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    DasonHen

    @DasonHen

    画像化すると長くなる文はここ
    あとたまにえっちな絵を描くとここ(報告はサークル内)

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    DasonHen

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    n日後に初夜に至るさめしし

    一時限目 明日は休みだと彼が言うから、それなら泊まれよと声をかけたのはオレの方だ。返事は快いものだった。
     交際を始めて三ヶ月。流石に、そういった声掛けに緊張することはなくなった。村雨は良ければ良いと言うし、都合がつかなければ無理だときっぱり断ってくれて、それに気を悪くした風になることもない。そのことがオレを大胆にさせたのもある。もう何度も声をかけられて、こちらからも誘いをかけてを繰り返した。
     声を上げる瞬間の少しの高揚と動悸は、ずっと変わらないが、それでも。
     
    「ご馳走様」
    「おう、お粗末さま」
     カトラリーを下げるついでに食後の茶を置く。あとに残る用事は入浴と寝ることだけなので、ノンカフェインのものを出した。村雨はまた律儀に「ありがとう」と返してくる。
     まめな男だ。今日も皿の上の料理は綺麗に平らげてもらえた。
    「先日、あなたと話していた資料集が見つかった」
    「本当に?探させちまったな、悪い」
    「そう重労働でもない」
     ティーカップをソーサーに戻してから、立ち上がった村雨は荷物置きにある自身の鞄へと向かう。
     彼が来訪してそれを置いた時、いつもより重そうな音が聞こえていた。まさか、と思いつつ、仕事用の専門書の可能性もあるからと思考を隅に追いやったのを思い出す。
     予想が合っていたのなら、言えばよかったかもしれない。

    「私はセンター試験を地理で受験したので、こちら側は一年生の頃のものだ」
    「たくさんあるな」
    「あなたが興味を持つ分野が分からなかった」
     積み上げられていく大きさの異なった本は、すべて端も折れ曲がらず綺麗にされている。細かな表面の傷がなければ、新品だと信じてしまいそうだ。
    「高校一年でこれやるのか?」
    「学校によると思うが、私が通っていた高校はそうだ。二年次に文理選択でクラスが分かれるので、それ以降このあたりの教科はほぼ触れない」
     積み上がった本の背表紙には「世界史」「倫理」「日本史」など、さまざまな科目名が書かれている。教科書と、資料集だ。見覚えのないものばかりなのは、オレと村雨の年齢差だけが理由ではない。
     ふと、雑談で学生時代の話をした。相手はお医者様だ。オレの知らないこと、オレが想像すらしたことがなかったこと、彼は経験してきているのだろうと。それは僻みや妬みなどでは決してなく、単なる興味によるものだった。医学部は何の教科を学んで入るものなのかも知らない。オレは数学はⅡBまでしか学ばなかったし、自発的に学んだのは興味のあった統計学だけだ。
     村雨は要領が良くて、真面目なようで不真面目な人だから、授業にかじりついているところなど想像できないと笑うとさらりと肯定された。やっぱり、地頭が良いのだろう。
     
