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    ※ヌヴィリオ
    ※軽めの死ネタ描写有り
    ※誤字脱字誤用ご容赦
    「私の全ては君のものだ。リオセスリ殿」
    互いの匂いが大好きなヌヴィリオの一生。心も体も匂いも髪も、ぜんぶあなたのもの。

    水龍の涙「香水?」
    「エミリエさんの所で調香教室をやっていて、作ってみたそうよ」
    「へえ……あの旅人がねぇ。どれ」
     水の上の休暇から戻って来たシグウィンが差し出してきたのは、可愛らしい薄紫色の小さな瓶。ルミドゥースベルを模した小さな飾りが飾られており、小瓶の中では橙黄色の液体が揺れている。
     リオセスリは手渡された小瓶を軽く揺らし、スタンドの灯りで透かしてみた。とても綺麗だ。色味から察するにマルコット草もブレンドされているのだろう。蓋を外し手近にあった紙へ中身を一滴垂らしてみると、ふんわりと木材の香りが漂ってくる。コウハクジュの匂いだ。
    「あっさりとしていて優雅な匂いだな。良い香りだ」
    「ふふ、そうでしょう? 公爵へのプレゼントなのよ」
    「俺にかい? ハハ、俺には分不相応だ。仕事柄、匂いを残す訳には行かないからな」
    「……ふぅん?」
    「……なにか言いたげだな?」
    「ううん、何でもないのよ。別に使う使わないはどちらでも良いの。とても綺麗だし、飾っておきましょ」
    「あ、こら。勝手に……」
     シグウィンは机の上にあった書類を整理し、その可愛らしい小瓶をスタンドの隣へ飾っていた。楽しげなその様子を見て、まあ良いかとリオセスリは諦め好きにさせておく。
     夜遅くまで仕事していないで、早く寝るのよ。まるで母親のような言伝を残しシグウィンは執務室を後にした。そんなシグウィンの言葉へ苦笑いで応じつつ、リオセスリは書類との格闘作業へと戻る。
     秒針が時を刻む、静かな音。見回りの看守が廊下を歩く、靴音。どこからともなく低く響き続けるボイラー音。メロピデ要塞の夜の静けさは、案外と好きだ。その薄暗さも、深海ゆえほんの少し酸素が薄い所も。何もかもが酷く落ち着く。
    「…………」
     自分の呼吸音すらも聞こえてくるような、真夜中の静寂。規則正しいその呼吸音が、ひとつ、ふたつ、みっつ。もう一人の気配が混じり始めたのは、いくつ数えた辺りだろうか。
    「──シグウィンが私にと届けてくれた香水は、メリュジーヌが水中で演奏している曲を連想させる、優しげな香りだった」
    「ほう? それは随分と楽しい空想に浸れそうな香りだな」
     リオセスリは書類からは顔を上げず、真夜中の訪問者との会話へ応じる。訪問者はスタンドの脇へ置かれた香水瓶を眺めつつ、軽く頷いた。
    「うむ、悪くない。メリュシー村で過ごす休日を思い出させてくれる」
    「そいつは良かった。本日の最高審判官様の営業時間は、終了かい?」
    「本日は閉廷した。今はただの一個人として、恋人の仕事が終わるのを待ちぼうけさせられている」
    「ハハッ! それはそれは……すまないな。俺の仕事が遅いばかりに」
    「水はその形状ゆえ、流れが早い所へ集まる性質を持つ。業務も同じだ。有能で処理が早い者にほど、案件が集中してしまうものだ」
     ス、と上質なグローブに包まれた長い指が伸びてきて、手にしていた書類を奪われる。真夜中の訪問者ヌヴィレットは、それへ目を通しサラサラとサインをして行く。
    「私のサインで済む案件は、こちらへ。君の手を患わせる必要はないだろう」
    「ヌヴィレットさん、あんた……働き者だなって褒められるだろう?」
    「恋人やメリュジーヌ達には、休めと良く怒られている」
    「そうか。働き者のあんたの姿を見て、恋人もきっと惚れ直すぞ」
    「ああ、ぜひそうしてもらいたい」
     ストレートな解答へリオセスリは声を上げて笑い、書類を半分手渡した。フォンテーヌで一番仕事の早い審判官様のお陰であっという間に書類の山も無くなり、一息吐こうとリオセスリは紅茶を用意しヌヴィレットの前へと差し出す。
