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『わり、今日仕事で出先にいてすぐには迎えに行けねえわ』
『傘、持って行ってなかったよな』
『終わったらすぐ行けるけど、もうちょっと待ってられそうか?』
『まだ病院だよな?』
『ごめん。あと、まだ一時間はかかりそう』
───昼間はあんなに晴れていたというのに。
こうしたひどい雷を伴うゲリラ豪雨は、ここのところ毎夕連続三日続いていた。
夏のはじめはその気象が起きやすいとは分かっているものの、村雨は傘を玄関の傘立てに置いてきてしまっていた。一応バッグの中には黒い蝙蝠のような折りたたみ傘が入っているが、このひどい天気に太刀打ちするにはあまりに頼りない骨組みをしていて、むしろ邪魔なだけで雨からは守ってくれそうにない。
獅子神はよほど忙しいらしく、スマホへのメッセージは会話の途中でなかなか返信が返ってこない。
午後の外来診療も終了した午後五時半。
獰猛な黒雲はごうごうと轟きながら向こうから雷鳴とともにやってきて、そして突如として今日も激しい雨で世界を打ちつけた。びしょびしょになっていく地面や街路樹やビルたち。みんな一様に濡れた暗い色に染められていて悲しそうだ。
陽が消え気温が下がり、医局のエアコンの風が少し冷える。
キーボードに指を置いたまま窓の外を眺めていた村雨が立ち上がり、リモコンでぴっぴっと設定を変えていると、「今日はもう終業のはずですが村雨先生は、まだお帰りにならないんですか?」と向こうでその様子に気付いた他の医師に話しかけられた。
「少し、迎えを待っていようと思いましてね」
村雨が答えると、その中堅医師は「ああ」と思いついたように明るい顔をして「同居されてる方がいるんでしたね、確か少し歳下の」と自分は帰るのかノートパソコンを閉じてそれをバッグに詰め込んでいる。
「この雨ですが、先生は傘はお持ちですか?私の折りたたみ傘は、あまり役に立ちそうもなくて」
「僕は家内からいつも置き傘を持たされているんです、……ホラこのとおり」
水玉模様の傘を魔法のステッキのように持って、デスクの横から陽気に取り出して見せる。
「ご主人思いの、優しい奥様ですね」
村雨が笑ってにこやかに言うと、「なに、びっしょり濡れて家に帰られると面倒なんですよ。靴なんて干しても次の日も乾きやしないからこの時期は毎日雨靴を履いていけなんて言われてね」とその医師は照れくさそうにタハハと笑った。
「では、彼によろしくね。お疲れ様ー」
「お疲れ様でした」
医師が挨拶をしてパタリと帰ると、医局は村雨と窓の向こうの雨の音だけとなりいっそう静かになった。
デスクの傍のスマートフォンは黒く、パソコンのディスプレイの灯だけがこうこうとして眩しく光っている。
すると、村雨の腹がぐうと鳴った。
静かな空間でのあまりに大きな音なので、我ながら少し驚いた。
「…………」
やはり、タクシーで帰ろうか。しかし、こんな日のタクシー乗り場は多くの患者が並び車はすべて出払っていて、医者のこの自分がそこに並ぶわけにはいかないだろう。それならば、雷鳴も落ち着いてきているし久しぶりに駅まで歩くしかないか。
村雨はそう決めたが、そうしながらまだデスクに頬杖をついていた。
獅子神はきっと自分からの迎えを待っていてもらうほうが安心するだろう。
だがもう、自分で帰れるので心配はいらないと連絡してやったほうが、焦って仕事を片付けて混雑する道路にイラつきながら車を飛ばさなくても済むはずだ。
しとんしとんと寂しそうな音で、窓が大きなしずくを垂らしている。
しかし、村雨はべつに寂しくなどない。
このまま外に出て、多少雨にびっしょり濡れたって、実は平気なのだ。
雨の日には、兄とのあたたかい思い出がある。
兄と小学校から二人で、しかもこんな夏ではなく冬の日にどちらも家に傘を忘れて凄まじい雨の中を帰ったことがある。
小学校に入学した年だった。
学校から家までは低学年の足で二十分ほどあった。
最初の五分ほどは手を繋いで、というより兄に手を引っ張られてばしゃばしゃと道を走らされた。
「礼二、大丈夫かっ」
「礼二、オレにちゃんとついてこいよっ」
わかった、大丈夫、と村雨は果敢に言おうにも大きな雨つぶが顔を打ちつけ、「ばかっぱ、ばいじょーぶ」と言ってしまい、さらにざあざあという音に隔てられていて兄に声が届きにくかった。
一通り白い息が切れるまで全力で走ると、村雨が疲れてへろへろとなったところで二人立ち止まり、そこで走ろうが歩こうがいずれにしろ雨に濡れる事は回避出来ない事にやっと兄が気づいてくれた。
暗く静まり返った住宅街。人のいない道ではあはあと膝に手をついて、やがて下を向きながら残りの家までの道のりをのろのろとぼとぼと歩く事になる。
悲惨なまでに水を溜め込んだ重い靴。村雨の黄色い通学帽からは、シャンプーハットのように雨が流れ落ちている。
ざあ、時折無情にも執拗なほどに強まる雨。
