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    DasonHen

    @DasonHen

    画像化すると長くなる文はここ
    あとたまにえっちな絵を描くとここ(報告はサークル内)

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    DasonHen

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    旭さんのさめしし+セレブマダムファンアート

    花のワルツ カサカサという音がふと止んだ。獅子神の方を振り向くと、彼は一つの封筒を手に、ぴたりと動きを止めている。雑用係に届けられた郵便物を検めていたところだ。
    「どうした」
    「……いや、すげぇ懐かしい人から手紙が」
     この場で開けても?と、一応の礼儀として窺う視線に対して村雨は頷いた。ペーパーナイフの刃を入れる際にちらりと見えた獅子神家の宛名は、几帳面そうな細い字で丁寧に書かれている。
     村雨とはいえ客人がいる前でも開けたいと思う封筒。懐かしいと獅子神は発言した。であれば、まだ年若い獅子神の仕事関係の人間ではない。ならば。
     村雨の脳裏に、最初は意図せず聞いてしまった彼の過去の存在が顔を覗かせる。あの後まるで義務か礼儀のように、村雨に対し膿んだ傷を無防備に晒そうとする彼を一度だけ止めた。まだあの時は時期尚早であったから。いくら検査の為とはいえ、炎症を起こしている傷口を掘り起こし、開いて見る医者など居ない。
     その一度の静止で、獅子神は村雨の意図を理解した。あとは少しずつ、村雨が問いかければ彼はぽつぽつと答える。そうやって医師は彼の過去を知った。狂った世の中をまた知った。その苦い記憶が蘇る。
    「……あのな、なんて言うんだろう、なんか……こう言うと仰々しいかもしれないんだけど、命の恩人……みたいな?」
     へへ、と少し照れ臭そうに笑う獅子神の目が、ここではない過去を見つめている。
    「その話は聞いたことがないな」
    「さわりだけは少し話したよ。ほら、俺が投資を覚えたきっかけの……」
     
     
     
     何度見てもこの洋風建築には合わない、しかしもう見慣れた仏間に女性はまた足を運ぶ。あの人は今日も小さな額の中で明朗に笑っている。その前に腰を下ろし、使用人が持ってきたお茶を、いつものように二杯入れた。
    「ただいま。病院、混んでたみたいで予約が大変だったわ。手術の人って多いのね。でももう、私の日取りが決まりそうなの。」
     病に侵された身、としては元気な方だと思う。背中が痛むが、一日に三回、痛み止めを一錠飲めばおさまる痛みだ。
     あなたと同じ病。あなたと同じ痛み。我慢強くて仕事大好きな人だったから、悪化する痛みを放置し続けて、気付いた時には全てが手遅れだった。
     
     この一年後にはこの世を去るなど到底信じられない健康そうな写真の笑顔を見て、起こらなかった「もしも」を想像することをやめて何年も経つ。
     ただ、あなたと同じ死神に私も捕まってしまった。致死率が高く、治らない病。ドラマや悲劇ではテンプレート通りの不幸の連鎖が、運というものを否応に感じさせるのが、少し怖い。同時に、そんな大衆向けの御涙頂戴ドラマになどなりたくないから、あなたの後は追いたくない。
     歳をとってからの再婚だったから、二人の間に子供はいなかった。だからもう残すものはない。自身が手がけた事業の後継者を探すだけだが、それも、もしもの事があれば会議で決められるだろう。そういう会社を、女性は作った。なにせ、何も伝えず急逝したあの人の会社がどんなに大変なことになったか、女性は身をもって知ることになったから。
    「手術、無事に済んでも抗がん剤治療があるんですって。薬も増えちゃう。嫌ね、煩わしいのは。」
     いくつかの苦しみなんてもう慣れた。隙を見せないためのアンチエイジングも続けるつもりだ。死ぬ気などない。
     でも、もしかしたらその全てに意味がなくなるかも知れない。
     
     そう思うと不安だったのかもしれない。終活、というものなのかもしれない。死を予期した人間がする不可解な行動なのかもしれない。
     何もわからない、しかしその衝動のようなものに突き動かされて、女性は一通の手紙を昨日送った。定型文ながら毎年送られてくる年賀状があって助かった。
     返事は来ないかもしれない。決して甘やかした、例えば家族のような穏やかな関係ではなかった。女性は自分の好きなようにしただけ。ただ、その時あの少年と女性は凹凸が一致していたのだろう。
     それだけの関係の、美しく賢かった少年の話だ。
     
     
     
     空気は生温い。穏やかな陽気の、春の夜だった。その中を、周りの景色には目もくれず、足早に歩く女性がいる。女性は見るからに上質な黒のフォーマルドレスを身に纏って、黒いパンプスの高めのヒールを品なく鳴らして歩みを進める。
     行き先はない。そもそも、何時もであれば運転手付きの車でしか、女性は一人で外出しない。そういった身分の人である。そんな女性が、前すら見ずに小汚く、ごみごみした繁華街を歩いている。
     
     闘病中の夫が息を引き取ったのは一週間前のことだ。骨をも侵した病魔による痛みがあまりに強かった。だから、最期は鎮静剤を用いて眠り、彼女と一言の会話を交わすこともなく、女性の細い指よりもさらに細くなった手には少しの力を込めることもなく、静かに彼はこの世を去っていった。
     それから一週間だ。夫は会社の取締役であったから、それも含めた事後処理がうんざりするほど多かった。ある程度準備していたとはいえ、家族でなければ行えない処理も多い。目が回るような忙しさで女性は走り回り、あらゆる手続きを経て、そして今日の昼に、夫は盛大な告別式であの世へと見送られた。
     忙しかった。悲しみに暮れている暇などなかった。彼がいない今、彼女はそうしなければならない立場の人間だった。
     泣かなかったのは、そのためだ。
     
