あつくてあまい、あいのあじ 何かともなく、天の意識が浮上する。
霞がかった頭は処理が遅く、天は一瞬、自分がどうしてベッドの中にいるのかを忘れた。
気管をせり上がる塊を吐くように咳き込めば、ぎりぎりと万力で頭を締め付けられているような痛みが襲う。常心真言を唱えられた孫悟空の気持ちと共に、自分が体調不良で寝込んでいる事を理解した。
咳が収まるのにつられるようにして痛みの波が去る。ごろりと寝返りを打ち、体調管理も出来ないなんて、と己の醜態に眉を顰めた。
確かにこのところは有難くもたくさんのオファーがあった。ミュージカル「ゼロ」の公演を終えてからは特に。しかしそこは有能敏腕マネージャーがしっかり管理してやってくれていた。天に過剰な負担が掛かりすぎないように、けれど肝要なところは決して外さないようにと徹底したスケジュール管理を行ってくれていた。それにも関らずこの醜態である。
たまたまオフであるからよかったものの、翌日からまたラジオやテレビの収録がある。
それも天が主演のドラマの告知を行える、所謂番宣のために出演する、早朝からの生放送。折角の機会を棒に振るなど絶対にしたくない。
それを思えば一分一秒でも早く治さないといけないと気持ちばかりが逸る。こういう時こそ冷静に努めるべきなのはわかっているが、どういう訳か気持ちがいう事を聞かない。
目を伏せる。しんとした部屋に自分の息遣いだけが広がる。
ぐっしょりと汗が染み込んだ寝間着の感触が気持ち悪い。けれど身体があまりにも億劫で動かす気になれない。
どれくらい眠っていたか知らないが、喉も乾いている気がする。でも起きて飲み物を取りに行く気力は無く、早く意識を落としてしまえと理性が睡眠を命令する。
もすり。
もこもこした何かが横を向いた天の顔に触れる。枕にしては弾力が違いすぎるし、タオルにしては手触りが違いすぎる。
一瞬フリーズしたものの、流石にこのまま眠る気には到底慣れず瞼を押し上げれば、視界いっぱいに薄紅色が飛び込んできた。ついでに若干ピントがぼやけている。
「……ボクを看病しに来てくれたの?」
自分と似た面立ちのちいさないきものに柔らかく声を掛ければ、「そのとおり」と言わんばかりに胸を張ったモン天に天は小さく笑った。その拍子に器官を刺激したのか、ぐっとせり上げてきた感覚に咄嗟に上体を起こしてモン天に背を向ける。げほごほと先程より一回り大きく咳き込めば生理的な涙が滲んだ。
「んっ……ありがとう」
どことなく心配そうな面差しでモン天からそっと差し出されたティッシュを受け取り、目尻に押し当てた。せめて鼻風邪も拗らせなかった事を心中で自分に感謝した。
「天、起きたのか?」
「…………楽?」
いつの間にか開いていた扉の向こうから姿を現した楽は顔を顰めると「ひでぇ声だな。ちょっと待ってろ」とだけ残すと再び姿を消した。入れ替わりにモン楽がでちでちとやってきてモン天と同じようにベッドに乗り上がる。表情こそ変わらないが、雰囲気で心配してくれているらしい事が伝わって天は眉を少し下げて笑い掛けた。
「キミも来てくれたんだね。ありがとう」
そのまま礼を言えば、ぼすぼすと枕を叩いた。どうやら寝ていろと言いたいらしい。そういう仕草が楽に通ずるところがあって天はくすりと笑みを零した。
なら気遣いに甘えようかと布団に潜ろうとし。
「……キミも?」
五百㎖サイズのペットボトルを抱えてやってきたモンつなにいよいよ目を丸くした。その丸々とした体躯と短い手足にも関わらず実に器用な事である。面差しは確かに龍之介によく似ているが、膂力も反映されているのだろうかと天はしげしげと見つめてしまった。
