短いししさめ(2023/04/26 22:16更新) 獅子神敬一の作り込まれた完璧なそのバランスを崩すことを許されたのは、村雨礼二ただ一人だ。
獅子神は人前に出る時は必ずきっちりとした服装に着替えていた。人は見た目よりも中身だと主張する者もいるが、そんなものは綺麗事だ。現に獅子神は自分で金を稼いで良い服を身に纏い、堂々と振る舞う術を身につけた結果、好意的な目で見られることが格段に増えた。嫉妬を向けられることもあったが、それすら自分が成長したからこそだと思えば何も気にならなかった。幼少の頃のように、自分が何か悪かったのだろうか、だとしたらどこが駄目だったのだろう、どうすればいいのだろう、と下を向いて過ごす日々から抜け出したのだ。絶対に隙など見せない、誰にも弱みなど見せない。そう誓ってから、もう随分経つ。
しかし、それは村雨によって徐々に崩された。
弱いところを晒してしまっても、村雨は決して笑わなかった。普段はマヌケだの何だのと言うくせに、獅子神が幼少期を思い出して一瞬表情を曇らせた際などは、黙って隣にいた。そもそもその翳りも村雨でなければ見抜けなかった程度だ。それらを丁寧にすくい上げて、けれど否定もしなければ踏み込んでくることもない。居心地が悪いとは感じなかった。時折投げかけられる視線は賭場では見られないほど穏やかで、距離感を決して間違えない村雨との時間が獅子神にとって特別なものに変わったのは当然だろう。
そして恋人という関係に収まった今、更に言うのならば共に夜を過ごして迎えた朝のことだ。獅子神は髪を村雨に無遠慮に崩されている。それはもう派手に。寝起きでまだ頭の働いていない獅子神が、とりあえず、といった調子で村雨の体を抱き寄せた。眠そうなうめき声をこぼす獅子神を、村雨が微かに笑う。
「……なあ、村雨」
「どうかしたのか」
ぐ、と距離が更に縮まるその瞬間こそ手を止めたものの、獅子神の頭から手をどける気はさらさらないらしい。
「どうかしてねえと思うのかよ」
オイ、オレは犬じゃねえぞ、という言葉をすんでのところで飲み込み獅子神は眉を寄せてみせる。本当は怒ってなどいないくせに、と揶揄する自分の声が聞こえた気がして、獅子神は瞳を閉じた。村雨はそんな獅子神に構わず、また両手で獅子神の髪を撫で始めた。
いや、ここまで来ると撫で回していると言った方が正確かもしれない。このあとは起きて二人でシャワーを浴びて朝食をとり、どこかにデートに行くか、とひっそりと計画を立てていたというのに調子が狂う。ひとしきり乱して満足したのか、村雨は今度は獅子神の睫毛を指で擽る。ああもう何なんだよ、という声もまたとろりと溶けたもので、村雨にはどこまでも弱いことが証明されてしまっていた。村雨のその遊んでいる手を取り、何度か瞬きをしてまだぼんやりとした脳を働かせる努力をするついでに視界を慣らす。
「無防備だな、と思った」
「あ?」
「あなたは普段は他人から弱く見られまいとひどく気にしているが、私の前ではそういったことを気にせずにのびのびとしている。それが悪くない」
「……分かりにくいんだよ、オメーは」
村雨の言う、悪くない、は最上級の褒め言葉だと捉えて間違いない。他者から馬鹿にされまいとしてプライドに見合った振る舞い方をする獅子神の性格を理解し、尊重した上で全てひっくるめて愛おしんでいる。
「あなたが分かりやすいだけだ」
淡々としているようで、あたたかみのある声。村雨の指が獅子神の手を辿る。互いの指をそのまま絡めて、きゅ、と握り込んだ。村雨の表情は平素よりも随分穏やかだ。
無防備なのはお前もだろ、という獅子神の指摘は声になることなく互いの間に消えたのだった。