巨大な純白の入道雲と、一番高くまで上り詰めた八月の力強い太陽。
この、オレの自宅である獅子神邸のキッチンは、いつにも増して様々な調理器具のリズムと熱気に満たされていた。
テンダーロインとササミを焼く匂いと、もうもうと立ち込める煙。ひっきりなしに回り続ける換気扇の轟音。
大量のカーリーケールはフライパンで塩胡椒して温サラダにし、そのうちの多くは自分の皿へと盛り付け、残りはもうひとつの皿へ。
隣のコンロで炒めているのはポテトとパプリカで、苦味のあるケールとは相性がよくバターの風味とコクも十分に効いている。ついでに、オリーブオイルで焼いたマッシュルームもしのばせておこう。
ステーキソースは、バランスが重要。
ミネラルを含有した深い甘さの和三盆糖を使い、炒めた玉ねぎ、醤油、酢などの調味料と合わせる。それから軽くかき混ぜ火から下ろし、ひとくち味を見て目線の先の虚空を眺めた。
「………」
───砂糖……もうちょっとだけ、多めにしとくか。
頭上の、斜め上にいる今日の医者の姿を思い描き、その甘い結晶をもうひとつまみ加えておく。
スマートフォンに「今から帰る」という、四日ぶりの小さいふきだしの連絡が来たのはちょうど二十分前。それに間に合う為の作業工程は、滞りなく進んでいる。
次々と冷気を吐き出すエアコンに、その空気をかき回す天井のシーリングファン。
そろそろ、パンを切っておくかとナイフを取り出すと、ピンポーンという、予定より少しだけ早い帰宅者の知らせ。
「はいはーい」
手の塞がっている自分の代わりに、すぐさまいつもの調子で受話器を取ったのはオレの「奴隷」で、ソファーにいわゆるコロコロクリーナーをかけていた園田だ。
ここの敷地外すぐのマンションから週五で自宅へと出勤させ、仕事の雑用や掃除の労働をさせて、たまに作った飯を食わせてやり、たまに読んで為になった小説や要らなくなった腕時計やバッグをくれてやっている。そして、ここにはそういう奴がもう一人いるのだが、そいつは今日は休みで意中の女と猫カフェに行っているらしい。
「ただいま」
と、リビングの前で冷たく静かな声がした。
出迎えに行った園田がなにやらヒッと言った後、「お、お……お疲れ様です」とやけに神妙に挨拶するのを、「おう、おかえり。お疲れ……」と自分も振りかえる。
……やっぱり。
オレは少し表情を固めた。
内心、インターフォンが鳴る前から、今日の村雨はそんな状態なんじゃないかという予感はしていた。こちらを音もなく通り過ぎるその顔は、蝉の賑わう正午の日光を怯ませるほどの重い黒雲が立ち込めている。
ひどく疲労感のある動き。
濃い影の落ちた顔でゆるゆるとジャケットを脱ぐのを、自分もエプロンを脱ぎカウンターへと置くと、クリーナーを持ったまま青ざめて後退りしていた園田がこちらに目を合わせて何度も頷く。
「でっではあの……今日はもう掃除も書類整理も全部きれいに済みましたんで!。オ、オレは、これにて失礼させてもらいます」
そう丁寧に挨拶すると、言うが早いか奴はそこに置いていたウエストポーチと帽子を即座に持ち、自分が何か言う前に深く頭を下げてとにかくこの部屋を飛び出た。速やかな足音ののち玄関ドアが閉まり、一拍遅れてオートロックがかかる。
…………
慌ただしさから一変。
外の蝉さえも押し黙り、しんとした部屋。
見ると村雨は、すでにソファーに座っていた。まるで、白昼堂々降り立った黒いあやかしのいる絵画のような光景。
自分も、あまり何も意識せずいつものように隣に腰を下ろしてその顔を覗き込む。
「腹、へってるか?」
「………」
口を、開かない。
普段ならなにくれとなく食べ物を口にしたがる男が、空腹感さえもよく分からないほどに疲れているらしい。黙ったまま考えているような、いないような表情。やがて、その少し首を傾げる頭部が、力無くゆっくりと降りてきてそのままコトンとこちらの肩へと落ちてくる。
………珍しい。
そっと受け止めて見下ろした横顔は、眠ってしまいそうな表情にも見えたが、その目は閉じずただ何もないすぐそこの空気の一点を見つめていた。
園田が、ゾッとして逃げ帰ったのも理解できる。
賭博から帰ってきた時の村雨は、こうはならない。
僅かな時間、医者としての村雨礼二を下ろした時だけ。啜り泣く無数の人の手に救いを求められ、多くの医者に首を振られた病と対峙し、神だの仏だのと叫ばれるその職から一人の人間に戻った時にだけ、こうして己の持つ何もかもをもがれて取られ尽くしたかのような深く黒い空洞を、その瞳に見せる事がある。
「帰ってきたら、一緒に昼メシ食おうと思って作ってたんだ。オメーの肉は、ちゃんともう焼いてある」
「………」
「ちょっとだけでも、食えるか?」
少し思案したのち、断られるかと思ったが、こく、とわずかに、しかし間違いなく首が動いた。
良かった。
ほっと安堵が胸をつく。
どれだけ疲弊していても、明日の患者のためにもしっかりと栄養を摂る、いつもの村雨だ。
よっしゃ、とばかりにその顔を無理やりこちらに向かせて、オレはこの男のほおに心からの労りのキスを思い切りお見舞いしてから立ち上がる。
