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    花咲く少尉殿🌸開催おめでとうございます!
    310話後尾形生存if。
    尾形と、悪霊(罪悪感が具現化したもの)の勇作さんと、本物の幽霊の勇作さんの話。

    私は310話で現れた勇作さんのことを「尾形の幻覚」だと思っているタイプでして…そんなただの幻覚である勇作さんと、本当の幽霊の勇作さんが出会ったら…という思いつきから書いたのですが長くなりました。花沢ヒロさん捏造しています。

    最初で最後の我儘を兄と一つ屋根の下、一緒に暮らせたらなんて幸せだろう。ずっとそう願っていた。しかしそれは結局、私のわがままに過ぎななった。
    家族皆で過ごすというのはあくまで私が想像できた範囲での幸福でしかなかった。よくよく考えれば兄と私は母親が違う。それがどうしてみんな仲良くできようか。そんなことも理解できないほど、私は未熟で幼稚だった。
    詰まるところ、兄に幸せであって欲しいというのが、私の願いだった。

    眩しい太陽の光。小鳥のさえずり。感じるのは懐かしい土の匂いではなく、消毒液の鋭い香りだった。ゆっくりと瞼を上げると視界には人工的な薄暗い壁が写っている。目を下にやると真っ白なシーツが見えた。
    部屋が纏う雰囲気は、重く苦しいものだった。
    窓の外では風が木々を揺らし、小鳥が慌ただしく飛んでいく。まさしくそれは平和そのものだった。しかし差し込んでくる煌々とした光は、かえってこの閉ざされた空間の重苦しさを際立たせていた。
    「ここは……」
    喉から漏れる声はどこか遠い。自分の声でありながら、自分のものではないような奇妙な感覚。
    どうしてここにいるのだろう。うまく思い出せない。自分は二〇三高地にいたはずなのに。あの砂埃巻き立つ戦場で、生と死の狭間を走り抜けていたのを鮮明に覚えている。けれどここはどう見ても、病院の類だ。
    もしかすると、私は二〇三高地にて負傷し前線から退いてしまい、天寿を全うできずに廃兵院に送られてきたのかもしれない。
    そうして治療を終え、こうしてのこのこと目を覚ましてしまった。国のために死ぬこともできず、今の戦況もわからない。ああ、なんということだ。こんなことでは父上に顔向けできない。
    絶望しながらも視線を動かすと、隣のベッドに誰かが横たわっているのが見えた。どうやら彼は重症を負っているようで、両目を覆い隠すように包帯が何重にもなって巻かれている。既に治療は終わっているようだが、顎にも痛々しい手術痕が見えた。
    自分より何倍も酷い傷跡に顔を顰める。きっと酷い痛みだっただろう。そうして彼を見ていると、その傷だらけの顔にぼんやりと重なる顔を思い出した。
    「……兄、様……?」
    思わず声をかけたが、返事はない。隣の男性は微動だにせず、風の音だけが辺りを包む。
    包帯のせいで顔はほぼ見えないが──その上、髪型や顎の怪我を含めて自分の記憶とはかけ離れた姿であるが──、兄様に違いない。兄のことを自分が間違うはずがない。なぜだかそう確信があった。
    私は立ち上がり、もう一度兄に呼びかけようとした。けれども私の呼びかけは、バタン、という無機質な音に掻き消されてしまった。
    顔を挙げると病室の扉が開いており、そこから医者と看護師が一人ずつ入ってくる。
    「患者はどうだ?」
    「目を覚ます気配はありません」
    二人は兄の状態について話しているようだ。私は思わず二人の間を割るようにして入り込んだ。
    「お医者様ですか? 兄様は、兄様は大丈夫なのでしょうか?」
    しかし医者も看護師も私の呼びかけには応えず、粛々と兄の経過診察を始めた。その時チラリと見えたカルテに、一九〇八年という数字が見えた。
    ──四年もの歳月が経過している。私は四年間ここで寝たきりだったとでもいうのか。
    「っ、兄様は大丈夫なのですか、それだけでもこの勇作に教えていただけないでしょうか」
    看護師の肩にそっと触れる。いいや、触れたつもりだった。
    私の手は肩に乗せられることなく、下に落ちた。
    「……?」
    その時、窓から差し込む光がぱっと私を照らした。
    けれども照らされたはずの私の影は、どこにも映っていなかった。
    「え……? 」
    声が届かない。触れられない。影も見えない。自分の輪郭は確かにここにあるはずなのに、この存在を肯定してくれるものは、この部屋には何もなかった。
    医者と看護師が何やら話しているが、それらは遠くの雑音のようにしか聞こえなくなっていた。それよりも私は私のことで混乱していた。
    「何故」
    戸惑いと共に、記憶の断片が蘇る。二〇三高地。銃声。熱い血潮。そして──
    「頭を、撃たれて……?」
    震える手で自分の頭部に触れてみる。けれどもそこには何の感覚もない。ただ、空気を掴めるだけ。改めて自分の手を見ると、日光がそれをやんわりと透かしていることに気づいた。こんなの、生きている人間ではあり得ない。
    人間でないならば。……こんな非合理的な現象が本当にあるなんて些か信じ難いが、おそらく自分は幽霊なのだ。
    死んだのだろう。二〇三高地で。
    自分が死んだことを悟っても、寂しさや衝撃に襲われることはなかった。自分の命は国のために捧げられるべきだと元々思っていた。後悔もない。在るべき自分の生であったと思う。ただ、母のことは悲しませてしまったかもしれないが。
    けれども兄様は違う。兄はまだ、この世に生きている。
    生きている、はずだ。
    「本当ならもう意識を取り戻してもいいんだが……もう一度、明日様子を見に来よう」
    医者はそう言って足早に部屋を後にしてしまった。残された看護師は手際良く兄様の体を拭いてゆく。
    私は兄の隣にはひざまづいて祈った。それくらいしかできることがなかった。
    「兄様、早く目を覚ましてください……」
    初夏の陽射しは眩しいほどに優しく、鳥たちの囀りは軽やかだ。けれど、その温もりも音も、すべてが自分から遠ざかっていくようだった。

    その二日後、兄様は無事に意識を取り戻した。けれども残念ながら、両目とも失明してしまったようでした。
    兄の右目はここに運ばれた時には既に失かったそうだ。左目は銃で撃たれてめり込んだ状態だったとお医者様がおっしゃっていました。おそらく戦後、何かしらの事件に巻き込まれてしまったのだろう。
    残念ながら視力は戻りません、と言った医者の発言に、兄様あまり驚いてはいない様子だった。寧ろ「眼球がないんだからそうだろうな」と言うと、医者に背を向けて布団を頭まで被ってしまった。
    兄様は日本一と言っても過言ではないほど素晴らしい狙撃手だった。一〇〇〇メートル以上離れた的でも中央を射抜く正確な射撃はまさに美の結晶だ。けれども両目を失った今、兄様はもう二度と銃を持たないだろう。


    意識が戻った兄様は、度々魘される夜を過ごしていた。呻き声を上げながら頭を振り乱すものだから、髪の毛も包帯もぐしゃぐしゃになっていく。
    兄の声は基本言葉になっていなかったが、時折「やめろ」など「うるさい」などの罵声が聞こえた。
    何が原因なのかは分からず、けれどもわかったところで幽霊の私にできることもない。私はただただ、兄様の手を握りしめて(正確には握ることができていませんが)早く良くなるようにと祈ることしかできなかった。

