蒔いた種「あの、父さん。良かったらボクと組み手しませんか?」
広げた両手の指の腹を擦り合わせながら、悟飯が言った。
朝の歯磨き真っ只中だった悟空は悟飯を見つめて、それから一旦、泡まみれだった口元をゆすぐ。「えっ?」振り向きなおし、あらためて、悟空はきょとんと悟飯を見た。すると悟飯はもう一度、今度はこちらを覗き込むようにして、一言一句違わず同じことを言う。
「〜〜、うーーん……いまか?」
半分くらいまで頷きかけた顎をピタッと止めて、一にも二にもなく了承したいのをグッと堪えた。悟飯の瞳が、小石の落ちた水面のように、とぷんと揺らぐ。
「収穫期が終わって、少し落ち着いたって母さんが言ってたので、今日どうかなって思ったんすけど……いや、やっぱりいいです。ごめんなさい」
「なんであやまるんだよ」
朝の日差しがたっぷり入る小窓からは、ひんやりした風が流れて、薄手のカーテンを揺らしていた。伏目がちになった悟飯の前髪も、ひかえめにそよいでいる。
「だって父さん、見るからに困ってるから。ボク、困らせたかったわけじゃないんです」
「ちがうちがう! オラ別に困ってねえって」
「でも現に、父さんから誘われることなんて、滅多にないし」
「それはおめえがいつも忙しそうにしてるからで……」
大の男二人、立ったまま、せまい洗面所で向かい合う。状況のおかしさに気がついたのか、悟飯は口元に手を添えて、小さく笑った。悟空もつられて頬をゆるめる。
「父さんの思っている通り、たしかにボクは、戦いがあまり好きじゃありません。得意でもないし……」
いや得意つーか才能の塊じゃねーか。思ったけれど口にはせず、悟空は沈黙を保つ。
「でも、父さんとの組み手を嫌だと思ったことは、一度もありませんよ」
「悟飯……。オラだって、おめえと戦いてえ」
「それじゃあ!」
「でも今からはちょっと! ちょっと、な……!?」
ぱあっと花が咲いたように顔を明るくした悟飯に、悟空は顔をぎゅっと歪めて、手のひらを合わせた懇願のポーズをした。悟飯はむっとしたけれど、つきだした唇をすぐに解いて、「あは、そもそも、普段修行してないくせに、何言ってるんだって感じですよね」自分のうなじをさすりながら言う。
「そんなこと思わねえよ。この間セルマックスにトドメを刺したのだって、おめえなんだろ」
悟飯はふるりと頭を振った。
「あれは怒りで頭が真っ白になっただけで……」黒い瞳が、伏せられたまつ毛に半分隠れる。「それこそ、セルと戦ったときと一緒です。修行して積み重ねたお父さんのものとは違う。……あれはボクにも、なんと言えばいいのか……」
悟飯は喋りながらどんどん項垂れて、今は悟空ではなく床と見つめ合っていた。もし犬だったなら耳をぺたんと垂らして、背中を丸めていたことだろう。背の後ろに大きくしょんぼりと書かれていそうなくらい、悟飯は身を縮こまらせている。
「――よし、そんじゃあ二人で修行すっか!」
暗雲を吹き飛ばすような、お日様よりもからっとした晴れやかな声で、悟空は言った。
「えっ! でもお父さん、用事があったんじゃ」
すっかり遠慮気味になってしまった悟飯の肩をポンと叩く。
「気にすんなって! ビルス様たちも一日くらいなら許してくれっだろ」
「ビルス様……?」
「あっやべ」
悟空はとっさに口元を押さえたが、遅かった。
「……お父さん、いつ頃お戻りになる予定なんですか?」
先ほどまでしょげていたのが嘘のように、悟飯は真剣な顔で悟空にずずいと詰め寄った。悟空の右側だけ持ち上がった口角が、ピクピク揺れる。
「い、いち、いや二週間……一ヶ月……?」
「そう言って、ふた月くらい戻ってこなかった時、ありましたよね」
悟飯の唇が、再びにゅっと尖ってしまう。
「あーあ。ボク、論文で忙しくなって無理かもしれないです。残念だなあ」
「ご、悟飯〜!」
悟空はそっぽを向いてしまった悟飯に、恥も外聞もなく縋りついた。またとないチャンスを逃したくなくてつい、口を滑らせてしまったのだ。
悟空だって久しぶりに悟飯と組み手がしたいし、あわよくばビーストとやらだって拝んでみたい。最後の願望はタイミングを逃して、言うに言えなくなってしまったけれど、そこは後からどうとでもなる。と、悟空は思う。
「冗談ですよ。ボクだって、お父さんと組み手がしたいんですから」
悟飯はしょうがないなあと言いたげに、瞳を柔らかく細めた。
「でも!」
ガッツポーズのモーションに入った悟空に、ぴっと人差し指を突きつける。
「ビルス様たちと約束していたのなら、そっちが優先です! 組み手は父さんが帰ってきてからにしましょう」
「お、おう。けどおめえはそれでいいんか?」
「一ヶ月くらいなら、わりと余裕がありそうなんで。……だから、早く帰って来てくださいね。ボクも、ピッコロさんに鍛えてもらいつつ、待ってますから!」
「おう! まかせとけ」
親子は互いにニッコリ笑って約束をする。
それから、あれよあれよという間の三ヶ月。
前回の記録を大胆にも更新した悟空を待っていたのは、怒り心頭のチチ、呆れた悟天、それから盛大に拗ねてしまった悟飯だった。「こればかりはおまえが悪い」とは、巻き込まれたピッコロの弁である。