疲れてる四代目と様子のおかしい真島の話。桐生はわりと人に頼るタイプだ。
一人で抱え込むこともあるが、自分のキャパシティがそんなに大きくないという自覚があるため、手に負えないと感じたらさっさと他人の手を借りる。不器用な自分がやるよりも適切な人間なんていくらでもいるのだ。
効率化を考慮してなんて難しい思考回路ではなく。もっと単純に、「これはちょっと無理かも」と思ったら人に任せているだけである。
しかしどうしても桐生でなければならない仕事もあるわけで。ここ二週間ほど、ずっと本部に缶詰だった。
肩が重く、腰も痛い。
倦怠感が重くのしかかる。
思う存分体を動かせていないのもこの言い様のない疲労感の一端なのだろう。
組の問題は大きいものから小さいものまで様々だ。桐生が四代目の椅子に座ることに反発する組も当然あったが、力で反抗する組は力で捻じ伏せ、対話を望む組には対話で応じ、今は概ね落ち着いている状況だった。
だがひとつだけ、解決できない問題があった。
真島吾朗だ。
あの嶋野の狂犬と恐れられていた男。
何だかんだ派手に動いていた男がこの半年間、不気味なまでに静かなのだ。
就任当初、柏木が真島に「あまり四代目に喧嘩を吹っ掛けないように」と釘を刺した時には、誰も彼もそれは無理だろうなと思いながら聞いていた。形式上というのがありありと分かる言い方で、柏木本人もそれを分かっているため、ぱっぱと次の話題に切り替えていた。
その時の真島の表情は、誰も気にしていなかった。
それから半年。
会長室で仕事をしていても、外を歩いても、桐生の傍に真島の姿はなかった。
定例会では幹部の1人として大人しく椅子に座り、静かに話を聞き、会議が終わるとそっと出ていく。
今までの桐生への異様な執着はピタッと鳴りを潜め、ただ淡々と組のシノギを行っている。組員への喝の入れ方は変わっていないらしいが、それ以外では真っ黒い目でジっとしているそうなのだ。柏木はそういう気分なのだろうとさらりと流していたが、桐生にはどうもそれだけだとは思えなかった。
街中で、本部で、会議で。
気付けば蛇の視線が絡みつく。
それは言葉に出さないものを全て視線に織り込んでいるような、どろどろとしたモノだった。全身に纏わりつく視線の先をそうっと辿ると、いつだって決まって真島がいるのだ。
その場で捕まえて「どういうつもりだ」と問い質したかったが、蛇は桐生が一歩近づくとするりと逃げてしまう。ダラダラと事が長引くのを好まない桐生がそんな真島を呼び出した回数は片手で足りないほどだ。
俺に不満があるなら言ってほしいと出来る限り真摯に語りかけたが、
「いいや、桐生ちゃん。お前に不満なんてこれっぽっちもあらへん」
と黒々とした目で言い切られてしまうので、それじゃあ何かあったら伝えてくれ…と毎回当たり障りのない言葉で終わってしまうのだった。
大吾に「あの人の頭ン中なんて誰もわかりませんよ」と苦笑され、それもそうだなと頷いたのが今朝のこと。
ふぅ、と息を吐く。
誰もいない会長室。
深くソファに座り、だらりと背もたれに身を預ける。照明を遮るように腕で目元を隠し、暗くなった視界の中でもう一度溜息を吐く。
正直、少し精神的に参っていた。
真島にも一緒に東城会を仕切っていってほしいと思っていたのだ。それなのに、今や仕切るどころか会話すらなく、喧嘩のひとつも仕掛けてこなくなってしまった。
就任式の時にはきゅう、と目を細めて「桐生ちゃん、おめでとさん」と言い、これから気張りや!と力強く背中を叩いてくれたのに。
たった兄貴分1人に構われなくなったくらいで問題ないだろうといくら言い聞かせたところで、桐生の中で真島の存在はそれだけ強烈だったのだと思い知るだけの堂々巡りだ。