つい先程まで兄貴然として勇猛だった隣の彼は、もう幼い弟と手をつないで歩こうとはしてくれなかった。
代わりに、途中から何もかも馬鹿馬鹿しくなったのか、やけくそのように空へと笑いだしわざと水たまりに飛び込むただの小学生へと姿を変えていた。
ちょうどランドセルに刺していた笛を片手に狂戦士のような動きで水たまりへと兄が突進するその度、村雨は水しぶきを膝に浴びたがそれが気になるはずもなかった。
何度か、気の毒そうにこちらを見る車が通りすぎることもあった。
しかし兄はまさしく水を得た魚のように嬉々として大きな水たまりを見つけては自ら飛び込み、むしろそこからは帰ろうとせずまさかの公園にまで寄り、泥を浴び笛を吹き、村雨はその後ろについて行き、その兄の奇行をいつまでも見続けることになった。
自宅へ帰る頃、白い靴下は泥で色が変わり果て、兄や村雨の半ズボンはどちらも雨の重さで半分ずり落ちそうになっていた。
帰り着いたとたん、二人はお互いが青い唇でガタガタと震えているのに今さら気付く。
「おかえり、そこで全部脱いじゃいなさい」
母は腕は組んでいたが笑ってそう言い、自分たちは玄関で真っ裸になりすぐに風呂場へ直行して、兄は今度はすでに湯が張ってあったあたたかい浴槽へと直接飛び込んだ。
そのあと母が出した、即席のわかめラーメンのおそろしいまでの美味さといったらなかった。
あの、兄と二人で雨にずぶ濡れになった不愉快で愉快な感触はいまだに忘れられない。
村雨は、病院を出て黒い小さな傘を開いた。
兄とはそんな愚かで面白くて小さな思い出がたくさんある。
だから、こんなひどい雨の日も不幸な気持ちにはならない。
帰ったら獅子神は、料理でもしながらこの話を笑って聞いてくれるだろうか。
雨の中、体の大半をずぶ濡れにしながら家までの道を一人で歩いているとパンというクラクションとともに「村雨!」という獅子神の声がした。
振り向くと、すぐに道路脇に車を止めた獅子神が運転席から出てきて「待っててくれると思ってたのに。すげえ濡れてんじゃねえかよ」と村雨がただ手に持っていた貧相な蝙蝠傘を奪い、急いで代わりに自分の大きな傘の中に入れる。
「腹が空いたので、帰ることにした」
村雨は、目の前の獅子神に何度か瞬きをした。
「一人で帰れると送ったメッセージを見ていないのか?」
「見たよ。だからもう、この辺まで帰って来てるんじゃねーかと思って……」
「………」
「遅くなって、ごめんな」
獅子神がとてつもなく寂しそうな顔で、湿った髪を撫でてくる。まるで雨の中、迎えに来てもらうのをいつまでも待っていたのは獅子神のほうみたいだ。
村雨は、私は大丈夫だと言おうとした。しかし、こうして差し出される傘が必要なのは自分ではない。
誰よりも広くて大きな傘が必要なのは───……
「探してくれたのか」と、村雨は獅子神の体温のあるその手を取り頬で触れた。
「……心配だった」
「そうか、ありがとう」
幾重にも重なった雲から夕陽がさす。
様々な色を反射する世界と少しづつ止み始めた優しい雨に包まれながら、村雨は獅子神の傘の中で嬉しく微笑んだ。
村雨がシャワーを浴びて、それからドライヤーで髪を乾かしてリビングに戻ると、何やらエプロンをして調理している獅子神に「こっち来いよ」と言われてテーブルについた。
まだ薄暗い夜になったばかりだというのに、自分だけがパジャマを着ていて、すると思ったより体の芯はまだ冷えているのかひとつ大きなくしゃみが出た。
「風邪ひくなよ、医者がよ」
笑いながら、ごとんと湯気を吐く大きな丼が目の前に置かれる。
村雨はくもる眼鏡に触れながら覗き込み、そのきらきらと光る中身にしばし目を奪われた。
うどんだ。
ふんわりと、狐色の揚げが浮かぶなんとも愛らしいきつねうどん。
「……美味しそうだ」
母が特別に出してくれたあのラーメンと同じように、こころがあたたかくなる。
外は、大雨のち晴れ。
あれから病気になってしまった兄は元気になり、村雨も今はこうして恋人と暮らしていてまるで幸福そのものである。
過去はきっと、こうした不幸せと、そのあとに必ず約束されている幸福の積み重ねであるべきだ。
誰の上にも、そうあるべきだ。
「とりあえず早くあったまれよ。あとで食いたければ肉は焼いてやるから」
「いただきます」
村雨は手を合わせて箸を取ると、ふと向かいでエプロンをしたまま、いつも通りに食事をする自分を眺めようと頬杖をついている獅子神の顔を見た。
「……ん?フーフーするか?」
あまりに真剣に村雨が自分を見てくるので、獅子神は戸惑って首を傾げる。
「獅子神、結婚しよう」
「えっ!!」
「必ず幸せにするので、私の所へお嫁に来て欲しい」
「えっ?」
…………
獅子神は現在自分の家で暮らしている村雨の、どこへ嫁いだらいいのかなどの疑問が往来してしばし額を押さえたものの、それからやがて赤い顔で「……あの、じゃあ……ふつつかものですが」と真面目に答えて頷いたのだった。