自分よりも大きさも重さも遥かに大きいペットボトルをわざわざ運んできてくれた優しさに天は淡く笑むと「ありがとう」と言って受け取った。常温で保存されていたらしいそれは結露する事もなければ天の手を濡らす事も無かった。
キャップを捻ればパキキと軽快な音を立てて円柱が回る。それを外してペットボトルにの口に唇を押し当てて傾ければぬるくてほんのり甘い水が舌を舐めて喉へと滑り降りて行った。天のほっそりした喉に浮かぶ喉仏が繰り返し上下する。ああ、自分は思ったより喉が渇いていたらしいと脱水気味だった頭が回復してようやく気付いた。
「天、起きてて大丈夫か?」
あっという間に飲み干してしまったそれをモンつなが受け取ったところでタイミングよく掛けられた声の方を向く。手に持ったお盆の上に御椀と小皿が乗っているのがちらりと見えた。
「モンつな、スポドリ届けてくれてありがとな」
空のペットボトルを手にしているモンつなの姿に全てを察したらしい楽がニカリと笑いかければ「おやすいごようだ」とばかりに胸を張っている。
「モン天もモン楽も天の事見ててくれてありがとな。助かったぜ」
掛けられた言葉に二体もまた「とうぜん」とばかりに拳(推定)を握った。どことなく瞳の輝きが違う気がする。
「顔色は……さっきよりは良くなったみたいだな。具合はどうだ?」
「悪くはないよ。ボク、どれくらい寝てた?」
「おまえが部屋に戻ってから大体四時間くらいだな」
「そう……」
楽の言葉に天は視線を下げた。楽もオフなのは知っているが、自分の看病などをさせてしまった事は心苦しい。それに家事の当番も変わってもらった、もとい半ば無理やり「俺がやる。病人は大人しく寝てろ」と強行されてしまったが、それでたっぷり数時間眠りこけたのは間違いなく自分だ。そしてそのお陰で体調が多少回復したのもその通りなのだ。
「謝んなよ。誰だって風邪を引く時は引くし、その時俺に出来る事があるならなんだってやってやりたいんだ」
いつの間にか枕元に来ていた楽に口にしようとした言葉を先に封じられ、天は口を噤んだ。「……恥ずかしい男」と照れ隠しに呟けば「そんだけ憎まれ口を叩く元気があるならメシ食えるな」と不敵に笑った。
「今日のおまえの仕事はメシ食って温かくして寝る事だ」
そう言って楽はベッドサイドテーブルに置いた一人用の鍋の蓋を開ける。ふわりと湯気が白く立ち上った。鍋いっぱいの卵粥だ。他にもお盆の上にはいつも天が使っている御椀と、薬味として小葱と梅干がそれぞれ小皿に乗っていた。
「生姜をたっぷり入れたからな。体の芯からあったまるぞ」
どこか優しい色を帯びた声に同調するように我も我もとモンたちがわちわちとしてきた。
「そうだな、おまえらも手伝ってくれたもんな」
「モンたちが?」
「ああ。天の冷却シートを変える係とお粥作りを手伝う係とその連絡係でフォーメーション組んでたぜ」
楽の言葉を肯定するようにモンたちは誇らしげにしている、ように見える。「すごいでしょう」「はやくげんきになってね」「むりはすんなよ」。言葉を発さない彼らからそんなメッセージが聞こえてきた気がした。
これはいつまでも臥せってなんていられない。口元に笑みを刻んで天は身を起こす。先程までの仄暗い気持ちなんて、いつの間にかいなくなっていた。
どこかすっきりした面差しの天に楽は何も言わず湯気が立つ小さな鍋から仄かに黄色い粥を御椀によそうと「ほら、熱いから気を付けろよ」と差し出した。それを受け取った天は薬味を適量乗せて匙を持つ。
「みんな、ありがとう。いただきます」
「ああ。ゆっくり食えよ」
匙で掬えばほかほかと音が聞こえそうなくらい卵粥から湯気が立つ。火傷に気を付けるようにふうふうと息を吹きかけて慎重にひとくち口に含めば。
「……おいしい」
自然と零れた言葉にモンたちが光り輝くように瞳を躍らせた。ぼむぼむと丸っこい身体を押し付け合っている。恐らくモンつなをモン天とモン楽が讃えているのだろう。モンつなは何処となく照れくさそうに見える。
