風呂から上がって、冷蔵庫のドリンクを何口か飲んだ時。悪寒がして、獅子神は身体の中に何らかの侵入者がいることに気付いた。
普段はなんて事ない温度の水分が、胃から全身へとその冷たい痛みを伝える。
おそらく、風邪の初期症状。
今朝から何となく食欲がなく、疲労を感じていたのはこれが原因だろう。
自分は、自己管理を常に怠らない。均整の取れた肉体を得るための食事。バランスの良い筋肉を作れるよう綿密に計画されたジムでのメンテナンスとスケジュール。
こうして身体との対話に常に向き合っているので、少しの異変にもすぐに警報が鳴る。
大した体調不良じゃないといいが……
なんて思いながら、いつもより多くサプリメントを選び、今度は常温のミネラルウォーターを手にして寝室へと向かう。なに、午前中のうちに株の取り引きをする作業は休みとはいかないが、明日は特にさしたる用事も試合もない。眠ればいい。しっかり治るまで。
くあ、とあくびをすればにじんだ窓の外にはやけに明るい尖った三日月。
獅子神は自宅邸の一階にある寝室へ、ぱたりと入ってすぐに消灯した。
いくらか眠った気がしていたが、目を覚ましてサイドボードの時計の数字を見ると二時間も経っていなかった。
少し開いたカーテンからさっきの月がこちらをのぞいている。暗い室内に細く切り取られて伸びた月あかり。
う……いて……
少しみじろぎしただけで、骨盤が痛む。
背筋の神経に冷水をかけられたみたいな寒気がゾッと駆け上がっては、大腿骨や頸椎をズキンとさせて消えていく。なにより、喉が擦りむいたみたいに痛い。
まずいな、今から熱が上がる。
体温計をそばに用意しておけば良かった。思わぬ急な体調変化を憂いながらのろのろと起き上がり、チェストの引き出しを探る。取り出した体温計を脇に挟むと、小さな液晶の数字はあっさり平熱を通り過ぎて、それからしばらく考えたように止まったかと思うと、ピーと38.6との知らせ。
それを見た獅子神は、落胆して腕を目の上に乗せた。少し笑ってしまった。身体のコンディションには細心の注意を払っていたはずなのに、見事に裏切られてしまった自分が可笑しかった。もっと言えば現状は、まだそれくらいの余裕はまだあった。
「久しぶりだな、こんな発熱……」
季節は、生ぬるい春。
仕方なく傍のスマートフォンを手に取り、アドレスから選び出したのは園田の文字。
むろんこんな時だから、いま片想い中である医者の名前が少しもよぎらない訳ではなかった。だが、電話番号のリストをスクロールする指は、その男の名前には遠く辿り着きすらしなかった。
スピーカーにしてシーツの上にそれを投げ出すと、一コールの終わりに「ハイッ獅子神さん!!」という相手の声。やはり耳から離しておいて正解だった。
「あー……あのさ園田、今から開いてる薬局探して風邪薬買ってきてくれ」
「えっ!獅子神さん、もしかして風邪ひいたんですか!?」
「多分、まあな……すげー効くやつ。頼む」
この御使いに、園田は「任せてください!」と水を得た魚みたいな了承の返事をして電話を切った。獅子神は、なに張り切ってやがんだよコイツは……と、呆れたがいくらか安心してもう一度横になる。手の平の傷痕が、この体調不良に便乗するように痛みだした。
はあ。闘いはこれから、ってかんじだな。
熱い息を吐いて目を閉じる。
頭痛がした。
眠気と苦痛の狭間でいやおなしに眉間に力が入る。ずきんずきんとしているそのうちに、今度はもう目の奥、耳の中までもが痛くなる。痛みなんてものには誰より慣れているはずなのに、体内から神経に杭を打ち込まれているみたいで思わず呻き声を上げてしまいそうだ。
すると、インターフォンが鳴る。
獅子神は虚ろにベッド頭上にあるモニターを見上げて、ロック解錠のボタンを押した。
やっと、薬が到着したと脱力する。束の間の動作にも疲労を覚えて、横になると強烈な睡魔に引きずられてまた意識を手放した。
「獅子神さあん……」