     適当に一番上の本を取って広げると、地理の資料集だった。世界の気候区分の図が目に入る。
    「それは三年次まで使用した。私のメモが残っていると思う」
    「メモとか取ってたのか?」
    「教師が教科書に記載のないことばかりテストに出すタイプだったからな」
    「へぇー……あ、ほんとだ、あった」
     文に下線を引いて、綺麗な赤い字で知らない言葉が書かれていた。学生時代の村雨の字。十年以上前に書かれた字だ。たまにメモ書きなどで見る今の字とは、少し違う。流れるような、よく言えば大人っぽく、悪く言えば崩れた、そんな今の字より丁寧かも知れない。
     授業中にメモをとったんだ。先生に促されて書いたのだろうか。自分で書いたのだろうか。
     目の前のこの人は、一体どんな表情でこれを書いていたのだろうか。
    「地理、楽しかった?」
    「いや、特には。嫌いではないが……覚えるより、原理を理解する方が興味深かった」
    「原理?」
    「例えば、この……ここ、砂漠地帯が広がっているだろう。これは赤道地帯で暖められた空気が上昇し、このあたりで下降して高気圧帯を作り、地面を乾かしてしまうからだ」
    「うん」
     村雨の細い、なめらかな指先が地図を滑る。
    「夏になると太陽が北上するので、高圧帯もそのまま北上する。地中海沿岸の夏が乾燥しているのはそのためだな」
    「乾燥してんの?あんまイメージねぇかも」
    「バレンシアオレンジやオリーブがあるだろう?あれらは乾燥に強い作物だ。ここは夏に暖かく、乾燥していて過ごしやすいからバカンスで選ばれる」
    「ワインは?」
    「ワインの産地で有名な地域は、山脈の影響などで気候が異なっている」
    「そうなんだ」
     話しながら、村雨は席を立ちテーブルを回ってオレの背後に立った。まるで、生徒に授業する家庭教師のように。
     背中が半分温かい。ふわりと、本当に側まで近付いた時にだけ香る村雨の匂いがする。コロンだろうか。洗剤だろうか。
     聞けたことはまだ、ないけれど。
    「ここにピレネー山脈がある。ここで南からの風は遮られるのだ。だからフランスは乾燥せず、作物がよく育つ。ヨーロッパ内では農業国家として有名だ」
    「…………なるほどな?」
     傷ひとつない指がページの上を辿る。もう片方の手はオレの肩に置かれている。さっき料理を作ったから、オレの頭が油臭くないかが少し気になったが、村雨はあまり気にしていないようだから何も言わないでおいた。
     頭上から降ってくる穏やかな声が、まるで本物の先生のようだ。
    「面白いと感じた部分はあったか?」
    「……いや、正直まだ何も知らなさすぎて」
    「あなた、物理学や世界史を習ったことは?」
    「物理は基礎物理だけ。世界史はない」
    「そうか。地理学の原理を考えると、世界史や地質学、原理そのものは物理学と切っては切れない関係があることが分かる。興味があるのなら教えるが」
    「そこまでさせらんねーよ!でも……これ、借りてもいいか?」
    「構わない。そのために持ってきた」
     ふふ、と、息を吐くついでのような笑い声が耳元で聞こえる。完全に村雨の厚意に甘えているのだが、気に障ったりはしていないらしい。
     
     そのまま村雨には入浴を勧める。オレの言葉に素直に従う村雨を見送り、キッチンを全て片付けてから、脱衣所に着替えを置きに行った。
     あまり音を立てなかった筈なのに、タオルと着替えを置くと同時にシャワーの音が止んで中から「ありがとう」という声がかけられる。なんで分かんの。
     目を向けるとすりガラスの向こうに肌色のシルエットが見えて、なんだかどぎまぎしてしまって自分で自分に驚いた。「いいえー、」なんてふざけて返したが、村雨にはこの動揺が伝わってしまっただろうか。
     
     お互い、そうそう他人に心を寄せるたちの人間ではない。この関係が始まったのも、惚れた腫れたの恋が実るような可愛いものではなかった。臆病者のオレらしく、階段をそろそろと降りるように、近づいた彼と、気付けば肩が触れ合っていた。それだけだ。
     触れ合った部分なんて文字通り肩とか腕くらいのもので、手を繋いだこともない。繋ごうと思ったこともない。
     多分、そういう関係ではないのだ。
     恋人と呼ぶには、あまりに穏やかで、歪な関係だった。
     
     おそらく、オレたちは「いっとう仲の良い友達」のままでも良かった筈だ。村雨はそちらの方を望んでいたかもしれない。この関係に定義を与えたかったのは、きっとオレの方だったのだろう。
     「特別」が確かに「存在する」ことを目で見て確認したかった。自分は永遠に手に入れられないのだろうと思っていた餌のシルエットに、一も二もなく飛びついた。分かりやすく嵌め込まれた言葉を貰って、安心したかったのだ。それは、始まりを作ることで終わりの概念が生まれてしまう、その恐怖にもきっと勝っていた。
     終わっても、それが存在していたのだと自分が覚えていれば、少なくとも当時の村雨礼二にとってはオレとの関係が価値あるものだったという証左になる。強さは決して正しいものとは限らないと説いた彼の目に自分が映ったその事実が、みじめで無価値なオレを仮初にでも慰める記憶になる。
     本当は、こんなものに縋ってもオレの価値が覆ったりしないことなんて、分かっているけど。
     
