、人の喜ぶ回答をして、取り繕って生きてきたのか。さぞかし大変であっただろう」
「やめてください……」
絞り出すような声で抵抗するが、その手を振り払うことは出来なかった。
「自分の心を守る為の壁に罪悪感を持つ必要はない」
その言葉を聞いた瞬間、初めて人前で涙を流した。
気付くと、自分の部屋にいた。
あの後、泣き止むまで議員に抱き締められ、彼の手配してくれた車で自宅に戻った。
どんな話をしたか、一切記憶にないが、謝られた記憶だけあり、講演はこちらが提示したものの中から選んで、メールで原稿を送ると言ってくれた。
「君を傷付けるつもりはなかった」
彼をそう言って涙を拭い、名刺をこちらの胸ポケットに入れる。
「もし君が私に興味を持ったのなら、いつでも連絡してくれば良い。私は君の生き方を好ましく思うよ」
とは言われたものの、こんなに自分の心に入り込む人間に恐怖心を持ってしまったので、貰った名刺を捨てようと思った。だが、どうしても捨てられなかった。
「俺の心に入り込まないで……」
泣きながら、名刺についた甘い香水の匂いを感じていた。
式典当日までメールでの打ち合わせとなり、当日、控え室で会うまで、鬼舞辻議員と会うことはなかった。
大学職員や他の学生と挨拶を済ませ、控え室で二人きりになった時、「継国君」と名前を呼ばれた。
「先日はすまなかった」
「いえ、こちらこそ、見苦しい姿を見せてしまい……」
再び彼の手がこちらの手を掴む。
「私は君の能力を評価している。資料、そして、これまでのやりとり、これから社会に出れば、素晴らしい人材になると思う。私の秘書にならないか?」
「有難うございます。ですが……」
「今日の講演を聞いて、私が君の主に相応しいと思ったら、いつでも来て欲しい」
ぽんっと肩を叩き、議員はドアの方に向かう。
「君と共に働けることを願っているよ」
そう言い残して、彼は壇上に向かった。
議員の講演内容は自分の半生を語るものだった。
政治家の息子に生まれ、親の顔に泥を塗るような真似をしてはいけないという重責、過度の期待、向けられる視線による閉塞感で、次第に心を閉ざし、「自分」という役柄を演じるようになったという話だった。
まるで自分の話を聞いているようで息苦しくなり、思わず胸を押さえた。
「でも、その能力は悪いことではないと思っています。だって、皆さん、私を良い政治家と思っているでしょう?」
重い話をジョークに変え、会場が笑い声に包まれる。
「私はただ、大人になるのが少し早かっただけ、そう思っています。ただ、大人になるということは、それだけではありません。自分を変えた大きなきっかけは、この大学で様々な先生方、そして多くの友人と出会ったことです。出会いによって自分の視野がいかに狭く、演じることでしか自己表現が出来ない未熟さに気付かされ、人間として成長する機会を得たと思っています。在校生の皆さんにも、この大学で多くと出会い、そして学んで欲しいと願っています。以上を創立への祝福の言葉とし、前途洋々たる皆様への激励としたいと思います」
なんと心地好い言葉だろうか。
この人は人の心を掴むのが上手い。生まれ乍らの政治家なのだろう。
その天性の才能に皆が惜しみない拍手を送り、自分は再び涙した。
「どうだった?」
舞台袖に戻った彼に声を掛けられ、震える声で答えた。
「先生の下で働きたいです」
数年後。また大学から講演の依頼が来た。
「お前も卒業生だから、お前が講演に行けばどうだ?」
「一介の議員秘書の話など、誰も聞きたくないでしょう」
冷たく巌勝、いや、今は黒死牟と名乗る彼が返すと、無惨は資料に目を通しながら言う。
「私は何時間でも、お前の話を聞いていたいけどな。クソ真面目なお前の話は、いつ聞いても新鮮だ」
ムッとした表情を浮かべる黒死牟を見て、無惨は小さく笑った。
「ですが、あの時、どうして私にあんな話をなさったのですか?」
「あぁ、お前の気を引きたかったからだ」
資料をぽんっとテーブルに投げ、無惨は不敵な笑みを見せる。
「出会った瞬間にお前に心臓を鷲掴みにされたからな。どうしても、お前を私のものにしたくて、わざと動揺させるようなことを言いたくなっただけだ」
「大人気ないですね」
呆れたように黒死牟は言うが、無惨の手を掴み、そっと自分の胸に押し当てた。
「でも、私もあなたに心臓を掴まれたような気持ちでした」
鼓動が指先を通じて伝わってくる。無惨はそのまま黒死牟のネクタイを掴み、体を引き寄せた。
「どうぞ、永遠に離さないで下さいね」
「望むところだ」
二人は微笑み合いながら、そっとくちづけた。