あめやさめ「ふっ!」
刃を振るい、肉を断つ感触。消滅音と共に相対していた敵の存在が塵となり消えるのを確認してからひとつ息を吐く。曇天も重く雲行きが怪しい天候で、本格的に降り出す前に帰還しようというところで時間遡行軍が湧いて出たのはつい先程のことだった。そこそこに数が多く散り散りに戦わされ、数体を屠ったものの疲労の芽が顔を出し始めた。その上この狭い山道だ、戦いにくさが立ち回りを鈍らせる。早めにかたをつけようとすぐに次の標的へと向きなおろうとした時、死角から敵の刃が迫った。脳では気づいたが体の伝達が間に合わない、一太刀は浴びる覚悟をした、瞬間。ひとつの影が五月雨の前に躍り出た。ギィン!という鈍い金属音が響く。
「ぐっ!」
「長谷部!」
同じく編成されていたへし切長谷部が受け止めた敵の刀を押し返す。しかしその後ろ、弾かれよろめく相手の背後からさらに敵大太刀が刃を振りかぶったのが見えた。この後ろは崖だ、ここで受けるには余りにも危険過ぎる、咄嗟の判断で強く地を蹴って長谷部を引っ張って共に転がり避けようとした。しかし踏みしめたはずの地面のぐにゅ、とぬかるんだ感触。しまった、と思った頃には足を取られ、緩んだ足元の地盤が割れた。バランスを崩した身体は簡単に傾いていく。
「おい、五月雨!!」
長谷部が五月雨の身体を掴もうと手を伸ばす。だが敵の凶刃はそれを待たず放たれ、横一閃の激しい斬撃と風圧に、長谷部と重なるように体が飛んだ。同時に部隊の皆が敵を撃破したが時すでに遅く、宙に放り出され浮遊感の後にくる落下の衝撃に意識は遠のいた。
──…
呼ばれている、と思った。何度も、何度も私の名を呼ぶ。そのことばは人肌のようにあたたかい温度をもっていた。それが心地よくて、たまらなく愛しくて、私は伸ばされた手に思わずすり寄る。四季を愛でるその瞳で、文字を綴るその手で、私に触れてほしかった。このくもがかった刀身をみて、どのように心動かしてくれるだろうか。うつくしいと、評してくれるだろうか。あなたの眺める景色にこの身の季語はどう映る?聞きたいことが沢山ある、話したいことが、咲き乱れて止まぬのだ。
ああ、だけど私は知っている。どうしようもなく理解している。これが夢でしかないことを。
だって私は、あの方の声色さえ知らないのだから。
「……み…れ、…五月雨!」
強く声をかけられてハッと意識が覚醒する。薄く目を開くとぼやけた煤色が飛び込んできて、五月雨の瞳が開かれたことに気づいたそれは安堵したように息をついた。
「起きたか」
「長谷部…?」
未だハッキリしない頭を傾け、辺りを見回しながら状況を思い返す。見上げると木々が生い茂っていて上の様子は分からないが、身体が投げ出されたあと崖下に落ちてきたのだろうと推察した。頭部に外傷がないのを確認してゆっくりと上体を起き上がらせる。装束はあちこち擦り切れて泥まみれだ。
「身体は動かせそうか?」
「枝葉がクッションになったようで、それほど大きな外傷は、ッ!」
無さそうだ、と言葉を続けて立ち上がろうとすると右脚に痛みが走った。地盤に足を取られた際に痛めたか落ちてくる時にぶつけたのかは定かではないが、思うように動かない。五月雨の様子を見た長谷部は眉をひそめた。
「足を痛めたのか?」
「…そのようです」
「仕方がない、肩を貸す」
「いえ、手負いのものを連れるのは危険でしょう。私を置いて長谷部は先に他の皆と合流を」
「手負いなのは俺も同じだ」
忌々しげにする長谷部の視線を追うと、その右腕はだらんと力なく垂れていた。崖上から落ちる寸前、長谷部が敵の凶刃を受け止めたことを思い出す。
「…私を庇ったのですか」
「自惚れるなよ、己の未熟さの結果だ」
長谷部は不機嫌そうに返し、それから上を見上げてチ、と小さく舌打ちをした。すぐに頬にぽつ、ぽつ、と水音が感じられたかと思うと、それはすぐに激しさを増していく。
「降り出してきたか」
ここら一帯では元々長雨が続いて居たらしい、通りで地盤も緩んでいたわけだ。木々で多少防げているとはいえ更に勢いを増しそうな雨の下留まり続ける得策ではないだろう。見回すと岸壁の下に小さな洞がみえた。二口程度なら雨をしのげるくらいの空間はありそうだと判断する。
「とりあえずあちらへ」
洞に逃げ込んで一瞬で濡れ鼠になった体を震わせる。雨音は強くなるばかりで視界も悪くなる一方だ。敵の気配がないことを確認して、互いに並んで壁にもたれて座り込んだ。
「どの道ここで足止めだな」
「そのようですね」
「真っ直ぐに落ちてきたんだ、じきに向こうから探しに来るだろう」