    『継ぐものが多いと大変でしょう』なんて、彼にも、女性にも、あまりに酷い侮辱だ。
     
     ただ一人がそう発言したのであれば、女性はその相手の頬を引っ叩いて反論しただろう。しかし、あの場はそうではなかった。勿論憤り、女性の側に歩み寄ってきてくれた人もいたが、半数近くは同じ目をしていた。
     歳を重ね、もう子供も望めないような年齢で夫と出会い、家族となった彼女を訝しみ、疑う目。
     甚だ可笑しい。金も地位も名誉も、欲するのなら、男になど頼らずとも女性は自らの力で手にすることができるというのに。
     告別式の後に手配した故人を偲ぶという名目の食事会は、体調が優れないからと主催でありながら参加しなかった。それくらいの我儘は、許されても良いと思った。
     
     
    「…………あの、」
     
     ほんの数十秒前から、彼女と歩調を合わせて歩く男がいた。背はハイヒールの女性が少し見下ろすくらい。声をかけられ、女性は彼がほんの子供に近い若者であると気付く。ぼろぼろで、染みだらけで変な臭いのするジャンパーを羽織り、目深に帽子を被った、見るからに貧相な少年だ。
     ナンパだろうか。自他共に認めるほどに美しい容姿を持つ女性は、実年齢より二十歳以上若く見られる事が多かった。もしくは、スリの囮か。
     女性は彼に構う事なく、むしろ歩調を早めて距離を取る。しかし少年は慌てたように早歩きで女性を追ってきた。
    「歩いたままで良いんで……あの、あなたの後ろをずっとついてきてる男が二人いて……えっと、お節介かもだけど、この辺の人じゃない、ですよね?この先このまま進むとすげー暗いんで、そんな服着て歩いてたら危ないです。あっちに乗り場あるんで、急いでるならタクシーを……」
     女性は思わず足を止めた。まさか、そんなことをわざわざ言いに来られるとは思っていなかったからだ。
     女性が自分の話に耳を傾けてくれたと、少年はぱっと顔を上げて分かれ道を指差す。
     その時女性の目に、初めて少年の顔が映った。
    「あの、本当です、あっちに大通りがあって、そこならタクシーが通るんで、手を挙げれば止まってくれるんで……」
     色素の薄い唇。顔じゅうが汚れて痩せこけているが、すっと通った鼻筋は将来の精悍さを想像させる。眠たげに垂れた、気弱そうな目つき。なんという場所にあるのだと問いかけたくなるような、怪しげな色香を放つ泣きぼくろ。
     そして何より、童話の王子様そのもののような、深く澄んだ青い瞳とそれをびっしりと縁取るふさふさの金の睫毛が、繁華街の光を反射して輝いていた。
    「…………」
     女性が自分のことをじっと見つめていることに気付き、はっとした少年は慌てて帽子を深く被り直して俯く。
    「あ、あの、大丈夫です、日本語話せます。日本人なんです。だからあの、えっと……大通りまでならオレ連れて行けますんで、こっち……」
     少年はちらちらと女性の背後を見ながら落ち着きなく道を指した。先ほど言っていた男とやらが距離を詰めてきているのだろうか。立ち止まっただけでこれとは、女性は随分と危ないところに足を踏み入れていたらしい。
    「どちら?先に歩いてくださる?」
    「オレの隣を歩いて下さい。バッグを胸に持っていた方が良いです」
     
     一見すると、少年が選んだ道は先ほどの道よりもさらに狭い通りのようだった。女性の胸に、一抹の不安が過ぎる。もしこれで、怪しい場所へと誘導されたらどうしよう。後ろにいる男とやらもグルだったら。
     そんな女性の思いに気付いているのかいないのか、少年は少し上擦らせた声を上げる。
    「……あの、走れますか?あ、後ろは振り向かないで」
    「大丈夫よ」
     少年は小柄で、明らかに栄養が足りていない細い体つきをしていた。もし、大人の男二人以上に何かされれば、女性も少年も、きっと無事では済まない。
     不安げな声がもし演技だったとしたらとんだ役者である。しかし、ここまで来てしまったからには女性に振り返る選択肢はなかった。ここは少年の善良さに賭けてみようと女性は心に決める。
    「次の曲がり角を斜め右に行きます……走って!」
     女性は少年に従い、弾かれたように走り出す。足元はピンヒールのパンプスである。少年はそれを危惧していたのか、むしろスタートダッシュを女性に遅れてついてくる形で慌てて駆け寄ってくる。
     背後から、複数の大人の足音が聞こえた。舌打ちの音や、「クソ」とかいう悪態まで聞こえる。
    「私ってばっ、人気者ね!」
    「前向きだな⁉︎」
     
     
     二人は大通りに出るまで一度たりとも立ち止まらず、ついでに女性はヒールの足元をよろめかせることもなく走り抜けた。人通りの多い道に出たためか、怪しげな気配はもうない。
     流石にじんじんと痛む足の指を労り、女性は建物に寄りかかる。
     お互いぜぇぜぇと肩で息をしていて、ろくすっぽ言葉を紡ぐこともできない。そんな怪しい女と少年を、通りを歩く人々が横目で見ながら通り過ぎていった。
    「っ、だ……だい、じょぶ、ですか……」
     ようやく言葉を口に出したのは少年の方だった。女性はまだ心臓がどきどきして、息が苦しくて、下品に口で息をするしかできない。これが若さの差だろうか。
     こくこくと数度頷いた女性に、少年はほっとしたような表情を浮かべた。走っているうちにずれた帽子から、くすみひとつなく輝く金髪が飛び出している。生え際から毛先まで同じ色をしているそれが、天然のものであることは明らかだった。
    「ここで待ってれば、タクシーがたくさん通りますから……じゃあ、これで」
     ぺこりと小さくお辞儀をして、少年は何の未練もなく女性に背中を向ける。お礼に手持ちのキャッシュでもせびられるかと思っていたのに、というより断られてもそれを押し付ける気でいた女性は面食らい、慌てて少年に手を伸ばした。
    「待って……!」
     