    ある晩のこと、兄様が寝言で私の名前を呼んでくれた。
    「勇作、どの……?」
    「あ、兄様! 勇作はここに──」
    思わず兄のベッドの隣に倒れるようにして膝をついた。もしかして私のことを感じてくださっているのだろうか。
    しかし、私が台詞を言い切る前に、兄の目元を覆う包帯の上にぼたり、と黒い液体が落ちるのが視界に映った。
    ふと顔を上げると、そこには私と全く同じ顔をした生き物が、頭から血を垂れ流しながら兄様の顔を覗いているではないか。
    けれども目深に被った軍帽の下にあるはずの彼の瞳は真っ暗い闇に覆われており、表情を完全に読み取ることはできない。その代わりとでもいうように、口元は満面の笑みを浮かべている。
    『──寒くはありませんか? 兄様』
    声まで私とそっくりだ。
    けれどもその声に生気は宿っていない。
    おそらくは私と同じ人ならざるものなのだろう。
    「……」
    黙って彼を睨みつけていると、その顔は静かにこちらに向けられた。
    『こんばんは、今宵も冷えますね』
    「残念ながら体温を感じない体になってしまいまして」
    『そうですか、失礼しました……と言っても、私も同じような身ですがね』
    物腰柔らかな物言いに棘は一切ない。けれどもそれが逆に癪に触る。兄の頭上に立って、彼を覗き込んで。その態度はまるで『兄様は自分のものだ』と言いたげだ。
    「……貴方は一体、誰ですか?」
    『花沢勇作です』
    「花沢勇作は私だよ。君は私の形をした別のものだろう?」
    『なるほど……』
    彼は一瞬沈黙し、少し考え込むような仕草をした後に、静かに答えた。
    『私は、兄様が望む花沢勇作です』
    「は?」
    『兄様は無意識に“花沢勇作”を通じて罪を引きずりたいと、願っているのです』
    「な、何が何だかよくわからないが……」
    『端的に言いますと、私は兄様の罪悪感そのものです』
    「罪悪感、そのもの……?」
    額に手を当てて俯き、頭を働かせる。
    罪悪感。それは、生前兄が否定した感情だった。
    『彼はずっと自分には罪悪感はないのだと言い聞かせていた』
    「ええ……よく、知っています」
    兄は、自分には罪悪感などないと言い、さらに「そんなもの、みんな、ありませんよ」と言っていた。
    『しかし、彼にもあったのです。罪悪感が』
    「……」
    『特に、貴方に対して』
    「わたし? どうして?」
    私は兄のことが大好きで、暇さえあれば兄のことを探しに行っていた。
    けれども兄はそうではなかった。寧ろ私のことが苦手だったと思う。兵舎ではいつも避けられているように感じていた。
    寂しいとは思うが、理解できないわけではない。本妻のこどもに付き纏われたせいで、兄様の出自の噂が広がってしまったところもあると反省をしている。
    けれどもそれのなにが、私への罪悪感へつながるというのだろうか。
    『貴方だって望んでいたのでしょう? 兄様も罪悪感を抱くことを』
    自らを“兄様の罪悪感”だと名乗るその男は、私の質問に対する答えは避けながらも、私の心を見透かしたような問いを投げかけた。
    「そ、れは……」
    私の顔をした、私ではない何かが、嗤う。
    ──人を殺して罪悪感を微塵も感じない人間が、この世にいて良いはずがないのです。生前、確かに私は兄様に言った。
    誰もが人を殺すことで罪悪感を感じる。それは父の教えでした。
    うう、という呻き声が耳を掠める。視線を落とすと、唇をぎゅっと噛む兄様の姿があった。首元が汗でびっしょりと濡れている。
    「……罪悪感に苦しめられる兄様を見たいわけではないんだ」
    今すぐにでもその汗を拭いて差し上げたいのに、枕元のガーゼを掴む手はするりと逃げてしまう。目の前で兄様が苦しんでいるというのに、今の私には何もできない。
    けれども人ならざるもの同士、私と彼は対話ができる。
    「兄様を苦しめるのを、やめてくれないか? こんなの、ただの悪霊だ」
    彼は私の問いかけに対して反射的に口を開いたが、その後に続く音は何もなかった。その代わりとでもいうように、彼の頭部からはだらだらと黒い何かが溢れ続けている。
    『私はあくまで兄様が作り出した幻覚ですから、勝手に消えることはできないのです。彼の望む言葉をかけてあげることしかできません』
    「……兄様は、苦しみたいとでもいうのか?」
    『苦しみたい、と言うよりも』
    兄様の罪悪感は小さく息を吸い、悲しそうに笑った。そしてポツリと言葉を落とす。
    『許される機会を失ってしまったんですよ』

    私が二〇三高地へ赴いたのは一九〇四年の冬の出来事であったが、どうやら露西亜との戦争はとうに終わっているようだ。
    草木の香りと共に、外遊びをする子供の無邪気な声が窓から流れ込んでくる。
    「……るせぇ」
    兄様は何も聞きたくないと言わんばかりに、頭まですっかり布団をかぶってしまっている。
──そんな日々の終わりは突然にやってきた。
    ある日のこと、廃兵院の重苦しい静けさを破り、兄の前に私の母が現れた。消毒液以外の香りを纏った人の存在に、兄様の肩がびくりと震える。
    「……大丈夫ですよ。私の母は、優しい方ですから」
    不安を晴らすように兄の隣で囁くが、この声が聞こえることはない。
    兵舎にいた頃も兄様を見かけると話したい気持ちが抑えられず、すぐに兄様の名を呼んだ。兄は私の姿を見つけると面倒くさそうな顔をしたり、「規律が緩みますから」と言ってすぐに姿を消してしまう。避けられている自覚はあったし、そのことに胸が痛む自分もいた。
    けれども気づいてもらえないことの方がよっぽど寂しいのだと、幽霊になって初めて知った。
    「おはようございます、百之助さん」
    懐かしい母の声を、こんなところで聞くとは思わなかった。
    「……誰だ」
    のそりと上半身を起こしす兄様は、面倒だという態度を少しも隠すことなく、カサついた声で返事をする。けれども気だるそうに見える態度をとりながらも、彼の手が小刻みに震えているのが視界の端っこに映った。
    「花沢、ヒロと申します」
    その言葉を聞いた瞬間、兄様の世界が止まった。先ほどまでぴくぴくと動いていた手はベッドに縫い付けられたかのように動かず、息をすることも、声を出すことも、忘れている。
    「はなざわ……」
    「はい。花沢家の一員として、あなたを迎えにきました」
    暫く兄は放心状態であったが、静かに息を吐いた後、深く沈むように小さな声で問い返した。
    「……何故」
    「身寄りがないと聞きました。そのような身体ではどこへいくにも大変でしょう。それに貴方も、花沢幸次郎さんの息子で──」
    母の台詞は決して冗談や揶揄いなどではなく、ただの事実だった。しかし、それは兄様の柔らかな部分を踏み躙ってしまったようだ。母の言葉が終わらないうちに、兄様は冷めた声を被せてきた。
    「はっ、あの男が花沢家の血を絶やしたくないなどと言ったのですか? 申し訳ありませんが、私にとって花沢家はどうでもいいのですよ。嫡男は死んだのに妾の子は花沢の家に堂々と居座るなんて、あなたが耐えられないでしょう。その上今じゃ両目が使い物になりませんから、なんの役にも立ちません」
    早口でぶっきらぼうに並べられたそれら言葉の端々には、警戒心が滲み出ている。
    「今更、何のご用で?」
    同情なんてまっぴらだ、とでも言いたげだ。
    彼は花沢家に何も期待していないのだろう。それどころか、拒絶の感情さえ垣間見える。
    けれどよく考えれば、それは至極真っ当な意見であった。兄は花沢家のことを恨んでいてもおかしくないのだから。母のせいで、私のせいで、兄が相当ご苦労されたのは紛れも無い事実だ。
    母は兄の一連の台詞を聞いても、悲観することも憤怒することもなく、淡々と言葉を漏らした。
    「息子の……勇作の、生前の願いだったのです」
    その言葉に、兄は息を飲んだ。
    ──嗚呼、母上。母の舌に乗せられる自分の名前を久しく聞いていなかった。
    「毎月届く手紙にも、いつか兄様と一緒に暮らしてみたいと書かれておりましたが、彼の遺書にも書いてあったのですよ。もしも兄様が生きていらしたら、花沢家へ快く迎え入れてほしい、兄様も父上の息子なのだから、と……」
    兄を花沢家へお呼びしたいのは紛れも無い私だ。遺書を綴っておいてよかった。両親への感謝と日本国への献身と──もし兄様が戦場から生還したなら、ぜひ花沢家へ迎え入れてほしい、と。兄様は嫌がるだろうけれど、とも付け加えたことも覚えている。
    兄様は少し俯いたまま、再び沈黙の中に潜ってしまわれた。顔の半分は包帯に覆われているため、その表情はいつもわからない。けれども黙り込んでいる彼の姿は、いつになく物思いにふけっているようだった。
    『──兄様』
    瞬きをする間に、私の姿をした例の悪霊が兄様の後ろへと姿を現した。相変わらず頭部からぼたぼたと血を垂れ流しており、大層不気味だ。滴る血は床にどす黒いシミを作るが、風が吹くたびに消えていく。
    彼は口角を上げながら、兄様のことを後ろからそっと抱きしめた。
    幻覚のくせになんて生意気なやつなのだろう。睨みつけてやったが、効果があったのかはわからない。
    『兄様……』
    「……っ、」
    兄に対して私の声は届いていないが、罪悪感の姿や声はいつも聞こえているようだった。兄の呼吸が早くなる。何かブツブツと呟いているようだけれど、うまく聞こえない。
    兄の心の中で何が渦巻いているのか、私にはわからない。ただ、待つしかなかった。
    死してなお、私の思いは変わっていない。兄の母上と祖父母は亡くなったと聞いている。全ては父の過ちだというのに、花沢家が寄り添わずしてどうするというのか。
    それに私は胸を張って自慢したかったのです。彼こそが私の兄なのだと。私がいなくなったとしても、彼が私の兄であったことをどうにか遺しておきたかった。
    張り詰めた沈黙が病室いっぱいに重くのしかかる。わずかな音さえも飲み込まれそうなほどの緊張感が漂っていた。
    口を開こうとしては唇を噛み、両手の指を何度も擦り合わせている。微妙な動きに心の揺れが透けて見えるようで、私はその心に決心がつくまで、じっと待っていた。
    兄の後ろにいる“罪悪感”も、この時ばかりは悪戯を仕掛けることもなく、静かに兄を見守っていた。
    どれだけそうしていただろうか。ほんの数秒の静寂だったかもしれないが、私には永遠にも思える時間だった。
    兄は観念したように、重い口を開いた。
    「……わかりました」
    その声は低く、静かで、まるで深い井戸の底から響いてくるようだった。決して明るくはないが、嫌悪感や反発の色も含まれていない、と思う。
    きっと、兄様なりに私の我儘を受け入れてくださったのだと思う。
    「不束者ですが、よろしくお願いいたします」
    頬をひくつかせながら、兄様は笑顔を見せた。
    兄様の後ろで、血を滴らせながら私の姿をした“罪悪感”も口元を歪める。
    こうして兄様は花沢家へ引き取られることとなった。



