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    CarpeDiemAS

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    CarpeDiemAS

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    なんだか妙な雰囲気の土銀。起承転結の承のはじめくらいまで。
    最近あまりにも何も載せられてないので、実はちまちま書き進めてるやつを投下。

    毎日少しずつ原稿やってはいるんですけど、流石にそっちはネットに上げられないので…。

    #土銀
    bank

    こいのはなし01

     三日三晩降り続いた大雨がようやく止んだ朝。神田川からうら若い男女の死体が上がった。
     無慈悲にも若者の命を奪った天災の猛威……と通常は考えるところだが、この件は自殺として大々的に報じられた。揃って橋の欄干から飛び降りるところを目撃した者が何人も居たのである。
     当該男女は身分違いの恋人同士で、二人して生家を出奔した挙句の心中だったのだという。
     何年に一度の大豪雨と昼も夜もなく騒ぎ立てていた放送各局の目玉は、全てこのメロドラマな悲劇に切り替わった。何処から入手したものなのか、生前の男女の写真がこれまた芸能人顔負けの美男美女であったことが、視聴者の好奇心を煽ったのだろうということは明白だった。

    「今どき惚れた腫れたで命まで捨てるかね」

     男女が如何に非業の運命を辿ったのかを、ワイドショーのコメンテーターが語る。出所の胡乱な根拠を元に、いかにも劇的に装飾されていく恋物語を聞き流しながら、銀時は朝食を掻き込んだ。

    「種も畑もカピカピに乾燥した中年には分からない話アルな」

     真正面に腰掛ける神楽も同じようにして卵掛けご飯を流し込んでいく。連日の同一献立でありながら、飽きている様子もやけくそで流し込んでいる感じも見受けられないのは流石と言うべきか。

    「誰の種がカピカピだ」

     調べたことはないけれども。仮にそんな経験があったとして、年頃の娘相手に自分の生殖細胞の様子を語るようなコアな趣味も持っていないけれども。

    「乾かすならせめて別のモンにしとけ」
    「カピカピにしてるのはティッシュの方だったアルか」
    「ちっげーよ! 乙女心とか、恋心とか! そういうことを言ってんの!」

     銀時が悲鳴じみた声を上げると、口腔に収め損ねた米粒がいくらか飛び出した。
     男同士なら猥談も吝かではないが、思春期真っ只中の少女相手には流石に気を遣う。しかも自分が保護者代わりを務めている少女ならば尚のことだ。

    「アラサー独身男性のくせに乙女心を標榜するとか厚かましいにも程があるネ」

     当の神楽はまるで気にしている風もなく、涼しい顔をしていた。確かに一般に年若い女を指す「乙女」の心なぞ、そろそろ三十路を迎えようかというこの無骨な胸に収まっている筈はずはないのだけれど。

    「乙女心はさておき、恋心はあってもおかしくないだろ。アラサー独身男性にだって」
    「ほう」

     神楽が興味ありげに箸を置く。ことり、と椀がテーブルを打つ音がいやに響いた。

    「詳しく聞こうじゃあないか」

     刑事ドラマの真似なのか、開いた膝の上に肘を預けて上体を傾げている。用済みになった皿の上は既に空になっていた。

    「いや、ものは喩えってだけだって。ナイナイ、無いよ。銀さんにその手のゴシップはないから」
    「最近妙に飲みに出掛ける日が多いネ」

     じっとりと品定めするような視線を向けられる。ありもしない口ひげを扱くような手つきをしてから、神楽の小さな人差し指の爪がこんこんと食卓を打った。

    「たまたま依頼が続いて懐に余裕があっただけだろ。夜のうちにちゃんと帰って来てるし」
    「私が朝起きるまでの間を夜と見做すのであれば、の話でショ」
    「それは四捨五入して夜のうちでいいだろ」

     そのくらいの夜遊びは許せ、と軽口を続ける。それほど強い語気を込めたわけではなかったが、束縛を嫌ってこちらの好きにさせろという言い分がこの時の神楽には気に喰わなかったらしい。

    「あーあ、あーあ」

     大袈裟に首を振って、神楽は明後日の方に顔を向ける。あくまで独り言ですよという小芝居だ。

    「人が敢えて見逃してやってるだけなのに、男って鈍い生き物よねぇ」

     頬杖をついて腰をくねらせる仕草からして有閑マダムの真似だろうか。最近テレビを見せすぎているかもしれない。かぶき町なんかを根城にしていると、真昼間にその辺をぶらついているだけでも訳知り顔で男を語る女など容易く見つけられるので、参照元はそちらかもしれないが。
     何にせよ、半ば吐き捨てるように神楽が言った。

    「いつもいつもニコチンマヨ警察に会いに行ってるの、バレてないとでも思ってんのかしら」
    「んぐふっ」

     今まさに啜り上げようとしていた茶を盛大に湯呑に噴き戻して、銀時は強くむせ込んだ。かほ、かほと横隔膜を上下させるが、その瞬間まではまるで気にならなかったお茶の渋さが妙に喉に絡む気がした。

    「なん、……なんっ、な……」
    「ニコマヨに担がれて帰ってきたこともあるの、分かってないんでしょうね」
    「はあ⁉」

     それは初耳だ。全く記憶にない。……が、反射的に叫んでしまった後で、そこまでならさほど騒ぐような話でもないことに気がつく。
     新宿中央公園近くに居を構える真選組とはそれなりに行動圏が被って当然であるし、幾らかの死地を共に潜り抜けた間柄として、万事屋と一部の隊士はそれなりに気安い関係を築いている。その中には、当然のように真選組副長、土方十四郎も含まれている。
     坂田銀時個人ではなく、万事屋として、であれば何もおかしなことはないのだ。

    「なんだよ、別にいいだろ。前みたいに会う度に揉めてるならまだしも、それなりに上手くやってんだから」

     そもそも、会いに行っているという時点で事実誤認も甚だしいところではあるが。たまたま行動圏が被って、たまたま店の趣味が合って、落ち着いて飲んでみたら案外ウマも合ったので、ノリで飲み友達のような関係に落ち着いているだけだ。
     何度か相席するうちに遭遇率が上がったような気もするが、間違っても次の約束なんざしたことはないし、勿論連絡を取り合うようなこともない。

    「ちゃっかり連絡先は交換してやがんの」
    「ちげえって! そりゃ江戸に戻ってきた頃にあいつに言われて仕方なく。俺が居ない間に江戸でも色々大変だったって言われたら断りようねぇだろ」
    「ふうん」

     こちらには黙って江戸を出奔した引け目があるのだから、連絡だけはつくようにしておけと言われれば返す言葉がない。分かるだろう、と首を傾げて訴えてみたものの、神楽の態度は変わらなかった。

    「私だって銀ちゃんと殆ど同じタイミングで地球を離れたけど、連絡先なんか聞かれてないアル」

     なんだか若干拗ねているような気配すら感じられる気がして、つられるように銀時の言い分もまた言い訳めいた響きを含むようになっていた。やましいこともなければ、申し開くべき事柄もないというのに。

    「それは万事屋の代表としてたまたま俺のを聞いただけで」
    「たまたま、たまたま、またまた、たまたま」

     うんざり、と言わんばかりの顔だった。痛くもない腹を探られてそんな顔をしたいのはこちらの方なのだが。

    「大人の恋には言い訳がたくさん必要アルな」
    「いやだから、薄気味悪いこと言うなよ」

     よしんば大人の恋がそういうものだとして、なんでよりによって相手があの男でなければならないのだ。腐れ縁からの飲み友達というだけでも大躍進だろう。そこから恋仲というのはいくらなんでも欲張り過ぎた。少女漫画か。

    「だけど本当にそんなに偶然に偶然が重なり続けたら、それはもう運命の恋ヨ。月9ドラマ待ったなしネ」

     図らずも頭の中と似たようなことを言われて反応が遅れた。動揺したのかもしれない。何に動揺したのかは、正直よく分からない。

    「運命の恋って」

     大躍進どころの騒ぎではない。欲張りなんてもんじゃない。まあたしかに、たまたまだ偶然だと言葉を重ねる度にあまりにも都合がよくて苦しい言い訳のように感じることもあったけれど。それが事実なのだから仕方がないだろう。

    「あの二人だって、そう思っちゃったんじゃないアルか。自分たちは運命なんだって。気の持ちようとか思い込みだとかそういうことじゃなくて、至極真っ当に落ち着いて考えてみて、事実としてこれは運命の恋なんだって」

