ひかりのしずく ほんの出来心、ちょっとした冗談のつもりだったの。
「ピッコロさん、あのね、ボク、テストで百点取ったんですよ!」
空に真っ赤なじゅうたんが敷かれたら、夕日がとぷんと沈んでしまう前に、今日の修行はおしまい。おかあさんとそう約束して、うんと頷いたのはボクなのだけれど、この時間になるといつも、ボクの気持ちはずうんと下向きになって、足もうんと重くなってしまう。ピッコロさんに向けて、決して駄々をこねないよう気を付けてはいるけれど、その代わりに取り止めのない話が、唇からこぼれてしまったりするのだった。
ピッコロさんがボクに「ああ」とか「フン」だとか、ふたつみっつ返事をしたら、最後にお決まりの文句、「じきに夜になる。母親に叱られる前にさっさと帰れ」とさよならの挨拶をして、今日はもうおしまい。
「――それはすごいことなのか?」
だけど今日はちょっと違った。ピッコロさんはどうやら、ボクの話に興味を持ってくれたみたい。
ボクはおひさまがてっぺんに昇った時みたいに、ぱあっと明るい心地になった。地面も葉っぱもぜんぶ、まぶしく光って、目も開けられないくらいのあの感じ。
ボクは「そうです!」と大きな声で返事をしようとしたけれど、それは喉を通る前に、魚の小骨みたいに引っかかった。あれ、テストで百点を取ることって、ほんとうにすごいことなのかな。
ボクが受けたテストは五科目あって、ボクはその全部で百点を取ったので、おかあさんは何度も何度もすごいと言ってくれた。そう、おかあさんはいつも、すごいすごいと褒めてくれるから、なんだかボクもその気になっていたけれど、本当はどんな人がテストを受けているかとか、同い年くらいの子はどんな勉強をしているかとか、ボクは知らないのだ。なので、わからない。
「ええっと……おかあさんがごちそうを用意してくれたり、おじいちゃんがごほうびだって言って、本を買ってくれるから……たぶん」
「ふむ……そうか」
ボクは自分の頬が、ぽっぽか熱くなっていくのを感じていた。実は大したことないかもしれないのに、自慢げに話していたのが恥ずかしい。
「いでっ!」
うつむいていたボクの頭に、ぽかんと何かがぶつかった。衝撃で涙が押し出されたのを感じながら、落ちていたものを拾い上げる。真っ赤でつやつやしているリンゴだった。
「え? どこから、あ、あ、あれ?」
見上げた頭上には木なんてない。白んだ空に、珊瑚色に燃える雲がぽつぽつ浮かんでいるだけだ。
あたりを見回してもリンゴの木なんてないのに、ボクの周りには次から次へと、リンゴがこんこん湧き出てきた。まさか、リンゴが溢れる泉なんてものがあるんだろうか。
「フッ」
「えっピッコロさん、……ああっ! これ、ピッコロさんなの!?」
お腹のあたりまでリンゴに埋もれてしまったところで、ボクはようやくタネに気がついた。ピッコロさんがボクに向けて整った爪を伸ばして、ピッ、ピッとリンゴを増やしていたのだ。
「ああ、食ってみろ」
ピッコロさんはちっとも怖くない、悪い笑みを浮かべてボクに言った。ボクは掴んだままだったリンゴを、道着の胸のあたりで拭う。リンゴがゴロゴロ転がっていく音を聞きながら、思い切りかじりついた。
「お、おいしい……! ピッコロさん、これあまくて、すっごくおいしいです! ピッコロさんも!」
「オレは食わん」
おいしいおいしいとシャクシャクかじっていたら、手の中のリンゴはあっという間に芯だけになってしまった。
「今焦って食わなくてもいい。全部おまえのものだ」
「ええっ、」ボクは自分の周り、それから三メートルくらい先まで転がっているリンゴを見て、「こんなにもらえないです!」と返す。
「テストで百点取ったヤツは、ごほうびがもらえるんだろう?」
ごほうび。ピッコロさんの口から出たその四文字で、ボクはもう、手の中に握って持て余していた芯すら宝物に見えて来た。
「そんなもの、いつまで持っているつもりだ」
でも、こういうときのピッコロさんはやけに目敏い。
「た、だって、せっかくピッコロさんがくれたものなのに……」
「リンゴは山ほど残っているだろう。それともまさか……きさま、オレさまの与えたリンゴを腐らせるつもりじゃないだろうな?」
「そんなことしません!」
「ならそれはいらないな」
「ああっ!」
ボクが大事に握りしめていた芯は、ぽいっとあっけなく捨てられてしまった。
悲しかったけれど、ピッコロさんがそういうのなら仕方がない。それに、早くお家に帰らないと、おかあさんに叱られるのはボクだけではない。ピッコロさんもなのだ。
