◇ ◇ ◇
かしゃん、と床でグラスの割れる音を聞いて獅子神は顔を上げた。
シンクの皿とそれを洗う手はまだ白い泡を纏っていたが、即座に振り向き床に屈む村雨の所へ向かう。
「怪我してねえか」
「すまない。手が滑った。片付ける」
しゃがみ込み、大きな破片に指を伸ばそうとするのを「触るな、オレがワイパーでやるから」と獅子神はすぐに村雨の手を取った。
「………」
少しの力も無い手。
申し訳なさそうな顔をしてから静かに立ち、元のソファーに向かう背中。
……つい、先日もこうだったな。と、獅子神は思い出してクローゼットからワイパーとバケツも取り出す。
先週末も、この男は自ら食事の片付けをしてくれようとして鮮やかな音とともにここの皿を一気に三枚破損した。
それをあちらも思い出したのか「すまない」と、もう一度言う村雨に「疲れてんだな。ここ危ねえから座っとけ」と獅子神は笑いかける。
そう、村雨はつかれていると急激に不注意になる事がある。一日を、誰かの命の為だけに費やす手術を終えた夜。二日間、睡眠や食事には見向きもしないで多くの急患と向き合った朝。
さっさと破片を集めてバケツに放り込み、クリーナーで細かい破片を吸うこちらを座って眺めながら村雨は、ぼやけた瞼を重たそうに瞬きさせている。
気がつけば、窓の向こうは冬の黒い夕方だ。少し暖房をきかせすぎただろうか。
獅子神は、床を丁寧に拭きながら少し考えた。
「あのよ、村雨」
村雨は今からタクシーで自宅へ帰って、風呂に入って歯を磨いてから寝る。だから、もう少し眠りに目を閉じるのを我慢させなければいけない。
腹が減ったらここを訪れたら良いと、いつでも迎える約束をしたのは自分だが、そこからまた靴を履いてその寒い夜の向こうへと消える背中をただ見送るのが不憫になり、自然と口をついた言葉だった。
「オレんち住まねえか?。今日からでも」
村雨の事は、友達だと思っていた。
同時に賭場の世界から進展した関係とはまた別で、こうして家へと招き入れて二人きりで会うほどには特別な存在だった。
でも、このごく自然にひらめいた思いつきの提案については、悩む間もなくそこで断られてもべつに構わなかった。
その時は。
村雨の生活は、想像していた以上に不規則だった。
一方、獅子神は自分に制限をかけて規律を守りながら質のいい食事と運動と睡眠を心がけてくらしていた。
全ての行動に意味があり結果がある習慣は、自分を常に客観視する獅子神を静穏な気持ちにさせたし精神を安定させた。
夜中の二時に電話に呼び出されて仕事に向かう村雨の気配に目を覚まし、車を出すなど少し前までは考えられない事だった。
「タクシーを拾うので、大丈夫だ」
最初こそ村雨は送迎を断り、ここから徒歩十分ほどの大通りまで早歩きで飛び出して行くのを獅子神は窓から何度かその背中を見送っていた。それは道の濡れきった雨の日も、零度を下回る深夜も。
「でも、そんなすぐ捕まるか?ここら辺でこんな時間にタクシーなんて」
「意外といる。アプリでも呼べる」
「その時間、勿体ねえだろ。いいって、オレ別に帰ってからまたすぐ寝るし」
村雨が着替えながら話している間に、獅子神はもうスウェットの上にダウンを着てスマホや財布をポケットに入れてしまう。
「……あなたの生活を、乱している」
「ちょっとくらい影響ねえよ」
エンジンをかけてしばらく住宅街を走り、灯りをつけたタクシーが行き交う道路に出た頃、……あ、それとも、と獅子神は少しその顔を見て、また前を向いた。
「ありがた迷惑とか思ってるんなら、もちろんやめとくけど」
ゆるやかに減速して信号の前で止まる。都心に近くなりコンビニやまだ開いている飲食店や電飾掲示板の色のついた光が自分たちを照らしている。
返事はないかもしれない。
沈黙に満ちてしまった車内。
歩道の青信号が点滅するのを、ゆっくりハンドルに手をかけると。
「あなたは、優しい」
村雨が前を見たまま言う。今では見慣れてしまった、先程まで眠っていたはずのまだ微睡みの残った横顔。
「あのとき、私はあなたに貸しを作ったのだ、とでも思えば楽に甘えられるのかもしれないが……」
「………」
あの時。
信号を急いで渡る行き交う人間たちに重なって、ライフイズオークショニアの光景がフロントガラスに浮かんだような気がした。
ざわめき、笑い、嘆き、獲得と喪失、あそこにはこの世界の全ての何もかもが、ある。
「貸し、か」
青信号となり、一呼吸置いてアクセルを踏む。
少し走行して、流れに馴染んだ所で村雨が「……どう受け入れたらいいか、私も迷っている」と言葉を漏らす。