     不意に話題が回帰した。あの二人、というのはニュースで取り上げられた男女のことだろう。やんごとないお家柄の令息とその女中の許されざる恋。儚い恋物語は、今も二人の遺書の内容を好き放題ほじくり返すという形でワイドショーの主役になっている。本人たちの弁によれば、生前は口吸いの一つも交わさなかったというプラトニックさが余計に話題性を生んでいるのだった。

    「……い、いや。なに丸め込もうとしてんだ。全然話が違うだろ。あっちは見目麗しい美男美女。こっちは中年のおっさん。共通項なんか何もねぇから。違うから。なんでそう俺とあいつをそういう話にしたがるんだ、お前は」

     近頃はその手のドラマだの映画だのが増えてきたのだったか。まあ女性人気はあるようだし娯楽としては否定しないが、実生活に持ち込まれてもご期待には沿いかねる。男の胸板なんかよりも女の巨乳の方が断然良い。
     また何かドラマでも見やがったのかと問うと、神楽はあからさまにむくれた。

    「流行り廃りで騒いでるだけの子供だと思うなヨ」

     むしろ流行り廃りで騒いでいるだけであってもらわないと困るのだが。物的証拠だの状況証拠だのを積み上げられて、自白を強要されては堪らない。
     しかし盲点だった。子供というのは、時に大人が堪らなくなるようなことばかりをしてみせるものだ。それこそ刑事ドラマ顔負けの容赦のなさで。

    「見たもん」
    「何を?」

     食い気味な、短い中に目一杯の警戒心が滲む返事は、意識して発したものではなかった。条件反射、脊髄反射、何だっていい。頭が考えるよりも先に危険信号が点灯していた。色はまだ黄色だが、点滅して存在を主張している。
     神楽はすぐには答えなかった。思い出したように食卓の上の椀を持ち上げて箸を動かしてみせるが、その中身が既に腹の中に収まっていることは確認済みだ。
     渋られるほどに問い詰めたくなる。それが自分を追い詰める行為と同義だと、何となく予想はついていたとしてもだ。

    「なんで隠すんだ」
    「隠してるのは銀ちゃんでショ」
    「何の話だよ。胡麻化すなよ」
    「だから、胡麻化してるのは」

     言いかけて、口を噤む。その貞淑さは他の時に発揮するべき美徳であって、今はその時じゃない。
     一体何を見たというのか。
     神楽が勿体ぶるほどに胸の内がぞわぞわした。そろそろ三十路を迎えようかというこの胸に収まっているのは、生憎と乙女心ではなくただの臓器なのだけれど。

    「銀ちゃんは、本当に何とも思ってないアルか?」
    「何を」
    「トシ」

     それは近藤がよく口にする愛称だ。銀時自身はそう呼んだことはない。神楽も普段はニコチンだのマヨだの、嗜好品にちなんだ呼び方をするので、腰を据えたときにはこの愛称を用いるとは知らなかった。土方本人も知らないのではないか。

    「何ともって——まあ、落ち着いて話せば悪い奴じゃねぇよ。それなりに話も合うし」

     だからと言って、たかだか酒の相手にいちいち恋仲を疑われては、かぶき町周辺は愛人だらけになってしまうのだが。

    「それだけ? 本当に? 本当の本当に?」
    「ほん……つうか何なんだよ、この念押しは。俺にどう答えてほしいんだ」
    「いつも同じ時間に、同じお店に行って、同じ人とお酒を飲むのは待ち合わせじゃないの」

     思わず返事に詰まってしまった。うぐ、と喉仏が上下する。家を出る時間は兎も角、行先についてはおおよそしか神楽には伝えていなかったはずなのに。

    「ではない、だろ。たまたまルーティンが被ったってだけで」
    「たまたま」

     いやに強調した言い方をする。これ見よがしに。これ聞こえよがしに、当てこする。

    「そう、たまたま」

     ここで折れては負けだという気になって、敢えて同じ文言で返した。
     やましいことは何もない。探られて痛い腹はない。この胸の内には乙女心なんてけったいなものは息づいていない。

    「絶対に起きるって分かり切った偶然なんて、そんなの故意でしかないヨ。銀ちゃんはそんなことしない。そんな風に同じ人とずっと居るなんて、銀ちゃんはしない」
    「居るんじゃなくて、居合わせたんだ。故意じゃない、断じて」
    「銀ちゃんはそういうことはしない。そうなる前に離れちゃう。だから言い訳が要る」
    「違う。違うって。勘弁してくれよ、何なんだ」

     あまりに分かったような物言いをするから、年齢差に当てつけて「お前に何が分かる」と口走りそうになるのを、寸前のところで飲み込まねばならなかった。
     これは一体何を責められているのだ。何だってこんな風に、追い詰められた犯人のように言い逃れじみたことをしなければならない。

    「逃げられるのに逃げないのは、銀ちゃんも会いたいからでショ」
    「飛躍しすぎてる。そもそもなんで俺が土方くんから逃げなきゃなんねぇの」
    「追いかけられてるのを、知ってるから」
    「有り得ない」
    「銀ちゃんもそれに応えたいから」
    「ますますもって有り得ない」

     神楽が口にするには一から十まで世迷い事でしかなかった。全く以ってふざけている。
     百歩譲って、頭の何処かで意固地になるように曜日毎に行く店を固定にしているのは認めよう。時間も大体決まっているので、何処かの誰かがこちらの行動パターンを読もうと考えればそれは容易であることも認めよう。土方は察しのいい男であるので、恐らくこちらの動きは読まれている。
     それでも相変わらずお互いの行動パターンを変えないのは、その必要がないからだ。毎度毎度顔を合わせるとなれば互いの存在を全く意識していないとは言わないが、それもちょっとした対抗心が故であると言えば説明がつく。
     意味はない。大した意味はないのだ。

    「コンビニだってスーパーだって、いつもいつも顔見知りと顔を合わせたら、いい加減たまには店を変えたり時間を変えたりするものネ」
    「飲み屋と買い出しは違うって」
    「普通に考えて、外食の時に居合わせる方が嫌だヨ」

     普通そうだよ、と神楽は繰り返した。普通とは何だろう。強調されると、なるほどそうかもしれないという気はした。だとしたら自分は普通ではないんだろう。たぶん土方も。

    「銀ちゃんはそれが嫌じゃないんでしょ」
    「嫌がる理由がない」
    「それは凄く、特別なことだと思う」

     顎に手を当てて考え込んでしまった。特別とは何だろう。
     自分も土方も普通ではないのだろうということまでは飲み込めても、自分にとって土方が特別であるとか、土方にとって自分が特別であるとか、そういう話に行き着くまでにはもっと多くの段階が必要であるように思われた。

    「だけどそれは理屈が」
    「理屈じゃないから、止まれないんでショ」

     神楽がテレビの画面を一瞥した。
     江戸幕府なき今となっては武士の階級はいずれ解体される定めだろうが、士族でなくても古く続いた家柄であればその階級なりの道理というものを抱えているはずだ。それを外れる常識破りのルール違反。理屈に合わず、利も示せない袋小路。それでも引き返せない死出の恋路。
     似合わないどころの騒ぎじゃない。しかしこの手の男女の物語は大昔からの古典と言ってもいいようなもので、それはどんな実感をもって降り注ぐのだろうと考えないこともなかった。
     それこそ古典芸術のように。「恋とはどんなものかしら」と。理解できない、分からないと歌劇の中の男は歌い上げたのではなかったか。
     ああ、似合わない。せめてワイドショーに取り沙汰されたような美男美女でなければ、薄ら寒くて笑えもしない。

    「好きで好きで堪らないのだけが運命じゃないヨ。その人だけがどうしようもなく特別で、この先なんか無いって分かってても、一緒に居たいこともあるネ。パピーとマミーがそうだったみたいに」
    「……俺は、お前の親父とお袋とは違うよ」
    「同じじゃなゃいけない理由もないヨ。特別は、特別だから」

     それはそうだが。同じになろうとしても無理があるし、そもそも寄せたいとも思ってはいないが。
     何となく思考を誘導されているような不本意さを感じつつも、土方の顔を思い浮かべる。あの男と、そっくりそのまま立ち位置を挿げ替えられるような存在は他にいるだろうか。考えようと意識するほどに頭の働きは鈍った。
     しかしそれを言い出したら、誰もが唯一無二みたいな話に帰結しやしないだろうか。ユーアースペシャルというやつだ。それこそ神楽の替えは居ないし、新八の替えも居ない。それと全く同じように、全く同列に、あいつの替えも居ないというだけなのでは。