正直に言えば食欲は無かった。
けれど、薬を飲むには何かを意に入れなければならないし、何より折角自分のためを思って作ってくれた膳を下げさせるなど天の発想に無い。だからこそ楽やモンたちの勧めに従って少し無理を押して口に運んだ訳だが。
「意外と腹減ってたんだな」
「そういうのはわかってても言わないで」
本当にデリカシーが無い男、と半目で睨めつければ呵呵と笑われた。
ぷいと視線を外して御椀に入れられた分を完食すれば、タイミングよくモン天が薬を、モン楽が水の入ったコップを差し出してくれている。
「ありがとう。キミたちは誰かさんと違って気遣いが上手だね」
「おい誰の事いってんだ」
「さあ? 心当たり、あるの?」
しゃあしゃあ言ってのけながら薬を口に放り込み、水で喉の奥へと押しやった。
「よし、薬まで飲んだな。他にして欲しい事あるか?」
「いや充分いろいろしてもらったと思うけど……」
「こういう時くらい素直の甘えとけ。なんなら全部熱のせいにしちまえよ」
まったく、つくづく恥ずかしい男だと天はそっと溜息を吐く。
「……高級アイス食べたい。バニラで」
「おい調子乗んな」
そう言いながらもきっとこの男はこの後すぐにでも買いに行ってくれるだろう。一度言った発言を撤回するような男では無い。それがわかっていてそんなものを強請る自分がちょっと悪い子のようでむずむずしてしまった。
「天、起きたんだね。具合はどう? 気分は悪くない?」
肩にモン楽を乗せて天の寝室に入ってきた龍之介の腕に下がっている買い物袋に視線がいった。明らかに袋の大きさと密度が可笑しい。龍之介は仕事帰りの筈で、姉鷺に送られてきているだろうがそれにしてもサイズ感とみっちり感が凄い、気がする。
「龍、おかえり。おまえなんだよその荷物」
「おかえり、龍。ボクはお陰様で調子いいよ」
「あっ、ただいま! 元気になって来たならよかった。帰って来る途中で姉鷺さんにドラッグストアに寄ってもらって、スポドリと冷却シートは追加で買ってきてるんだけど……」
なるほど、どうやら袋の中身は天への看病グッズでぱんぱんらしい。しかし龍之介にしては半ば爆買いのような事をするなど珍しいと首を捻っていると「姉鷺さんがこういうのもいるでしょって色々買ってくれたんだ」と困ったように笑った。どうやら天が思っている以上に自分は大切にされているらしい、と間接的に理解して頬に熱が灯る。
「天、アイスは食べられそう? これのバニラ味が好きって前に言ってたから一緒に買ってきたんだけど……」
そうしてコンビニの袋から出された噂の高級アイスに天と楽は目を丸くした。
「龍、最高。ちょうど食べたかったって話してたとこだったよ」
「本当? それはよかった! 荷物置いてくるついでにスプーン取って来るね」
肩にモンつなを乗せたまま、人好きのする笑顔を浮かべて龍之介は足取り軽く天の部屋を後にした。その背中を見送り、その足音をBGMにする事暫し。
「龍が買ってきてくれたから、楽は出掛けなくていいよ?」
「別に買うって言ってねえだろ。早く食ってさっさと寝ろ」
すっかり不貞腐れてしまった楽に天はくすくす笑う。全く、この子供みたいな大人は!
「ありがとう、楽。キミたちが作ってくれたお粥、すっごく美味しかった」
あどけなくはにかんだ顔は、いつもより幼くなった事だろう。
甘やかされるのは慣れていない。少しずつで構わないとは言ってくれたけれど、やっぱりむず痒くてそわそわする。
だから今日のこれは、熱のせい。いっぱい構ってもらって、心配してもらって、〝天〟という個人だけを見つめてもらって嬉しいだなんて思うのは。
(───ぜんぶ、熱のせいだ)