     その時、ちりん、と小さな音が二人の足元から響いた。下を向くと、コロコロと舗装された道路を転がる銀色の輪っかが見える。ハッと息を呑んだ女性が慌ててしゃがみ込むより早く、道路脇の排水溝に転がり落ちる手前で、少年が輪っかをパシリと掴んだのが分かった。
    「取った!」
     少年はそれを拾い上げ、くるりと女性を振り向く。その顔は最初、笑顔になりかけたような明るい表情だったが女性の表情を見て、それもすぐに曇ってしまう。
    「あ、す、すみません……オレ、ハンカチとか、綺麗な布とか持ってなくて……」
     素手で触っちゃってすみません、袖伸ばして持った方が良かったかな、と、見るからに高価である事が分かるそれを指で摘み、少年は困ったような顔で女性に差し出す。
     手の中にあるのは指輪だった。少年の指と比較すると、親指でも余ってしまいそうな大きな指輪。そして、女性の左手の薬指に、それとまったく同じデザインのものが嵌っていることに少年は目ざとく気付く。
    「……ぁ、」
    「……主人のものよ…………今日が、お葬式だったの」
     迷ったように彷徨う視線の問いかけよりも前に、女性は答えを少年に与えた。女性が手を差し出すと、少年は何の未練もなくそれを彼女の手に返す。そういう子なのだろう。女性はそう判断する。
    「えっと…………ご冥福をお祈りします……?」
    「慣れないことは下手に口にしない方がいいわよ。足元を掬われるわ」
    「……すみません」
     何か言わなければと思っての発言なのだろうが、いきなりその台詞は不適切だ。しかし、こんな時間にあんなところをほっつき歩いている少年がそのような学びを得られる環境にあるとは、女性にはとても思えなかった。
    「こういう時は、とりあえずご愁傷様ですと言っておきなさい」
    「……ご愁傷様です」
    「お気遣い痛み入ります」
     なんだかシュールな図だ。今しがた初めて出会った名も知らぬ少年に、定型の心遣いをもらうなんて。
     くすり。思わず女性は息を吐いた。笑顔のなり損ないのような、ほとんど溜息のような息だった。それでも、その時女性は久々に、ほんの少しだけ口角を上げたのだ。
     
     少年から受け取った指輪を、女性は親指に嵌める。本当は、いくら大きいとはいえ流石に親指にはきつい指輪だったが、人差し指には太すぎるから今、これは手を離れてしまったのだ。どんなにきつくても、もう二度と落とさぬようにと女性はその輪に親指を捩じ込む。
    「……落とさなくて、よかったですね……」
     それは、ほとんど囁くような、小さな声だった。少年は俯く女性を見て、大切そうに握られた指輪と、女性の薬指で光る同じものを見て、どこかぼんやりした声でそれだけを口にした。なんとなく分かるけど、全然分からない。
     絶対に失くしたくない、でも肌身離さず持っていたい。少年はそういうものを、物語の世界でしか知らなかった。目の前に、現実にあるものだとはとうてい思えなかった。
     
     ただ、それを聞いた女性は違った。そうだ。落とさなくてよかった。もし、これをさっき走っている途中で落としていたら。少年の反射神経があんなに良くなくて、ざぁざぁと水が流れる下水まで、これが落ちてしまっていたら。そうしたらあなたは本当に。
    「本当にありがとう……落としたらどうなってたことか」
    「そう……なんですか……」
     少年の視線が女性の親指を見る。ぎちぎちに詰まって、鬱血しかけている指先を見る。
     
     このままそうしている訳にはいかないだろう。それはあなたの物ではないのに。
     そういう、ひどく冷めた視線だった。
     
     それを真正面から受け止め、女性ははくりと息を呑む。どくり、どくり。痛いくらいの心臓の鼓動が、女性の視界をも揺らす。指先が震え、痺れ、戦慄く。
    「これはわたしのものではない。」
     忙しいからと、ずっと考えないようにしていた。そのおそろしい現実が、生々しい息遣いをもって唐突に、女性の前に横たわるのが分かる。これは、この指輪は、あの人は。
     
     一度考えてしまうと、もう止められなかった。今、こうして無理やり親指に嵌めた指輪は、ものの数時間で外さなければならなくなるだろう。それを、私はどこに置けばいい?
     これがぴったり合う指はもうない。
     この世のどこにも存在しないのだ。
     
    「…………ぁ…………」
     
     あなたがいないの。
     家に帰っても、あなたの声が聞こえないの。
     あなたの携帯に電話をかけてももう、どこにも掛からないの。
     あんなによく笑う人だったのに、あんなに快活な人だったのに、まだ一緒に行きたいところもあったのに、リタイアした後のことも考えてたのに、ほんの一年前まであなたは笑っていたのに、なのに。
     
     わたし今、乾き切って、髪の毛もなくて、髭もちゃんと剃れなくて、口なんて半開きで、萎れるように横になったあなたの姿しか思い出せないの。
     
    「……ぇ、」
     少年が困惑の声を上げる。女性はその顔を見ることはもう叶わなかった。視界がぼやける。息が詰まる。顔の表面に、嫌というくらい熱が集まる。ぼたぼたと、目からあふれた水はあっという間に頬を伝い、顎を抜けてドレスの胸元を濡らした。
     
