ししさめの日 村雨は、獅子神が比較的スキンシップが好きで、且つ恋人には甘い男だということは充分知っているつもりだった。しかしそれはあくまでつもりでしかなかったのだ、ということを今しみじみと感じている。
「なあ、村雨」
獅子神の家で夕食と入浴を終えて、あとは寝室に行って寝るだけだというその時だった。そろそろ眠らないかと村雨が切り出そうとしたそのタイミングで、ソファで並んで座っていた獅子神が、村雨の目元を撫でていた指を頬へと滑らせながら呼んだのだ。もちろん入浴後で体が温まっているということもあるが、食事の際にワインを飲んだこともあってか、獅子神の頬はほんの僅かだがまだ赤みが残っている。もともとさほど酔わないたちではあるが、村雨といると気が緩んでつい飲んでしまうと少しばつが悪そうに、しかし何より照れ臭そうに打ち明けられたのは、それこそ恋人になってまだそう経っていない時だったはずだ。こんなに正直でよくもまあここまで生きてこられたものだ、と呆れた口ぶりで言ったのだが、村雨本人が思っていたよりもそこに冷たさは混ざっていなかったらしい。言われた獅子神は、随分と嬉しそうに笑っていたので。
ぽんぽん、と獅子神が足の間を軽く叩く音で現実に引き戻される。
「何だ」
「ここに座ってくれ」
「は?」
村雨がまじまじと獅子神の目を見る。そんな村雨を見た獅子神は小さく笑った。
「いいだろ?」
いいも何も、と村雨が珍しく怯む。いくら恋人とはいえその足の間に収まって、おそらくは後ろから抱き締められるというのは想像するとなかなか厳しいものがある。それこそ村雨が記憶を飛ばすほど酒を飲み泥酔しているならまだしも。ああいや、それは最早介抱になってしまうのか。
「私の年齢を考えて言っているのか、あなた」
乱れた思考でようやっと導き出したのは、そんなありふれた返答だ。ありふれているが故に説得力もあるであろう答え。
「……そっか」
村雨としては諭すように言ったつもりだったのだが、獅子神は明らかに落胆している。勝ち気な印象を与える眉は下がり、残念だという感情を隠そうともしない。
その顔を見てしまえば駄目だった。
「分かった。だからそんな顔をするな」
返事を聞いた途端に、獅子神が安堵と喜びが混ざった表情を浮かべる。どうにもそれが擽ったく、しかしその真っ直ぐなところは獅子神の可愛い一面で、村雨はあやすように頬に一度唇を押し当てた。
あの村雨礼二がすぐさま前言撤回して、更には人目がない場所だとはいえ恋人をこうも甘やかすなど、日頃の村雨を知る人間は想像もしないだろう。
「村雨はオレに甘いよな」
村雨が足の間に座るや、腹の辺りに腕を回して指を組んだ。下心など一切無い触れ方だ。
「そうだな。その点に関しては反省している」
「何で反省なんだよ」
そう、嘘だ。村雨は反省など一つもしていない。臆病な男がここまで甘えられるようになったことを、喜びこそすれ嘆く必要はどこにもあるまい。ただどうしても村雨が羞恥心を捨てきれず、獅子神の望みに応えるのに非常に時間を要してしまうことも時折あるが。
「オレが可愛い恋人だからか?」
村雨の髪に鼻先を埋めて、ひどく楽しげに獅子神が問う。平素は可愛いと言うと拗ねるというのに、こういう時は開き直るのだからずるい男だ。
「急に可愛げが無くなったな、あなた」
「そんなこと思ってねえくせに」
村雨が獅子神に深い愛情を抱いていることを、何一つ疑っていない言い方だ。村雨は沈黙をもって肯定とし、獅子神の腕を弱く叩く。
「時に獅子神」
「ん?」
組まれている指を解き、獅子神の片方の手を握る。弾かれたように顔を上げた姿に、今度は村雨が口角を上げる番だ。
「これだけそばにいるのだから、手を握るくらいの甲斐性を見せたらどうだ」
「……ソレ、甲斐性って言うのかよ」
「知らん」
「適当だな」
もう片方の手が、再度村雨の腹の辺りに回される。後ろでそう言う獅子神の表情がどんなものかなど、見なくとも分かる。愛おしくて堪らない、そんな顔をしているに決まっているのだ。まったくもってどうしようもなく甘い男で、けれどそれはきっと人のことを言えないのだろう、と村雨は渋々認める。しかし素直にその事実を受け入れるのは年上としてのプライドがまだ許さず、返事の代わりに指を深く絡め直し、わざと体重をかけて獅子神にもたれかかる。もっとも、体を鍛えている獅子神にとってはこの程度何ということもないのだろうけれど。
案の定少しも動じていない獅子神から、やっぱ甘いな、と耳元で落とされた声には聞こえないふりを決め込んだ。