長谷部の言葉に頷き、ひとつ力を抜いた。じっとしていると足が鈍い痛みを主張してくる。ブーツから足を抜いて見ると、やはり捻ったのか足首が腫れ熱を持っているようだった。簡単な手当を施しながらちらりと隣を見ると、長谷部も腕の動きを確かめながら、濡れた甲冑の水気を飛ばしている。西洋の神職のような黒色の装束。五月雨がこの本丸に顕現した時から、長谷部はこの姿だった。彼が己と向き合い、極めた証。因縁たる元主のもと、安土へ行ったのだと宴の席で近しい刀剣から話を聞いたことがあった。そこで何をし何を感じたのかは詳細は知らない。ただ、憑き物が落ちたかのような顔をして、今の主により心寄せて尽くすようになったと。へえ、そうなのか、と周りの者も酒の肴に聞きすぐに宴の喧騒に会話は紛れていく。五月雨も知識のひとつとしてそれを受け止めた。だが、思考の片隅で小さく朧気な己がぽつりと呟いた、嗚呼、そうか。彼の地に行ったのではなかったのか、と。
「…長谷部は」
「なんだ」
「黒田様の元にいた時のことを覚えていますか」
そう言うと長谷部は一瞬息をつまらせたかに見えたが、表情は至ってそのまま、少しだけ眉間の皺を深くした。
「…さあな」
気のない返事だ。それから口を開くことはなく、二人の間に雨音だけが大きく響いた。岩壁を伝って水滴が落ち、石にあたって足元に跳ねる。それを幾度か繰り返し眺めた。じっとりとした湿気が体をつつみ、重くなった唇をもう一度開く。
「黒田様の屋敷であなたを見た事がある」
鈍く漏れた言葉に長谷部は今度は黙ったままだ。五月雨は霞んだ記憶を辿り、互いに顔を見ないまま独り言のように言葉を紡ぐ。
逸話もうすくまだ曖昧だった己の身に、酷く焼き付いた光景がある。
ある夜のことだ。朧気な意識のまま屋敷を漂っていた時いつの間にか主の寝室にたどり着いていた。覗き込むと、寝息を立てる主の横に静かに佇む存在があった。人ではない。五月雨はすぐに、同じ「もの」だと理解った。
だが自分とはまるで違う存在のように感じた。ひとのようだ、と思った。姿かたちというだけではなく。
それは何をするでもなくじいっと、寝ている主を見つめていた。ただ、見ているだけ。だがその瞳のなんと柔らかなことか。しばらく様子を伺っていると、ようやくゆっくりと手を伸ばして人間の頬を優しく撫でた。撫でているように、みえただけだ。実際触れている訳では無い、だがその手つきは硝子細工をもつように繊細で、指の先まで暖かな慈しみが込められていた。
静かな、静かな宵の情景。そのものが何であったかは後にわかった。主はさる刀を殊更大事にしていた。もちろん人の誰もがあの夜のことも知り得ることはないだろう。それでも主は情深くその鋼の身を愛したし、それに応えるようにそれは常から主の傍にあって、あの夜と同じように優しい目で見つめていた。
「それが今でも、忘れられずにいる」
その時の五月雨には全てが理解出来た訳では無い。ただぼやけた意識の中にあの溢れるような感情が刻みつけられている。それは審神者によって励起されたこの身においても変わることはなく、時折ひどく胸を締め付けた。時を経た今、あの指先に込められた尊敬や思慕を少しは、いや、わかってしまう。それは愛しくも苦しかった。自分のこの手を伸ばす先は無く、伸ばされることもないと、同時に知ってしまったから。
「私には…どうしたって、」
「…そんなもの」
黙したままだった長谷部が、低く言葉を零した。それは雨音にかき消されそうなほどの囁きだったが、それでもなおハッキリと耳に届いた。
「なくたって、よかった」
反射的に長谷部の方を見る。その横顔は表情を崩さぬままだ。五月雨はもう一度口を開き、何も発しないまま、閉じた。
本当に?と。問うことは出来ずに、喉元で燻って消えた。
問に意味は無い。空を見つめたままの長谷部の凛とした瞳は、こんなにもまだむせ返るほどの藤の匂いを隠せないでいるのに。
長谷部の濡れた髪からひとしずく、頬を流れて顎先を伝って地に落ちた。
いつかの別離の時、彼はこのように深々と涙を零しただろうか。
それとも、今のこの雨空のように慟哭したのだろうか。
いっそ何もかもを無くしてしまえばと、そう思うほど心揺さぶる痛みですら、羨ましいとさえ思った。これは醜い感情だろうか。欲深くそれを求めてしまうのは、愚かなことだろうか。ひどく悔いるだろうか。問は己のうちに向けられて出口のないまま、片膝を抱えてぎゅっと目を瞑った。
しばらくして雨足が弱まり、遠くの方で仲間が自分たちを探す声がした。ゆっくりと瞬きをする。雨の上がりかけた、濡れた土の匂い。
右脚を庇うように立ち上がる。一瞬よろけたところを、先に立っていた長谷部に腕を引かれる。ありがとうございます、と礼を言うがその手は掴んだまま離れない。
「五月雨」
す、と長谷部と視線が交わる。鋭い瞳だ。真っ直ぐに、五月雨の瞳孔の向こう側まで突き刺さるような藤色。
「…行くぞ」
何かを言いたげなそれはしばしの間の後すぐに逸らされて、ふたりで不格好に支え合いながら歩いた。
わかっている。わかって、いる。
「(それでも、もし。この身に触れてくれたなら)」
この夢想は、瞳を閉じたって消えてくれなどしないのだ。今以上に辛くとも、狂おしいほどの恋しさに苛まれても、私はこの心の行先を知りたい。
五月雨は痛めた足以上に重苦しくなった胸の中を引きずって、仲間の元に歩みを進めた。