獅子神は、ハンドルに手を置きながら前を見てミラー越しの村雨の輪郭に、ひとつ目をやりまた元に戻した。
「あなたは、私を家に招き入れてこうして生活を共にする決意までしてくれた。貸し借りなどではなく、あなたはただ純粋に私の暮らしぶりを見かねて世話を焼き、そして私はこうして焼かれている」
「おう、焼かれてくれてんのは、わかってる」
普段の自分の行為に身に覚えのある獅子神は、今だってこうして親身な気持ちを押し付けているのを自覚して苦笑した。言うまでもなく村雨は、真実しか口にしない。
「……なので、今度は私が決めてもいいか?」
ずっと前を向いていたその瞳が、こちらを少し見た。
「……ん、なにを?」
ハンドルと目線を前にしたまま、相手に首を傾げる。村雨が正直者なのだから、自分は分からない事は分からないと言うしかない。
「これを、愛だと」
束の間の空白の後。思わず隣の男を見る。一瞬、何を言われたか分からなかった。
「前」と、注意され、慌てて言われた通りにする。
何度も隣を意識する自分に対して、村雨は真っ直ぐな姿勢で腕を組んだままもう、少しもこちらを見ようとはしない。
赤い信号、そして緑色した青い信号。獅子神はただ作業的に目で判断して手足を動かした。
そんな中、とても驚いていた。その言葉の通りだと思った。ずっと自分が村雨に対して持っていた、この理屈抜きの短絡さと自然さは、きっとそれだ。やはり、この男は本当に頭が良い。
すべての信号が青になったように、大きく動き出す世界。
そこから、どうやって病院まで送り届けて自宅までの道へと戻ってきたか、記憶がない。
葉を落とした街路樹が黒い。
淡い墨色の空の下の、黄色い窓をしたマンションたちを通り過ぎながら、村雨の言い当てた胸の言葉を今度は己が話す。
これは、愛だ。
これは……
何度もそう繰り返しては、その度にそれをずっと昔から閉じ込めていた自分に獅子神は身体中が熱くなり涙が出そうになった。
───
「愛」だって。
獅子神は、それについて考え部屋の中にある一番分厚い辞書でひいてみて、それからただ頬杖をついた。
大切なもの、可愛がるもの……その文字を指でなぞってみては、角度を変えて眺めて見ても自分の中の霞んだ違和感へとたどり着くのに気づく。
様々な、「経験」という女を抱いてきた。人との出会いの中、いつのまにか話す話題も増え朝まで酒を飲むようになった男もいた。
もちろん、すべて偽物だったわけでは無い。しかしそれでも本当のものを見つける為には、なにか別の違うものを知らなければならなかったという、そんな類の自己中心的な行為の後の嫌悪がふと連なる過去を通り過ぎて胸が曇る。
今までであなたが一番素敵な彼氏だった、と言って泣いた女。分からない事は何でも聞いてくれ、と肩を叩いてきた先輩。友達なんだ、と言って知らない誰かに紹介してくれた仲間。
それはどれも映画や小説で他人の物語を見るような、自分のものとして受け取っていいのか迷っている間にこの手からこぼれてしまった数々の言葉の記憶だった。
インターフォンが鳴る。
村雨が帰りを知らせる音に、思考に没入していた胸が跳ねた。
開いていたページを秘密を伏せるように閉じて、なるべくいつもの歩く速度で玄関先まで足を運ぶ。
「ただいま」
扉を開けてその挨拶を聞くと、世界は午後の眩しくも穏やかな冬の日差しだった。そこへ世にも不穏な赤色をした瞳が無防備にこの部屋の中へと視線をなげて、さっさと靴を脱ぎリビングへと戻ってくる。
「……おかえり」
ああ、今日も帰ってきた。
獅子神は、その当たり前に手を洗いに洗面台へと向かう背中を見ながらほとんどその現実に気が抜ける。
あの時に、こちらへと差し伸べられていた手。
その意味が、今なら分かるし、今しか分からない。
「疲れたか」
「大丈夫だ」
「メシ、食うか。オレもまだだから、今からあっため……」
キッチンへ向かおうとすると、「獅子神」と呼び止められた。
振り向こうとすると、村雨はもうすぐそこにいて肩にそっと額を乗せられる。
「……」
働いて帰ってきた、人間のにおいだ。
多くの人間、様々な部屋の存在がこの男に染み付いている。
「少しの間、このままで……」
「ん……」
疲労感に混じる甘えた声。
村雨は、たまにこうなる。
「いいにおいだ」
───あなたの……
眠るみたいに目を静かに閉じて、そんな事を言うこいつ。
オレからは、一体どんなにおいがするのだろう。
オレは、こいつと違って今日もこの家で一日何者になる事もなく、オレがオレでいられるように好きなように過ごしてきた。