    「人類愛みたいなもんだろ」
    「それじゃあ真逆ヨ、誰も彼も見境なしに大好きなのが人類愛なんだから」
    「じゃあここは譲って隣人愛。人類は知らねぇけどご近所さんくらいは見分けがつくだろ。その程度の特別さと、その程度の愛情でいいならまあ認めてやってもいいさ。知らない仲でもないしな」

     くだらない問答はここで仕舞いだとばかりに銀時は膝を打った。もういい時間だ。今日も昼前から依頼が入っている。それなりに贔屓にしてもらっている客なので格式張る必要はないが、それでも商売は信用第一だ。遅刻は好ましくない。

    「俺はもう行くから、後片付けだけ頼むわ」

     僅かに残っていた米粒を箸で集めて、銀時は立ち上がる。すぐさま長着に向かって手を伸ばそうとするその背中に向かって、神楽は言った。

    「じゃあなんで、ちゅうしたの」
    「は?」

     指先に触れた着物をそのまま握り込んで銀時が振り返った。ソファに腰掛けたままの姿勢で、神楽は銀時を見上げている。

    「見たもん。私……見たもん」

     先ほどは答えを得られないままだった質問の答えがそれなんだろう。しかし、銀時には身に覚えのないことだった。身に覚えはないし、百歩譲っても千歩譲っても可能性に心当たりがないことだった。

    「……いつ」
    「この前、銀ちゃんが担がれて帰ってきた日。トシが銀ちゃんを布団に寝かせて、私が水を汲みに行って……その時に」

    刑事ドラマの見過ぎで何かにかぶれているように思われた神楽は、現場の第一発見者でもあったのだという。気まずそうにちらちらと見上げる視線には、一抹の罪悪感のようなものが見て取れた。
     もしかしたら、神楽としてはこの事実を告げる前に言質を取っておきたかったのかもしれない。双方の合意がない状態で為された行為というのは、後々になって波紋を呼ぶ。複雑怪奇な男女の仲だ。それが良い結果を招く例もあるが、徹底的に話が拗れる場合もある。神楽はそれを望まないのだろう。
     そもそもの話、今回は男女の仲というか男と男の仲の話なのだけれど。

    「知らない」
    「銀ちゃんは起きてた」
    「覚えてない」
    「たぶん、そうだろうと思ったけど」

     一緒に酒を嗜むなど最早日常の一部に成り果ててしまっていて、具体的な日付は思い出せなかった。しかし、帰ってきたときの記憶がないほど飲んだくれた日は限られている。カレンダーを見れば何となく暦の感覚は掴める。
     そんなことになっていながら、土方はかれこれ半月以上も何食わぬ顔で自分と会っていたことになる。仮に直近の候補日だったとしてもだ。
     犬に嚙まれた程度のことと思って流したのかもしれない。
     何にせよ、土方が敢えて言及しないのならそれはノーカウントとするべきだ。大人同士のマナーというものがある。掘り返さない方が良いものはそっとしておくのが暗黙の了解だろう。

    「あいつも、何も言わなかった」
    「口に出さないからって、何も存在しないってことにはならないヨ。むしろ恋は秘めるのが醍醐味だってそよちゃんが」
    「そりゃあ、一国のお姫様ならいざ知らず」
    「真選組の副長と、万事屋の社長じゃ話が違う?」
    「違う……だろ。全然、ちがう、とおも……う」

     尻すぼみになっている語気が情けなさを際立たせていた。比べるべくもない。確かに、男所帯の武装集団をまとめ上げる立場としては、同じ男に向ける思慕など大っぴらにはし辛いだろうが。
     しかし、あの分かり易い男が周囲の目など気にして恋心を秘匿するなど想像もつかない。隠したそばから漏れ出そうな気もするが。

    「神田川に飛び込んだ二人も、そうなるまで誰も気づかなかったって」
    「いやいや、流石に。無いって、それは無い」
    「銀ちゃんがそう言うって分かってたら、トシも言わないネ。世界中に後ろ指さされるのだって平気でも、その人と離れられないのが恋なら」

     恋とは理屈に合わないものであると言うのなら、唯一人の反応を気にして秘める想いというのもあるかもしれない。あるかもしれないが、殊にそれが土方と自分の間にあるかと言われると首肯致しかねる。
     しかし現に、目の前には目撃者がいる。およそ同性の飲み友達とはしないような行為を、確かに記憶している者がいる。酔い潰れた自分を介抱していたというのなら、おそらく土方も覚えているのだろう。

    「……そもそもどっちからだ。俺からかあっちからかで話が結構変わってくるんだけども」
    「最初は銀ちゃんからで、次はトシから」
    「どっちもかあ……」

     がっくりだ。行為の文脈を読み取ろうにも、可能性が半分になるどころか二倍の濃度になってしまった気がする。せめて自分から仕掛けただけなら全てアルコールの所為と言い張れたのに。

    「駄目なの?」
    「いやまあ駄目ではない……駄目ではねぇけど、良くもないっつうか、俺とあいつとじゃ不自然っていうか」
    「だって。乙女心はさておき、恋心はあってもおかしくないんでショ。アラサー独身男性にだって」

     自分で放った言葉で刺されるのは、してやられた気分だった。土方に、なのか。神楽に、なのか。はたまた自分に、なのか。揚げ足を取られて、足元を掬われている。
     恋心くらいあってもおかしくはない。かれこれ二年以上前になるが、どうやら土方が同郷の女に懸想していたらしいことも、その顛末も知っている。あの堅物だってそういう情を抱くのは知っているけれど。

    「銀ちゃんにも、トシにも」
    「それは……たしかに、そうだけど」

     土方の、妙に柔和な微笑みを湛えた顔が脳裏に浮かぶと、それ以上言い返すことは難しかった。
     最初は自分からだったか。何だってそんな面倒事しかないようなことをしてしまったのだ。顔見知りにだけは手を出すまいと固く誓っていたというのに、男相手となるや箍が外れるなんて予想出来るわけがないだろう。
     しかし土方も土方だ。二度目はあちらからだと言うではないか。何だって酔っ払いの戯れなんかに乗ったのだ。人を介抱する程度の理性を残していながら、どうして。
     自分がやったことを棚に上げて土方を責めてやりたいような気分になった。あいつさえ歯牙にもかけずに居てくれたなら、崖の上のサスペンスよろしく思春期の難しい同居人にこんな事実を突きつけられずに済んだかもしれないのに。

    「今日の出先は真選組だったアルな」
    「あ、ああ」

     この後の予定を思い出す。万事屋のスケジュールが埋まっていてこんなにも憂鬱な気分になるのは久しぶりのことだった。
     絶対に起きると分かり切った偶然を最早故意と呼ぶのであれば、これは一体どう捉えるべきだろうか。カレンダーには、今日の日付につけられた丸印から丁度一週間分の横線が伸びている。泊りの長丁場になるという意味だった。
     故意なのか何なのか、本日の依頼者は、他ならぬ土方だった。
     
     
     

     
     
    02

     かぶき町五丁目を発ってから、どんよりのっそり重い足取りで約三十分。歩き慣れた庭先のような街で、それ以上の引き延ばし工作は困難だった。
     だいたい、どれだけ気が重かろうが仕事として引き受けた以上は遅くとも約束の時間には顔を出さなければならない。精々で、それより少し先に顔を出して菓子でもたかってやろうという悪だくみが計画倒れになるくらいの効果しかないのだ。

    「あーい、万事屋銀ちゃんでぇす……」

     昼間ゆえ、見張りの隊士を配置しつつも解放されたままになっている門は、真選組から殆ど身内認定をもらっているらしい銀時の歩みを阻みはしなかった。顔パスに近いような扱いでにこにこと迎え入れられる。

    「ようこそ万事屋の旦那。今日は副長とお約束でしたよね」
    「あーうん、そうね」

     あまりにも身に馴染んでしまっていることだったのでこれまで気にしたことはなかったが、仮にも警察組織の根城にほぼ無警戒で進入できるというのは、実のところ結構な特別待遇のはずだ。それを要らぬ手間が省けると素直に思えたなら良かった。昨日までなら、それが叶っただろうに。
     隊士の中でも比較的新参と思われる若者に促され、堂々と正面玄関から屯所の中へお邪魔する。本当は案内などなくても屯所の間取りはある程度把握してしまっているのだが、敢えて慣れた感じを醸し出す気分でもなかった。

