ネームドモンスター・ネレイス『あなたなしでは生きて行けない』
監修は、あのロマリタイムフラワーさん。
密着水分ジェルが長時間の色持ちを実現。とろツヤ感触でプルプル瑞々しい唇へ。
“ネームドモンスター・ネレイス”全二十四色。
ボーテフルール誌主催の美容イベントにて先行発売!
そう大きく印字された雑誌をパラパラと捲ってみたが、自分とは全く縁の無い記事ばかりですぐに閉じてしまった。込み上げてきた欠伸をなんとか噛み殺しつつ、リオセスリはワイワイと盛り上がっている女性陣たちの輪を遠目に眺める。
「うん、よし。ヌヴィレットさん。マスカラを塗るから少し目を伏せて欲しいのよ」
「うむ。こうだろうか」
「そうそう、うん……よしよし」
愛娘に命じられるままヌヴィレットは目を伏せて、着々と準備を進められている。その様子を眺めてアシスタントをしているのは、ナヴィアとクロリンデ、そしてフリーナの、美女軍団だ。
「すっご、睫毛ながーい……! お肌も艶々ぷるぷる。あ、奥二重なんだ。綺麗だよね~、さすが」
「……ナヴィア。あまり触れるのは失礼だろう」
「うふふ! プレゼントした化粧水でちゃんとケアしてってウチのお願い、聞いてくれたのね」
「ああ、良い香りだった。ありがとう」
化粧品の良い香りと、鈴が転がるようなレディ達の楽しげな声。その中心にいるのは、化粧だ着替えだ髪のセットだとパレ・メルモニアに居る時よりも忙しそうな、我が国の最高審判官様だ。皆に囲まれているせいでリオセスリからは後頭部しか見えないが、その長い髪にはオーブンへ入れる前のクロワッサンみたいに、たくさんのカーラーが巻き付けられている。
ここはリヨンエリアの一角に建つフォトスタジオ。そこでは今日、とある宣材写真の撮影が行われていた。
「うーん……リップの色はこっちが良いんじゃないかな。色白だし青みが入っている方が合いそう」
「うんうん。フリーナの見立てなら間違いないわね」
「千織屋から端布が届きました~、飾り付けますね!」
「ストロボの位置はここで大丈夫ですか?」
「誰かルエトワール追加で採ってきてくださーい! ロマリタイムフラワーも!」
シグウィン、フリーナ、ナヴィア、クロリンデ、マレショーセファントムの面々。最高審判官様の周囲をレディ達が忙しなく行き来している。色鮮やかな端布が飾られて行く白を基調としたセットの中心では、シャルロットやフリーカメラマンのタルヴァットが、ライトの最終調整をしていた。フォンテーヌ撮影技術の粋を集めた、錚々たる面々だ。
まあ、それも仕方がない。
美容界の重鎮であるロマリタイムフラワーさんが監修した新作リップ。それだけでも大ヒット間違いなしなのだが、その広告塔へ我が国の最高審判官様が選ばれたのだ。
「しかし、ご婦人向けの製品に男性が選ばれるのはどうなんだ? 美女ならばここにも大勢揃っているだろう」
「ふふ、公爵は相変わらずお上手ね。あのね、瑞々しさと凜々しさ、それと秘めた情熱がこのリップのテーマなの」
「ネレイスって海の神様でしょう? そう言われたらフリーナとヌヴィレットさんの顔を思い浮かべるのが、フォンテーヌ人だと思うわ」
「ふむ」
シグウィンとナヴィアの意見へ賛同しつつ、チラとフリーナへ視線を投げる。すると、ヌヴィレットの髪に巻いていたカーラーを外しながら、元水神であり民衆の人気を一身に集める大女優フリーナは、うんうんと胸を張って理由を説明してくれた。
「僕が人気者なのは当然さ。だけど、たまにはヌヴィレットに花を持たせようと思ってね」
「花を持たせる……事になるのか?」
「もちろんさ! 広告の常識の壁を打ち破り意外性で魅せる。それこそフォンテーヌの皆が愛する芸術の真髄、醍醐味だよ」