情けない声に、はっと目を開ける。いつの間にかベッドの隅の闇のわだかまりに園田がいて、獅子神は自分で呼んでおきながら少なからず驚いた。
「お薬です。起こそうかと思ったんですけど、あんまりお辛そうだったんでどうしようって思ってたとこだったんですけど。良かった、起きてくれて」
ガサガサ、とレジ袋を探り心配そうにいくつもの箱を差し出されて「あー……、悪いな。そこ置いといてくれ……」と獅子神はじんじんとする額をおさえた。
「熱、やばいんですか?今から病院いきます?……夜間救急あいてるとこ探しましょうか?インフルとかかもしれないですし。オレ、すぐ連れて行きますよ」
「………」
その心配そうな顔は、本心と認められるべき相手に認められたい欲求とよく相まって絶妙に人間らしい。
「そうだったとしても、検査するのにはまだ早くねえ?」
仕方なく返事すると男は、「あ……そっかあ確かそういうのって何時間か経たないと検査しても意味ないんでしたっけ……」と、そんな重要な事を今思い出したのか困惑して首を傾げる。それからスマートフォンを取り出し、「えっとインフルエンザ、検査、何時間……」とすでに病名を決めつけて検索をはじめたかと思うと、あっ!、と今度はまた何かを別の事を思いついたらしく明るく顔を上げる。
「そうだ、獅子神さん。最近よくお家に来てるお友達の……村雨さんでしたっけ。あの方、お医者さんなんですよね」
「………」
「一昨日くらいも、来てませんでした?電話したらここまで診に来てくれたりしませんかね」
獅子神は、耳を塞ぎたかった。
……うるさい。馬鹿、まぬけ。
言った側から気付けよ。オレがそいつを呼べるなら、お前なんてモンは最初から間違いなくここに発生してねーってことに。
忘れている訳などない。
叶わない恋の矢はいつもこの胸に深く刺さっていて、心は四六時中ずっとずっとあの横顔をうつしている。
医者だろうがそうじゃなかろうが、そんな気安く名指しできる男ではないのだ。自分にも、他の誰にも。しかも、あれは内科じゃなくて外科だ。なのに。このバカは……
渾身の力でもう帰れと引導を渡そうとしたが、「オレ、代わりにあの人に連絡してみましょうか。もしかしたら、獅子神さんのこと心配して来てくれるかも」とついに甘ったれた事を言いだす。
「バカか、こんな風邪くらいで医者呼ぶとか……ガキかよ。恥かかせるな」と獅子神は言った。
「でも、いま熱何度あるんすか?」
「……高い。でも、病院なんて行くほどじゃない」
カプセルを二錠、飲み込む。もう一度体を横たえると、またひどい寒気に関節が痛み出した。
「う、も、もういい……帰れ。あとは何とかする」
「でもお」
「いいから帰れ。あんまりごちゃごちゃこのオレに意見しやがるとクビ切るぞ」
少し冷酷な声で言うと相手は「えっそんな」とうろたえる。
「朝になったらまた連絡する。それでいいだろ……ちょっと寝てーんだよ。戻れ」
わざと言葉で突き放して毛布を被り直す。園田は少し迷っていたが大人しく、ハイ……と返事して部屋から出て行った。
「………」
天井とも壁ともつかない、白い景色をぼんやりと眺める。
やけに耳に響く熱いため息みたいな呼吸。
こういう時、「一人なんて慣れてる」と思えるそういう生き方をしてきた。それは、幼い頃から。こんな程度の風邪、どうにでもなる。
きっと、朝になれば今よりずっとマシになっている。
そう、明日は今日よりマシに……
昔、何度も裏切られては毎晩ともなく繰り返したいつかの願い。どろどろと重くのしかかる微睡みで、しだいに瞬きが増える。
嫌な予感がした。夢をみてしまいそうだ。とりとめのない、子どものころにクレヨンで塗りつぶした記憶。
ひらり、と白い世界に何かが鳥のように降りてくる。
ゆっくりと手の平に落ちてきた紙切れ。
それは、昔自分が偶然手に入れた壱万円と書かれた紙幣だった。
七才だっただろうか。駐車場の、精算機の足元にあるブロックの下に落ちていたそれ。そこでは、たまに十円玉や百円玉を拾う事があったが、この時自分は初めてコインではなく紙でできた金というものに触れた。