    「旦那のお噂はかねがね」
    「へえ、そうなの」

     道すがらの雑談はパッとしなかった。寄せられる妙な熱気に対して、気のない返事なのは自覚していたが、これ以上何と答えたらよいのか分からなかった。
     噂とはどんな噂だ。十中八九、これまで散々真選組と一緒になって馬鹿なり無茶なりやってきた話なのは予想出来ている。しかし万が一違ったらどうなる。近頃副長と懇意にしているだとか、そんなことを言われたらとても冷静に返せる自信はなかった。発言者に言葉以上の含みなどなかったとしてもだ。今だけは、上手く流せそうにない。
     だから寡黙を装って静かに歩いた。しおしおと、刑場に引き立てられるように。

    「副長、万事屋の旦那がお見えになりました」

     渡り廊下を進んだ先の部屋で、先導する隊士が立ち止まった。障子戸の中からは「おう」と短い返事が寄越され、すぐさま視界が開けた。煙たさはないのに、煙草の匂いがすると思った。目の錯覚ならぬ鼻の錯覚というやつなんだろう。
     二、三日ぶりに目にした土方は、執務机に体を向けたままでちらりとだけ視線を寄越した。

    「案内ご苦労」
    「いえ」
    「後のことはこいつにやらせるから、お前は通常通りの仕事に戻れ」

     小気味良い応答の後、小さく一礼をして案内役は来た道を戻っていった。その背中に頼むから行かないでくれと胸の内で訴えてみたところで詮無いことである。
     傍目には分からない程度に肩を落とし、銀時は後ろ手に障子戸を閉める。土方の右後ろ一歩半ほどのところに腰を落として部屋の様子を見渡すと、心なしかいつもよりも乱雑な印象を受けた。

    「小姓の代わりをすりゃあいいんだっけ。いつもの目ん玉クリクリの坊やはどうしたよ」
    「しばらく実家に帰っててな」
    「ついにパワハラに耐えかねたか」
    「馬鹿言え」

     聞き捨てならなかったのか、眉を吊り上げて土方が振り返った。近くに来てようやく分かったが、珍しく無精髭を生やしている。昨晩まともに寝ていたらそんな有様にはなっていないだろう。

    「兄貴が死んでしばらく経ったろう」

     先の見廻組局長、佐々木異三郎が鬼籍に入ってからかれこれ二年ほどになる。公的な扱いとしては、職務中に殉死したことになっている。彼は土方の小姓を務める佐々木鉄之助の異母兄だった。

    「真選組で修行中の身ってことで先延ばしにしてきたが、名門佐々木家の跡取りは消去法であいつってことになる」

     異三郎には妻と子がいたが、どちらも本人よりも先に亡くなっている。

    「家格のみならず資産も多い家だからな。色々と片付けるもんがあるんだと」
    「持てる者の悩みだな。その手の泥沼には不向きそうに見えたけど、大丈夫かね」
    「不器用な奴だが、ここ数年で度胸はついた。上手くやるさ」

     着任したての頃から比べれば、土方は明らかに信を置いているように見えた。こう見えて情に厚いところもある男でもあるのだったと、今更のように思う。二年も三年も間近で面倒を見ていれば流石に可愛げも湧くだろう。
     そんな小姓の不在の穴を埋めるのが、なぜよりによって他の隊士ではなく自分なのだということを、正面切って尋ねる度胸は銀時にはなかった。

    「俺は何すりゃいいんだよ。まず格好はこのまんまでいいのか?」
    「今日は事務仕事だけのつもりだから着替えはしなくていい。とりあえずそこの書類の山を全部収受簿につけてくれ」

     この、と言う割に執務机の上には複数の書類の山が出来上がっていたし、床に直置きされているものをいくつかあった。黒表紙がついたものからクリアファイルに入ったもの、紙っぺらが裸のままのもの、様子は様々だ。そういったものがぐるりと土方を囲んでいる。
     チンピラ警察と悪名高い真選組と言えど、こうして書類の処理に追われているのはやはり公務員なのだと感じさせられる。真選組の場合は、それが特定の人物に過度に集中しているのがこの惨状の原因とも言えそうだが。

    「その後はできる範囲でいいから分類してくれ。内容を見せられねぇものもあるから、発出元で分けてくれりゃいい」
    「それなら、隊士のうちの誰かに頼んだ方が良いんじゃねぇの」

     つい言葉が口をついてしまった。これは銀時が勝手に抱いている気まずさに由来するものではなく、純粋な疑問だった。事務仕事といえども一定の制限が掛かる自分よりも、本職の隊士を使った方が余程効率が良いのではないかという疑問。
     しかし土方の返事は素っ気なかった。

    「うちも人が足りてないんでな」
    「そう」

     銀時もそれ以上は言わなかった。土方の手元が忙しく動き始めたのを認めて、銀時もとりあえず近くにある山の一つに向き直る。
     まずは膨大な量の書類をひたすら収受簿に記録し、言われたとおり発出元別に床に置いていく。単純作業だが、量が量なので骨が折れた。それこそ、量の割に副長様の大事な時間を割くだけの価値はない仕事なんだろう。
     土方からの指示にはなかったが、発出元に加えて同じ標題のものはそれ毎に分けておく。幸いにも土方の私室は広さの割に荷物が殆どなかったので、畳の上を存分に使うことができた。
     機密性が高いと思われるものには最初から何かしらの封なり印なりがしてあるので、見分けるのはそれほど難しくなかった。そういったものには敢えて手を加えず、該当しないものは期限日があればそこに付箋を貼った。
     こちらも曲がりなりにも一国一城の主であるので、お堅い文章が目の上を滑ってどうしょうもないという事態にはならなかったものの、流石にしばらく経つと重怠くなった肩首がパキパキと音を鳴らすようになった。

    「なぁ、これ全部お前が処理すんの? いくらなんでも無理ない? 腕六本くらいねぇと終わんねぇよ」

     背伸びついでに土方の背中に向かって問い掛ける。同じだけの時間を過ごしていながら、その背中は物差でも当てられているように真っ直ぐ伸びたままだった。

    「まさか。担当の部署に振り分けて終わりのもんも多い」
    「だけどいずれは決裁なり何なりでお前のところまで回ってくるんだろ」

     それもきっとろくに見ないで判を押す、というわけにはいかないのだろう。銀時が作業を進める間、土方もまた近くにあった書類を片っ端から片付けていっている様子だったが、とても流れ作業的に扱っている風には見えなかった。片付けたもののいくつかは差し戻しになるはずで、それらは再び土方の決裁を待つことになる。きりがない。

    「もう少し分担した方がいいんじゃねぇか。せめてお前のところまで通さなくてもいい事務仕事は、もっと下のやつに任せるとかさ」

     万事屋と真選組では組織の規模が違う。仕事の毛色も違う。だからあまり好き勝手なことは言えない。元々他所のことに積極的に口を出したい性質でもなかった。それでも思わず言ってしまったのは、余程目に余ったということなのだろうと銀時は自分を納得させていた。
     土方は何事かを書き綴っていた右手を止めて、ちろりと振り返って銀時を瞥見した。

    「……隊士の全員が全員、文字が読み書き出来るわけでもねぇんだ」
    「へ」
    「まして公文書なんつうのは無駄なお堅い文章で書かれてんだよ。お前も少し見ただけでも分かったろ」
    「うんまあ、それは」
    「あれが大体読める時点で、世間全体で見ればお前だって十分賢い側の人間ってことなんだよ」

     江戸は、日の本中から人が集まる一大経済圏だ。少なくとも食うには困らない程度には読み書きを習得している者が多い。しかしそれも、国土の端まで視野を広げれば特別な教養を与えられていると考えて良い。
     銀時もまた幼少期にその幸運に預かった。数少ない、しかし生きる上では相当に身を助けた幸運だ。

    「碌に字も読めない猿扱いされるわけにゃいかねぇんだ、俺たちは」

     そう言って再び筆を取る後ろ姿に何かを言わなくてはいけない気がして、銀時は口を開く。しかし何を言えばいい。
     そんなに肩肘を張るな、力を抜け、お前一人が気負ってどうする。声を掛けるならその辺りだったのだろうと思う。けれど軽々に無責任なことは言えなかった。刀を振りかざすのとはまた別のところで、ひっそりと戦ってきたであろうその背中には。

