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    NPC視点ヌヴィリオ。ヴァザーリ回廊カフェ・リュテスの店主視点からみた、足長おじさんしてた頃のヌさんと少年リ殿のお話。いつも通りいろいろ捏造が混じってます。

    カフェ・リュテスの優雅な一日 カフェ・リュテス。ヴァザーリ回廊で最も人気のあるそのカフェには、様々な人々が集う。豆や焙煎方法にこだわり抜いた珈琲を楽しみつつ、哲学的な話へ花を咲かせ、有意義な時間を過ごす。
     人が集まるところには、必ずドラマが生まれる。
     そう語るのはカフェ・リュテスの店主アルエだ。アルエは実際のところ、カフェ・リュテスのカウンター奥から沢山の人々と出会い、様々な光景を見てきた。観劇帰りのお嬢さん、新聞を広げ難しい顔をしている紳士、散歩中の老夫婦、ソワソワと恋人を待つ青年、新作ドレスの話で盛り上がっているご婦人、仕事帰りのメリュジーヌ、元同僚でもあるパレメルモニア職員たち。
     そして、雨の日になると必ず現れる青い傘の麗人。
    「こんばんは、ムッシュ。いつものですか?」
    「ああ、頼む」
     ソーダ水にミントを加えた裏メニュー“潮の一息”と、焼きたての晶螺マドレーヌを三つ。カフェ・リュテスを訪れた麗人がいつも頼むのは、その二つだ。いつもの指定席へ腰を下ろした彼の元へそれを運び、アルエはカウンターの中へと戻る。
     しとしとと、涙雨が地面を湿らす静かな夜。雨のせいか少し肌寒い夜は人通りも少なく、テラス席には数人の客しかいない。麗人はその静けさを愛しているのか、彼特製の裏メニューを一口飲み、小さな息を吐く。マドレーヌへ手を付けていないのも、いつもの事だ。
    「…………」
     そして、麗人の視線があらぬ方向へ向けられるのも、いつもの事。
     麗人の指定席はテラス席の一番端、道路側。そこからは人の流れがよく見える。だが、彼が見ているのは人の流れではない。
    「あっ、いた。おーい!」
     手をブンブンと振りながらカフェへ駆け寄って来たのは、一人の少年。少し癖のある黒い髪が子犬みたいで可愛らしい十二、三歳くらいの少年だ。繕い跡の目立つオーバーオールがひどく汚れているところを見ると、今日はジャンクパーツ拾いのバイトをしていたらしい。
     少年が声を掛けたのは、カフェ・リュテス近辺をいつも見回っているマレショーセ・ファントム、メンタだ。メンタだけでなく、他のメリュジーヌともこの少年は仲が良い。メンタは少年に気が付くと、メリュジーヌ特有の可愛らしい仕草で手を振り返していた。
    「お疲れさま! バイト帰りかな?」
    「ああ、そうだ。あのさ、このあいだ台が欲しいって話していたよな?」
    「うん? あ、そうそう。棚の上に手が届かなくて……」
    「じゃあさ、これ。やるよ」
     少年は手にしていた小さな腰掛けを差し出すと、メンタはキョトンとした表情でそれを受け取っていた。メンタが無事に受け取ってくれたのを見て、少年はニコッと晴れやかに笑う。
    「余ったパーツで作ったんだ。まだ下手だから、ちょっとガタつくかもしれないけど」
     そう照れ臭そうにしている少年の手は、錆汚れと絆創膏だらけだ。慣れない溶接のせいだけではないだろうが、彼がメンタの為にと一生懸命作ったことだけは伝わってくる。それはメンタも同じなのだろう。喜びを隠さずにギュッと少年の手を握った。
    「ありがとう……! 嬉しい、大切にするね」
    「うん。ちゃんとした台買うまでの繋ぎにでもしてくれよ」
    「ううん、これが良いな。色も可愛い」
    「あんたの目の色に合わせたんだ。塗装はだいぶ上達しただろう?」
     微笑ましいその一場面へアルエも口元を緩ませていると、スッと人影がメンタと少年の背後を通り過ぎた。どうやら例の麗人が、レストルームへと席を立ったらしい。
     だが、アルエは見逃さない。
    「…………」
    「…………」
     メンタの視線だけがチラリと動き、通り過ぎた麗人から何か小さな包みを受け取っていた。言葉を交わす事も立ち止まる事もなく、何事もなかったかのようにメンタは少年と会話を続けている。