その骨の浮くような儚く薄く、それでも男のものである肩を抱き寄せて、そしてもう一つの手で冷たい手に触れる。
ふと視線の先の窓の外を見れば、晴れている空気の中に煌めく小さな雪。
そういえば年の瀬が近い。
クリスマス、正月に、こいつの誕生日。そこを越えたらきっともっと、村雨と自分は深い関係になれる。
その前にオレたちがこうなってること、アイツらには話さなきゃな……
こうなってる、のその内訳を考えると何をどう話していいものやら。
しかしおそらく、彼らは顔も見合わさずに「今さら?」と吹き出すはずだ。それくらいの予想は自分にもできる。
「なにか、おかしな事を考えているな」
「ん?なにが」
笑って見下ろせば、そんな問いかけにも不思議そうにひとつ瞬きするその顔が、こんなにも側にある。
オレは、そんな村雨ごともう一度抱いて目を閉じる。
「変な事じゃなくて、いい事、だろ」
こういう瞬間に感じる事がある。
本物の愛がないと分からない。見えないし、聞こえない。
本物の愛が自分の中で息づいているからこそ、きっと誰かの言葉が心に入りそれが胸で溶けるのだ。
地を這い血を流し痛みに打たれ、誰かへ向けたものではなく自分の為だけの怒りの中でしか手に入れられなかった光るもの。
この幸せは世界で、たったひとつ。
誰にも理解されなくたっていい、ごく個人的で絶対的な……
オレだけの幸せだ。
そんな毎日だから、村雨とのスキンシップに抵抗は微塵もなかった。
実はむしろもっと深くを望んでいた事には、村雨に悟られると生活に居心地の悪さを与えてしまうかもしれないので自分自身その意識を遠ざけたり、それどころか見て見ぬふりをしていた。
その日、投資家や経営者の仲間が集まるパーティーでの、飛び交うような笑い声とつぎつぎ目の前に差し出される酒に酔ってしまった獅子神は、いよいよそれが顔に出てしまう前に二次会への執拗な誘いを何とか断って帰宅していた。
最低限の照明をつけソファーに身を沈めるように座ると、弛緩した体に一気に気怠さが襲う。こんな姿あまりにだらしないとは思っていても、どうしてもこれ以上目を開けていられず肩をもたれたまま思考を失い眠ってしまっていた。脱ぎ捨てたタバコや香水くさいスーツのジャケットもネクタイも、溶けたようにソファーからだらりと床に垂れ下がっていたに違いない。
どれくらいそうして意識を沈ませていたのか分からない。すると、村雨の「あなた、アルコールを大量に飲まされたな」という声が頭上からし、少し驚いて目を覚ました。
「………」
今しがた帰宅してジャケットを脱ぎ、袖を捲って手を洗ったばかりの男がこちらを見下ろしている。
───ああ、今日はコイツ帰って来れるかどうか分からないって言ってたけど、ちゃんと帰って来れたのか……
そんな事を思うと同時に、いつも通りおかえりと言うつもりがカサついた喉に強い渇きを感じて「ああ、わり、あのさ……水くれねえ?」という言葉が代わりに口からこぼれた。
言ってしまってから、その自分自身の軽率さに少し驚いた。いつも無意識にきつく縛ってある脳の一部が酒で緩んでいる。こんないくらなんでも自分でできる事、誰かに頼んだことがあったかどうか、分からない。
優しい闇の中、村雨がこちらを見下ろしている。
持ってきてくれるだろうか。こいつは。
こんな何もできない、ここで寝ている邪魔なだけの男に。
すると村雨はすたすたとキッチンへと行って、わざわざ常温のミネラルウォーターを高い棚を開けて取り出し、グラスに注いでそれをひとつ運んで来てくれた。
「さあ」
隣に座った村雨の気配にぼんやりと目を上げると、首を支えられ、差し出されたグラスを口に当てられる。
「…………」
ごくごくと水をのんだ。一気に、全部。与えられるままに。
ぷは、とまるで生命まで潤った気持ちで口を離すと、「おかわりは?」と聞かれて小さく首を振る。
すると、何故か村雨の方が満足したように、こちらに少し緩む表情。
「このまま着替えて、きちんとベッドで寝るといい」
グラスを持って、キッチンに戻ろうとするその肩。
獅子神は、一度容易くも解れてしまった心のまま「村雨……っ」と思わず引き止めようとその体を抱き寄せてしまう。
村雨は、グラスを落としてしまわないよう、それを持ったままのポーズで静止した。獅子神はそれを指先で受け取り、そっとテーブルの上に置き直す。
「オレ……酔ってるんじゃねえから……」
「……分かっている」
本当は少しだけまだアルコールは体内を巡っていたのかもしれないが、村雨はそれを見逃してくれた。
「あのさ、言ってなかったけど……」