幸せへのチケットは、もっとクラスの誰かが自慢げに机の上に広げているレアカードみたいな光る装飾で、うっとりするような美しい絵画が描かれていると思っていた。
だが、突如手の平に降って沸いたおかしなジジイの描かれている「金」は、ダサくて手触りも良くない綺麗でも何でもない色褪せた紙切れだった。
それでもその紙は、自分が想像していた価値以上の威力を発揮した。
いつも自分を差別し毛嫌いしていた商店街の小さな菓子屋の老婆に、ここにあるガムを箱ごと全部くれとそれを差し出した時。
まるで、今までの事など無かったかのように豹変したその老婆の態度に、あの紙切れが一人の人間を変える巨大な力を持っている事を思い知った。
あの時、自分があの金で買ったものはずっと失っていた「人としての尊厳」で、「生きる為の希望」だった。
もっと欲しい。
なんていう、眩しい光。
この、光の中にいられるならなんだって賭けられる。
当然だ。もう、いつかの何も手にできず下を向く幼い自分はとっくにあのしみったれたゴミ部屋に置いてきた。
金の降る中、この道を行けば必ず幸福が待っている。ずっと、ずっと、この先を行けば。
……だけど。
向こうに、誰かがいる。
悪魔か、それとも神……
いや、違う。あれは、オレだ。
幼い頃の、薄汚いのにひとつも汚れていないきれいな、オレ。
「でも、本当に一番欲しかったものは……?」
「………」
あとからあとから頬をかすめて降る金の中。
それには見向きもせず、こちらを真っ直ぐに見つめてくる子どもを見下ろす。
本当に、欲しかったもの……?
すると、軽快なメロディがその夢を中断させた。
玄関のインターフォンの音だ。
見ていたはずのものが何もかもが消えて、現実の自分の部屋の中がぼんやりと目に映る。
そういえば、夢の中に重なって何度かこの音が鳴っていた気がする。
のろのろと、視界を合わせる。
うるせえ、また園田か。何しに戻ってきやがったんだあいつ……
イライラとして無視しようにも、そのメロディはそれからも間髪入れず何度も鳴り続けた。
「………」
くっ……ブッ殺す……!
怒りの動力で半身起こして、通話ボタンに指を投げると。
モニターには、夜の背景の丸い眼鏡をかけた男。
「村雨だが」
後ろに、のけぞる。
本当に心底驚いて、声が出なかった。
さっきまで、まったく違う夢を見ていたのにまた違う夢を見せられている気がした。
「この門扉の解錠番号は知っているが、不法に入る気は無い。開けろ、往診に来てやった」
は、はああ…?
疑問だらけの頭で何か問う前に、指はもう自動的にロック解除のボタンを押していた。そして、向こうの玄関でがちゃりと音がして本当に村雨が入ってきたらしい。
「寝室はここか、入るぞ、獅子神」
と、ノックする静かな声の主はまぎれもなくその医者の声だ。
「あ、ああ……」
よろよろと立って返事をすると、ジャケットを着てボストンバッグを持った村雨がドアを開けた。そして、ズカズカと侵入してくる。
「ふん、典型的な感冒のにおいがする。そのマヌケ面はいつから始まった」
室内の空気を一瞥し、さらには自分に歩み寄ると寝ていろとばかりに肩を指先で押される。
「……村雨?、なんで?どうして……」
我ながら素っ頓狂な返事だ。思った事しか言葉に出来ない。
村雨はサイドボードの上でノートパソコンを開き、青い光を反射した眼鏡のガラスでカタカタと何かを入力しながら「あまり、想像力が働いていないようだな。一昨日、あなたを見ていて、今晩にでもこんな風邪を発症する事は分かっていた」と答える。
「えっ」
「ここまで言えば分かるだろう。潜伏期間から三日。そろそろ、そんな発熱や悪寒の症状が出ているだろうと思って様子を見にここまで来てやったのだ」
獅子神は、もう一度驚いて口を開けた。
まさか、この男。あの日、二人でただ食事をしたというだけでこの自分の体調の変化を予期できていたという事なのか。自分でも全く気づかなかった、こんな微細な体内の異変を?