そこには諸説あるが、どちらにせよ愛娘の願いならばヌヴィレットは快く頷いただろう。だが解せないのは、どうして自分までここへ連れてこられたのかと言うことだ。
リオセスリとて男だ。美しく飾られた恋人殿を見たくないのかと言えば、それは嘘になる。だがリオセスリからしてみれば、恋人殿はいつでも美しい。どんな姿でも、たとえナタの温泉水を飲んでしかめっ面をしている時でもだ。
「なるほどね。よし、じゃあ俺の役目は終わったから帰っても良いかい?」
この日は絶対に予定を空けておいてね。数日前、そうシグウィンに厳しく言いつけられたのは、この撮影の為に用意した大量のメイク道具を運ぶ為にだ。その役目も無事に終えた。後は適当に散歩でもして、撮影が終わる頃にまた戻ってくれば良いだろう。そうリオセスリは考えていたのだが。
「ダメ! 荷物運びをさせる為に公爵に来て貰った訳じゃないもの」
「駄目だって~! あんたの出番はこれからよ」
「そうだよ公爵。あとちょっとで終わるから、待ちたまえよ」
美女達からそう厳しく叱責されてしまい、浮かしかけた腰を再び下ろすしかなかった。非常に分の悪い勝負である。
「ヌヴィレットさん、ちょっとンーってして貰っても良い? そうそう、上手よ」
「髪もウェットに仕上げて……ラフな感じの方が良いわよね」
「ん……よし! 完成!」
女性陣がワッと声を上げ拍手をしている。ようやくヌヴィレットの支度が終わったらしい。中心にいたシグウィンがトトッと駆け寄って来て、グイグイとリオセスリの背中を押している。
「ほら、公爵。最後の仕上げよ」
「こら、押すなって……仕上げって、俺は化粧なんざできないぞ?」
「公爵しかできない仕上げよ。はい」
「俺しか? うわっ」
カーテンが閉じられたメイク室の前へ到着するとシグウィンの小さな手が伸びてきて、そのままガシッと顔を掴まれた。
「こら、なに……っ」
「いーからいーから。ふふ、公爵も可愛くおめかししましょ」
グリグリと、良い匂いのするリップを唇へ塗りたくられる。いったいなんだと抵抗するよりも先に服の裾を掴まれ、そのままポイッとカーテンの中へと放り込まれた。
「はい、ヌヴィレットさんお待たせなのよ。どーぞ、ごゆっくり」
「うむ」
ポイッと、ヌヴィレットの前へと放り出された。それと同時にメイク室のカーテンが再びシャッと閉まり、中にはヌヴィレットとリオセスリの二人が取り残されてしまったのだ。
「……お?」
いつもと違う服。
いつもと違う顔。
いつもと違う髪型。
いつもと違う匂い。
粉をはたかれ真っ赤なリップを引いた、性別不明の美形。それがヌヴィレットだとは分かっているのだが、つい見惚れてしまった。いや、魔物に魅入られたと言った方が正しいかもしれない。いつもの髪飾りを外しわざと乱した濡れ髪の間からは切れ長の瞳が覗いており、瑞々しい朱で彩られた薄い唇は、まるで白い皮膚を突き破った血潮が浮き出ているみたいだ。
その朱がゆっくりと嬉しそうに弧を描き、唇の間からまろやかな声が滑り落ちてくる。
「すまない。待たせてしまっただろうか」
「……あー……いや、うん。少し」
自分でも間の抜けた返事をしてしまった自覚はある。ヌヴィレットが小さく笑う気配に肩を竦め、照れ臭さを誤魔化した。
「綺麗だな。商品コンセプトにぴったりのイメージだ」
もしリオセスリが青春真っ盛りの若者であったのならば、素直に褒めることができなかっただろう。中年に片足を突っ込んでいて良かったと思うと同時に、夢のない言葉しか返せない自分の貧相な感性に笑えてしまう。
すると、カーテンの向こう側から我らがボス看護師長の声が聞こえてきた。
「公爵、そのままヌヴィレットさんにキスして」
「…………なんだって?」
「左右の頬と額、それと首筋ね。あ、盛り上がっても唇はまだ駄目よ。リップの色が混じっちゃうから、後にして」
キスをしろって、ここで?