     村雨は律儀にも、それに付き合ってくれた。
     オレ達は「恋人」と定義づけられた。もし、他の誰かに肌を擦り寄せるようなことがあれば、それは浮気と定義されることになる。もともと友人すら少ない二人であるから、あまり意味のない抑止力だが。
     そんな無意味な制約の代わりに「会いたい」などという曖昧な理由で顔を見る権利が許されるようになった。これは明確な特権だ。村雨曰く「以前からそうしていた」そうだが。オレはそうではないので。
     
     隣に座っても嫌がられない立場。
     理由がなくても顔を見て良い権利。
     こちらから連絡しても怒られない関係。
     必要なかったはずの関係を貰えたことだけでは満足できず、その全てに浮ついて、甘ったれている。自覚はある。
     
     村雨の次に風呂に入るまでの間、寝室の椅子に腰掛けて、持ち込んだ資料を開く。その中身の意味がほとんど分からない自分に憤ってもしょうがない。それがオレの過去だ。嫌なら、これから学べばいい。
     村雨の見ていたものを見てみたい、なんていう不純すぎる動機だけどな。
     
     また、赤字で注釈を見つけた。ページ番号が書かれている。該当のページを開こうとしたら、そんなページは存在しなかったのでこれはきっと別の教科書のページだ。隣の文に蛍光ペンが引かれている。重要なのだろうか。どう重要なのか分からない。ひとつひとつの言葉の意味も知らないので、全てスマホで検索する。一ページ読むのに、一体どれだけの時間がかかるのだろうか。
     でも、それだけ長い時間、オレは彼の過去を辿ることが出来る。
     
     十一年前だろうか。十四年前だろうか。その頃の村雨と今のオレが、同じものを触っているというのはどこか不思議な気持ちになる。
     彼はどんな学生だったのだろう。あの時警察の奴らは村雨が孤立していたと言っていたが、実際のところは分からない。だって村雨は存外面倒見が良くて、気さくな男だ。今だって普通に、普通の病院で医師として働いている。まぁまぁ頭がイカれていることは事実だが。
     ほんの少しだけ、同じ頃の自分のことを思い出しそうになって、頭を振って散らした。今、この瞬間にオレという存在は要らない。過去の、今の村雨を形作るそれに集中していたい。
     鉱産資源の分布。これも、村雨が見れば何か理屈があるのかも知れない。中東は石油がとれることくらいしか、オレには分からない。偏西風。聞いたことがあるような、ないような。
     やっぱり、解説頼んだ方が良かったかな。
     
     そこまで考えた時、ちょうど部屋のドアがこんこんと音を立てた。どうぞと声をかけると、寝巻きに着替えた村雨が立っている。
    「風呂から上がった。ありがとう」
    「どういたしまして。もう寝るか?飲み物いる?」
    「飲み物は後ほど欲しいが……あなた、またそれを読んでいるのか」
     ぱたん。部屋の扉が閉まり、ぱす、ぱす、とスリッパの軽い音を立てて村雨がこちらに歩いてくる。キッチンに向かうために立ち上がりかけたのは、手で制された。
    「おう。でもやっぱ全然分かんねーわ」
    「それを読んだだけで皆が理屈を理解できるのなら、学習塾は存在しないな」
    「そっか、確かに」
     ベッドに腰掛けても?と目配せされるので、首を縦に振る。少しだけ、本当の自分のテリトリーに入り込まれているようで緊張するが、向こうが着ているのは洗い立てのパジャマだし、相手は村雨だし。
     汚れることはない。恐ろしい事などない。その筈だ。
     まだぴしりとシーツが張られたままのベッドが、村雨の周りで少しだけ撓む。オレが腰掛ける椅子のすぐ近くに座った村雨は、手招きしてオレを自身の隣へ誘った。
    「オレはまだ風呂入ってねーから」
    「そうか」
     一日を過ごしたままの汚れた体でベッドに触れるのは気が引ける。そんなの気持ちの問題だというのは、分かっているのだけれど。
     首を横に振ったオレに気を悪くした風もなく、村雨はギリギリまで浅くベッドに腰掛け、オレの手元を覗き込んできた。肩が触れ合って少し驚いたが、村雨は何も気にしていないようだ。
     よく叶とも肩を組んでいるし、この間は真経津に膝枕させられて、固いからとむしろ嫌がられてショックを受けていたし、意外とパーソナルスペースの狭い男である。
    「気になった部分はあったか?」
    「えっと……あ、なぁなぁ、この273ページって何?」
    「………………確か、おそらく、教科書のページ番号だったと思うが……覚えていないな」
    「え、オメーでも覚えてねーこととか、あるんだ」
     オレの言葉を聞き、ぐぐっと眉間に数本の皺を寄せて、村雨はこちらを睨みつける。
    「要らない記憶を永遠に覚えている訳がないだろう。私は必要なことならきちんと覚えている」
    「悪かったよ」
     煽ったつもりなどない。ただ、村雨は基本的に、オレの理解の範疇など超えたところにいるすげーやつなので、分からなくなるのだ。なんでも出来てしまうんじゃないかと、つい思ってしまう。
     そんな訳がないことは、本人からも言われたのに。
     