    兄の心は終始不安定だった。お医者様の話によると、眼球を損傷した弾が脳の一部を破壊しており、それが精神的な不安定さを引き起こしているらしい。叫んだり暴れたりという奇行に走ることはないが、時折獣のような呻き声を上げながらベッドでのたうち回る姿を目にした。
    そのような危ない状態ではあったものの、廃兵院のベッドの数も限られていることから、兄は直ぐに花沢家へ移ることとなった。
    兄様の荷物はたった一つの風呂敷と歩兵銃、それからお医者様から渡された注射器とモルヒネのみだった。
    「モルヒネは一日一回までですよ。無くなったら病院で処方してもらってくださいね」
    「……」
    兄は小さく頷くと、受け取ったそれらを風呂敷の中に無造作に入れた。肩に銃を背負い風呂敷を掴むと、空いている手で壁を伝いながら覚束ない足取りで部屋の出口を目指していく。その背中は私が知る優秀な狙撃手のそれではなかった。
    こんなに痩せてしまっていたなんて。ずっとベッドの中に篭っていらっしゃったから、気づくことができなかった。

    花沢家までの道中も、家についてからも、兄は本当に静かで一言も口を聞かなかった。母も最低限の挨拶しか交わさず、馬車の中で会話がなされることはなかった。
    「兄様、無理なさらないでくださいね」
    私の声かけも聞こえるはずがなく、ただ馬が地面を蹴る音だけが響いている。
    罪悪感を形取ったものだというもう一人の私は、今日はまだ姿を見せていない。

    母は生前私が使っていた部屋の隣を兄にあてがった。兄が「物置で十分だ」と言うのを無視して、母直々に部屋へと案内してゆく。その気丈っぷりを目の当たりにして、幽霊の身ながらも目元が温かくなる気がした。
    兄は部屋の扉を触りながら「暖かいところですね」とぼそりと呟いた。母はにっこりと笑いながらカーテンを開く。
    「ここは特に日当たりがいい部屋なんですよ」
    太陽の光が燦々と差し込んでくる。兄様は一瞬窓の方に顔を向けた、何をするでもなく入り口で立ち尽くすのみだった。母が部屋を後にするまで、兄は何も言葉を発さなかった。
    母がいなくなった後、ようやく兄は部屋の中に足を踏み入れました。その姿はまるで毛を逆撫でた猫のようで、全身から緊張が伝わってくる。
    兄は足元に風呂敷を置くと、壁を伝いながら部屋の中を一周し、うんうんと頷きながら家具にも手を伸ばした。兄様の足がベッドフレームを掠める。首を傾げながら手を伸ばした先には、マットレスとリネンのシーツがある。
    兄は確かめるようにシーツに触れると、大きく円を描くように撫でた。ため息をつくと、膝を折ってベッドの上に上半身を委ねる。
    「日当たりが良く、寝具も最上……俺みたいな盲が使うには身に余る部屋だ。別の使用人に貸してやればいいのに」
    「目が見えなくても、暖かさや寝心地は感じますでしょう。兄様も言ってくださったじゃないですか」
    「病室のマットレスでも勿体ないくらいだ」
    私がどんなに呼びかけても兄様は気づかない。会話は成り立っているようですれ違っている。
    「……勇作殿」
    「は、はいっ」
    突然名前を呼ばれて反射的に大きな声が出てしまった。無意識に背筋もピンと伸びている。
    兄様は私のことを認識していないはずだ。だからきっとこれはただの独り言。
    それでもやはり自分の名前を呼ばれてしまうと、嬉しくなってしまう。この一瞬だけでも、兄の中に勇作がいるのだということを知れて、どこか優越感を感じてしまう。
    軍に所属していた頃、兄から声をかけられたのは二度だけだ。一度目は遊郭に誘われた時。二度目は旅順で、私が死ぬ前。
    それ以外の会話は、全て私の呼びかけから始まった。
    兄様、と声をかけるたび、兄の顔には面倒臭いと言う文字が浮かぶようだった。
    きっと、兄は私のことが苦手だった。それはそうだ。本妻の子が話しかけにくるなんて、きっと混乱していたに違いない。嫌われていたかもしれない。
    けれども憎まれてはいなかった──と思うのは、私にとって都合のいい思い込みだろうか。
    「どうして貴方は、遺書にこんなことを……貴方にとって何の得もないのに」
    憎まれていたら、弟の勝手なお願いなんてまともに聞いてくれないだろう。そんなに悲しそうな声で私のことを語らないだろう。
    風呂敷の結びをゆっくりと開きながら、兄は独り言をつらつらと述べていく。
    「貴方は兄弟で一つ屋根の下、家族のように過ごしたかったのですか?」
    「……そう、ですね」
    「でも貴方がいないんじゃ、どうしようもありませんね」
    その声には淋しさと諦めが漂っていた。
    私は兄に気を使わせてしまった。あの言葉を残したことに対して、少しだけ胸が痛んだ。けれどもそうでなければ兄は廃兵院で一生を終えることになっていただろう。それよりは良いのではないか、と自分に言い聞かせることにした。