リオセスリの戸惑いをよそに、カーテンの向こう側では至って真剣に美女軍団が考えを巡らせている。
「うーん……ラブシーンの演出なのだから、胸元にもあった方が想像力を掻き立てそうだよね」
「それもそうね。じゃあ胸元にもキスマークを付けてくれる?」
「うんうん! ヌヴィレット、それで構わないかい?」
「ああ。承知した」
「おい、承知したってなぁ……!」
みな一体なにを言っているんだ。唐突に発生してしまった任務に頭がついて行けず呆然としていたが、どうやら知らされていなかったのはリオセスリだけらしい。その証拠に、メイクのせいで人外ぽさを増した恋人殿は、どこかワクワクとした表情でリオセスリを膝へ乗せてゆったりと寛いでいる。
「君もリップを塗られたのだな。良い色だ。君の肌へよく映える」
「はは、そりゃどーも……と言うか、マジでやるのか?」
「うむ。シグウィンからはそう説明されている」
──ネームドモンスター・ネレイス。
海からやってきたネレイスは、陸の若者と恋に落ちる。ネレイスは自らの血潮を注いで情熱的なしるしを恋しい人へ刻みつける。それは、誓い。永遠の約束のしるし。あなたなしでは生きて行けない、そんな情熱的な恋を表現した色を取り揃えているそうだ。
「種族を超えた愛は演劇界でも普遍のテーマだからね」
「うんうん! ヌヴィレットさんに合うサイズのヒール探すの大変だったんだから」
「ポワソン町にも出張販売へ行く予定なのよ。お手頃な価格設定で、若いお嬢さんにも手に取ってもらえると思うわ」
「公爵、済んだか? 開けるぞ」
「いや! 待て、まだだ。開けないでくれ」
状況は理解した。だが、突然そんな事を言われても困ってしまう。すると優しい恋人殿の手がすっと伸びてきて、申し訳なさそうに頬を撫でてくれた。その指先はひんやりとして心地良く、とても優しい。
「事前の説明が足りずにすまない。私へ痕を残すのは君にしてほしいと、私がシグウィンへ頼んだのだ」
「……いや、あんたが悪い訳じゃないけどさ……」
可愛い愛娘の願いを叶えてやりたかったのだろう。その気持ちは十分理解している。リオセスリとて同じだ。看護師長の願いならば叶えてやりたいが、あまりにも急すぎて照れ臭いだけだ。
仕方がない。もうなるようになれ、だ。
ズリズリと尻の位置をずらし、向かい合わせに座るヌヴィレットの首へ腕を回す。そのままチュッと頬へキスをしてやると、見事なキスマークが白い肌へと刻まれた。目を丸くしているヌヴィレットへ手鏡を渡してやり立派なキスマークが付いている間抜けな顔を見て、二人同時に吹き出した。
「なるほど。これはなかなかインパクトがあるな」
「もう片方と、額にもか。ほら、さっさと済ませるぞ」
「うむ、頼む」
人生開き直りが肝心だ。もう片方の頬へもチュッとキスをしてやり、そのまま額にも口付ける。恋人の感触がくすぐったいのか、心地良いのか。日向ぼっこをしている猫みたいにヌヴィレットが目を細めている。そのうちに、くっきりとキスマークが残るのがコメディ映画みたいで楽しくなってきてしまい、気が付けばリオセスリもヌヴィレットも笑っていた。
「どーも力加減が難しい。吸い付くより軽く触れるのがコツだな」
「ああ、性行為を行っている時とは違う楽しさがある」
「しっ……ここでその話は禁止だ。ほら、次は首だってさ」
しっかり施されたメイクとは対照的に、衣装はシンプルなものだ。羽織っただけの白いシャツに白いスラックス、足下にはリップと同じ色をした深紅のピンヒール。恋人と結ばれるために陸へ上がったネレイスが尾ビレの代わりに足を得たイメージを強調しているらしい。海から上がったばかりのシチュエーションなので撮影時にはずぶ濡れにされるそうだが、ヌヴィレットにとっては大歓迎だろう。
そして、リオセスリがキスマークを残すのも大歓迎してくれるらしい。首筋と胸元にも痕を残し終え「これでよし」と顔を上げると、楽しげなヌヴィレットの顔がそのまま近付いてきた。
「ん? あ、おい。コラ……ハハッ! 俺にしてどうするんだ」
さきほど自分がされたのと同じように。リオセスリの頬や額に唇を押し当て、チュッチュッとキスマークを残されて行く。
「こら、くすぐったいって」
「君への礼だ。私も君へしるしを刻みたい」
「いつもやってるだろ。ほら、皆を待たせているぞ」
「うむ……では、続きは夜に」
「はは、残念だが今日は撮影を見届けたら要塞に戻る予定さ。また今度な」