    「内容ではなくそんなものが気になるのか」
    「そういう訳じゃねーけど……」
     そういうわけでは、ない。たぶん。
     自分が「当たり前」を知らないことが、それを貰えない自分が、深いコンプレックスだったのは事実だけれど。
    「中学の時に習ったよね」が分からない。
    「高校の時の選択科目、何だった?」が分からない。
     オレはずっと、それがとてつもなく恥ずかしいことに思えて、学生時代のことなんて忘れたふりをして、今の金儲けのことばかりに集中していた。
     今なら認められる。ただ、嫉妬していた。過ぎてしまった過去の事にばかり囚われて、臆病で陰湿な自分の本質から目を逸らし続けていた。
     
     でも、今はそんなの「別にどうでもいい」。学びたければ今からでも学べば良いし、そうしたところで過去に存在したオレが消える訳でもない。
     だから、今オレが見たかったのはやはり、多分、内容そのものではないのだろう。
     というか、勉強したいなら新品の教科書を買えば良いのだ。それをわざわざ大変な思いをさせてまで、村雨に持って来させた。直接頼むのではなくて、小狡く、小賢しく、まるで周りを遊びに巻き込む時の真経津の真似みたいに純粋なふりをして、「見てみたいな」と呟いた。村雨は、そういう言葉を聞き逃さないと、そういう優しいおとこであると分かっていて。もし面倒だからと無視されても、傷つかないように。
     この上ない我儘だ。
     