    兄は花沢家に引き取られてからというもの、要望も希望も、小言すらも言わない。
    あのとき、「わかりました」と呟いた彼の声を思い出すたび、その言葉が本心からのものなのかどうか、ぐるぐると頭を悩ませてしまう。
    思えば昔からそうだ。規律を重んじる、思慮深い方だったが、何を抱えているのかが見えづらく、いつもひらりとかわされてしまうような感覚があった。無口な方で、あまり自分のことを話されない方だった。
    『規律が乱れますから』
    と言うのは、兄の口癖の一つだった。
    目は口ほどに物を言う──と言うが、兄様の澄んだ黒い瞳に映る世界がどうなっているのかは最期まで知ることができなかった。
    今となっては、その瞳を見ることすらできない。目元にきつく巻かれた白い包帯は、何も語ってくれない。
    朝と晩、使用人が包帯を取り替えてくれるが、垣間見える目元には窪みがあるだけで、あの黒曜石のように美しかった瞳はもうない。
    ベッドに横たわる兄は、呼吸音がなければ死んでいるのではないかと思うほど微動だにしない。一日のほとんどをこうして横になって過ごす兄の顔色は青白く、腕は枝切れのように弱々しくなってしまった。
    その手は時々、ふっと宙を掴むように動きます。左手は何かを支えるような、右手は人差し指が少し前を引っ掛けるような形。銃を構えているのだとすぐにわかった。
    右手で引き金を引く真似事をするたびに、兄は顔を歪めて舌打ちをしてその手を布団の中に隠してしまう。
    「──チッ」
    その声からは悔しさがありありと伝わってくる。
    けれども銃を構えてしまうのは無意識に癖になっているようで、兄はほぼ毎日透明な銃を構えていた。
    兄が銃を構える瞬間、この小さな部屋は殺気にも似た緊張に満たされる。私はその瞬間がとても好きだった。けれどもそれは何かを射止めることはなく、静かに消えてゆくだけ。
    兄だって頭の中ではそうわかっているのに、身体に染み付いた癖が兄の心をじわりと蝕んでいく。けれども私はそれを黙って見守ることしかできなかった。

    兄は目が見えない状態でも、周囲に迷惑をかけまいと、懸命に努力しているように見えた。母だけでなく使用人の方々にも挨拶を欠かさず、部屋にいる間も部屋を綺麗に保とうと掃除を欠かさない。
    また、部屋を出て屋敷の至る所へ足を運ぶ時もあった。壁や柱に手を触れながら、慎重に足を進めて廊下を探るように歩いていくのだ。
    遠くから聞こえる足音や扉の音に集中しているようで、それらを頼りに屋敷の構造や生活のリズムを把握しようとしているのだと感じられました。
    それでもやはり目が見えぬというのは不便ではある。一度、壁際の手を滑らせた際に花瓶の台座に触れてしまい、危うく花瓶が落ちそうになった時があった。花瓶はただ揺れただけで大事にはならなかったが、兄様の心臓の音がバクバクと大きな音を立てているのが、私にも聞こえた。
    使用人から「無理をなさらなくても」と声をかけられることもあったが、彼は何も答えず、ただ黙り込むだけだった。

    夜明けの光も時計の針が指す時間もわからない彼にとって、時間という概念はすでに曖昧なものになっているようだ。
    時には夜中に目を覚ますこともあり、また、朝になっても使用人が部屋を訪れるまで起きられない日もあった。
    そんな時、兄様はいつも「すみません」と低く硬い声で謝る。
    謝罪の言葉を聞くたび、私は謝って欲しいわけではないのにと心を痛めた。
    使用人も「そんなにお気になさらないで」とにこやかに応えてくれるものの、どうやら兄には伝わっていないようだ。
    兄が盲目なのは皆分かりきっている。つまづいてしまう可能性も高いし、時間感覚を掴めなかったりするのは仕方のないことなのに、それでも何度も謝る兄様を見ていると、そこには何かもっと別の意味が隠されているような気もした。
    けれど、私にはその理由がわからなかった。
    ただ、その謝罪には礼儀正しさと共に、どこか深い孤独が滲んでいるように感じられて、胸が痛んだ。

    食事の時間は、兄にとって特に難しい時間だった。
    食卓に並ぶ料理の位置は分からないし、箸で掴んだつもりの料理は空を切るばかり。努力して食べてみようとしても、見えない恐怖と不安から手が震え、うまく口に運べない。その上汚してしまったであろうテーブルクロスを使用人が拭く音が嫌に耳の中で反響する。
    ある日、兄様はふと箸を置き、それ以来食卓で何も口にしなくなった。
    「お口に合いませんでしたか」
    私の代わりに、母が心配そうに声をかける。
    「いえ……」
    「では、なぜ」
    「……これ以上、女中の方に仕事を増やすのも、申し訳ありませんので」
    兄はそう言うと俯いて、口を閉じてしまった。暫くの沈黙の後「部屋に帰ります」と言った兄はとても悔しそうで、こんな些細なことが彼の自尊心を傷つけてしまったことに自分も反省する。
    兄はギィと音を鳴らしながら椅子を引くと、おぼつかない足取りで出口の方へ一歩一歩足を進めた。見かねた使用人が手を取り、彼を部屋まで案内していった。

    眼球を損傷した傷は、見えなくなるだけでは終わらない。ときおり突然襲う神経痛や、脳が損傷したことによる精神の不安定さが、彼の心身を蝕んでいく。
    「あ、あ、ああ」
    「兄様、痛くはありませんか、ああ、勇作にできることが何かあればいいのですが……」
    一人部屋の片隅で膝を抱え、震える兄様の背中を見つめるたび、私は何もできない自分に苛立った。
    「考えるな、考えるな……」
    「兄様、無理をなさらないで……お医者様のところへ行きましょう。母に頼んで……どうか……」
    医者から処方されたモルヒネはすぐに無くなってしまった。無くなったら処方してと医者から言われていたのに、兄様はそのことを誰にも明かさず、一人で抱え込んでいる。特に母の前では気丈に振る舞っているように見えた。
    蹲る兄様の前に、いつの間にか膝を抱え込んだ偽物の私が姿を表している。
    「チッ、本当にタチの悪い悪霊だな。……勇作さんはそんな憐れむような顔はしない」
    『……兄様、辛くありませんか?』
    「俺を、惨めにするな」
    兄は吐き捨てるようにそう言うと、ふらふらした状態にも関わらず気力のみで立ち上がった。何かを探すように両腕を伸ばしてぺたりぺたりと足を進める。ベットフレームを捕まえると、乱暴にスプリングへと身を投げた。
    「惨めだなんて、そんな、兄様はそんな……」
    兄の隣に駆け込んで、そのお顔を覗き込む。顔の半分が隠れていてもわかるほどの悔しさが溢れ出ていた。
    ああ、やっとわかった。
    日常生活において垣間見える非合理だと思える言動は、兄の持つ残された最後の矜持なのだ。
    誇り高き狙撃手としての魂が、未だ心の奥底に残っているのだろう。
    反転し仰向けになると、兄は手足を投げ出して大きく息を吐いた。
    「は、ははははははははは、ははぁ、俺は負けたのか、そうだ、」
    「兄様、お気を確かに……」
    「だから……もう何も……」
    両目を覆いながら兄は黙り込んでしまった。
    私は手を差し伸べることも、声を掛けることもできない。やったとしてもこれっぽっちも伝わらない。
    「勇作、どの」
    兄様は、もう一人の勇作の方を向いて私の名を読んだ。まるで罪悪感の存在をわかっているようだ。名を呼ばれた悪霊は、ふよふよとうきながら兄の隣にやってきて、覗き込むようにして兄に覆い被さった。
    兄へとぼたぼたとどす黒い赤が落ちていく。けれどもそれはシーツへ落ちると、途端に蒸発するかのように空気の中に消えていく。
    『はい兄様。お呼びですか?』
    偽物の私は、私に見せつけるようににこりと微笑んだ。苛立ちそうな思いを必死で抑える。彼は兄が勝手に作り上げた幻覚のはずなのだから、焦燥感を抱いたところで仕方ない。
    けれども兄が罪悪感に手を伸ばす姿を見て、思わず「え」と声が漏れてしまった。
    「どうして私を連れて行ってくださらなかったのですか。何も見たくないし何も考えたくないのです」
    偽物の私に対して問いかける兄の声は、感情任せに叫んでいた先ほどまでと打って変わって冷たいものだった。
    『私は死神ではないですから』
    「同じようなものでしょう」
    兄は手を離すと諦めたように寝返りを打ち、そしてそのまま眠ってしまわれた。
    兄が寝息を立てたことを確認し、私は偽物の花沢勇作の肩を掴んだ。こちら側を向いてもなお彼は笑っていたし、頭部からの血も止まることはなかった。
    「兄様は、お前のことは見えているのか」
    少し咎めるような言い方になってしまったが、まあ良いだろう。相手は罪悪感などという不確かすぎるものだ。
    『前にお教えしましたでしょう、私は兄様の作り出した幻覚なのですよ。作り出した本人が見えなくてどういたしましょう』
    そうなのだ。目の前のやつは幻覚に過ぎない。本物の弟は私なのに、でも兄には幻覚である罪悪感のことしか見えていない。
    本当は私が兄の力になりたい。けれどもそれができないのであれば、頼むしかない。
    「では、私の代わりに兄様の痛みを取り除いてくれないか?」
    『それは私にはできかねます』
    私の願いは早々に打ち砕かれてしまった。
    「そんなことを言わずに! 私は……兄様に存在を認めてもらえないのです……だから君に頼むしかない」
    『けれども私はただの幻覚です。意志を持って動くことはできないのです。兄様の感情が揺れ動いた時だけ存在できる、脆い悪霊なのですよ』
    「……君は兄様の罪悪感だと言ったね。どうして私の姿をしているんだい」
    『尾形百之助が罪悪感を感じている相手が、花沢勇作だからです』
    「え?」
    悪霊が言いたいことがわからない。どうして兄が私に罪悪感を抱く必要があるのだろうか。
    兄様はまだ魘され続けている。私の顔をした悪霊は、相変わらず不気味な笑みを浮かべていた。