    「お前のそういうとこ、案外要領悪いんだよなぁ」
    「ああ?」

     今の話でどうしてそうなるのかと、不本意そうな声が告げていた。不用意に構うと喧嘩になるので、そそくさと視線を外して銀時は再び作業に戻る。凝った首の後ろの辺りが嫌な音を立てた。

    「悪く言ったつもりはねぇよ。ただ、不器用だって話をしてんの」
    「百パーセント悪く言ってるだけじゃねぇか」
    「そう? まあ褒め言葉じゃねぇか。でも悪くは思ってねぇよ、むしろ逆」

     下手に本人が大抵のことをそつなくこなしてしまうせいで、組織全体としての負担と責任のバランスを欠いている。ある程度周囲に投げてしまえば良いものを、結局スタンドプレイに走りがちになるのは、正直に言えば理解は出来た。銀時自身にも少なからずその気があるからだ。
     その共感がこの老婆心めいたものを生むのだ。頼まれもしないのに、何度となく手を伸ばしてきてしまったこれまでの実績に、今更のように理由がついた気分だった。

    「ほんとに、世話の焼ける」

     依頼を受けたからという事情は抜きにしても、少しくらいは手助けしてやろうかというだけの、素朴な情のようなものが腹の中にあるのは否定しようがなかった。
     知らぬ仲じゃない。赤の他人と呼ぶには縁が深過ぎる。馬鹿な田舎者が背伸びしてお役人を気取るからこういう苦労をするのだと、鼻で笑ってやれたなら良かったのに。目の前の男の泥臭さを腐す気にはならなかった。

    「あんまり深入りするタイプでもなかったんだけどなぁ」

     それはどういう意味かと食い下がろうとする土方を無視して、銀時は淡々と手を動かし続けた。やがて土方も見切りをつけて自分の仕事に戻れば、部屋の中にはコチコチと秒針が動く音だけが漂うようになる。
     会話はぽつりぽつりと交わされたが、談笑と呼べるほど長く続きはしなかった。それでも居心地の悪さを感じることがなかったのは、やはりどれだけ否定しようとも「気心知れた間柄」というやつにお互いが収まってしまっているからだろうか。
     時々部屋を訪ねる者があると、土方が上司風……というよりも兄貴風に近いものを吹かせてあれこれ指示するのも、見ていて気の悪いものではなかった。
     その後の沈黙を打ち破ったのは銀時の腹の虫の声。不意に騒ぎ始めた自分の腹具合に驚いて銀時が顔を上げると、障子越しに透け込む陽の光は、地平に沈む直前の赤色をしていた。

    「もうそんな時間か」
    「人の腹時計で時間を見ないでくれる」
    「でけぇ虫の声だったんでな」

     銀時が不満げに口を尖らせると、土方が揶揄って小さく笑った。

    「食堂で食ってこい。金はうちで見てやっから」
    「お前はどうすんの」
    「手元のやつが終わったら食いに行く」

     土方はそう言って目の前にある紙束の一番上のページをめくった。視線は下に向いたまま、文字の羅列を追っていた。流石に字が小さ過ぎて離れて座っていると内容までは読み取れないが、他のものと同様に一定の集中を要するということは土方の様子から察することができた。
     一度手をつけたからには、多少他のことを後回しにしてでも一気に片付けた方が楽ということも当然あるだろう。

    「んじゃあお言葉に甘えて。お前も程々にしておけよ」
    「……ああ」

     拍子のとろっこい、気のない返事だった。既に立ち上がって部屋の外に向かっていた体を捻り、銀時は土方を振り返る。相変わらず背筋はピンと伸びているが、単にその形のままで体が固まっているだけなのではという思いが頭をよぎった。

    「まあ忙しいんだろうけどさ、あんまり根を詰めると体に毒だぞ」
    「ああ、分かってる」
    「気持ちばっか若くたって、休まないと体がばてるぞ」
    「ああ、そうだな」
    「生返事だろ」
    「ああ、分かった」
    「……」

     振り返った姿勢はそのままに、銀時は閉口した。顔を顰めてじっと土方を見据えていると、黙ったままで気配が去らないことに違和感を覚えたらしい土方が顔を上げる。

    「どうした」

     何のことだか分かっていない顔だった。
     別に良いのだ、人の話をまともに聞いていないくらいのことは。そのくらいのことで腹を立てたりはしないけれど。

    「……別に」

     どうにもすっきりしない気分のままで土方の部屋を後にした。食堂までの道は頭に入っている。金は掛からないと言うし、時間的にも真っ当なタイミングでの夕食だ。扱いは悪くない。
     神楽に聞いた件のこともあって、土方と二人きりの状況を脱することができたのも歓迎すべきだった。なのに足取りは弾まなかった。

    「無理してる自覚がねぇのが一番たちが悪いんだっつの」

     わざわざ外部の人間を臨時で雇うくらいだ。熱心な小姓の長期不在によって仕事が押しているのは間違いないんだろう。まさに猫の手も借りたいというやつだ。それが収入に繋がるならこちらも望むところではあるけれど。
     人手が足りなかろうが何だろうが、仕事に穴を空けるわけにはいかないという理屈も理解はするけれど。

    「全部お前が背負い込むことねえじゃん」

     田舎から集まった有象無象の兄貴分として気負う姿には見覚えがあった。下から見れば随分と頼もしく見えるだろう。銀時の既知もそうだった。自分自身が名門士族の血筋でもない分、土方の場合は余計に気を張っているように見えた。
     兄貴分の矜持だろうか。男の沽券だろうか。なまじ理解できるだけに、くだらないと切り捨てられないのがもどかしい。
     そして何より気に食わないのは、いくら気心の知れた仲だと言ってもそこに口を出す筋合いが自分にないということだった。たかだか代打の小姓如きがしゃしゃり出るのは間違っている。そのくらいの分別は持ち合わせている。
     その分別を超えて手を伸ばそうとする、自分でも度し難い性分も一緒に持ち合わせているというだけで。



     離れということもあって邪魔が入りにくいのか、戻ってきたところで部屋の中は相変わらず静かだった。それだけ主人が集中を捧げているということを知った上で、銀時はわざとそれを途切れさせるように声を張った。

    「ちょっと開けて」

     数は歩み寄るだけの間を置いて、障子戸が横滑りする。夕食前に見た時よりもシャツのボタンを一つ外した状態の土方は、銀時を見るなりに怪訝に首を傾げた。その視線が落ちた先には、夕餉が一通り揃えられた膳台があった。

    「なんだ、これは」
    「夕飯」
    「お前のか」
    「まさか。俺は食堂で食ってきたっつの」

     事情が飲み込めない風の土方を半ば押し退けるようにして、銀時はそこそこの重さがある荷物を運び込む。それを書類の一群から離れた場所に設置すると、息をつく暇もなくまた出て行ってしまった。
     再び姿を見せたのは数分後で、今度はその時には急須と湯呑みを携えてやって来た。

    「あ? 何ぼさっとしてんの、お前」

     自分が不在の間も微動だにしていない土方を見咎めて、銀時は呆れ顔で言う。自分で持ち込んだ道具を使って茶を一杯淹れると、銀時はさあさあと言わんばかりに手のひらで食膳の前を指し示した。

    「いや、だからこれは何なんだ」
    「夕飯、お前の」
    「そんなもんわざわざ部屋に持ってこなくても食堂で買えば良いだろ」
    「あのさ、お前さん時計見てみ」

     顎でしゃくられて、土方は渋々ながら顔を上げた。そして壁掛け時計が示す時間を見て「あっ」と短く声を上げた。時刻は八時過ぎ。土方が銀時を食堂に送り出してから、既に二時間近い時間が経過していた。

    「待てど暮らせど来ねぇから、どうせそんなこったろうとは思ってたよ。残念ながら食堂は閉店でぇす」
    「……少し集中し過ぎたな」
    「こういうこと、珍しくないんだって?」

     食堂で捕まえた隊士数人から裏は取れている。このところワーカーホリックに拍車が掛かっている副長殿は、睡眠と食事という人間の三大欲求のうちの二つすらそっちのけで職務に追われているのだとか。仕事熱心だとか、そんな言葉で説明がついた気になって良いものじゃない。そりゃあ堅苦しさが服を着たような男も草臥れて、シャツの襟も大きく開けるし無精髭だって伸びようというものだ。