     少年は、ただおろおろと狼狽えて、何度も女性に手を伸ばして、途中でそれを降ろし。
     結局はぼろぼろの自身の上着を脱いで持ち、女性の周りを囲った。人通りの多い道だ。その往来から見えぬよう、少年は自身の体と少ない持ち物でもって、女性の尊厳をただ守った。
     
     これが二人の出会いだ。
     
     
     
    「……なんだよその顔」
    「いや、子どもの頃から、あなたはあなただったのだなという事実を噛み締めているだけだが」
    「意味分かんねーモンを噛み締めんな吐き出せ」
    「断る。続きを話せ」
    「続き?続きったってなぁ……その足でそのまま拾われて、家に連れて帰ってもらって風呂に入らせてもらって……あー、オレ制服なくてさ、中学行けてないんだーって話をしたらせめて高卒じゃなきゃって言われて、制服と通学バッグもらった」
    「…………学費は?」
    「なんか全額無料みたいな補助があるんだよ。でも制服とかカバンとか行事とかは別だったから、それがなくて行けてなかった」
    「行政の怠慢だな」
    「そこまでは手も回んねーだろ、多分」
     言いながら、獅子神はさらさらと便箋に文字を書き連ねていく。手紙の返事だ。仕事の事を考えれば、その女性がメールアドレスを持っていなかったりインターネットデバイスを使いこなせないような人であるとは到底思えない。しかし、届いたのは手紙であったし、律儀に獅子神はそれに手書きで答えている。そういった一手間を惜しまない間柄であることが窺える。
     村雨は少し憮然とした表情を浮かべ、与えられたケーキを一口食べた。もう少しでなくなるので、追加を頼まなければならない。
    「それで、この方に投資のことやら社会常識やらを教わったのか?」
    「んー、基本的にはそうだな。でもわりと自分で学べ、考えろ、って言われてたから、自分が得意そうなやつを選んだりしてたぜ、あとは……あー……」
    「なんだ、隠さず言え」
    「顔こえーっつーんだよオメーはよ。
     ……あのー、あれだよ、自分であんま言いたくねーんだけど、あの人オレの顔がけっこう好きだったみてーで、」
    「……ほう」
    「だから顔!疑うような事はねーよ!むしろ外からそういうのを疑われまくってたから、逆張りでそう見えるようにめちゃくちゃオレを着飾って写真撮ったり、パーティーに連れてったり、なんか身の回りのこととかオレがしてるように見せてた」
    「フットマンの真似事か」
    「そんなしっかりしたもんじゃなくて……いやまぁ、真似事ってのは合ってるか……」
     獅子神が妙に酒を注ぐのが上手かったり、人の世話をするにも手際がいい理由が知れる。村雨は内心で深く納得して息を吐いた。知れたところで、このちりちりと炙られるような胸の不快感がなくなる訳ではないが。
    「四月の……来週か」
    「……顔が見たいなんて言われるの、初めてなんだよ。高校上がった時くらいまでは顔見せてたけど、金を自分で稼げるようになってからは年賀状だけだ。それから……十年か。なのに今さら……」
    「まぁ、何かあったと考えるのが妥当だな」
     村雨に、言うべき事を言うべき時に控える愚かな甘さはない。獅子神もそれを分かっていて眉を顰めた。機嫌が悪そうな表情ではあるが、獅子神は不安になればなるほど、悲しみが深まれば深まるほど尖った殻に閉じこもるような男だ。村雨はそれをただ無表情で眺め、またケーキをぱくりと一口食べる。美味しい茶請けはもう無くなってしまった。
    「では、その日は私も休みを取ろう」
    「はぁ⁉︎できんのかよ⁉︎」
    「一応手術予定は入っていないからな、外来もない。そもそも日曜は本来であれば公休日だ」
    「お前らの業界どブラックだよな本当……いや違う!は⁉︎まさかお前ついてくる気じゃねーだろうな⁉︎」
    「むしろこの流れで私が行くと言わないとでも?」
    「いやなんでだよ⁉︎」
     獅子神はぎゃん、と強く喚きながらも便箋の最後に「友人も連れて行く」と書き添える。断ったところで村雨が獅子神の言うことなど聞くはずがないというのは事実のところだが、獅子神の形の良い耳は赤く染まっている。あまりに素直な反応だった。
    「……あなたは私に紹介するような家族はいないと言った。だから誰にも報告をしていなかったのに、育ての親がいたなど詐欺だろう」
    「育ての親って、そんな……」
    「親だ。戸籍がどうであろうと、血など繋がっていなかろうと、話を聞く限りそれは保護者に近い方だ。であれば私が挨拶に行くのも道理だろう」
    「…………そっ、か……」
    「時に獅子神、何故そこに夫ではなく友人と書いた?」
    「その説明だけで便箋一枚埋まるっつーの!」
     
     
     
     その家は、獅子神の家から車で一時間ほどの距離にあった。簡単に行ける距離だが、偶然顔を合わせることはない場所。向こうも忙しいだろうし。そうやって言い訳をして逃げて、何年もの月日が経った。
     門のチャイムを鳴らして来客を告げる。そわそわとあちこちに視線を彷徨わせる獅子神より、関係ないくせについてきた村雨の方がずっと落ち着いている。
     
    「敬一様とお連れ様ですね、お待ちしておりました」
    「……はい、どうも」
     にこりと微笑む使用人に導かれ、二人は邸内へと足を進めた。獅子神にとっては、少し懐かしい家でもあった。最初は自分なんかが入って許されるのかと怯え、どこかに売り飛ばされるのかと怖がった。入ってからは自分が相手の意向に従わなければ殺されると思った。その想像のどれもが間違っていた。獅子神はここで初めて、人間の生活を知った。
     