「先日のあなたは、気管支粘膜に若干の乾燥のある声をしていた。ウイルスに対抗する免疫細胞が活発化している人間特有の血色や疲労感のある動き。最近、過度なトレーニングや、食事制限の頻度を増やしていただろう」
「う……」
「あなたの趣味に干渉するつもりはないが、筋肉の増強のみを特別視した悪習慣は見直すべきだ。健康でいたいのなら」
村雨が床に膝をつき、こちらの手を取って脈を測る。獅子神はびくりと慌てた。
「ス、スツール使えよ…そこの……」
「結構だ。じっとしていろ、出先から来たので医療機器は持ってきていない」
腕時計に視線を落として、脈拍を数えている。
どうしよう。
やめてくれ。
悟られてしまうかもしれない。この、気持ちを。
「………」
ふと、目が合う。そのガラスの奥の冷えた表情と対照的に、狼狽する獅子神は何も言うことができない。
「なぜ、そんな今にも殺されそうな心拍数をしているんだ?」
村雨が、可笑しそうに目を細める。獅子神はとっさに目を逸らし羞恥に目を閉じた。
本当に、殺されそうだ。だって、こんな……
「それで、発熱から今どれくらい経つ」
「……五時間……あ、いやまだ三時間くらいか……」
やはり検査は明日だな……、と村雨は立つと、今度はベッドに座り覆い被さる姿勢で腹に手を当てて触り出した。
力無く、あっ……と声が出かけて、あわてて口を手で塞ぐ。
「どうした、痛むか」
「あ、あんまりいきなり触るなよ……」
「なぜ」
「びっくりするから……」
「いいか、私は診察しにきてるんだ。患者の嫌がる事にいちいち了承を取っていたら何も出来ない。ここはどうだ」
横腹を触る指に力を入れられて、「ん、そこは別に」と答える。
そして、するりと下腹に移動して、「ここは?」と撫でられ問われる。
そこは危ねえって!と言いたいのを、獅子神は黙って強く首を振った。
村雨が笑う。
「だいぶ、弱っているようだ。今なら、何でもできてしまいそうだな」
唇に意地の悪いかたちを滲ませる。
「早く……、あなたには回復してもらって、また私と遊んでほしいのだが」
その男は熱い呼吸をする喉に人差し指で触れて、それから腹の中央までそれを滑らせた。
「……っ……」
メスで切られるような所作に獅子神はぞくぞくとして、唇を震わせる。
「インフルエンザの流行は落ち着いているが、高熱が出るウィルスが流行っている。まずは、睡眠。水分補給。それと、この市販薬はどれも良くない。解熱剤を置いていく」
す、と目の前が村雨のかざした手の影で暗くなる。額に手の平が乗りそのままゆっくりと瞼へと降りて、目を閉じさせる。薄い闇。体温は感じられないが、嫌な冷たさではなかった。意味はないのかもしれないが、その仕草で心に小さな治癒の灯りがともる。
「……明日、もう一度来る。保険証の準備をしておいてくれ。あなたへの、夜間往診料はしっかりいただかなければならない」
村雨は、ゆっくり立った。
「お大事に」
ぱたん、と音を立てて消えたその背中。
「…………」
気が抜ける。緊張が解け、やっと本来の呼吸の機能が戻ったかのように息ができた。
夢みたいな夜。
あの、さきほどの夢の続きみたいな……。
もう二度と思い出す事はなかったかもしれない、あの幻想がもう一度甦る。
本当に、欲しかったもの……
子どもの自分に、問われた答え。
オレは、この道の先にあった特別な感情を手に入れた。
きっと……ずっとずっと求めていたものは……
こんな、命を熱くするような、誰かとの精神の結びつきだったのかもしれない。
自分の熱い額に触れてみる。
あの、冷えた手の平に村雨の心のかけらを探してしまう。
もう一度、触れられたい。
胸をかきむしりたくなるような、恋心。
夜が更けるにつれ、ゆっくりと地上に落ちていく三日月。
───ああ、この風邪。
明日も明後日も、ずっとこのまま治らなければいいのに。