    「ありがとな。助かったよ、ヌヴィレットさん」
    「いや、夜中に押し掛けてしまった私が悪い」
    「そういや、どうした? 何か急用かい?」
    「──……いや」
     スッと、カップを置いた手をそのまま捕らえられる。互いの呼吸が混じり合うような至近距離で、熱の籠もった視線が絡み合った。
    「どうしようもなく、君に会いたくなってしまった」
    「……ハハ! そうか、なるほど……」
     これはまた、随分と可愛らしい。真夜中の訪問者、恋人であるヌヴィレットは、時々こうして情熱の箍を外す。真っ直ぐで何も隠さない恋慕の心を、惜しみなく見せてくれるのだ。
     簡単に人を信じられない。隠しはしないが、他者へ心を触らせる事は絶対にさせない。パーソナルスペースが広いように見えて、その中心にある物へは絶対に近寄らせない。
     それが、リオセスリの生き方だった。
    「……はず、なのになぁ……」
     人形みたいに整ったヌヴィレットの綺麗な顔を両手で包み込み、そのまま顔を近付ける。そっと羽毛で触れるように唇を重ね、二度目は零れ落ちる感情のまま情熱的なキスをした。
    「……ン、ッ……」
     リオセスリのそんな分厚い壁を打ち破ったのは、惜しみない龍の愛情。なにも包み隠さず何度でも魂ごとぶつかってきてくれる、人ならざる者ゆえの純粋さ。これは無償の愛ではない、君の心も体も魂も全てが欲しいのだと、自らも全てを持って応えてくれる龍の激情だった。
     いつの間にかヌヴィレットの手も背中へ回り、膝の上へ座らせられたまま深いキスを互いに強請り合う。散々互いの口内を貪り終えたあと銀糸の余韻を残し、ようやく唇が離れた。
    「……で? 惚れ直してしまったんだが、責任は取ってくれるのかい?」
    「喜んで。執務室の鍵は掛けておいた」
    「ハハッ! いつからそんなに悪知恵が働くようになってしまったのかね……ン、……」
     もう一度、と唇が近付いて来て呼吸ごと言葉を奪われる。そのまま二人でソファへ雪崩れ込み、互いの服を乱して行った。
     ふわりと、リオセスリの鼻腔を優しい香りが擽る。ヌヴィレットの匂いだ。大好きなその匂いに引き寄せられるままリオセスリはヌヴィレットの髪へ鼻先を埋め、胸いっぱいに吸い込む。
    「リオセスリ殿?」
    「フフ……ああ、いや。やっぱ俺は、この匂いが一番好きだなって」
    「私の? いや、何も付けていないが……」
     先日フリーナから貰った整髪剤の香りだろうか。そう首を傾げるヌヴィレットを見て、リオセスリは柔らかく微笑んだ。サラサラと肩を流れ落ちる長い髪を一束とり、再び鼻先を埋めてみる。
    「違うさ。あんたの匂いが好きなんだ」
    「私の匂い……」
     たとえば、二人で迎えた朝のベッド。ヌヴィレットの私邸で初めて二人で夜を過ごし、恋人となった翌朝は腕の中で目を覚ました。シーツも枕もブランケットも、何もかもへヌヴィレットの匂いが染み込んでいて、とても幸福だと感じていた記憶がある。
    「俺は別に香水へ興味はないが、どうせならあんたと同じ匂いが良い。そうだな……水龍の涙。商品名はそれで売り出してみたらどうだい?」
    「却下だ。それならば私は、君の香りの方が好ましいと思う」
    「俺のかい?」
    「ああ。君が泊まって行った翌日は、君の香りや気配が残る部屋がとても愛おしく、同時に寂しさが込み上げてきてしまう」
     匂いは、人の記憶へ残りやすい。幸福な時間を思い出してしまうのは、どうやら互いに同じであるらしい。独りの時間を思い出してしまったのか、どこかしゅんとしているヌヴィレットの顔を笑いながら両手で包み込んでやった。
    「俺も同じさ。なら今日は、存分にしるしを残して行ってくれ」
    「ああ、分かった。存分に愛し合おう」
    「ハハ、加減はしろよ?」
     薄暗い真夜中の執務室。秒針が時を刻む、静かな音。見回りの看守が廊下を歩く、靴音。どこからともなく低く響き続けるボイラー音。その中へかみ殺した荒い呼吸と肌がぶつかり合う音が混じり、仄かな灯りに照らし出された壁には、一つになろうと絡み合う二つの陰が映り込んでいた。
     