    兄様が花沢家に引き取られてから、1ヶ月が経った。兄はまだその警戒心を解くことなく、昼も夜も変わらず部屋に引きこもっていることが多い。皆で食事を囲むことを拒んでからと言うもの、使用人が部屋の前にトレイを置いてくれるようになったが、兄は気まぐれにしかそれに手を出さない。そのせいで、廃兵院にいた頃よりもさらに細くなってしまった。
    窓枠に手を掛けながら、兄は隣に立つ悪霊に目を向けた。
    「勇作さん、私は何のために生き残ってしまったのでしょう」
    ぽつり、と落とされた言葉はおそらく本心からの言葉だろう。その声の痛々しさに思わず唇を噛む。
    私は兄の幸福を願っている。けれども何が兄にとって幸福であるか、知らなかったのだ。

    ある日の晩のこと。私は珍しく兄様ではなく母上の側に座っていた。縁側に腰掛け月明かりの中で花を生ける母は、幸せそうな顔をしている。
    私は逃げてきたのだ。兄は今、自室で悪霊が見せる悪夢に苛まれている。
    私ではない私を見て狂乱する兄を、見ていられなくなってしまったのだ。なんと意気地のないことだろうか。終わりのない苦しみに襲われているのは兄の方だというのに。
    けれども言い訳がましいが、側にいるのになにもできないというのも辛い。どうして私は死してなお、苦しまねばならないのだろう。
    私は何かの役割があって──または何かを望まれて──現世に降りてきたのではないか、とも思う。けれどもそれは未だわからない。
    だからこうして母上に甘えにきてしまったというわけだ。
    もちろん母上に私の姿は見えない。けれども母上が花を生けているこの穏やかな時間は、私にとって最上の安らぎだった。
    華道が趣味な母上のおかげで、いつも家は鮮やかな花々で彩られている。
    両刃が擦れ合ってちょきん、ちょきん、と音を奏でる。その音に合わせるように、ぺた、ぺた、と足音が近づいてきた。
    「あら、百之助さん」
    「……こんばんは」
    柱に隠れるようにして見えたのは、紛れもなく兄だった。着物が少しはだけてしまっている。
    母は鋏と花をその場に置くと立ち上がり、兄の側へよると着物を正してくれた。そして彼の手を拾うと、元々座っていた縁側の隣へと案内した。
    「……夜分遅くにすみません」
    「とんでもない。鋏の音、うるさかったかしら?」
    「いえ、そんなことは。寧ろ心地よかったです」
    その後、しばらくの間会話はなかった。けれどもそこにある静寂は決して不快なものではなく、暖かく穏やかな時間だった。
    庭の木々がさわさわと揺れている音だけが、あたりを包み込んでゆく。
    次に口を開いたのは、意外にも兄の方だった。
    「……あの、勇作さんの話を聞かせてもらいたくて」
    「えっ」
    まさか自分の話が出てくるとは思わず、一瞬固まってしまった。母も同じように目を見開いて呆然としている。けれど母はすぐにいつもの穏やかな表情に戻り、雲隠れしそうな月を見上げながらくすりと笑ってみせた。
「勿論良いですけれど、私が話すことなんてないかもしれませんよ」
    「それは、どういう?」
    「勇作さんが第七師団に行かれてから、いつもお手紙をいただいていたのですが、貴方の話ばかりなのですよ。兄様と甘味処へ行ったとか、銃の腕が素晴らしいとか。ですからもうお二人で話し尽くしているかもしれません」
    慈しみに溢れたその瞳の奥に、自分の存在が見える。母の視線は夜空に浮かぶ月ではなく、きっと天に召された私のことを想ってくれているのだろう。
    母は小さく笑いをこぼすと、視線を地に落としてしまった。哀愁漂うその横顔を見ていると、無いはずの心臓が握りつぶされるような思いがする。
    実際の私はこうして母の隣にいるのだと声をかけられたらどれほど良かったか。
    「……そうですね。軍にいた頃は、よく話しかけていただきました。けれども私に学がないために、難解な話はできませんでしたし」
    「そんなことないでしょう。若くして上等兵になられたと聞きましたよ」
    「はは……」
    兄様の口角が僅かばかり上がる。乾いた笑いはすぐに地に落ちて、続くことはなかった。
    少しばかりの沈黙。兄様の握られた手が小さく震えているのが見える。母は兄にとって他人同然ですし、それ以上に兄にとっては恨み相手であったかもしれない。
    けれど、恨みからの緊張には見えません。他の何かが兄の心に引っかかっているようにも思える。
    すう、と小さく呼吸音を漏らした後、兄様はぽつりと呟きました。
    「難解な話だけでなく、兄弟としての話も、できなかったので」
    「……え?」
    思わず私の口から感嘆の声が漏れた。誰にも聞こえることのないそれは、風に乗って消えてゆく。
    「兵舎裏に住み着いた猫の話やら、好きな花の話やら……そういう軍とは関係ない話もよく聞かされました。けれど、それはあくまで上官と部下の枠組みの中で……、それ以上でもそれ以下でもなかった」
    淡々と語られるそれらは、けれども確実に熱を持って私の心を震わせる。
    「勇作さんは兄が欲しかったと言ってくださいましたが、私はあまり期待に応えられなかった」
    独白のような台詞を紡ぐ兄は、私の知らない兄だった。
    兄様はいつも規律を重んじており、浮かれた私に呆れてばかりで、私のことを好んではいなかったと思う。そのような兄様の気持ちを知りながら、どうしても会いたくて、事あるごとに兵舎で兄のことを探していた。
    私たちは紛れもない兄弟だ。けれども異母兄弟であった上に、少尉と上等兵でもあった。
    その立場を利用して兄様を勝手に私室へ呼んだこともあった。
    私たちの間に立ちはだかる身分という壁は、遂に壊れることがなかった。それは軍という組織の問題もあるし、規律を重要視する兄の性格も起因していたと思う。壁を壊してただの兄弟になりたいと願っていたのは独りよがりの願いだと思っていた、のに。
    「こんなことを今更言うのもおかしいかもしれませんが、花沢少尉ではなく、勇作さんのことを聞かせていただけませんか」
    生前の頃、何も話さなかったわけではない。けれども私たちは、圧倒的に会話が少なかった。知らないことが多すぎた。
    今更ながらに、私は兄様の母上のことを何も知らないことに気付かされた。
    兄には半ば無理矢理に私の母を会わせているのに。
「勇作さんは、貴方のことをどう呼んでいましたか? 嫌いなものはありましたか? 何でも良いのです、勇作さんがどう育ったのか、どのような人だったのか、私が知らないことを聞かせてもらいたい」
    母は瞬きを数回繰り返して、それから何かを話そうとした。けれども上手く音にならないようで、唇を噛み締めては足元を見つめるばかりだ。
    兄様は少し居心地が悪くなってきたようで、「嫌でしたらお断りいただいて結構です、それでは」と早々に立ちあがろうとした。
    けれどもそうする前に、母は手を伸ばして兄のことを捕まえた。いきなり手首を掴まれたことに兄はびくりと震え、もう片方の手で自分の周りを確かめるように円を描いた。
    けれども啜り泣く音が耳に入ると、兄の動揺は不安へ形を変えた。
    「も、申し訳ありません、不快にさせるつもりは」
    捲し立てるような謝罪の言葉に、母は首を横に振って、「いいえ、違うの、違うのよ」と必死に兄を引き留めた。
    「勇作さんの話をできる人がいるなんて、嬉しくて嬉しくて。ごめんなさいね」
    「……そう、ですか」
    そんな母の姿を見て、私は自分の幼少期を思い浮かべる。
    いつも笑顔で優しくて、些細なことでも褒めてくださった母。会う機会はそう多くなかったが、その時間は確かに私の宝となっている。
    その母が、一度だけ泣き言を溢した時がある。私が少尉として第七師団に配属されることとなった前日である。
    『本当は貴方を戦地になんて送りたくなかった』『旗手になんてなって欲しくなかった』
    軍人の妻として決して口にはできないのだと言いながらも、ほろほろと大粒の涙をこぼす母の姿をどうして咎められようか。私はただ、母を抱きしめることしかできなかった。
    母は、私のことを“花沢家の嫡男”でなく、愛する一人息子として愛してくれたのだ。
    母は記憶の奥底に眠る宝物を紐解くように、私の思い出を話し始めた。
    私が好きだった食べ物や嫌いだった昆布の佃煮の話、日々の出来事に目を輝かせて報告する姿。懐かしいことや覚えてないことがつらつらと並んでいく。
    兄はそれをじっと聞いていた。
    包帯に半分を覆われている顔面からは心境を窺うことが難しかったが、時折頷いている姿を見ていると、目元が熱くなってきた。
    兄様が私の話を今も聞いてくださっている。その事実がどうしようもなく嬉しいのだ。

