エンドロールに君の名を こはくが三十五になった年の春、法律が変わった。日本でも同性婚が認められることになった。
周囲はにわかに騒がしくなった。ある一組が結婚を発表すると、何組も駆け込むようにそれに続いた。
SNSでは終日、誰と誰が親しげであったからもうすぐ結婚するのではないかとか、仲の良い同性アイドルグループは世間に誤解を与えないように互いにもう少し距離を取るべきではないかとか、様々な意見が飛び交った。インターネットに慣れ親しんでいたこはくは、そのときはじめて自分からインターネットと距離を置いた。
こはくの周囲でも結婚報告はちらほらあった。どのカップルもこはくは笑顔で祝福した。良かったな、お幸せに、仲ええもんなぁ。そんなことを言ったような気がする。
同性であろうと異性であろうと、支え合い、理解し合いたいと思える相手と結ばれるというのは喜ばしいことである。
あなたには良い相手はいないのかと聞かれることもあった。その手の質問に、こはくはいつも答えなかった。おかげでまれに、桜河こはく既婚説などというものが囁かれたりもしたが、結局こはくは独り身を貫いた。
今日この日まで。
三階へ行くのに階段を使うか悩んで、最近膝の調子があまり良くないことを思い出した。
エレベーターに乗り込むと、壁に大きな鏡が嵌め込まれていた。そこに映るパリッとしたスーツ姿の自身を見、こはくはそわそわしながら襟を直した。裾を払い、セットした髪をもう一度撫でつけていると、ぽん、という優しい音とともにエレベーターの扉が開いた。
長い、無機質な廊下には陽光が柔らかく降り注いでいた。その廊下をゆっくり、ゆっくり歩いた。手には大きな花束がある。胸ポケットの中には、小さくも確かな存在感を放つ小箱が仕舞いこまれている。
穏やかな日曜日であった。窓の外には広葉樹が青々と茂り、軽やかな鳥の鳴き声が遠くに聞こえた。
長かったようにも、短かったようにも思えた。
その扉の前に立つと、こはくは静かに一つ深呼吸をして、扉に手をかけた。
「やあ、おはよう」
白い病室の中で、しわの刻まれた顔をくしゃりと歪めて男は笑った。
「おはようさん」
あの頃よりも嗄れた声でこはくは明るく挨拶をした。清潔なベッドに横たわる男の枯れ木のような手足には、いくつもの管が繋がっている。男は腰と背中にクッションを敷いて、上体を起こして座っている。
斑は穏やかに微笑んだ。
「随分気合が入っているじゃあないか」
嬉しそうである。
「そらなぁ、一世一代の大勝負やからなぁ」
そうか、と斑はかすれた声でつぶやいた。
「こはくさん。君は、本当にこれで良かったのか、……とは、もう聞くまい。馬鹿な子だ。君がこんなに諦めが悪いとは、」
そこまで言って、男は身を屈めると咳き込んだ。駆け寄ろうとすると手で制されて、こはくはたたらを踏む。
「……本当に、諦めが悪いなあ」
そうだろう。
結局、こはくは斑とそういう関係にはならなかった。
互いに好意を寄せ合っていることは分かっていたけれど、二人の間には多くのしがらみがあった。それは両家が社会の中でどのような立場であるかということだったり、互いがその家の中でどのような立ち位置にいるかということだったりした。
斑も、この年まで身を固めることはなかった。
頑健な体が取り柄だった男は、加齢とともに徐々に柔らかく渋い魅力を纏い始め、そして同時に少しずつだが確実に衰え始めた。こはくが手を伸ばし続けた男は、やがて去年の暮に大きな病を発表したあと表舞台から姿を消した。
こはくのもとに彼が入院している病院が記された手紙が届いたのは、つい先日の出来事である。
「おんどれは、ほんまにどうしようもない男じゃ」
するりと出てきた言葉を聞いて、斑は苦笑した。
「ほんま、どうしようもない。もうな、文句言うんも疲れたわ。いつまで経っても見栄っ張り、意地っ張り、捻くれモン、そのくせ寂しがり屋で……ほんまなぁ、どうしようもない。わしも歳じゃ。もうぬしはんのこと、どこまでも追いかけていけるような体力もないわ。せやから、ここらでしまいにしよ、おもてな」
にこにことこはくの話を聞く男を見ていると、淀みなく口は動いた。こはくはひと呼吸置いてから、でもな、と続けた。
「勘違いせんといてな。わしはそんな日々が、案外嫌いやなかった」
それを聞くと、斑はより一層嬉しそうに頷いた。彼の目元には深いしわが刻まれている。痰が絡んだ聞き取りづらい声で、斑は「俺もだ」と返した。
「楽しかった」
「……ほんま、人騒がせな人間じゃ」
吐き出した言葉は、思った以上に優しい響きになってしまった。
二人はしばらく黙って見つめ合っていた。深い緑の瞳には、薄っすらと白い膜のようなものが張った箇所がある。
彼がよく笑ってきた証のごとく刻まれた目尻のしわに、こはくはそっと手を伸ばした。
「一緒にならんか」
ぽつりとつぶやいた。おざなりに花束をサイドテーブルに置くと、胸ポケットから小箱を取り出した。
斑はそれを見ると、一瞬目を見開いてから、心底おかしいと言うようにけらけら笑いはじめた。何年経っても変わらない、飾らない少年のような顔で笑った。
「おいおい、こんなしわくちゃの指にそんなもの嵌める気で来たのかあ、君は!」
「わしかてしわくちゃや。お似合いやろ」
ひとしきり笑って、噎せて、咳き込んで、今度は背中をこはくに擦られながら、斑は顔を上げた。
「はあ……そうか。じゃあ俺は、死ぬときは君の家族として逝けるというわけだな」
黙ってこはくは頷いた。
斑はまた、嬉しそうに「そうかあ」とつぶやいた。体の上で組んでいる手が、ぶるぶる震えていた。ところどころにしみや古傷のある、痩せこけた手だった。
「そいつは愉快痛快だなあ」
こはくは今、やっとその手に自身の手を重ねる。