『可愛い子』
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いくら夏とはいえ、その日は格段に暑かった。森で暮らす動物たちも、木陰や岩陰にじっと身を潜めて動かず、日没を待つばかりだ。風息達とて例外ではない。さっきから口を開けば暑い暑いとぼやいてばかりだった洛竹は、知らぬ間に限界を迎えたらしく、突然虚淮に抱きついてきたかと思えば、だらしなく冷たい氷の体に枝垂れかかったまま離れなくなった。
「あ〜夏はやっぱり虚淮で涼むに限るな〜」
「そうか」
ぺたぺた、生温い温度が首筋や胸元に伸びてくる。人懐っこい洛竹の、スキンシップの過剰さなど今更だ。あんまりに暑苦しかったらこの手を氷漬けにしてやろうと思いながらも、虚淮は先程から蛇の如く腰に巻きついて離れないこの奇妙ないきものを受け入れた。そんな二人の様子をみて、天虎が混じりたそうにソワソワとしていたが、自分のふっさふっさな体毛と、虚淮よりも何倍も大きな体に気がつくと、悲しそうな顔をして、ポテポテと近くの岩場に大きな体を収めた。優しくて健気な弟分に、そっと冷気を送ってやる。
そしてもう一人の弟分、風息はといえば、虚淮達から少し離れた位置に一人で座っていた。腰まで伸びた毛量が多い黒髪は、いかにも暑苦しかったが、風息は憮然として黙り込んだままだった。いつもなら、あの熱が籠もった熱い頭を無遠慮にグリグリと体に押しつけてくる癖に。それこそまだ童子同然だった頃は、暑い日には一目散に虚淮の膝に飛び乗ってきたのに。されどまるきり関心がないという様でもなく、口を結んで小難しい顔をしながらも、その視線を洛竹と虚淮から離す事は無かった。
「暑いならお前達も混ざったらどうだ」
私は別に構わない。そう声をかけると、風息は数秒じっと虚淮の顔をみつめた。かと思えば、ふいと目を逸らして、無愛想に呟いた。
「……俺はいいよ」
なんだ私に向かってその態度は。言葉を続けようとした虚淮を、そっと洛竹がいなす。
「まあまあ、そっとしとけよ。風息の奴、最近人間に色々影響を受けてるんだよ」
そして、虚淮の耳元でこっそりと囁いた。あれ、オトシゴロってやつ。
言葉の意味が分からず、怪訝な顔で首を傾げる虚淮とは対照的に、洛竹はニヤニヤと目元を緩めて、妙に楽しそうだった。
相変わらず暑い日が続く。こうも暑いともはや体を動かす気力もない。
各々森の様子を見に行くという三人を見送って、虚淮は彼の寝床である洞窟に横たわったままじっと動かず、ただ水が流れる音や梢が揺れる音にだけ耳を澄ませていた。
慣れ親しんだ気の気配がしたと思えば、すぐに洞窟の入り口を塞ぐ程に大きな体躯をもつ黒豹が姿を現す。しなやかに、音もなく黒豹が虚淮の近くに来て、どこか苦しげに唸った。
「虚淮、体が熱い」
「だろうよ」
「涼ませてくれ」
虚淮の返事を待たず、風息が腹の上に飛びかかってくる。慎重な、極力体重をかけまいとする乗り方だったので、圧迫感はない。平たい胸の上、薄紫色した硝子玉の様な双眼と視線があうと、不意に肉厚の舌が虚淮の顔を撫でた。たった一度撫でられただけだが、それだけで顔全体が風息の体液でべったりと濡れた。熱さ以外への感覚は極めて鈍いから、特に不快とも思わない。諫めるつもりで、ヒクヒクとよく動く濡れた鼻の少し上を撫でてやると、風息は気を良くしたのか、続けて虚淮を舐めた。
「やめろ。顔が溶けてなくなる。涼みたいなら、そのでかい図体をまずなんとかしろ」
「人の姿で、こんな情けない格好は出来ないだろう」
やっと風息が胸の上から退いたかと思えば、ゴロンと虚淮の隣に横たわって、豊かな毛に覆われた腹を晒した。喉を撫でてやると、上機嫌でグルルと喉を鳴らす。ふと、風息から微かに酒の匂いがする事に気が付いた。また人里に降りたのか。呆れてため息が出る。冷えた手を、ふわふわと熱を持った風息の額に重ねる。
「風息、あまり奴らと関わるな」
「どうしてだ? 人間というのは、面白い奴らだよ。俺の事を神様だって崇めて、酒や果物を沢山持ってくるんだ。本当、滑稽だとは思うけれど、西瓜は気に入ったな。虚淮みたいな匂いがする食べ物だよ」
「そうか」
「でも虚淮の方がもっと良い匂いだよ」
「そうか」
虚淮には、西瓜の匂いも自分の匂いも等しく関心がない。非力な癖に傲慢な人間達に対して、何か手を貸してやろう、という気も沸かない。
ただ、この地の守護神たる風息がこの地に生きる皆に愛され、そして満たされているのならそれで良い。甘えて戯れてくる巨体をあやしながら、そう思った。