    「なぁ、村雨ってどんな高校生だったの」
    「どんな、とはまた随分と抽象的な質問だ。何が聞きたい?」
    「友達いた?」
    「必要なことを話すだけなら」
    「校則守ってた?」
    「守って自分が困らないものは守っていた」
    「何破ったの?買い食いとか?」
    「購買があったので買い物は校則違反ではない。携帯の持ち込みなどだな。あと髪型」
    「髪型!え、どんな髪型だったんだよ」
    「今とあまり変わらない。染めてはいなかった」
    「へぇー、こだわりなんだな」
     村雨の一風変わった色の髪の毛は、わざわざ生え際の色を落としてからくすんだピンク色を入れている。数週間に一度以上のペースで、色味が新鮮になるのでかなりこまめに染めているのだろう。こだわりがなければ、こんな髪色にはしない。
    「いつからこの色なんだ?」
    「大学進学と同時だな。実習の時は短くしていたが」
     村雨の指が、整髪料をつけていないため少しだけ広がった自身の髪を摘んだ。硬そうなそれは一本一本が太くてまっすぐで、濡れるとふにゃふにゃとうねるオレの髪とは全く違う。
    「短い時あったのかよ⁉︎」
    「単位がもらえなければ卒業できんだろうが、当たり前だ」
    「えー、想像できねぇ。写真は?」
    「……おそらく、ない」
    「もったいねぇー!今度切ってみねぇ?」
    「断る。半端に切ると伸びた時が面倒だ」
     まぁ、そうだろうな。オレも、ここから角刈りにしろとか言われたら嫌だ。そもそもオレの髪質で角刈りになるのか?分からないが。
    「あなたは、ずっとこのヘアスタイルか」
    「んー、だいたいそう……あ、ワックスついてるから」
     村雨の手がオレの頭に伸びてきたから、頭を動かして避けた。せっかく風呂に入ったのに、汚しては元も子もない。
     むぅ、と一瞬だけ、すぐに隠されたが村正は不満げな表情を浮かべてから、いつもの無表情に戻って口を開く。
    「そういえば、あなたはこれから風呂だろう」
    「そうだけど」
    「すぐ入ってこい、こちらを解説してやる」
     するり。オレの手から資料集が奪われた。全く、ほんの少ししか理解できなかったそれ。教えてくれるというそれを、さっきは申し訳ないからと断ったが、二度も提案してくれるということは、わりとこいつも乗り気だったということだろうか。
     渡りに船だ。偏西風ってなに?なんで吹くの?とか、聞いたら答えてくれるだろうか。こいつ、医者だけど。
    「いいのか?」
    「寝物語の代わりだ」
     くすくすと、悪戯そうな顔で村雨が笑う。
    「眠くならなかったらどうしよう」
    「安心しろ、私が眠くなる」
    「あー、そうかも」
     村雨はいつもいつも、忙しい仕事の合間をぬってオレたちとの予定を組み込んでいる。つまり、多忙を極めた身だ。本当は今日も、ここになど来ないで家で休んでいた方が良かったに違いない。
     なのに、わざわざこんなところまで来て、あまつさえただの興味本位の勉強まで教えてくれてしまうのだから、村雨礼二という男はとても人好きだ。
    「すぐ入ってくるから」
    「この部屋は出ておいた方がいいか?」
    「別になんもねーけど、それで良ければ」
    「それならこのまま待っていよう」
     村雨は先ほどより少しだけ深くベッドに座り直し、資料集をペラペラとめくっている。
     それを確認してから、部屋を出てドアを閉じた。
     
     なんて事ない、というふりをしたが。本当は、自分のいない自分の巣に、他人を置いていくなんて初めてのことで、とてつもなく緊張する。まるで、弱い自分を丸裸で晒しているような心許なさ。
     でも、どうせオレが隠しているものなんて村雨は全てお見通しだろうから、今さらどうしたって関係がないのも事実だ。だから、少しの諦めでもってそれを許した。
     あと、相手は村雨だし。恋人同士、だし。
     
     
     風呂を出て、麦茶を入れて寝室に戻ると村雨はオレが出て行った時からそのままの姿勢でそこにいた。
    「え、一歩も動かなかったのかオメー」
    「動いたに決まっているだろう。たまたま同じ姿勢の時にあなたが帰ってきただけだ」
     見ると、村雨は小脇に枕を抱えている。ゲストルームのものだ。何故?そう目で問うと、枕はおもむろに彼の隣——ヘッドボードに立てかけられた。
     あぁ、背もたれか。
     麦茶を差し出すと「ありがとう」という言葉と共にそれは受け取られる。触れ合った指は、風呂上がりのオレよりも温かい。
    「眠いか?」
    「いや……あぁ、私の手か」
     ひらひらと村雨が指を動かす。白くてなめらかで、傷ひとつない指。さっき目の前を滑っていた時から、綺麗だなと思っていた。
    「特別血行が良い訳ではないが……昔から手は冷え知らずだ」
    「見た目は冷え性っぽいのに」
    「手術するのには丁度良い」
     言いながら村雨は、オレから受け取った麦茶を一気に飲み干す。さらにピッチャーから足したものも、一気に半分がなくなった。
    「喉乾いてたんだな、悪い」
    「そんなことはない。職業柄、好きな時に飲食できないのであまり気にならない」
    「……それは良いことじゃねぇ気がすんだけど……」
     やっぱり激務だ。せっかく待ってくれていたのは分かっているが、やはり早めに休める時は休んだ方が良いのではないだろうか。
     往生際悪くそんなことを考えたオレのこともお見通しなのか、村雨はぽんぽんと自分の横のシーツを叩いた。
     椅子ではなく、シーツをだ。
    「ん?そっち?」
    「椅子とベッドではどちらかが前屈姿勢になるだろう」
     自分はすでにベッドに足まで上げながら、村雨は堂々と自分の隣をオレに勧める。別にベッドに上がられるのは座らせた時点で構いやしないが、しかし。
     ベッドに男二人で横並び。
     この家を建てた時に購入したキングサイズのベッドは、村雨とオレがもし二人で横になったとしても余裕がある。座るくらい、スペースとしてはなんの問題もないのだが。
    「……いいのか?」
    「何が悪い?」
     村雨の方は、本当に心から疑問に思っているといった表情でじっとこちらを見返してくるから、なんだか自分の方がおかしいことを言っているような気分になった。普通なのかな。
     まぁ、別に一般的に普通じゃなくても、オレ達が良ければ別にいいか。
     