「すぐ、用意してやる」
「……………」
おおいにズレた眼鏡で、眉を顰めてこちらを見る顔。
べったりと残された唇の感触を、しぶしぶと手の甲で拭ういつもの仕草をする元気も少しはあるらしい。もう一度エプロンを着けながらキッチンに向かい、幾分気合いを込めて再びコンロに点火する。
ダイニングテーブルで待つ村雨の前に、次々と皿を並べて置く。
シンプルだが繊細で愛らしいフォルムの、ペアで揃えたそれら。自分も、向かい合わせに座って「食おうぜ」とフォークを取りさっそくササミにそれを刺すと、村雨はいつものようにまずは目を伏せてすっと手を合わせた。
ふたりで黙々と、食う。
肉を切り、口に運び、傍のパンをちぎり、時折り水を飲み込む。
村雨には、力が必要だ。
あらゆる筋肉、神経、精神の血肉になるものが。
病魔にしても、創傷にしても、体のどこかを壊し横たわるその人間の目を再び開かせ生命に未来を与えるのは、神や悪魔なんかじゃなくやはり医師という同じ人間なのだ。たとえ、そこに人に対する心からの温情があろうがなかろうが。この男は、誰かの命を救う為の技術を指に宿し、日々こんなにもその身を砕いて働いている。
最初は気怠く緩慢な所作で動いていたそのナイフとフォークだったが、徐々にそれを握る指に力が戻ってきているような気がした。一向に手をつけないケールも「これも食ってみ、見た目よりずっと美味いから」と自分が食べて見せると、じっとそれを見てから黙って素直に真似して食べる。
音もなく通り過ぎるシーリングファンの微風と、進む食事の時間。
結局のところ村雨は、肉をすべて平らげて、あんなによそよそしく距離を置いていたケールもきのこも残さずにちゃんと食い、グラスに注がれた水までもきれいに飲み干した。
その後半の追い上げときたら。まるで、バタフライで泳ぐ自分を、横から来た優雅な平泳ぎにスイスイと追い抜かれたような、そんな気分だった。
「ごちそうさま」と言って、村雨が手を合わせる。
「おお…」
この挨拶には毎回何と返せばいいのか正解が分からず、いまだにそんな返事しかできない。
そんなオレをよそに相手は、ふうと一息つき眼鏡を整えてテーブルの上をあらためて見下ろした。
「……このステーキソース……とても美味いな。いつものやつか?」
ステーキが乗っていた皿を指さすのを、お、と思う。やっと、喋り出した。
「そーだよ、いつものシンプルなやつ」
空いたグラスに、水を注いでやりながら答える。
村雨は、少し首を傾げた。
「本当に?」
「うん」
「いつもと同じか?」
「うん」
「………」
怪訝そうな相手の顔に、笑顔を返す。
嘘だった。
本当は、違う。
これは、その日の村雨の体調、メンタルを予測し、さらには食事の時間帯や気温によって少しだけ甘さを調整する、今日の村雨のためだけのオリジナルソースだ。
誰にも教える事はしないし、教えてもやれない。
でも、「愛」とはおそらくそういうひそやかなものであるはずだ。
しかし、それにしても、なんという感覚の鋭さだろう、と思う。今日はいつもより、砂糖を気付かれない程度ほんの少し多く増やしただけだというのに。
やはりまだ分からない。
村雨のいる、あらゆる情報が透けてその奥に姿を潜めているものが見える世界とは。本当に、一体どんなものなのだろうか?
「きっとこれは……、どこの店を探しても無い、あなたにしか作れない特別な味なのだろうな……」
沈黙のあと、ぽつりと、会話がつながる。
ほんのちょっとだけ、こちらの嘘を面白がっている声。
内心、苦笑してしまう。
だって。
今のオレにはこんなイカサマみたいな甘さでしか、お前を繋ぎ止めることができない。
「そ、だからお前は、それが食いたければ何処にいようが必ずここに帰ってくるしかない。そこが、たとえ地球の裏側だろうが、宇宙の果てだろうが」
オレは、行儀悪くササミを突き刺したフォークを片手に笑う。それを見て、グラスを持った村雨は何度か瞬きした。
口に含んだ、水をごくんと飲む音。
「……あなた、私の胃を密かに手懐けているな?」
そーいうこと。
心で言う。
さて。
「この後のお楽しみに、ヨーグルトゼリーが待ってるぜ。みかんとマンゴーが入ってる」
立ち上がって、あいた皿をまとめてキッチンへと運ぶ。
それから冷蔵庫を開き、透明な器で並んだそれをトレイごと取り出してテーブルの中央に置いてみせる。すると、村雨は少し身を乗り出して、そのデザートを眺めた。
冷気に閉じ込められた、目にも涼やかな白とオレンジのコントラスト。
「今日は多めに作ったのだな。もしかして、これは」
「うん、園田たちの分。あいつ、持って帰ってあとで相方と食うって楽しみにしてたのによ」
新しくリネンのコースターを敷いて金色のスプーンを置き、また向かい合わせに座る。
「もう、全部食っちまおっか」
「いや、それは悪い。この後、私が持って行ってやろう」
「やめとけ、泣かれんぞ」
トレイからそれぞれ取り、ふたりでその器にスプーンを入れる。
外ではまた、蝉の鳴く賑やかで青い夏。
テーブルの上で、くく、とオレと村雨の笑いが漏れた。