    「体が資本……なんつうお説教は俺なんかから言われるまでもないんだろうけどよ、いつまでも若いつもりでいたらある日頭の血管が切れてぽっくり逝っちまったりするんだからな」
    「そんな大袈裟な」
    「じゃない。良いから座れ。そして食え。書類には触るなよ。触ったそばから破り捨ててやるからな」

     脅すように言われ、不服さを全面に出しながらも土方は膳の前に腰掛けた。確かにこのところ食事を等閑なおざりにしていたのは否定出来ない。
     だが人の体というのはよく出来たもので、空腹も一定のところを超えると無闇な飢餓感から逃れようとする機能が働くのか、不思議と飢えてどうしようもないという感覚はなかった。
     ただ、単純に胃が空であるというだけだった。普段の銀時の様子と比べると妙に強く押し切るような形で促されて、とりあえず味噌汁に口をつけるその時までは。

    「別に、このくらいのこと珍しくもねぇのに」
    「珍しくもないのが問題……おい、土方! くち、口!」
    「あ?」

     慌てた様子で銀時が手を伸ばし、土方の口の端に塵紙を押し当てる。そうされると、押された右頬の内側がきゅう、ときつく締まるように動いて口腔内に唾液が溢れ出た。

    「うわ、何だこれ」

     久しぶりの食事に心が躍ったがためというよりも、もっと生理的な反応だ。唾液腺が急激に活動し始めて、思わずごくりと飲み下す。
     銀時が焦って塵紙を寄せたのは、それが無意識にたらりと一筋溢れてしまったがためだった。
     仮にも鬼の副長が赤子のように世話を焼かれるなどと反射的な身をのけ反らせるものの、温かい汁と幾らかの具材を迎え入れて久しぶりに本分を思い出した胃袋は、宿主の拒絶を鼻で笑うように大袈裟な音で喚いた。

    「……ん、ぷっ、くふ」
    「おい、笑うな」
    「や……うん、おかしくない、何もおかしくはないけど、ぶふっ」
    「笑うなって」

     そうやって言葉を交わす間すらもまだ鳴き続ける腹の虫に、銀時は辛抱溜まりかねるとばかりに肩を振るわせ、一方で土方は顔に血を集めることになった。目尻にじんわりと浮かんだ水の粒を指で拭って、堪えるようにしながら銀時は言葉を紡ぐ。

    「男前が台無しだな。ふふ、だっせぇの。ちょっと良い気味」
    「なんだとコラ」
    「良いから食えって。これでも胃が驚かねぇように少し工夫してあんだからさ」

     土方が「何の話だ」と尋ねるよりも前に、銀時の手が箸を拾い上げて皿の上から刺し取った料理を突き出していた。土方の鼻先で出汁の香りがふわりと広がった。

    「ほれ、圧力鍋借りて柔らかくしてあっから」
    「は」
    「マヨの大量投入は禁止な。ありゃ重すぎる」

     銀時が差し出しているのは花の形に飾り切りが施された人参の一欠片だった。格好からして「食え」ということなのは考えなくても分かる。
     問題は三十手前の男が同じく三十手前の男相手に食事の補助をしているという、どうにも決まりの悪い絵面なのだが、
    何故だか銀時の方にはあまり頓着する様子が見られなかった。子供と暮らしているとそういうこともあるのかもしれない。いやそれにしたって同居人の少女も既に十六にはなるはずで、未だに手ずから食わせてやっているとは考え難いのだが。

    「いや、あの、自分で」
    「ん?」

     何を躊躇うことがあるのか、さっぱり見当もつかないような顔で銀時が首を傾けると、少し遅れて猫っ毛が揺れた。髪どころか中身まで猫みたいなやつだ。距離の取り方がまるで気分任せで、それなりに長い付き合いになる今でもまだ掴みどころがない。こうもあっけらかんとされると、気にしている方が一周回って馬鹿みたいだ。

    「……いや、いい。食う」

     こんなところを誰かに見られたら良い笑の種にされてしまうと頭の端で考えながら、土方は目の前の橙色の花に齧り付いた。圧力鍋を使ったのだったか。なるほど確かに柔らかく煮付けられている。

    「どうよ」
    「まあ……その、良いんじゃないか」
    「なら良かった。擦りおろして粥ってのも考えたけど、それじゃ食った気しねぇかと思ってさ」
    「というかこれ、お前がこさえたのか」
    「おう。つっても食堂のあまりもん拝借しただけだし、大したもんはねぇけど」

     銀時が次の一口を差し出す。まさかこの調子で最後まで介助したまま食わせる気かとは思うものの、最初の一口を受け入れた手前二口目を受け入れない理由が無く、土方はおずおずと口を開いた。
     まるで餌付けを受ける雛だ。こんなところを沖田あたりにでも見られれば間違いなく今晩のうちに屯所中に話が広がってしまう。見つかってはならぬと思うと自然と悪事を働いているような気になるもので、土方は焦ってぱくぱくと夕食を平らげていく。
     狙ったわけではなかったが、その食いっぷりは作り手をそれなりに満足させたらしい。目を細めて口の端を引き上げると、銀時は空になった皿を膳台の上に戻した。

    「この調子なら大丈夫そうだな。受け付けなかったらどうしようかと思ってたけど」
    「いや、流石にそんな心配をするような出来ではなかったと思うぞ。厨番の作るもんよりは遥かに上等だった」
    「アホか」

     出来不出来の話ではなく、久しぶりの食事では胃が驚かかもしれないということを懸念したのだと銀時は補足した。味の好き嫌いなど最初から聞いていない。……であれば、自分は聞かれもしないのに目の前の男の手料理の出来映えを品評していたのかと土方は狼狽えたが、それについても銀時は余裕そうに受け止めるばかりだった。

    「上等だって言われて気を悪くする奴なんか居やしねぇよ。口に合ったなら、尚のこと結構」
    「お、う」
    「この調子なら大丈夫そうだけど、食堂の飯って割と重たいやつばっかりなんだよな。明日の朝はどうする。何か適当に用意しようか」

     これは質問の形式が良くなかった。もしもオープンクエスチョンの形で聞かれていたのなら、適当に流すなり食堂で食べるなりと答えていただろう。
     しかし、質問の中にほんのひと匙見え隠れする気遣いや善意の片鱗のようなものがある。銀時本人すらも殆ど意識していないような、僅かな色だ。それを土方はうっかりと読み取ってしまった。読み取ってしまったからには、こちらも動きも決まってくる。

    「……なら、頼む」

     これは自分の意思がどうこうという問題ではなく、人間は好意的に親切を受ければ自然とそれに感謝するという、習性めいたものに基づくのだと土方は言い訳した。誰にかは知らないし、何にかも知らない。ただ言い訳が必要だった。
     大人がらしくないことをするのには、言い訳が要る。

    「食事が済んだなら次は睡眠、てな。もう少し動ける気力があるなら風呂行こうぜ。その顔じゃあ、ひとっ風呂浴びれば即寝出来ると思うぞ」
    「ああいや、俺は今夜は」

     久々に腹が満ちたのならそのまま風呂へという誘いはなかなか魅力的ではあったが、土方は首を横に張った。生憎と今日は当直日だ。
     近頃はその割り振りもほぼ意味を成さない程度に働き続けているが、どれだけ休み返上で仕事をしていようが本来割り当てられた職務を放り出す理由にはならなかった。少なくとも土方にとってはそうだ。今夜はこれから警邏に繰り出すことになっている。
     そのことを伝えると、先程までは気を良くしている風に見えた銀時の表情は途端に険しくなった。

    「なんだよそれ。そもそも今日の時点でお前何徹目よ?」
    「仮眠は取ってる」
    「隙間時間にちょこっとうたた寝するくらいなもんだろ。そんな生活続けてたら本当にいつか倒れちまうぞ」
    「そんなに柔じゃねぇさ」
    「日中みたいな書類仕事ならまだしも、仮にも刀佩いて出歩くんだろう。荒事にでもなったらどうすんだよ」

     眉間に皺を寄せて苦言を呈する様を見ていると、土方はふと実家の義姉のことを思い出した。顔貌は欠片ほども似ていないが、元の性根が世話焼きな人で、根無草を決め込んで荒れていた自分には同じような表情を見せることが多かった。
     土方が所帯を持ってもおかしくないような歳になった今でも、それはあまり変わらない。兄ももう亡くなって久しいというのに。