    『仕事柄、匂いを残す訳には行かないからな』

     彼はいつも、そう笑っていた。
     だが彼は知らない。私と夜を過ごした次の日は、公爵は良い匂いがする、と要塞内でも有名なのよ。と、シグウィンが話していた事を。あれは幸福で満たされた香りなのだと、メリュジーヌ達が教えてくれた。
     私は、それがとても嬉しかった。嬉しくて、誇らしくて、きっと私も同じ匂いを放っているのだろうと思うと、ますます喜びで満たされたものだ。
     私の香りを“水龍の涙”とお得意のジョークで名付けた彼は、いま満たされた顔でその生涯の幕を閉じ、大量のロマリタイムフラワーで満たされた箱の中で永遠の眠りに就いている。全て私がこの手で咲かせ、用意した物だ。
     彼は眠るように、私の腕の中で息を引き取った。
     ──眷属になって私と同じ時間を生きてほしい。私の願いは終ぞ叶う事はなかったが、人間として生を終えたい。そんな彼の願いを私は叶えてやれた。そんな私へ、彼は偉いぞと笑ってくれるだろうか。惚れ直したと言ってくれるだろうか?
     眷属になる願いは聞き届けてもらえなかったが、その他のものならば全部あんたへやろう。その言葉通り、要塞の管理者を降りた彼は名実ともに私の伴侶となり、最期のその瞬間まで寄り添ってくれた。朝から晩まで彼が側に居てくれて、色々な所へ二人で足を運び、釣りやピクニックに観劇に、長年の夢だった旅にも行けた。
     私は、世界で一番幸福な龍だった。
     全てが満たされていた。全てをかけて愛しているのだ、今も、この先もずっと。
    「……ヌヴィレットさん……」
     棺へずっと寄り添っている私の側へ、泣き腫らした目をしたシグウィンとメリュジーヌ達がやって来た。そんなに目を腫らして、痛いだろうに。まだ涙が止まらない様子のメリュジーヌ達の頭を順番に撫でてやったが、どうやらますます涙が止まらなくなってしまったらしい。
     彼と一番心を通じ合わせていたであろうシグウィンが、涙を拭きつつも、私の目を見て力強く頷いてくれた。声を上げて泣きたいのは彼女も同じだろう。だが、自分がしっかりしなくては、と気を張ってくれているのだ。
    「準備が出来たわ。そろそろ行きましょう」
    「……うむ」
     彼が永遠の眠りに就くのは、深いふかい海の中。誰も近付くことのできない、水龍が生みだした水で満たされた水域。神にも天にも渡さない、触れさせない。誰にも触れさせまいと彼が守り続けてきた自らの魂を、今度は私が守り続けるのだ。
     彼が眠る場所へと到着し、メリュジーヌ達が彼の為にと集めてくれた美しい貝殻の上へそっと棺を置いた。目を閉じて眠り続けている彼の顔はとても綺麗で、今にも目蓋を持ち上げて「おはよう」と笑ってくれそうだ。
    「ヌヴィレット様?」
     ならば私は、目を覚ました時に彼が迷子になってしまわないようにしなくては。己の長い髪を掴み、容赦なく持参していたハサミで切り落とした。
    「私の全ては永久に君のものだ、リオセスリ殿」
    「ヌヴィレットさん……」
    「ヌヴィレット様……」
     切り落とした髪の束を棺の中へ入れ、そのまま口づけをした。くすぐったいと小さく笑う吐息はいつまで待っても返ってきてはくれず、このまま息も出来ず己の心も潰れてしまうのではないかと思った。
     シグウィンが私の背中にしがみ付いて震えている。きっと堪えきれずに泣いているのだろう。メリュジーヌ達も、陸で待っている私たちの友人達も、フォンテーヌの空でさえも。
     水龍の涙は、君の上へ永遠に注がれ続けるのだから。