    「いらっしゃい…………まぁ、まぁまぁ!背が伸びたこと!髪の色は変わらなかったのね、すぐ分かるわね」
    「……ご無沙汰しておりました、獅子神敬一です」
    「あら、仰々しいご挨拶ね。私のことをお忘れになったのかしら?」
    「まさか!あー……その、久々だし、オレももう大人だからって……」
     二人を出迎えたのは、小柄な体に品の良いハイヒールを履いた婦人であった。纏められた髪は丁寧に手入れされているのが分かる艶を持ち、下品ではないがはっきりとした彼女の顔を際立たせる化粧。品の良いスカートとかちりとしたジャケットは、彼女が未だ現役で表舞台に立っていることを否応なしに感じさせる。
    「急にお呼び立てしたのはこちらなのに、なにを気にしてるんだか……ええ、でも、うん。大人になったのね、知っていたつもりになっていたけど……今、二十六よね?」
    「はい、今度二十七になります」

     獅子神の話から推測するに、婦人の年齢は七十を超えている筈だが、とてもそうは見えない。美しい女性だ。村雨はそんなことを考えながら、自身に移った婦人の視線に一礼で答える。
    「急に人を増やしてすみませんでした……友人の村雨礼二です」
     獅子神が、少しどぎまぎした様子で一歩下がり、斜め後ろにいた村雨の背に手を添えた。またそんなに態度に心を乗せてこの男は。村雨は心中で思わず笑ってしまいながらさらに深く頭を下げる。
    「突然の来訪をお許しいただけたことに感謝申し上げます、ミズ。村雨礼二と申します」
    「ええ、よろしくお願いします。
     …………失礼なことをお伺いするけど……ご友人でいらっしゃるの?」
    「っ、…………えっ、と、」
     本当の事を口にするのを恐れるくせ、ぎくりと全身を強張らせるのが止められないのは何故なのだ。村雨は今度は隠すことなく口角を上げた。婦人の視線に険はなく、ただ真実を教えて欲しいと穏やかに待っていることくらい分かるだろうに。
     
     獅子神は無意識にか、自身の左手の薬指を撫でている。そこには村雨と揃いの指輪がぴったりと嵌まっていた。これを付けてきた時点で心は決まっていた筈だ。ただその覚悟が足りないだけ。臆病な心で、大切な人から大切な人への拒絶を恐れているだけ。
     獅子神のそういう甘さも、まぁ、可愛いと思ってしまうのは惚れた欲目か。
    「……こちらの方こそ失礼いたしました、ミズ。お察しの通り、我々は友人ではない」
     ついに村雨は耐えきれず助け舟を出した。甘いだろうか。しかし、村雨はもともと懐に入れた相手に対してそうなるきらいがある。
     それに、事実がどうあれ幼い獅子神を知り、体外的には若いツバメとして囲っていた彼の大切な人に対して、村雨は稚拙と分かる悋気をそれでも無視できなかった。そういう、幼稚なところがある男だ。
     村雨の左手が、するりと獅子神の同じ手を取る。揃いの指輪が輝く手だ。それを見せ付けるように、村雨は自身の指を獅子神のそれと絡めた。ぎくりと肩を揺らすものの、獅子神はそれを拒絶しない。
     
     唇を舐め、震える顎を何度か開き。それから獅子神はようやくその声を舌に乗せた。
    「…………えっと、文面にすると長くなるから友人と書いたんだ。本当はその、村雨とは、夫婦、というか……パートナー……ってやつ、です」
     村雨が思わず手元と隣の顔を二度見するくらい、獅子神の掌にどっと汗が噴き出す。何がそんなに怖いのだろうか。忖度は多少あるものの、概ね自身に嘘など吐かず生きている村雨にはいまいち理解できない。しかし、そんな恐怖を抑えて全てを詳らかにした獅子神の勇気は評価したいと村雨は思った。
     すりすりと、村雨の幾分か細い指が数回、獅子神の指の股を撫でる。獅子神を、二人きりの時に甘やかすのと同じ手つきだった。それをすぐに思い出した獅子神は一瞬だけほっと息を吐き、それから目の前の婦人のことを思い出して体をぎくりと強張らせる。
    「む、村雨!」
     やめろとでも言うように、獅子神の指に力が込められ村雨の指の動きを抑え込んだ。明らかに鍛え上げられた獅子神の握力でそうされては、村雨の力では太刀打ちなどできない。ぎゅうとお互いに手を握り合う格好。
     手を振り払うのではなく、それに気付きすらせず、獅子神は自然とその方法を選んだ。
     満足げな表情を浮かべ、婦人に目で黙礼する村雨は軽い調子で口を開く。
    「私は最初から夫と書けと言ったのですが」
    「お前あれそんな気にしてたのかよ⁉︎」
     ぎゅうとお互いの手を握ったままで言い合うカップルを目に、婦人は思わずといった雰囲気で笑った。
    「本当に仲がよろしいのね、わくわくしちゃうわ。
     ……さ、立ち話はこれくらいにして、お茶はいかが?」
     
     
     婦人宅のティールームは一面の壁と天井が全てガラスになった、所謂サンルームの造りをしていた。春の日差しが差し込むそこは明るく、暖かい。白を基調としたその部屋にどことなく獅子神の邸宅の色味を思い出す。
    「少々席を外すわね、」と口にして部屋を出た婦人はものの数分で帰ってきた。その姿を、村雨がちらりと見ていることにこの場の二人とも気付くことはなかった。
     