    「妙に気に掛けるじゃねぇか」
    「真面目に聞けってば。俺は真剣に心配してやってんだぞ」
    「分かってる。そのありがたみも、分かってる、ちゃんと」

     土方がいなすのをやめて、真っ直ぐに見つめ返すようにすると、銀時は多少面食らったように顎を引いた。噛み締めるような口振りに何かを感じたのかもしれないが、頭の中身まではきっと分からないだろうと土方は思う。お前の中に、母親代わりをしてくれる女性を垣間見たのだということは、土方も言うつもりがなかった。

    「感謝は、してる」
    「……ひじかた?」
    「ま、それはそれとして仕事に穴は空けられねぇんだよ。こっちにも立場ってもんがあるんでな。これも持てる者の悩みってやつか」

     鉄之助を指して銀時が吐いた言葉を借りた。こういう言い方をすれば、元は役人嫌いの気があるらしい銀時は臍を曲げる。そうなると分かっていて口にした。殊更に勿体ぶった口調で。

    「あーそお。お偉い様は大変ですこと」
    「忠告は胸に刻んでおくさ」
    「どうだか」

     土方はシャツの襟を整えて上着に袖を通した。中身が多少草臥れていようが、これである程度格好はつく。そのまま刀掛けの方に向かおうとすると、先んじて愛刀を手にしていた銀時がつっけんどんな態度でそれを突き出していた。
     刀は武士の魂だ。おいそれとは触らせない。……だが、扱いに関してはこれ以上ない男だからか、それを見ても悪感情らしきものは湧かなかった。

    「お前が働いてるからって、小姓役の俺まで夜通し働けってんじゃねぇんだろ。俺は勝手に寝るからな」
    「ああ、お前は日中だけで良い」
    「切り火なんか切ってやんねぇぞ」
    「そんな殊勝なこと、お前にゃ期待してねぇよ」

     言われずともと鼻で笑う土方に対して、銀時の尖り口が更に高くなった。帰ってくるまでには機嫌が治っていると良いが、菓子でも買って帰るべきだろうか。

    「お前だって慣れない仕事で疲れたろ。今日はゆっくり休め」

     膳の片付けだけを頼んで踵を返す、その上着の裾をぐいと引くものがあった。振り返れば、流水紋の袖から腕が伸びている。

    「お前、何焦ってんの」

     向けられていたのは探るような目だった。自分とは真反対の色をした瞳が、かち合った視線の更に向こう側に何かを透かし見ようとしているのを土方は感じ取っていた。焦点が合うのに必要なもう一歩を爪先でじりじりと詰めるような慎重さが伺えた。

    「いつも忙しそうにしてんのは知ってるし、お前さんなりに張らなきゃならねぇ肩肘があるのも理解したさ。だけどさ、お前ばっかり、そんな身を削るみたいに働かなきゃいけない理由って何。小姓が居ないくらいのことでここまでになるなんて、おかしいだろ」

     裾を掴んでいた指が自信無さげに解ける。

    「勘違い……かも、しんねぇけど。俺にはなんか、お前が焦ってるみたいに見える。危なっかしい、感じがする」

     自分の見立てが正しいのかどうかも、それを口をするべきかどうかも、まるで定まり切らないような頼らなさ。そういうものを滲ませて、銀時は最後に「分からねぇけど」と付け加えた。
     それが案外的を得ているのは、やはり根本的に人をよく見ているのだろうと思われた。

    「……たまたまだ」
    「たまたま?」

     銀時が思わずオウム返しで応えたのは、ちょうど今朝の神楽とのやり取りを思い出したからだった。たまたま、偶然にも、タイミング良く。

    「テツの居ない時に、ちょうど仕事が重なっただけだ。そうでもなけりゃ、わざわざお前んとこにまで依頼は出さない」
    「それは、そうなんだろうけど」
    「分かったらとっとと休め。シャワーなら個室のを使ってもいいぞ」

     会話を打ち切るようにして、土方は言いっ放しで部屋を後にした。すぱんと障子戸が閉まる音が、それ以上の問答は不要だと示しているようだった。遠ざかる足音は速く、取りつく島もない。
     喧嘩、とは違うのだろう。そういうものにすら至らないやり取りだった。至らないように、土方が壁を張った。そのくらいのことは、銀時も理解していた。そこまでは理解できるのに、土方がそんな態度に出る理由は分からなかった。
     
    「……何なんだよ」

     主人不在の部屋の中で、独り言ちる。

    「とても聞ける雰囲気じゃあないか

     俺とお前で口吸いをしたという話は本当か──なんて、そんな話は。
     
     
     
     
     
    03

     ふと、意識が浮上した瞬間があった。僅かな気配、衣擦れの音。それほど寝入った感覚はなかったので、朝と呼ぶにはまだ早過ぎる時間なのだろうと判断した。くるりと体を反転させると、すぐ脇で誰かが息を詰めたようだった。暗がりで顔は見えないが、その正体については察しがついていた。

    「悪い、起こしたか」

     想像した通りの声が気遣わしげに尋ねる。無理やり叩き起こされたわけでもないので特段文句はなかったが、流石に眠気が勝って頭の回転が遅い。銀時が布団に顔を擦り付けて覚醒を嫌がると、寝返りを打った拍子にずり落ちていた布団を人型の影が引き上げた。

    「まだ寝てろ。仕事にはまだ早い」
    「……お前は、ずっと、起きてんの。もう、上がりか?」

     頭のスイッチも入っていなければ、体を動かす神経も鈍い。口が上手く回らず、妙に辿々しい話し方になった。瞼はずっしりと重く、光量や焦点以前に殆どまともに開けていられなかった。
     それを補うように、銀時の耳は冴えていた。

    「資料を取りに一瞬戻っただけだ。此処では仕事しねぇから、そのままにしてろ」

     うっかり起こしてしまいはしたものの、灯りをつけるつもりはない、ということが言いたいのだろう。時間帯を気にして声量を絞っているせいなのか、普段よりも幾分か穏やかな口振りに聞こえた。
     そのまま直ぐに布団から離れようとする土方の手を銀時が掴んだ。摘んだ、と表現する方が適切だったかもしれない。何せまともに見えやしないので、適当に掴んだ先がたまたま土方の指先だったのだ。
     昨晩そうしたのと同じように、そそくさと部屋を空けようとする主人を銀時は引き留める。大したことを話そうと思ったわけじゃない。ただ何となくだ。
     そうやって伸ばされた手を、此度の土方は慌てた様子で払った。

    「うわ」

     そのまましっとりと手を握り合うような間柄ではないが、あまり露骨に弾かれるのは面白くない。見えないのを良いことに、銀時は露骨に唇を突き出した。

    「あんだよ、失礼なやつ」
    「違う、俺の手が汚れてんだよ」
    「手?」

     宙ぶらりんになった指の先を擦り合わせると、なるほど確かにぬるついたような感触がある。真っ先に思いつくものがあったので反射的に鼻を寄せたが、思っていたような鉄錆の匂いはしなかった。
     代わりに鼻腔に届いたのは、少し焦がしたような、癖のあるものだった。似たようなものをどこかで嗅いだ覚えがある。

    「たぶん、軟膏かワックスみたいなもんだ。一応拭いはしたんだが」

     それを引っ付けて帰ってきた本人が正体を把握していないということは、うっかり外で汚すなりしてきたんだろう。不本意に、想定外に。

    「こんな夜中に工場見学でもしてきたのかよ」
    「工場?」

     詮索しているように聞こえたかもしれない。聞き返す土方の声が一瞬訝しげな色を含んだようにも思えたが、表情が読めないので確かめようがなかった。同時に相手からも読み取れる情報が少ない中で、こちらに他意は無いのだと示そうと思うと、勝手に言葉数が多くなる。

    「ん、だってこれ、昔手伝ってやった工場の匂いに似てるぜ。機械油の匂いっぽい」
    「機械油……そうか、確かにな」

     確かめるように、すんすんと鼻を鳴らす音がした。

    「流石に手広くやってるだけあるな。俺はピンと来なかった」
    「まあ万事屋ですし。つっても昔の話だし、何となく似てる気がするってだけなんだけど」
    「いや、十分だ。助かった」
    「あ? 何が?」