     お茶をサイドテーブルに置き、自分のベッドなのに何故か「お邪魔します」と声をかけて彼の隣に座る。
     甲斐甲斐しくオレの枕まで立てて背もたれにして、村雨はオレを受け入れた。
    「なんか変な感じする」
    「あなたはベッドに入ったらあとは寝るだけ、の人間だろうな」
    「普通そうじゃねぇの?」
    「少なくとも私は読書をしたりするが」
    「こないだ寝落ちしてたじゃん」
    「寝落ちるまでは読んでいる」
     お互いの太腿の間に資料集が置かれて、開かれる。風のページ。オレがさっき、最後に開いていたページだ。それが置けるくらいの距離感で、座っている。
     別に、人ひとり分くらい離れて座ることもできた。でも、だって、村雨がその距離に枕をセットするから。
     もしこれが付き合っている男女なら、なんなら付き合っておらずとも男女なら、まぁ、そういう事になるのだろうな、という距離感。
     しかし今は、そんな熱っぽい雰囲気は微塵もなかった。どちらかと言うと、たぶん合宿とか、修学旅行とか、そういうのに近いのだろう。どれも行ったことないけど。真経津の家に泊まる時は適当な場所に雑魚寝だし。そんな感じ。
     やっぱり村雨はパーソナルスペースが狭いのだ。
     
    「ここのページで止まっていたな」
    「そう、気になってたんだよ。なんで決まった場所に風が吹くんだ?」
    「先ほどの話に似ている。赤道付近では空気が温められて上昇する。行き場のない空気は、気温が下がるこの辺りで下降する。下降して、押し潰された空気はどう動く?」
    「……赤道の、方に」
    「そうだ。これが貿易風だ。さらに北へ行けば——」
     さっそく、村雨の指がページを指して、図を作ってくれている。きっと、基礎学力がない相手でも分かりやすいように、言葉を極限まで噛み砕いて説明してくれている。丁寧に、親切に。
     けれど、せっかくのそれをオレの脳がきちんと理解してくれることはなかった。
     
     心臓がバクンと大きな音を立てて跳ね上がる。その後はまるで全力疾走した後のような、全身に響くような拍動が続く。続く。止まらない。息が苦しい。
     握られているのだ。手が。
     村雨に当たらないように、自分の膝の上で本を支えていたそれが。温かくて、なめらかで、皮膚が厚くてカサつきがちのオレのものとは違う、細い指が、オレの、手の下に入り込んで。
     
     なぜ。なんで。どうして。
     ぐるぐると頭の中を疑問符が駆け巡る。
     あったかい。ちょっとだけ柔らかい。優しい手つき。なんで?間違えてるのだろうか。何かと。何と?
    「さらに北で同じことが起こっている訳だ。これを偏西風と呼ぶ。」
    「……うん」
     村雨先生の講義が続いている。乞うたのはオレだ。聞かなくてはならない。なのに、耳の奥からごうごう鳴る音がうるさくて、視界が拍動に合わせて揺れるから視線がブレて、止まらない。手が震える。顔が熱い。嫌だ。手汗かいてる。汚い。
    「次のページだが」
    「………………、」
     自然に、あくまで意識的にではなく、というふりをして、自分の方に引き寄せようとした手がオレの言うことを聞くことはなかった。甲の上から重ねられていたそれに力が込められて、捕まえられる。本の下で、今度は手のひらに回ったそれに、指の一本一本が絡められる。
    「次は降水量と気温か。ここも分かりやすい。陸地と海で——」
    「…………」
     は、は、と荒くなる息が、目眩がしてくるくらい暴れ回る心臓の音が、こんなにぴったりとくっついた村雨にバレていないはずがない。しかし村雨はそんなものはどこ吹く風といった雰囲気で、誰も聞いていない解説を続ける。
     ただ重なっていただけの指が、時折こちらの指の付け根をくすぐるように蠢いて、優しく撫でてくる。ぎくりと跳ねたのは手だけに止まらなかった。肩が、全身が跳ね上がって、もうその反応は一切隠しようがなくて、本が太腿から滑り落ちていく。
     ぱたり。ページは勝手に閉じていく。
     ふたつの男の手が、まるで愛しいそれと睦み合うように、指を絡ませあっているのが姿を見せる。
     