「ん?」
村雨は柔らかく瞬きするまぶたで聞く。
「好きだ」
獅子神は、ごくりとして言った。
しんとしてしまった、部屋の中。
「ありがとう、私もだ」
その、微笑む呆気ない返事に獅子神は一度わずかに目を丸くしてから、「……いや、だから好きっていうのは……」と、この溢れてしまった想いが伝わっているか確認したくて、首の後ろを掻きながらつい目を逸らしてしまうと。
「───では、これで分かるだろうか」
座っている村雨の重みがこちら側にかかり、ふっ、と目の前が暗くなった。それは視界が全て村雨で覆われてしまったからだ、と気付いた時にはかちゃりと眉間に硬質で冷えた眼鏡が当たった感触がしていた。
獅子神は、しばらく目を開けたまま何も見ていなかった。
村雨の唇だ。
薄くて、でも柔らかい。
「………」
しばらくその感触が続き、獅子神がずっと固まっていると、村雨はのろのろと離れた。
すると、今度はなぜか胸を押さえて不規則な乱れた呼吸を繰り返す。
「ど、どうした?」
「少し、息継ぎが必要だ。二十秒以上呼吸を止めたままでは……さすがに私も苦しい……」
「息は、……してて良いだろ」
「しかし、唇を合わせたままどれくらいの時間、しかもどうやって……呼吸をするのが通常のやり方なのか分からない」
苦しさによるものか少しだけ顔に血色を浮かばせて俯く。
「私だって、あなたに呆れられるような失敗は避けたい」
獅子神は村雨が面白くて、可愛くて、愛おしくて、そして嬉しくて不謹慎にも吹き出してしまいそうだった。
もう一度、そのままの村雨の髪に触れる。
「オレも、していい?」
「………」
小さく首で頷く。
「息、してて。目……閉じて、からだの力抜いてて」
今度は獅子神から、優しく背中から抱き寄せてキスをする。その誰とも違う世界でひとつだけの唇の色とかたち。この男が持って生まれたものなら、どんなものでも全てが美しくて好きだ。
唇を合わせては、角度を変えてもう一度音を聴かせるように触れる。大人しくなされるがままの唇に、自分の感触を擦り合わせるように。でも、その生々しくあたたかい隙間までは開けさせてしまわないように。それから、最後に少しだけ深くついばむ様にして愛を求めてから離れる。
「……っ……」
村雨は、先ほどよりもひどく高揚して染まった顔をして、それを伏せる様に獅子神の胸に項垂れた。それから、あ……、と息を詰まらせる声。
「……あなたは…ずるい。そんないやらしい術をいくつも知っていて……」
「ん、ごめんな」
「こんな……、私は初めてだというのに……」
「村雨」
そのか細い顎に触れて、指先でなだめる。
「正直これが、今のオレだけど……」
それから、もう一つの、傷を持った手でその手を握りしめた。
「お前がオレの事イヤになったら、ちゃんとこの手離すから」
「………」
すると、村雨がにわかに鋭い目つきになる。そして獅子神の自分に触れているその手を振り払うようにして、今度は自分が手首を強く掴んだ。
痛みを与えているつもりなのかも知れないが、こんな程度の怒りでは心地よい力にさえ感じられてしまう。
「臆病で狡猾な、あなたらしいな」
熱い目。獅子神はだまって聞いていた。
「いいか、……私は、あなたを……」
いつになく、重い沈黙だった。
自分の中にある感情をより純度の高い言葉として変換させ、完全な形で伝えようと苦心するような。
その次の声を継げずにいる村雨を獅子神は、「ごめん」と胸の中にゆっくり抱き寄せて、もう一度キスをする。
指を絡め、肩へとその頭部を受け止めると村雨は目を閉じて「謝るな。……それでも、それがあなたの本心だという事を私は知っている」と、瞳から溢れてしまいそうな感情を押し込めている気がした。
「あのさ、村雨」
その額に唇で触れながら言う。
「今日から、一緒に寝たい。オレの部屋のベッドで……」
見つめていると、少し間があって村雨はゆっくりと目を開けて顔を上げた。
それから、するりと力をほどくように眼鏡を外す。
こちらに見せるその裸の赤い瞳が、何も言わず、この決意をずっとこうしてそばで待ってくれていたような気がした。
今日みたいなこんな日があって、明日も、その次の日もあって。
そう、願えるように。
決して書き直せない過去を、嘆いて終わらせたりなんかしない。こんな、生き方しかできなくても……
オレは、あの場所で勝つ。きっと勝ち続ける。ずっとずっと、いつまでも。
新しい輝きで帰ってきて、ここで村雨に会うために。
何度でも、もう一度こうして出会うために。
そう、思っていたのに───
2025/08/27