     土方がすっくと立ち上がる。ぼんやりと障子を通過する月の明かりに浮かぶ、人一人の姿。まだ当直業務の最中だと言うし、一時の駄弁はここで終わりなのだろう。土方の反応を見る限り、丸っ切り何の役にも立たない無駄話というわけでもなかったようだが。

    「どこ、行くんだよ」
    「ちょっと調べたいことがあってな。また外に出る」

     思い立ってしまったが最後、体は未だ目の前にあれども土方の気はすっかり次の行き先に向かい始めてしまっているようだった。それが何処だかは知らないし、一度聞いて答えを濁された時点でそれ以上聞こうとも思わなかった。恐らくはそれが土方の線引きなのだ。
     この仕事馬鹿め、と銀時は内心で毒づく。真選組の頭脳だか何だか知らないが、そこそこのところで手を打つだとか、明日出来ることは明日やるだとか、そういう加減というものが無いのか。そんな苦言が喉元まで込み上げて、銀時は薄く唇を開く。
     しかし、実際に発した言葉は違った。

    「……仕事、何時まで」

     どうせ聞きやしない。こちらがどれだけ気に掛けてやっても、きっと土方は土方のしたいようにしか動かない。殊に勤務時間内に関してはそうだ。
     あくまでも土方と銀時の関係は依頼人と請負人であって、銀時はああしろこうしろと指図出来る立場になかった。

    「さあ。引継ぎも考えたら九時過ぎあたりじゃねぇか」

     本当に言いたいことを飲み込んで、銀時はその代わりに言質をとった。所定の時間を過ぎれば、土方の勤務時間は終わる。しかし、当直に付き合わされることなく日勤で良いと言われた自分はその後も小姓の務めを果たさねばならない。多忙を極める土方副長を補佐し、身の回りの世話をするという務めを。

    「じゃあ、そっから先の時間は俺にくれ」
    「時間をくれって、一体どういう」
    「お前を好きにさせろって言ってんの」

     影のたじろぎ、すっと息を吸う音、後ずさる足。そんなものが重なって。顔など見えなくても、土方が面食らったのであろうことが空気を通して伝わってきた。

    「俺はただ、給料分の働きをしたいだけ」

     理由なら、ちゃんとあった。自分が土方に構う理由。「たまたま」なんてそんな胡乱なものより余程筋の通った理屈が、自分にはある。
     だから安心しろとばかりに銀時はそれを提示した。これはおかしなことでもなければ、不必要なことでもない。殊更に強調して、自分でも腹落ちする。

    「そうでなきゃ、お前が俺に依頼した意味がねぇだろ」

     土方はしばらく返事を寄越さなかった。その妙に長い沈黙の間に、土方が一体何を考えていたのかは分からない。ただ、黒い影は意を決したように答えて部屋を出て行った。

    「時間は、つくる」

     障子戸を開いたその一瞬に、探るような視線だけを残して。



     実際に土方が私室に戻ってきたのは昼過ぎのことだった。もともと九時頃に体が空くと言われて、実際その通りの時間にやって来るとは思っていなかったが、それにしてもなかなかの大遅刻だ。理由は何となく想像がつく。腹を立ててもいない。
     ただ、朝も昼も食堂で土方の姿を見かけることはなかったので、恐らくは慢性的なものと思われる不摂生についてだけは気に掛かった。それだけで終わるはずだった。

    「今日のうちに片付けておきたい事案がある」
    「はあ?」

     散々人を待たせた挙句に、入室するなりそう言った土方に銀時は噛み付いた。きっと誰であっても、いくら何でも大概にしろと言いたくなるはずだ。土色のクマをたっぷりと目の下にこさえて、その上でまだそんな戯言を言われたら。

    「空けると言った手前悪いが」
    「いやいや、いやいやいや」

     流石に二つ返事で了承は出来ない。例え拍子抜けするほど素直に謝意を示されてもだ。

    「約束がどうこうはもうこの際どうでも良いわ。お前さんその状態からまだ働く気か!?」

     普段の鉄之助がどれほど素晴らしい働きをしていたかは知らないが、その穴を埋めるために補佐の依頼までしておいて、その癖こんな風に擦り切れるまで仕事に追われているのは流石に理解に苦しむ。
     昨日はそれでも当直日だからと譲ったが、今日は話が別だ。とっくの昔に引継ぎを終えたはずの土方は、本来真選組の職務の頭数には入っていないはずなのだから。

    「お前おかしいよ。いくら何でも、絶対におかしい」
    「おかしいって、何が」
    「他の奴らは何も言わねぇのか? 近藤は? お前がこんな有様なのを知ってて放置してんのか? 俺の雇い主を殺す気かって、俺は誰に文句言ってやりゃあいいんだ」

     うっすらと怒りすら混ぜながら銀時が首を傾げると、土方の目があらぬ方向へすっと逃げていった。やましいことがある証拠だ。大方悟られないように上手いこと誤魔化しているのか、指摘された上で適当に流しているかのどちらかだろう。
     ああ見えて近藤も大所帯の頭だ。ここまで部下の状態に無頓着だとは思えない。だとすれば後者の方が選択肢としては有力だった。

    「今日はもう仕事は無しだ。風呂に入れ、そして布団に入れ。お前一人休んだって案外どうにかなるもんだ。何だってそんなに意固地になる必要がある」
    「しかしだな」
    「しかしもへったくれもねぇの。休め。分かったって言え。次にそれ以外で答えたら怒るぞ。そしたら口も聞かねぇ」

     土方には大したデメリットにもならない脅し文句だったが、それだけ本気だという意思表示にはなったのか、意外にも土方は一瞬にたじろいだように見えた。控えめに諌言しても聞く耳を持たなかった男が、強めに出るとそれなりにこちらの思ったように反応する。最初からこうしておけばよかったのだ。

    「二度とお前らからの依頼は受けねぇし、何なら今すぐ屯所で暴れ回って滅茶苦茶にしてやる」
    「完全にテロリストなんだが、それは」
    「知るか」

     だから言うことを聞け、と銀時がさらに言い募ろうとしたタイミングで、もう一人土方の部屋への来訪者があった。鉄之助が小姓になる前は、時折小間使いも兼ねていた山崎だ。

    「副長、少しお時間よろしいでしょうか」
    「だめ」

     障子戸を開くなり、間髪入れずに寄越された返事がよほど意外だったのか、少し見下ろした先で山崎が目を丸くしていた。

    「えっ、万事屋の旦那?」
    「こいつは今は業務時間外。悪いけど出直して」

     胸に抱いている紙の束は、恐らく今から土方に見せるつもりだったものだろう。すっと細めた目で銀時が非難がましい視線を送ると、山崎の重心が踵側に退がった。

    「いい。山崎、さっさと見せろ」
    「だめだって」

     書類を寄越すようにと土方が差し向けた腕を銀時が掴んだ。じっとりと睨み合う両者を交互に見比べて、山崎がどちらに転ぶべきかと狼狽えている。

    「悪いけど」

     謙った言い方はしても、譲る気はなかった。事情も知らずに突然邪険に扱われるのは気の毒にも思うが、この場においては後回しにさせてもらう他ない。

    「は、はい」
    「おたくの副長さん、俺が借りるから。探すなよ。電話もだめ」
    「おい!」

     当の土方本人が不服そうでも知ったことではなかった。この仕事馬鹿は口で言っても聞きやしないし、どうにか説き伏せて部屋に押し留めたところで屯所に居る限り、こうやって仕事の方からやって来る。
     それならば、職場から物理的に引き剥がすしかないだろう。

    「お前は一日、俺のもんなの」

     有無を言わさず手を引いて、気迫に押された様子の山崎を置き去りに部屋を飛び出した。組み合わせとしてはそれほど珍しくもないとしても、揃ってつかつかと屯所内を練り歩けば多少の好奇の目は向けられる。普段なら適当に笑って流すそれさえ、銀時は見えないふりをした。
     歩みを阻むほどではないにしろ、時折何かに引っ掛かるように土方の体が重くなる。納得がいっていないという意思表示だろうが、それも併せて取り合わなかった。そんな内心よりももっと、土方には答えてもらいたいことがあった。

    「ずっと言わないようにはしてたけどさ、ちょっと露骨すぎないか」

     だから必要以上に足を早く捌いて、慌ただしさに混ぜ込むように尋ねた。

    「お前、俺を呼んでおいて、俺を避けてるだろ」

     思った通り、返事は無かったけれど。

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