    「私は彼へ、呪いをかけた」

     垂らした釣り糸は、今日も動かない。
     私は釣りがあまり得意ではない。彼は釣りが上手で、そんな私をいつもサポートしてくれた。彼が一緒の日は、少なくとも一匹は釣れてくれたものだ。よって、ここ数十年、私の釣りが成功した例しがない。
     そんな不毛な釣りへ付き合ってくれているのは、愛娘のシグウィンだ。シグウィンはまんじりともしない釣り糸を見守りつつ、私の話へ相槌を打つ。
    「ヌヴィレットさんの呪い?」
    「ああ、そうだ。髪には情念が籠もると聞く。彼は私の髪の香りが好きだと生前言っていた。だから、私を忘れないようにとの呪いだ」
    「んー……それは呪いじゃないと思うのよ。ヌヴィレットさん」
    「ふむ?」
    「だって、それを望んだのは公爵自身だから」
     だからそれは、呪いじゃないの。シグウィンはそうニコリと笑い、短いままのヌヴィレットの髪を優しく撫でた。
    「ねえ、ヌヴィレットさん」
    「ああ、何だろうか」
    「ウチ達がどうやって誕生したのかは、覚えているでしょう?」
    「……メリュジーヌ達がか? うむ、勿論だ。君たちはエリナスの血肉から──」
     思わず言葉を失ってしまった。
     ああ、そうだ。どうして今まで忘れてしまっていたのだろうか。
     そんなヌヴィレットの心境を分かっているのか、シグウィンは正解だと言わんばかりに嬉しそうに目を細めた。
    「そうよ、メリュジーヌは龍の血肉から生まれたの。それぞれの“しるし”を抱いてね」
    「……まさか……」
     ──俺も同じさ。なら今日は、存分にしるしを残して行ってくれ。
    「公爵は全部をヌヴィレットさんにあげるって、約束しているのでしょう?」
    「そう、だ……」
    「公爵は冗談が好きだけど、嘘は吐かない人なのよ」
    「……ああ……」
    「ふふ。水龍の髪が公爵の“しるし”になったら、一体どんな子になるのかしら? 楽しみね」
     龍の血肉は生を終えた者へ、新たな命を与える事がある。それはエリナスだけでなく、古の魔龍ドゥリンも。そしてヌヴィレット自身も、フォンテーヌの民へ本物の血肉を与えた。
    「やっぱりヌヴィレットさんは公爵がいてくれた方がいいわね~、ふふっ!」
    「そう、だな……ああ、そうだ。うむ、その通りだ」
    「メリュジーヌのみんなも、公爵が目を覚ましたらお祝いしましょうって」
    「ああ、そうしよう」
    「メリュシー村で結婚式もやりましょうよって、セレーネが言っていたわよ」
    「うむ、礼服を二人分準備しておこう」
    「あ、ヌヴィレットさん! 釣り糸が動いてるわ!」
    「む?」
     その時、数十年間ピクリともしなかった釣り糸が反応を示した。グッと、ヌヴィレットが釣り上げるのを待っているかのように。早く起こしてくれと言わんばかりに、力強く。
    「ああ、それじゃあダメだ。力任せに引いてもダメだって、昔あんたに教えただろう?」

     ヌヴィレットさん。

     そう優しく名前を呼んでくれる声と、懐かしくて愛しいこの香り。
     龍の呪いが成就した、今日は記念すべき日だ。



    【了】
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