ヌヴィレットの膝を下りカーテンを開けると、皆はもう撮影セットの方へと集合していたらしい。キスマークだらけになったヌヴィレットを送り出し、リオセスリはスタジオの隅でその光景を見守る事にした。
撮影は滞りなく進んだ。しばらくすれば、フォンテーヌの彼方此方にヌヴィレットのポスターが溢れかえるだろう。きっとそのポスターの前を通る度にみなが足を止め、種族不明、性別不明の美しさに目を奪われる。
濡れた髪は乱れ、羽織っているだけのシャツからは、愛しい人が刻んでくれたしるしが覗いている。そのポスターはあまりにも人気がありすぎて掲示される度に盗まれ、高額で転売をされ、警察隊やマレショーセ・ファントムがその取り締まりでしばらく忙しかったとか。
すると、正体不明の麗人。片隅で撮影を見守っているその恋人のリオセスリの元へ、瞳を輝かせているフリーナ嬢がやって来た。
「んっ? 俺も?」
「そう! 君も撮らせて欲しいんだ。ああ、顔は写さないよ。約束する」
「……俺の出番はキスマークだけだろう?」
「僕のインスピレーションが閃いたのさ! ほら、裸足になって。ヌヴィレットは彼の足下に跪いて……」
「うむ。こうだろうか」
盗まれたポスターの中でも特に人気が高かったのが、フリーナのインスピレーションが煌めいたこの最後の一枚。水中へ浸かったリオセスリの裸足のつま先へ、自分のヒールを履かせながらキスをしているヌヴィレットの姿だ。たとえ海へ還ることになっても、あなただけは決して手離さない。
『あなたなしでは生きて行けない』
そのキャッチコピーにぴったりだと、種族を超えた恋の物語に人々は魅了された。
◆
「みんな、お疲れさま! 本当にありがとう」
撮影は無事に終了し、みなが口々に互いを称え合う。一番の功労者であるヌヴィレットの元には看護師長を始め大勢のメリュジーヌが押し寄せており、その様子を眺めつつリオセスリは先に腰を上げた。すると、それに気が付いたナヴィアとクロリンデがリオセスリの元へとやって来た。
「あれっ? 公爵、この後は打ち上げだよ」
「俺は欠席さ、すまないな。仕事の途中で抜けて来たんだ」
「公爵、その顔で要塞へ戻るつもりか?」
クロリンデの指摘通り、リオセスリの頬や額には先ほどのおふざけで付けられたキスマークが多数残されている。何気なしに鏡を覗き込むと首や鎖骨にも付けられており「いつの間に……」と、失笑してしまった。
「パレ・メルモニアの手伝いをしてくる、と抜けて来たんだが。さて……何か妙案はあるかい? 絶賛募集中だ」
「私に聞かないで欲しい。戯れ言はあなたの方が得意だろう、公爵」
「うーん……今日は最適なジョークが思い浮かばないな。まあ、拭けば落ちる……」
ゴシ、と。テーブルに用意されていたティッシュで顔を拭ってみたが、何も付いていない。場所が違ったかと鏡を覗き込みキスマークを擦ってみたが、少し色が薄くなっただけで変わりはなかった。
「……これはこれは、随分と色持ちの良い化粧品で……」
「でしょう? それが売りなんだって!」
「カップに色移りがしないのは助かるな。食事の席でも気を遣わなくて良い」
「そうそう、これでいつキスをしても大丈夫。恋する乙女を応援するリップなのよ」
「……乾く前にキスをするのは止めておけ。と、注意書きを添えた方がいいな」
駄目だ。何度擦っても落ちない。それどころか擦りすぎでヒリヒリしてきたので、リオセスリは諦めてクレンジングを求めメイク道具を漁ってみた。だが、それらしき物はない。
「ない……?」
「ここには無いわよ。打ち上げ会場に用意してるって」
「シグウィンさんの心遣いで、リップの試供品を全色用意してくれているそうだ。そこに行けばあるだろう」
撮影の打ち上げ会場。それは、ヌヴィレットの好意によりパレメルモニアの一室に用意されていた。打ち上げ会場まで行ってすぐに帰るのも野暮だろう。
要するに、パレ・メルモニアに行かなければこのキスマークは消せない訳で。
要するに「帰ってしまうのだろうか?」と恋人殿が寂しそうに呟けば、自分の負けは目に見えている訳で。
「……もしかして俺は、最初から嵌められたって訳か?」
「あなたなしでは生きて行けない。ふふ、それがこのリップのテーマだもの」
「そう言うことだ。今夜は私と過ごして貰えるだろうか?」
リオセスリ、と動く赤い唇がとてもとても綺麗で。
「……────その言葉、」
そのままそっくりお返しするよ、と。
差し出された手をパンと音を立てて握り返し、キスをしてやった。
ネームドモンスター・ネレイス。空前の大ヒットとなったそのリップには、素敵な恋を運んでくれると言うジンクスがあるとか、ないとか。