    その日から毎晩、母と兄はそこに集まるようになった。
    一日のすべてが終わった頃に、何を約束することもなく、二人でそっと集まって私の話をする。母はお茶やお菓子を持ち寄るようになり、立ち話のようだった会合がいつの間にか小さなお茶会になった。
    兄様のお願いから始まったこともあり、最初は母が口を開くことが多かった。けれども母の「勇作さんはどんな軍人になられたんでしょうね」という一言から、兄様も私の話をしてくださるようになった。
    膝の上で指を遊ばせながら、兄は兵舎での日々を紡いでゆく。兄の口から語られる私は、びっくりするほどに聖人だった。自分で言うのは少し気恥ずかしいが、品行方正、眉目秀麗、成績優秀……まるで人とはこうあるべきである、という教科書的な用語がつらつらと並べられていく。
    「でも、少し抜けているところもあって」
    兄様は一呼吸置いてから、右手で髪を撫で付けるようにしながら母の方へと振り向きました。
    「あの人、ぼっとん便所に片足を突っ込んだことがあるんです」
    頬が綻んで、穏やかな空気が漂う。
    兄様は、花沢家に来て初めて笑った。
    「まあ! でもまあ、勇作さんならやりかねないわ」
    「あまり驚かれないのですね。さすがは母君だ」
    楽しげな二人の会話に私の口角も思わず上がる。できることなら、二人の会話に混ざりたい。私も母に、兄様の自慢話をもっとしたい。母は私の手紙は兄のことだらけと言っていたけど、手紙では書ききれないほど伝えたいことがあったのだ。
    けれどもそれは叶わないので、私はただ一人、二人のことを見守ることしかできない。
    歯痒くもあったが、兄が楽しそうにしている姿を見て十分だと自分に言い聞かせた。

    兄の顔に笑顔が戻っても、部屋に住み着く悪霊とやらは消えなかった。
    兄を責めたりすることはしなくなったものの、部屋の隅からじっと兄のことを見ている。相変わらず頭からは血を垂れ流し、顔には不気味な笑みが張り付いている。
    悪霊は、兄が私に罪悪感を抱いている、と言った。
    だから都合よく考えていいのであれば──きっと兄も、旅順で私と言い合いをしたのが最後の会話になってしまったことを悔やんでいるのではなかろうか、と思っている。
    兄は私に、殺しを誘導した。けれども私はこれに応えられなかった。
    兄は私に、罪悪感なんて無いと言った。けれども私は、罪悪感を抱えない人間などいないと言った。
    私たちには圧倒的に話し合いが足りていなかった。
    けれども今、兄は私の代わりに母と言葉を交わしている。あんなに母と打ち解けて楽しそうに暮らしているというのに、まだ“罪悪感”は消えてくれない。
    『……そんなに睨まないでおくれよ』
    「君はいつまで私の姿でそこにいるんだ」
    『兄様が忘れるまで、または兄様が諦めるまでは』
    「……」
    果たして何が兄の心に巣食っているのだろう。

    その日は珍しく、兄の方が先に縁側に来ていた。この頃にはもう兄は家の構造を隅から隅まで把握しており、最初の頃のように柱にぶつかったりすることは無くなった。
    花沢家へ来たばかりの頃、兄は全身から溢れる警戒心と不安を隠すことなく、部屋に引き篭もるばかりだった。
    今では縁側に腰掛けてぶらぶらと足を揺らし、私の母を待っている。あるのは穏やかな時間だけ。
    例の悪霊もここにはいない。
    兄がこの家で穏やかに暮らしていることは、今の私に取って何よりも幸福なことだ。
    数分後、母は使用人を連れて現れた。使用人の手にはトレイが乗せられており、湯呑みと羊羹が二つずつ乗せられている。
    「遅くなってしまってすみませんね。今日はお友達から羊羹をいただいたので、いかがかしら。お口に合うと良いけれど」
    「いつもすみません」
    「夜の甘い物って、ちょっと背徳的よね」
    「そう、かもしれませんね」
    母はふわりと浮いた兄の手を取って、菓子楊枝のあるところへと誘導した。兄は小さく会釈をし、すっかり細くなった指で楊枝を摘む。
    そんな風に今日のお茶会は始まり、いつものように私の思い出話やお気に入りの菓子屋の話に花が咲く。
    話がひと段落したところで、急に兄は改まって「ヒロさん」と声を掛けた。
    母と出会ったばかりの頃の、張り詰めた声。母も異変を察したようで、姿勢を正して兄の顔を覗き込む。
    目元は見えなくとも、その震えた唇から最低限の感情は読み取れてしまう。
    「どうしましたか?」
母の柔らかな言葉に、肩の力が抜ける。
    膝の上に置いた両方の手をぐっと握り締め、兄は意を決したように口を開いた。
    「これからは、私のことを勇作さんだと思っていただいて良いですよ。そろそろ勇作さんの真似事ができるようになったと思います」
    「は?」
    「え?」
    母と私の言葉が重なる。
    兄が何を言ったか、よくわからなかった。
    母は呼吸の方法すら忘れかけてしまったようで、ぴたりと止まって動かない。数秒後、思い出したように息を吐くと、頬に手をやり視線をぐらつかせた。
「……どういう、意味です?」
    それは私も聞きたい。
    兄様は一体どういうつもりなのだろう。
    困惑する私たちとは相対するように、兄からは先ほどの緊張感は全て消えていた。穏やかな微笑みさえ浮かべていた。
「その方が、ヒロさんが楽になるのではないかと思ったのです。貴方は勇作さんの喋り方の癖や好き嫌い、色々なことを教えてくれたでしょう。ですからきっと、勇作さんの真似事を少しはできるようになった思うのです。勿論中に入っている人間は違う人間ですから完璧にとは言えないけれど……」
    流暢に言葉を並べていく兄は焦っているようにも見えたし、正解を見つけて喜ぶ子供のようにも見えた。
    「……あ」
    兄様は『何のために生き残ってしまったのか』と思い悩んでいた。まさか、生きる目的として母の心の支えになることを考えたのだろうか。
    それにしても考えが突拍子もない。実子の真似事をすれば良いだろう、という発想は一体どこからきたのだろう。
    兄にとってはそれが最善に見えるのだろうが、私には歪に見える。
    「百之助さん」
    「は、い」
    「当たり前のことを言いますけど、」
    兄は母の言葉を振り切って、無理やりに言葉を繋げてゆく。
    「貴方にとって、こうして横にいてほしい相手は尾形百之助なんかじゃなく、勇作さんでしょう」
    その言葉に、曇りはなかった。
    ヒロさんは黙って彼を見つめていたが、やがて小さく微笑んだ。
    「そんなことできませんよ」
    「けれど……この屋敷に私がいるのに勇作さんがいないなんて、そんなのおかしいでしょう。貴方だって妾腹のこどもより自分のこどもが愛しいだろうに」
    母は兄様を否定しなかった。ただ兄の言葉に、困ったような笑顔を浮かべるだけ。
「でも、あなただって、私を母とは呼べないでしょう?」
    蚊の鳴くようなか細い声で、氷のように冷たく鋭い言葉。それは兄の体温を奪うにはあまりにも十分すぎた。
    包帯に覆われたその顔からは表情は読み取れないが、唇をぎゅっと噛んで項垂れている。
    「……すみません、貴方の気持ちも考えず」
    「お互い様でしょう」
    「……申し訳、ありません」
    「謝らなくて良いのよ」
    兄様の手が小さく震えている。気がつくと、血まみれの悪霊が兄の肩にぺたりと張り付いていた。
    段々と顔色が青くなっていく兄に気づいた母は、使用人を呼んで兄を部屋まで送り届けるようにと伝えた。