     用意された紅茶は香り高く、ティースタンドには様々な軽食や菓子が並んでいる。村雨が他人のサーブした食べ物に手をつけるだろうかと危惧していた獅子神であったが、杞憂のようだった。食べ物に対してわりあい我儘の気がある村雨は、それどころか今回は少しわくわくしたような様子でテーブルを見ている。
     もしかするとこれが、獅子神が初めて覚えた料理や菓子の味かもしれないと、検分するような気持ちで村雨がそれを見ていた事に獅子神が気付くことはない。「朝食が少なめだったから腹減ってたんだな」と、それくらいにしか考えていないのである。
     
    「お嫌いなものはなくって?」
    「ありません。お気遣いありがとうございます、ミズ……獅子神、なんだその目は」
    「いや別に……」
     婦人と獅子神のお互いの近況、たまに仕事の話。村雨は二人のそれを聞き、時折水を向けられて話を返す。お茶会はただ和やかに進んでいく。
    「ね、私ふたりのことを伺いたいの」
    「な、なんでそんなこと……」
     差し向けられた話題にあからさまに動揺して、獅子神はがたりと椅子を鳴らした。それを横目に見ながら、村雨はいつもの真顔で言葉を放つ。
    「私が彼に一目惚れして、あらゆる手を使って頼み込んで拝み倒して、それでどうにか交際に頷いてもらいました」
    「テメーは堂々と人聞きの悪い嘘吐くんじゃねー!」
    「嘘ではない。あなたは私の告白を一度目は無視し、二度目は聞き流し、三度目は否定して、四度目はこの私の頭を心配するときた。まさか告白という行為に慣れる日が来るとは思わなかった」
    「そ、れは……その……」
    「という訳で、この通り、粘り続けて最後は私が勝利しました」
    「あらあらまぁまぁ、愛されてるったら!」
     村雨のそれは本心の吐露というよりご婦人へのサービス、ついでに獅子神で遊んでやろうという悪戯心である。それでもその視線に隠しもしない熱量が込められているのを見て、婦人はつい心が踊ってしまう。女性は幾つになっても恋の話が大好物なのである。
    「一目惚れって、やっぱり見た目でってことかしら?でもこの子、見た目と中身にちょっとギャップがあるでしょう?」
    「一目惚れは見た目もですが、獅子神は初めて会った時から容姿以上に……可愛い男でしたので」
    「そうよね……あぁよかったわ、村雨さんが本日いらしてくださって、本当に嬉しい」
    「も……なんだよこの会話!」
     耳どころか顔全体、はては首まで真っ赤に染め上げ、獅子神は天を仰いで怒鳴り上げた。その様子すら二人ににやにやと見守られているのが嫌というほどに分かるのがまた居た堪れない。
     がたりと音を立て、獅子神はおもむろに椅子を引く。
    「……髪を直してくる!」
     そんなに触ってなどいないため一切の乱れはない獅子神の髪だが、それには触れず婦人はおかしそうに「場所は変わりませんよ」と声をかけた。
     律儀に「どうも!」と返してずんずん歩き去って行く獅子神の背中を眺め、そして廊下に面したドアが閉じてから、婦人と村雨は顔を見合わせる。
    「あぁおかしい!あの子、あんなに素直な子だったのね」
    「それは我々の責任かも知れません」
     くつくつ、くすくす、残された二人で示し合わせたように笑い、それから婦人は静かに目を伏せた。
     
    「……本当、変わっちゃって……」
     ふう、と一つ、婦人は息を吐く。白かった頬が赤らみ、ほんの少しだけ健康そうな色味を取り戻していた。それを目にしてから、村雨は婦人から自然に目を逸らす。ここには、暴くために来た訳ではない。
     
    「ミズ、あなたから見て、獅子神はどう変わりましたか」
    「そうね……可愛くなっちゃったわ」
    「昔はそうではなかった?」
     村雨の静かな問いかけに、婦人は軽く首を振る。
    「可愛かったわ。可愛かったわよ。宝石みたいな子だった。磨けば磨くほど輝いて、何でもそつなくこなしちゃう。
     ……でも、あの子が見てるのは暗い方ばかり」
    「……ああ、それは理解できる」
     孤独な男は、孤独な少年でもあった。そして孤独なわりには素直で明るく、何より賢く強かだった。だから、彼は見るものをこうも魅了する。
    「一人で生きるって言われた時、やっぱりねって思ったの。私は再婚するつもりもなくて、あの子を養子に貰おうとは思っていなかったし、あの子も望んでいなかったから……」
    「そちらに関しては申し訳ないが、そうしていただけて助かった。そうでなければ、きっと私は獅子神と出会うことはなかった」
    「……ふふ、そうね。結果オーライ、ってやつよね」
     獅子神と村雨がここの門を叩いた時には真上にあった太陽が、少しずつ傾き始めている。少しだけ黄色みがかった光に照らされ、婦人は楽しそうに笑った。
     