現に今も、気付けば真島の事ばかりを考えている。
あァ、嫌になる。
ぐ、と唇を嚙みしめたところで、ガンッともバンッともつかない騒々しい音を立てて会長室の扉が開いた。
反射的に腕をどけてそちらを見ると、急な明るさでぼやける視界の中で、手にきらりと光るものを持った男が扉を蹴破った状態でこちらを見ているのがわかった。
仮にも東城会本部の最深部にある会長室だ。ここまで来られる人間なんて限られているし、こんな態度を取れる人間も限られている。
「――まじまの、にいさん?」
カツカツとこちらに向かってくる男に目を擦り焦点を合わせると、やはりそれは真島吾朗だった。
バイソン柄のジャケット。
右手には剥き身のドス。
ジっと己を見つめる静かな表情。
一言も発さないまま桐生の正面に立ち、黒々とした目で見下ろしてくる。
桐生は背もたれに頭を預けたまま、そういえばこの男は普段騒々しかったがそれと同じくらい静かな時もあったな、と思った。真島の静かな無言はこの異様な雰囲気を除けば、元より何度も感じてきたものだった。夜中の屋上で並び立ち煙草を吸う静けさは、知らぬ人間が見れば別人と見紛うほどだ、
そこにはただの無言ではなく、シン…とした静けさがあった。
今の真島が発する無言には、ぐるぐると渦巻く果てしなく大きな蛇のような、全てを不安定にさせ傾かせ崩落させるような不気味さがある。
一体何なんだと目を眇めた瞬間、
「今日のために研いできたんや」
という声と共に、桐生の頭のすぐ左側にドッと刃先が沈んだ。逆手に持ったドスが根元まで、深々と突き刺さっている。
あと数ミリで自分を傷つけていただろうそれを横目に見ると、相当な力で振り下ろしたのだろう、手首の内側の血管が強く浮き出ているのが見えた。
このソファ、確か初代の頃からの年代物だったよな、とどうでもいいことが頭を過ぎる。
ついさっきまで思考の中心にいた人物が急に現れたかと思えば刃物を振り下ろしてきたのだ。現実逃避もしたくなる。
桐生が口を開きかけたところで、ぐわりと大きく広げられた手に軋むほどの力で口を塞がれた。これには流石に何事かと睨み上げるが、桐生の鼻から下を片手でガッチリ覆った真島は掴む手を一切緩めず、スっと目を細めて薄い唇を裏返すようにして笑った。
「桐生ちゃん、」
真島の背後で先ほど蹴破られた重厚な扉が、毛足の長いカーペットを擦りながらゆっくりゆっくりと閉まり続けて、ついに静かな音で合わさった。
底の見えない笑顔から目を逸らし肩越しにその扉が閉まるのを眺めていた桐生は、扉が閉まった瞬間にクっと喉を鳴らした真島へ視線を向け……
「兄さんのお願い、聞いてや」
……見るんじゃなかったと後悔した。
今まで見たことがないほどに黒々とした目で、愛した女に囁くような声で。歌うように告げられたそれは、普段から鈍い鈍いと言われ続けている桐生からしても到底いいものだとは思えなかった。
あァ、もしかしたら今から殺されんのかな、とどこか他人事のように考える。
ギシ、と桐生の上に覆いかぶさるようにソファに乗り上げた真島は、口を覆っていた手を滑るように桐生の左瞼に持っていき、目を見開かせた。そこにいつの間にソファから抜いていたのかキラキラと反射するドスをゆっくり近づけ、目を閉じれば睫毛に触れる距離でぴたりと静止させる。
流石に桐生の指先が少し動いたがそれを制するように名前を呼ばれ、真島の1つしかない目を暫く眺めた後、だらりと力を抜いた。
「俺の目ぇと同じにしてええか?」
地獄の底を這うような声だった。