    しかしその夜、兄の罪悪感は新たな形を取って現れた。

    その夜兄様の部屋に現れたのは、血まみれの私ではなく、知らない女性だった。
    紅葉柄が施された橙の着物に身を包んだ彼女は、三味線を片手にふらふらとしている。
    今までの“罪悪感”と同じく、彼女も真っ黒な血をだらだらと垂れ流していた。けれども一つ違うのは、それが頭部ではなく口元から流れ出ているということだ。彼女は何も話さず、ただ無言で兄を見つめていた。
    それだけではない。なんと彼女は、隣に幼い少年を連れていた。少年は隣の女性の着物をぎゅっと握り締めながらも、その目はこちらを向いていた。
    ぱっちりと開かれた黒曜石のような瞳。誰かに似ている気がするけど、何故か思い出せない。
    『おっか』
    少年は、女性のことをそう呼んだ。
    その瞬間、ベッドに横になっていた兄様が突然がばりと身を起こした。信じられないような目で“罪悪感”の代わり捨てた姿の方を向く。
    そしてその二人を認識すると、両手で頭を抱えてしまった。
    「う……ッ、ぐ……」
    「あ、兄様!」
    就寝前に巻き直してもらった包帯をぐしゃぐしゃと乱雑に引っ張るその姿は、兄が今まで以上に錯乱していることを雄弁に物語る。
    「は、はは。なんてタチの悪い幻覚だ、クソッ……」
    包帯の端が外れて、するすると落ちていく。兄様は窪んだ両眼をあらわにして、ぶんぶんと首を横に振った。
    女性と少年にはそれが見えていないのか、一切動じることがなかった。その少年は無邪気に女性に手を伸ばし、何かを話しかけているようだった。
    今までの、私の姿をした罪悪感はいつも兄に言葉を掛けていたのに。性格の差なのだろうか。
    ── 彼は無意識のうちに、“花沢勇作”の形をした罪悪感に苛まれているのですよ
    ── 私はあくまで兄様が作り出した幻覚ですから、勝手に消えることはできないのです。彼の望む言葉をかけてあげることしかできません。
    偽物の私が言っていたことが脳内に反響する。
    あれが本当のことであるならば、今目の前にいる女性と少年も兄が望んで作り上げた姿ということになる。
    果たしてどんな因縁がある者なのだろうか。
    そんなことを思っているといつの間にか女性が座り込んでいた。女性と目線が同じになった少年は、嬉しそうに彼女に抱きついている。
    「……やめろ」
    腹の底を這いずるような声。まさか兄からそんな声が発されるとは思わず、反射的に後退りしてしまった。けれども視界に映るのは苦しそうに頭を振り乱す兄の姿だ。私は兄の隣まで駆け込んだ。
    「あ、あにさま! 落ち着いてください。貴方に危害を加える方ではございませんから……」
    聞こえない、触れられない。そうわかっていても身体が勝手に動いてしまう。
    兄はそんなことお構いなしに、額に手を押し当て、狂ったように被りを振る。
    「やめろ、俺にそんなものを見せるな。もう見えないはずの俺に見せるな! 勇作さんといい貴方といい、なんなんだ……。生きている人間は、いつも隣にいるはずの勇作殿の母君のことはこれっぽっちも見えないのに、どうして終わったことばかり、はっきりと映るのか」
    最初は感情に任せて叫んでいたのに、最後の方は、ただの独り言のように小さくなってしまった。
    『ひゃくのすけ』
    振り向くと、着物姿の女性がこちらを向いていた。彼女に抱きついていた少年は、いつの間にか消えてしまったようだ。
    彼女はずるずると着物を引きずりながら兄様の方へと近づき、そして頭を抱えている兄の手の上から、彼女のそれを重ねた。
    『痛かったでしょう。百之助は、強いのね』
    「おっ母……」
    小さく掠れたその声は、けれどもはっきりと母上のことを指していた。
    頭部を掻きむしっていた手がずるりと落ちる。
    「すべて、間違いでした」
    兄の目には涙が浮かび、その声は叱られた子どものように震えて縮こまっている。けれどもそこにあるのは恐怖ではなく、永遠のように続く後悔だった。
    「ごめんなさい……あなたを殺してしまって、ごめんなさい」
    「な……!」
    兄様の母君が亡くなられていたことは知っていたが、まさか兄が殺していたなんて。驚愕の事実に思わず息を呑む。
    思慮深い兄が、母君を手にかけたなんて信じられない。それに布団の上で母君の手を大事そうに包む兄と、血を流しながらも慈愛に満ちた眼で兄を見る女性を見ていても、二人はお互いを大切に思っていたのだと痛いほどわかる。
    私は一歩遠ざかり、二人を見守ることにした。尾形家のことに関しては、どうしたって私は部外者になってしまう。私の姿は見えていないとしても、二人きりになってほしかった。
    兄は両手の中に収まる母君のそれをぎゅっと掴んだ。先ほどの小さなこどもが彼女を抱きしめていた姿と重なる。
    ああ、あの子も兄様だったのですね。
    「あなたを、愛していました」
    ぽつぽつと口元から思いが落ちてゆく。
    「愛していたから……愛されたかった」
    兄は窪んだ両目で目の前の女性を見つめた。それに応えるように、彼女は兄様の頬を撫でる。
    兄は母君の手から自分のそれを離して、手元の布団を力任せに握った。真っ白な布にいくつもの皺が生まれる。
    「貴方は父上のことがずっと好きでしたね。おとっつぁまに会いたいといい、私にはおとっつぁまみたいな立派な将校さんになりなさいねと言っていた……」
    兄の目には、きっと幼き日々が映し出されているのでしょう。
    私は兄のこどもの頃の話を聞いたことがなかった。一度私から自身の幼少期について話したことがあったが、兄は苦虫を噛み潰したような顔をしたのだ。いつもはあまり感情を表に出されない方なのに、その時ばかりははっきりと嫌悪感を表に出していた。
    立派な将校さんになって欲しいと望まれて軍に入ったのだとしたら。やっと上等兵になれた頃に、少尉となった弟が現れたら。
    「愛した人の望みを叶えてあげたかった」
    女性は小さく頷いて、兄へ微笑みを向けた。兄は、それを困ったような顔で受け止める。
    「でもきっとそれだけじゃなくて、喜ばれたかったんだと思います。俺を、見てほしかった」
    頬を伝う雫が、ぽたり、ぽたりと布団の上に垂れていく。
    「貴方が毎日あんこう鍋を作るのと同じように、俺は毎日鴨を撃って帰った……俺とおっ母は、似ていますね」
    兄は右手で輪っかを作って、女性の前に差し出した。きっとああやっていつも撃ち落とした鴨を渡していたのだろう。
    『いつも鴨を獲って来てくれてありがとう。あんなに重い銃、抱えるだけで大変なのにちゃんと仕留めるなんて、本当にすごいわ』
    女性はゆっくりとその手を兄の頭の上に乗せ、髪を撫で付けるように何度もその輪郭をなぞった。いい子、いい子という声が聞こえる気がする。
    『……でもそんなものがなくても、私はあなたを愛していたのよ。伝えられなくて、ごめんね』
    いつの間にか布団の皺は消え、兄様は穏やかな笑顔を浮かべていた。何かを伝えたいのか唇が開かれたが、聞こえてくるのは息を吐く音のみで、それは静かに閉じられた。
    この空間は、何の言葉もなくても満たされていた。