     
    「……今度は何してんだよ……」
     お手洗いのついでにかかってきた電話の用事から戻ってきた獅子神が見たのは、片付けられたティースタンドと、代わりに村雨のカップの傍に置かれたクッキーの山と、机の上に散乱する写真たちである。
    「あなたの写真を見せてくださると」
    「オレの写真だぁ?」
    「ふふ、敬一はすぐ背が伸びちゃったから、写真によって全然雰囲気が違うのよね」
     婦人は獅子神がよく知るあの頃とは大違いのやわらかな表情で、楽しそうにアルバムをめくっている。その理由が自分たちの来訪によるものなのか、十年以上の月日を経て彼女が丸くなったためか、はたまた別の理由があるのか獅子神には分からない。
     しかしそんなに楽しんでいるのならば、水を差すのは悪いと獅子神は口を噤んだ。
    「ああ、これよこれ」
     婦人が取り出したのは十枚程度の写真たちである。
     当時の写真屋の、高性能なカメラで撮影したものだ。あの頃見た時にはとても鮮明で美しいと思っていた写真だ。だがそれも、今見てみると被写体全体の縁がぼやけ、色も少々地味に見える。
     真ん中に写っているのはまだ中学生になったばかりの、幼い獅子神敬一の姿だった。少しだけ固い孤独な表情で、豪奢な部屋のソファに腰掛け、少年の視線はカメラのレンズを射抜いている。コンテストに出せば評価が付くのではないだろうか。そう思えるほどに完成された構図の写真。
     だが、美しいと誰もに評価されていた空色の瞳は、写真の中では白目と見分けがつかない灰色だった。当時の技術では限界があった。今、年を経ても一向に褪せることのない色彩が目の前にあるからこそ、その差が分かる。しかし。
    「……良い写真だ」
     傷のない、繊細そうな指がまるで宝物を触るように写真を取り上げた。
    「白いジャケットがよく似合う。スタジオで撮ったこちらも良いが、外の写真も良い。金の髪に花が映えて……ちょうど今の時期ですか」
    「そうよ、この頃はまだ四月に桜が咲いていたわね。写真屋さんに言われたの。外の桜が綺麗ですよって……それで私、わざわざ足に日焼け止めを塗り直して外に出たの」
    「俺は中で待ってて良いって言っただろうよ……」
    「あら、新しいモノを生み出す時に目を離す経営者がいると思って?」
     忌憚なく自分のことを褒められると、それが例え持って生まれただけの顔のことでも獅子神は少しどぎまぎしてしまう。カメラを構えた大人に囲まれ、子供扱いされて褒めちぎられながら、言われるままにポーズをとった照れくさい記憶が蘇る。
     村雨はじっと目に焼き付けるようにその写真を見つめていた。桜の木の下でベンチに座り、足元を見つめるいつかの少年。青い空を見上げる後ろ姿。川べりに腰掛け、花筏を散らすまだ細い指。はにかんだ笑顔。
    「この写真の焼き増しを……いや、データが残っているのでしたらそちらが良い。」
    「そうおっしゃると思って、今使用人に用意させているわ」
     婦人は悪戯っぽくウインクして、村雨に微笑みかける。
    「勝手なことすんなよオイ!」
    「ありがとうございます。お礼にこちらを」
    「あら!こちらはご友人と?」
    「仲の良い友人達と出掛けた時の写真です」
    「オイってば!二人して無視してんじゃねー!」
     渦中にいるはずなのに完全に蚊帳の外に放り出された獅子神は、いくら声を上げても黙殺されることに気付いて口を閉じた。二人が楽しそうにしてくれているのは良い。良いが、その話題が自分だというところが恥ずかしくてしょうがない。二人して、年甲斐もなく本気で喜び、楽しみ、はしゃいでいるのが分かるからこそ。
    「なんでそんな、あんたら、あー、もう、」
     気が済むまでやれよもう、と最後は投げやりに言って、獅子神は紅茶を一口含んだ。拗ねた表情で、しかし未だに耳の赤さは隠せてなどいなくて、ぶすくれた表情で庭に顔を向けている。それを眺める二人が、どのような顔をして彼を見つめているのか、獅子神本人はそれをまったく見ていない。
     
     
    「……ごめんなさいね、今日だけこの子をお借りして良いかしら」
     全ての写真データの交換が終わり、当たり前のように婦人と村雨は個人的な連絡先を交換していた。その辺りで、婦人がふと口を開く。
    「オレ?」
    「一緒に庭を散歩しましょう、昔もやったでしょ?」
     部屋の出入り口に控えていた使用人が、テラスに出て中庭に続くドアを開けていた。それを横目で見てから、村雨はにこりと口角を上げた後、立ち上がり滑らかに腰を折る。
     
    「あなたが愛でたいつかの少年は、私の手で変えてしまいましたが……ご随意に、ミズ」
     
     婦人の手の甲に唇を寄せ、しかしリップ音を立てることはなく、あくまで清潔な態度を守り男は自分の伴侶を連れ出すことをゆるした。事実、許したというのが正しいのだろう。村雨は態度こそ紳士的だが、その言動全てに悋気を纏わせることを決してやめない。それを分かっていて、婦人は村雨に伺いを立てる。
     ある意味での、読み合いでもあった。
    「なんでオレに決定権がねーんだ……?」
     どちらにバカと言えば良いか分からず、分からなくて、獅子神は斜め上に視線を巡らせている。しかし数秒後にはそれを振り切り、自身の椅子から立ち上がって婦人の前で腰を折った。足音を立てない、見せつけるためのフットマンの歩き方。
    「……奥様、お手を」
     教えられた手つき。教えられた声音。あの頃よりもずっと大きく分厚い手が、婦人の細いそれを取る。
     婦人は促されるままに優美に立ち上がった。細いハイヒールを履いていても、その体幹が揺らぐことはない。ただ、婦人に無理のないような高さに手を持っていくと、獅子神はほんの少しだけ腰を屈めなければいけなかった。あの頃は、ハイヒールで高くなった婦人に合わせるため、肋骨より高い位置に持ってきた手が震えないようにさんざん訓練したのに。
     きゅう、と獅子神の胃だか心臓だか肺だか分からない部分が、窄まるように締め付けられる。獅子神敬一は大人になった。それと同じ年月を、婦人も重ねていた。
     
