拝啓、お天気お姉さん『ラッキーアイテムはピンクの小物! 今日は最高の一日になる予感! わくわくしながら過ごしてくださいね!』
テレビ越しのお天気お姉さんがにこやかに告げるのを聞いて期待値が上がっていたのはその通りだ。占いを盲信するわけではないが、験担ぎ程度には頭の片隅で意識する程度であってもそれだけポジティブなことを力説されれば少しばかりその気になろうというもの。間下高良はそういった素直さを持ち合わせている男である。
なので。九条天の概念として部屋に飾っていたスモーキーピンクのキーホルダーを家の鍵に取り付けていたら登校時間ギリギリになって慌てて家を飛び出すことになっても、ついでにスマートフォンを忘れても、通学路で瞬間的なゲリラ豪雨に見舞われても、一限の講義で突然抜き打ちの小テストが始まっても、二限の講義で提出物を忘れたことに気づいても、昼休みに目の前で日替わり定食が完売しても、空きコマに作曲に励もうとしたらそのデータを破損しても。
「いやこれのどこが最高の一日!?」
耐えられなかった。頭を抱えてワッと嘆く高良にメンバーの一人がなんとも言えない顔で苦笑いを浮かべた。「ビックリするほど最悪な一日じゃん」と冷静かつ容赦ない友人の一言に高良はじとりと恨めしげな目を向ける。八つ当たりである自覚があるために言葉こそ飲み込んだが、ささくれ立った気分は収まらない。
「まあなんだ。うん。そんな日もあるって」
「他人事だと思って………」
「おまえ、今日はマジで早めに帰って寝ちまえよ。こういう時はヤケ食いからの不貞寝が一番だって」
「でも………」
「今日はそういう日なんだって。練習は明日しよーぜ。な?」
「………うん。そうする、ありがとう」
メンバーであり友人である彼らに気遣われたことに気づけないほど間下高良は鈍くない。そして彼らがそのことを事細かに腰を低くして感謝してほしいと思っていないことも。故に長蛇の列を成す言葉たちを解散させて一言感謝するだけに留めれば「おー」と雑な返事が寄越された。高良はこの日初めて心穏やかに笑った。
※※
「高良、おまえにお客人だぞ」
帰り道でも車に泥水を引っ掛けられたり猫に威嚇されたり側溝に足を突っ込んだり信号という信号すべてに引っ掛かったりと散々な目に遭いながら這々の体で自宅でもある店に帰れば、珍しく店主である父親が直々に高良を呼びに来た。お客人、という言い回しに高良は眉を顰める。一体誰だと言うのだろうか。
「おまえ、スマホ忘れただろ。今日に限って連絡に返事がないからどうしようかと思ったぞ」
「そ、それはごめん。お客人って誰?」
「彼だよ。ほらこの間うちに来てただろう。TRIGGERの八乙女楽」
そこからの高良の記憶はまるっと吹き飛んでいる。
ただ次に高良が自我を認識した時は、店の奥でコーヒーを口に運ぶ驚天動地のスタイルの男の姿があった。サングラスこそしていたが諸々隠しきれないあれこれが放出されている。高良の姿に気づき、気風の良い笑みを浮かべてその男が手を振る。
「まげちょん! 待ってたぜ」
少女漫画かな?
率直な感想が高良の脳裏に出力される。知能指数がかつてない程に低下している。そのことは理解しているつもりだが、だからといってどうしようもないのもまた事実である。なあにこれぇ………。疑問符だけが高良の脳内を占拠している。ありとあらゆることすべてが理解不能だった。
棒立ちになっている高良に「いつまで立ってんだ。ほら、座れよ」と八乙女楽が気さくに自分の向かい席を指す。
え? 向かい? 八乙女楽の向かい? え? 八乙女楽の? この爆イケフェイスと向き合うの? 誰が? 俺が? 天くんでも龍之介さんでもなく? 俺が? えっ俺!? 俺なの!? こんな顔面国宝と顔を突き合わせるの!? 俺が!? なんで!? 不敬罪では!?
「いえ!! 俺は立ってます!! 気にしないでください!!」
状況を理解して大混乱に陥った高良に「いやなんでだよ。そんなとこに突っ立ってたら店に迷惑だろ」と楽が正論を言う。その通りだがその通りではない。
「いいから座れって。それとも俺の前じゃ不満か?」
「滅相もございません!! 座らせていただきます!!」
かつてない速度で楽の向かいの席に身を滑り込ませれば「おう」と楽が笑った。至近距離で浴びた八乙女楽の微笑に高良のハートが17億のダメージを受けた。もれなく致命傷である。
「どうした、胸を抑えて。もしかして体調が悪いのか?」
「いえ………! この距離の楽さんにハートがえらいことになってるだけです………!!」
「おまえ天が推しなんじゃなかったか?」
「えっと、確かに最推しは天くんなんですけどそもそもTRIGGER全員が推しって言うか……… 箱推ししてるっていうか………」
「そうか。ありがとな」
ふ、と微笑まれて高良は視界が一瞬ふぅっと白んだ。なるほど魂が天上に召す時はこのような心地なのかもしれない。そんな考えが自然と浮かんだ。そのまま意識を手放してしまいそうになるのをどうにか堪え、ふるふるとかぶりを振る。
「というかなんでうちの店に………?」
「作曲でまげちょんに聞きたいことがあってさ。前に俺らのラジオに送ってくれたメールアドレスは間違ってるままだから連絡先知らねえし、直接店の方に来させてもらったんだ」
「えっ!? そ、それはお手間をお掛けしてすみません!」
「いや、こっちこそアポなしで来て悪かったな。でもこうやってまた会えて嬉しいよ」
マスターのコーヒーもいただけたしな、と表情を和らげた楽に高良の口から「ヒェッ………」と引き攣った小さな悲鳴がまろび出た。あまりにも顔面が強すぎる。小市民が一身に受けていいものじゃない。
八乙女楽、すごい。
語彙力が溶け落ちてもはやそれしか出なかった。何を食べたらこんな言葉が裏表も他意もなく出るのだろう。蕎麦だろうか。蕎麦にそんな作用があるとは聞いたことがないが、八乙女楽が好んで食すのならそうなのかもしれない。
「おまえの連絡先知らないからさ。教えてくれないか?」
キラキラのエフェクトが視界いっぱいに弾け飛ぶ。けぶる灰色の瞳がまっすぐに高良だけを見つめている。形よい薄い唇が緩く弧を描いて高良の名を紡ぐ。あの八乙女楽が、今この瞬間は高良だけを認識している。
八乙女楽、やばい。
キャパシティの上限を一瞬でオーバーした高良の脳は眼前の光景に関する処理の一切を拒否した。まともに理解したら“おしまい”になる気配を本能が感じ取った。人はそれを防衛本能と呼ぶ。現実の理解を拒んだ脳内の小さな高良がそっと正座した。
拝啓、お天気お姉さんへ。確かに今日は最高の一日になりました。今後もラッキーアイテムは肌身離さず持っていようと思います。敬具。