     心臓、爆発して死にそう。
     
    「————嫌か」
    「…………へ、」
     手元から目が逸せないオレの視線を無理やり剥がしたのは村雨の声だった。
     そちらを見ると、いつもの、本当にいつもと何一つ変わらない村雨が、そこにいる。慌ててなどいないし、緊張だって、していない。多分。
    「嫌か、と聞いている」
     淡々と、静かに。再び、言葉が重ねられる。
     
     嫌?嫌ってどういうことだ。したくない?怖い?逃げたい?全部答えはイエスだ。どうして?
     だって、こんなのは知らない。
     
     手元を見る。まだ絡まっている手。たかが手が触れ合っているだけ。皮膚が重なっているだけ。嫌がることなど何もない。だって村雨は嫌そうではない。嫌がられていない。痛いことでもない。なら、拒否する理由がない。
    「あなたが嫌なのであれば、今はやめる」
     今は、なのか。なんて、尋ねることができるほどの余裕は残されていなかった。
     嫌なのか?本当に?
     怖いものを、見て見ぬふりしているのではないのか?
     怖いものってなんだ?
    「……嫌、じゃ、ねーけど……」
    「ないけど、なんだ?」
     ないけど、何?
     なんなんだろう。
    「……………………分かんねー……」
     嬉しくは、ない。楽しくも、ない。
     ただ、心臓が、うるさい。頭がふらつく。
     何故か、泣きたいような気持ちになってくる。
     でも、それは「嫌」の理由にはならない。
     
    「そうか」
     村雨の答えは静かなものだった。喜怒哀楽がはっきりとしている男だから、そんな彼が冷静であることに、怒っていない様子に少しだけ安堵する。
    「明日、また改めて同じ範囲を解説しよう」
    「………………」
     明日。そうか、村雨は今日うちに泊まるんだった。だから今、オレたちはベッドに腰掛けている。当たり前のことを、わざわざ言葉にして確かめる。
     明日がくるのだ。今と地続きの明日が。
     
     ごそごそと音を立て、村雨が姿勢を正す。閉じられた資料集はサイドテーブルに静かに置かれた。
     そのまま、するりと、汗で少しだけ張り付いていた手と手が、離される。村雨の体がベッドの脇へ遠ざかる。
     濡れた手が、冷たい。
    「…………あなたを怯えさせるつもりはなかった」
     振り返る顔。少し眉間に皺が寄っている。怒ってこそいないが、不快には思っているだろうか。
     どうしてオレの喉は、弁解や気遣いのひとつたりとも吐き出すことができないのだろう。
     
     村雨の体が傾ぐ。手がこちらに伸びてくる。頭の上にそれが近付いてきたから、思わず目を瞑った。するり。汗で少しだけ纏まった生え際に、優しい感触がある。指を差し込まれ、額にかかる髪の毛がゆっくりと撫で払われているのが分かる。
    「あなた、やはり猫っ毛なのだな」
     いつもより低く、少しだけ掠れた穏やかな声が、さらに近付いてきた。目を開けると、視界は少し薄暗い。目の前に、村雨に貸した寝巻きの胸元と、ごろりと浮き出た喉仏があった。
     あれ?と思う間もなく、額に柔らかなものが触れる。音はない。
     ほんの数秒後、微かな風がかかって、そこが少しだけ濡れているのが分かった。
     
    「おやすみ、良い夢を」
     
     ぱたん。
     小脇に再び枕を抱えた、おかしな格好の村雨の後ろ姿が見えなくなって、それでも、オレの体は少しも動いてなどくれなかった。
     
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