     ゆっくりとしたエスコート。まるで柔らかな絨毯を踏むように、一歩一歩をふたりで進む。その後ろ姿を、村雨は目を細めて見送った。
    「もう桜は散りましたね」
    「今はちょうど、木香薔薇とハナミズキが咲いているわ」
     日は傾き始めているが、空気はまだ暖かい。それでも時折吹くひんやりとした風が、今がまだ夏ではないと二人に知らせる。
     空は高く、青く、遠くまで澄んでいた。薄く刷いたような雲が全体に広がっている。黄金に輝く日差しが緑の木々を強く反射して、透明な朱色が空気を染め始める夕刻の始まり。それは夏場の日差しよりよほど眩しいくらいだった。
    「寒くはないですか」
    「平気よ……悪いことをしてしまったかしら」
     ちらりとサンルームを振り返ってから、女性は十数年前よりもずっとほっそりした頬を上げて、十数年前と同じいたずらっ子のような顔で笑う。それを見つめる青年の目には、いつかの少年のように孤独と劣等感で冷え切った色はない。
    「大丈夫です。気にしてないっつったら……まぁ嘘になると思うけど、それでも話は分かる奴なので」
    「ふふふ、あの頃もこうして、他の人を尻目にあなたみたいなのを侍らせるのが楽しかったのよね」
    「……いい趣味してるよ、ったく」
     咲き乱れる木香薔薇のアーチをくぐり、足元の鈴蘭を抜け、四月の庭を二人で歩く。花のあふれる森のような小道を抜けると、東屋が見えてきた。
     そう大きくはない中庭だ。もう順路は半分を過ぎてしまった。
     自分よりもうんと低い場所にある艶やかな茶髪を眺めながら、獅子神は口を開く。
     
    「……なぜ、オレを呼んだんですか?」
     
     ずっと聞きたい事だった。今日ここに足を運んでから、否、あの手紙を受け取ってから、獅子神の心はずっとざわめいている。電話だってかけられた。メールアドレスだって年賀状に書いてある。それでも婦人は手紙という面倒な一手間を選んだ。獅子神が気付けば、きっと目に留めて異変を感じるであろうそれをあえて選んだ。
    「何か……あったんですよね?オレがなんか、出来ることがあるってことだろ?」
     あまり想像したくないことばかりが頭に浮かび、消えて、また浮かび、その度に村雨に「落ち着け」と釘を刺されて今日までを過ごした。
     焦燥感を隠すこともできずに、獅子神は足を止めて婦人の顔を覗き込む。「出来ることなら何でもする」と、素直に表情に書いてあるそれと目が合い、婦人は思わずころころと笑った。
    「あなた、そんなに慌てて顔に出して……そんなんじゃダメよって言ったでしょう」
    「話をはぐらかさないでくれよ、オレは真剣に聞いてる」
    「仕事で若い人と会う機会が多くてね、ちょうどあなたと同じくらいの歳の人達だったから……あなたのことを思い出したのよ」
     婦人は笑って。にっこりと笑って、それで話を終わらせた。「見る目」を手に入れた獅子神は、素人である婦人の嘘など簡単に見抜くことが出来る。しかし、その先の真実そのものをぴたりと言い当てるほどの引き出しは、まだない。
    「……病気か?仕事の問題か?オレにだって、あんたほどじゃないが伝手はある、何かあるなら、」
    「敬一」
     ぴしゃりと。有無を言わせない声音は、幼い頃の獅子神を幾度も叱ったものだ。それだけで、条件反射のように獅子神の中の子供が大人の彼の口を塞ぐ。
    「……子供の前でくらい、カッコつけさせてちょうだい」
    「…………子供じゃねぇよ」
    「子供よ、あなたなんて。幾つになってもね」
     
     
     ゆっくりとした足取りのまま、手を取り合う二人が帰ってくるのを村雨は自身の席から立ち上がり出迎えた。自身の伴侶の方があからさまに不満げな表情を浮かべているのを見て、内心で笑う。顔の方にまで出してしまえば、拗ねさせてしまうことが分かっているので。
     どれだけ大事な相手だろうと、赤の他人であろうと、強引な一歩が絶対に踏み込めない男だ。臆病で、人が怖くて、それなのにその人間に縋る癖が抜けない子供のような男だ。
     村雨は、注意深く見なければ決して誰も気付けないほどに、微かに瞳の奥を蕩かせて歩みを進める。そのことに、一人目敏く気付いた優秀なフットマンがほんの少しだけ眉間に皺を寄せて、それからその甘ったるい視線から目を逸らした。
    「そろそろ終わりの時間かしらね」
     婦人は歌うように、来客の二人に声をかける。それに獅子神が何も答えないのを見るに、うまく言いくるめられてしまったようだ。
    「ええ、楽しい時間をありがとうございました」
    「…………また来ます」
     村雨までもが婦人に賛同した。ならば、獅子神が我儘を言ってもどうにもならない。
     そう思っているのがありありと分かる表情で、しかし諦めることは選択肢にないとでも言うように、獅子神の下された手に力が籠る。それを婦人はちらりと見て、それから何事もなかったかのように二人に微笑んだ。
    「玄関までお送りしますわ」
    「いえ、お気遣いなく……その前に、」
     にこりとよそ行きの笑顔でもって、村雨は婦人と相対する。その空気が確かに変わったのを感じ取り、獅子神は目を見開いて自身のパートナーを見た。婦人もそれがわかったのか、ぱちりと目を開き口を噤む。
     獅子神はこの顔を知っている。この表情を、声音を知っている。それに関しては、彼が何よりも信頼できる人であることを知っている。
     
     それは、絶対の診断を下す、医師の顔だった。
     
    「失礼を重ねますが、最後に一つ。」
     
     ほんの初めに婦人が感じた——正直に言うと少し不気味な——印象はそのまま残し、しかし確かに生きて、人を愛する、熱を持った一人の男が口を開く。
     
    「ミズ、あなたが受診している病院と主治医のお名前を伺っても?」
     
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