悪い想像を、ぷるぷる頭を揺らして振り払うと、ボクは遠くに転がっていたリンゴをせっせと一カ所に集めていく。すると、ボクよりも背の高いリンゴの山ができあがった。つい、ピッコロさんを見上げてしまう。
「ピッコロさん。あの……」
「ふん、今日だけだぞ」
ピッコロさんの白いマントの後ろにリンゴを乗せて、ボクが裾を掴んで、二人で運ぶ。ボクの想像は、ピッコロさん本人に、すげなく却下されてしまった。かなしくて、ボクがにゅっと唇を尖らせていたら、ピッコロさんは大きな風呂敷を四枚出して、包んだリンゴをお家まで一緒に運んでくれた。ピッコロさんはやさしい。
いつもより遅くなったうえに、ピッコロさんと現れたボクに、おかあさんははじめ厳しい目をしていたけれど、風呂敷の中身を見るなり瞳をきらきら輝かせて、「ピッコロさもたまにはやるじゃねえか!」とピッコロさんの背中をばしんと強く叩いた。
「こんだけたくさんあったら、いろんなもんが作れるなあ。悟飯ちゃん、何が食いてえだ?」
「ボクは……あっ、ピッコロさん!」
ピッコロさんは、用は済んだとばかりに白いマントをひるがえして、お家を出て行ってしまった。追いついたときには、今にも飛び立とうというところ。「なんだ、まだ用があるのか」と言われて、ボクは言い淀んでしまう。
「あ、あの……明日もよろしくお願いします!」
「ああ」
ボクは飛んでいったピッコロさんの背中を見つめていた。心配して迎えに来てくれたおかあさんに手を引かれ、お家の中へ戻る。
台所はいつもあったかい。コンロに灯る青い火や、鍋から立ち上る水蒸気、おかあさんの鼻歌が、この場所をあったかくしているのだと思う。
「おかあさん、あのね」
背伸びをしても、おかあさんの手元はよく見えない。だけどボクは背伸びをして、とんとんリズムよく下ろされる包丁の音を聞きながら、おかあさんに話しかけた。
「ボク、ピッコロさんに、お礼がしたいの。ピッコロさん、お水しか飲まないけど……」
包丁の音が止む。ざあざあ水が流れる音が過ぎて、おかあさんが布巾で手を拭う。おかあさんはしゃがんで、ボクの頭を撫でた。
「悟飯ちゃん、オラにいい考えがあるだ!」
「ほんとう?」
「……少し休憩するか」
ピッコロさんの一声に、ボクはさっきまでくたくただったのも忘れて、自分の鞄に飛びついた。ごそごそと中を漁って、ドリルや筆箱をかき分けて、赤い布巾にくるまったピッチャーを取り出す。
「やけにソワソワしていたのはこれか」
「えへへ、……はい、ピッコロさん、どうぞ!」
楽しみにしていたのがばれていて、ボクは照れくさくて笑う。ピッチャーから、なみなみ注いだコップを、ピッコロさんへ差し出した。
「……オレにか?」
ボクは力いっぱいうなずいて、ピッコロさんがコップに口をつけて、一口飲むまでを、見つめた。
「これは……」
「おかあさんに教わって、リンゴ水って言うのを作ってみたんです。包丁を握るのはまだ早いって言われたから、ボクはリンゴを洗っただけなんですけど……」
コップの中を覗き込んだピッコロさんに、まだ中身がたっぷり入って重たいピッチャーを掲げて、ボクは説明をした。ガラスの内側では薄く輪切りにされたリンゴが、涼しげに泳いでいる。
「ピッコロさんが喜んでくれたなら、ボク、うれしいです! ありがとうって言葉じゃ足りない分を、どうしたら伝えられるか、ボクなりに考えたの」
ピッコロさんは、鋭くてかっこいい目つきをいつもよりやわらげて、ボクを見た。
「ふん……悪くない」
コップを一気に煽って、ボクにおいしいと言ってくれる。
「明日も作って来ますね!」
ボクの声は自分でもわかるくらい弾んでいて、今なら月どころかナメック星までぴょーんとひとっ飛びで飛んでいけそうな勢いだった。
「いや、昨日渡したのはおまえの分だ。おまえが食え」
「ええっ、そんなあ……あうっ!」
だったのに、ピッコロさんの言葉に追撃されて、天から地へあっけなく落ちた。さらに、追い打ちとばかりに、頭に硬い衝撃。
ピッコロさんはボクがうつむくのをわかっていたらしい。にやにや笑って、ボクの近くにころんと転んだリンゴを指差す。
「飲みたくなった時にはオレが出す。……頼んだぞ、悟飯」
「それって……」
拾ったリンゴを両手でくるんで、ボクはピッコロさんを見る。ピッコロさんも、ボクを見る。
元気いっぱい返事をしたボクに笑うように、ピッチャーの中の氷が、からんと音を立てた。