様子のおかしかった半年間の理由はこれっぽっちも分からないが、その黒々とした目の理由は分かった。昔一度、左目を失った理由を聞いたことがある。「穴倉や」と一言零された言葉は空虚で、桐生はそれ以上聞くことはしなかった。別段知りたくもなかったし、知る必要もなかったからだ。
だが、あの時に聞いていれば。
今のこの状況を少しでも理解できただろうか。
閉じられない左目が渇き、防御反応として生理的な涙が溜まる。笑みを浮かべるでもなく、ギラついた目をするわけでもなく、淡々とした表情の真島からは何も伺えない。
にいさん、
声を出したつもりだったが、掠れたそれはほとんど音になっていなかった。だがその口の動きを完璧に読んだ真島は、なんやというように片眉を上げる。自分の申し出が断られるとは少しも思っていないような素振りだった。
それはそうだろう。この距離だ。
いくら桐生が嫌だと言おうが暴れようが、切っ先が眼に刺さるほうが早いに決まっている。これはここまでの接近をぼんやりと許してしまった桐生のミスであった。何と言われようがこの切っ先を引くことは全く考えていない態度に、半ば諦めながら声を掛ける。
「にいさん」
今度は音を発せられた。
開かされ続けた左目からとうとう涙が零れ落ちる。左目を固定している手に更に力が入る。
「せめて、逆の目にしてくれ」
全く同じは恥ずかしい。
思ったままのことを伝えると、瞬間、黒々とした真島の目が、不思議そうに見開かれた。
目に光が入り、瞬く。
くるりと虹彩がきらめいた。
綺麗だな、と思ったのがそのまま口に出ていたのか、更に不思議そうな顔をされる。
相変わらず無理矢理人の目を開き続けている左手も、切っ先を向けている右手もそのままなのに、両手からふ、と力が抜けた。とんでもなくヒリヒリする左目を閉じれば、目の奥に刺さるような熱さで更に涙が増す。
右目に映る真島はまるで目の前でサイクリングするUMAを見たような顔をしており、それが少しおかしかった。
「………四代目」
「なんだ、真島組組長さん」
「…桐生ちゃん」
「なんだ、真島の兄さん」
「おまえ、なぁ、もっとさぁ」
まるでどこか痛いところがあるかのように、真島の顔がくしゃりと歪む。
珍しく関西弁も抜け、見たことのない表情をする男は、まるで知らない人間のようだった。
「もっと、危機感とか、ないのか」
水中で喘ぐように言われる。
そんなこと言われても、人が休んでいるところに勝手に入ってきて勝手にドス突きつけてきたのはそっちだろうと思った。まるで、抵抗らしい抵抗をしなかった桐生にだけ落ち度があるような言い方だ。そもそも真島がこんなことをしなければいいのに。
桐生の中でこれは立派な言い分だったが、きっとこんなことを言っても無駄だろうなと感じた。代わりに、
「兄さん、関西弁はどうしたんだ?」
とからかう口調で問えば、何かをぐっと堪えるような顔をした次には、口の中に真島の舌が入り込み縦横無尽に荒らしていた。顎を開かせるようにして鷲掴まれ、閉じることの出来ない口から唾液が零れ落ちる。どちらかの歯が当たったのか、じんわりと血の味がした。
自由な筈の両手はなんだか動かす気にはなれず、突き飛ばすことも抱き締めることもせずにだらりとソファに置いたまま、ギラついた目で襲い掛かってくる男の好きにさせる。
快感を与えるための動きではなくて桐生の全てを知るために動いてるような舌はまるで犬のようだった。犬に舐められたことはないけれど何でかそう思ってしまったため、余計に全身から力が抜けてしまう。気が済むまで好きにさせたらいつもの調子に戻るのだろうか。
ドスを放り投げた手が桐生のうなじを這う。
大切なものを扱うような手つきだった。
舌をキツく吸われて思わず漏れた声は、真島に全て飲み込まれた。