    その日から、どのような形にせよ、“罪悪感”が現れる日は無くなった。私は兄様が苛まれなくなったことに安堵していたが、一方で兄はベッドから起き上がらない日が増えてしまった。体調が芳しくないと言う彼を心配して、使用人は枕元まで食事を持って来てくれる。しかしそれもほとんど手をつけない。
    母との会合もあの日以来なくなってしまった。
    病の兆候はなかったように見えるが、一体どうしたと言うのだろう。

    「兄様」
    私が囁くと、兄様はふと顔を上げた。だが、当然私の声は聞こえない。
    「勇作さん…?」
    聞こえないはずなのに、兄からの返答があった。こんなのは、初めてのことだ。
    「私がわかるのですか」
    「わかるも何も、今までも毎晩化けて出てきたでしょう。いったいどこへ行ってたんですか」
    「ええと、それは……」
    「珍しく血を垂れ流してないんですね。気分で変えられるんですか?」
    「いや、そういうわけでは……」
    「貴方さえ見えない世界は、本当につまらなかった」
    「……そうですか」
    ああ、だめだ。どうしたって頬がニヤけてしまう。兄様が言う“勇作殿”は私ではないのに、それは限りなく私のことなのだ。たまらなくなって兄様を抱きしめる。勿論幽霊であるから、無情にも腕は兄様の体をすり抜ける。けれども落胆するより前に、兄様の手が私の背中に触れた。
    「あ、あにさま」
    声が震えている。平静を装おうとしたところで無駄だった。兄様から手を添えてもらうのは、私の生前の夢だったのだ。私の心臓は死んでもなお喜びに震えている。同じように兄様の背中に手を添える。硝子に触れるように、そっと。
    「ふふ、不思議だ」
    腕の中で兄様が笑った。ああ、兄様。あなたの笑顔を私はどれだけ待ち侘びたことでしょう。
    「どうなさいましたか」
    「今までは貴方に触れられると苦しくてたまらなかった。でも今日は、なぜか暖かいです」
    無意識下ではあの幽霊が偽物の私だということに気づかれていたのではないかと思う。それでも手を離せなかったという事実を私の良いように捉えていいのであれば、私は兄様にとって何かしら意味のある
    「それは良かったです。兄様が苦しまれるのは見たくないですから」

    ぽたり。
    反射的に顔を上げると、そこには久しぶりに見る罪悪感の姿があった。私そっくりの悪霊は、黙って私と兄を見ている。
    今までのような不気味な笑顔は消えていた。全ての感情を削ぎ落としたような冷たい目で、私を見つめている。
    「……兄様、は……」
    「私に罪悪感を抱いているのですか?」
    重苦しい沈黙が、辺りに広がっていく。兄も悪霊も、時が止まったように動かない。
    そうして暫くして、語り出したのは兄だった。
    「勇作さん」
    「はい」
    「……二○三高地で、貴方を、撃ちました」
    「……」
    「流れ弾などではありません。私が、貴方の頭部を狙って、撃ちました。私は外しません……弾は突然のように貴方の頭部を貫いた」
    トントン、と偽物の私が頭部を叩いて見せる。彼の人差し指の先からは今も黒い血がだらだらと垂れ流されている。
    あの傷は兄様がつけたものだったのだ。
    「俺は、ただ……」
    「父上からの愛情を受けてみたかった。そのために貴方を殺してしまった。貴方には……何の罪もなかったのに」

    「申し訳ありませんでした」
    「謝ることなどありませんよ」
    「私がそうしたいのです。許してくれなくても、いい。ただ、貴方に謝る機会を持てなかったことをずっと……後悔していた」
    ──ああ、そうか。
    私が幽霊になってまで現世に来られた理由がやっとわかった。私に罪悪感を抱き続けてきた兄様が、私を呼び寄せてくださったのだ。

    「貴方がこれだけ見てくれていたのに。それ以上を求めるなんて、まるでこどもだ」
    「そんなことございません。幾つになっても子が親の視線を独り占めしたがるのは、自然なことです。兄様が母君を思うのも、当たり前です」
    「貴方もそうだったのですか?」
    「はい。ですが、それ以上に兄様の視線を独り占めしたかった」
    「言ってることがめちゃくちゃだ」
    自嘲するように笑う兄様を、気づいたら抱きしめていた。あの夜、私が捕虜の殺人を拒絶した時と同じように。
    「兄様」
    「勇作。……愛してくれて、ありがとう」
    私の背中に兄の手が触れる。ぎこちないけれど、確かにそれは意志を持って私のことを包んでくれた。やっと本当の兄弟になれた気がした。
    「幽霊とはいえ、伝えられて良かった。これで悔いなくあの世へ行ける」
    「え……?」
    「死んだところで私は地獄行きでしょうから、貴方に謝る機会も無かったでしょうし」
    頬を緩ませる兄に対し、私は突然の告白に気が気ではなかった。
    「何を仰っておられます。ここは戦場ではありませんし、兄様は病気でもございませんよ」
    「この世で息をする理由がもう無いので」
    最近の兄の気候に合点がいく。兄は生きる気がなかった。だから食事も会話も運動も、彼に獲ってはもう必要のないものだとされていたのだ。
    私は兄に生きてもらいたくて必死で、両手で兄の手を握りしめた。けれども何を言ったらいいかわからない。口を開けども何もいえず、ああそうだと思い出したことをそのまま叫んだ。
    「まだ兄弟らしいことをしていません!」
    びくり、と兄の手が震える。けれどもそこに嫌悪は感じられない。逃がさないとばかりにもう一度力を込めると、兄は「ああ、まあ…そうですね」と平坦な口調で答えた。
    「でももう無理でしょう。貴方はこの世にいないし、私もこんな落ちぶれている」
    「いいえ。無理ではないですよ。この可愛い弟の我儘を一つ聞き入れてくださいませんか?」
    「可愛いもんか。俺よりデカいくせに」
    「愛嬌があるでしょう」
    ふふ、と笑うと兄様も釣られて頬が緩んだ。ああ、可愛らしい。いつまでもここにいられたらいいのに。そう思った。
    けれどもその意に反して、今まで地に縛られていた魂が空に還りたがっている。
    おそらく兄が心の底で望んでいた私との会話が終わったからだろう。
    私も“私の姿をした罪悪感”と同じく、兄に望まれてここにいたのだ。
    「ああ兄様、もう時間がありません。だから最後の我儘だけ言わせてください。花沢家が兄様に合わなければ出ていただいても構いません。どのような形でも良いですから、私の代わりにこの世に触れて、たくさんの思い出話を抱えて、私に会いに来てください。私が望むのはそれだけです」
    「……思い出話?」
    「ええ。兄様のお話を、私は聞きたい」
    生前は私が話すことが多かった。季節の話、お気に入りの甘味処の話。兵舎裏に住み着いた老猫の話。そんななんてことのない話を、兄様はいつも穏やかな顔で聞いて下さった。
    でも本当は、兄様の話も聞きたかったのです。穏やかな深い声で奏でられる彼の世界は、とても心地良いから。
    「約束ですよ。次に会う時までに、必ず」
    「はは。盲の男には難問ですなあ」
    「見えるものが全てではありませんよ。花の香りの話だって、勇作は嬉しく思います」
    腕の感覚が無くなっていく。視界も霞み、兄の輪郭がぼやけて掴めない。
    ああ、貴方ともっと生きたかった。けれども兄様はきっと、私の分まで生きてくださるでしょう。
    私に話すための、たくさんの思い出話を作るために。

    兄様、またお会いできる日を待ち望んでおります。
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