    「きみのお陰でとっても元気が出たよ、ありがとう。はい、これ」
    「んっ? おいおい……いいって。今日は俺が礼をする方なんだからさ」
    「えへへ……おやつ買い過ぎちゃったんだ。バイト帰りでお腹空いてるでしょ?」
     メンタが少年へ手渡したのは、綺麗な紙ナフキンに包まれた三個の晶螺マドレーヌ。ちなみに、メンタが今日のおやつに買ったのはプクプクシュークリームで、その場で残さず食べていたのをアルエは知っている。
     ニコニコとマドレーヌを渡してくるメンタを前に少年は躊躇しつつも、自分の手をオーバーオールでゴシゴシと拭き、プレゼントを受け取った。
    「分かった。ありがとう、メンタ」
    「へへ……どういたしまして!」
     可愛い二人はそのあとも少し立ち話をし、バイバイと手を振り合ってそれぞれ家路へと着いた。メンタの住むアパートはこのカフェの近く。そして、少年の住まいは。
    「うー……さむ……。今夜は雨が止まなそうだなぁ」
     カフェの隣にある緩やかな坂道。少年は小さな体を震わせ、その坂道を小走りで駆け下りて行く。そこは地下水道に繋がる道で、下まで降りると下水道を利用した巨大な空間へと辿り着く。サーンドル河、日の当たる場所では暮らせぬ者達が独自のルールを持って身を寄せ合う、地下集落だ。
     だが、少年の住まいはサーンドル河ではない。下水道の入り口へと続く大きな扉をくぐり、地下へと降りる階段がある空間。資材が放置されているそこの壊れた輸送パレットが、少年の住まいだ。
    「……ん?」
     冷たい雨から逃れるように、少年が下水道入り口の扉を開こうとすると、そこには一本の傘が置かれていた。金色の持ち手が付いた、濃いブルーの傘。夏の晴天にも似たその傘はとても綺麗だが、どうやら誰かが忘れてしまったらしい。少年はキラキラと目を輝かせその傘を手に取り、キョロと周囲を見渡している。どうやら持ち主を探しているらしいが、おそらくもう取りには来ないだろう。
     手にした傘をおそるおそる広げてみると、少年の頭上へかりそめの青空が現れ、まるで冷たい雨を遮り彼を守っているかのようにも見えた。
    「……ふふ……綺麗だなぁ」
     青を縁取る白は雲、金の持ち手には華奢な装飾が施されている。その傘に守られながら少年は無事に下水道入り口の扉をくぐり、再び静かな雨の夜が帰ってきた。
     その光景を見ていたのは、いつもの定位置に腰を下ろす麗人ひとり。マドレーヌと傘を手にした少年を見届け終えた麗人は「馳走になった」と、アルエに声を掛けカフェを後にした。
     来るときに差していた青い傘は持たずに、どこか上機嫌で雨に濡れながら。

     少年がいつフォンテーヌ廷へやって来たのかは、定かではない。
     気が付けばそこに住み着いていて、ああまた孤児が流れ着いたのかと思った程度だ。彼の境遇には同情するが、たかが一市民にできることは、そう多くない。そのうちにサーンドル河の心優しい住民が彼を受け入れてくれるだろう。アルエの予想通り、輸送パレットで寝泊まりをする少年へサーンドル河の者が声を掛けていた。
     そして悲しき少年は、人を信じる術を知らなかった。
     少年は誰の声にも応じず救いの手を拒み続けた。食べ物もモラも服も、優しさも。少年は他者からの物も言葉も一切拒み、やがて小さく蹲ったまま何も話さなくなってしまった。意固地とも違う、まるで言葉を、自分も人間であることを全てを拒むように。それは、野生の獣が死を待つ行動にも良く似ていた。
     何の反応も示さなくなってしまった少年の腕や足は日に日に痩せ細り、このままでは餓死をしてしまうだろうと誰もが諦めていた。いや、もしかしてあの時に少年は一度死んでいたのかもしれない。
     アルエが再び少年の姿を見たのは、頬が痛い冬の夜風に花の匂いが混じり始めた季節にだった。
     冬の氷に閉ざされてしまっていた少年の心を融かしたのは、可愛い角と小さな翼を持つ妖精。ではなく、メリュジーヌだった。いつの間に、何を切っ掛けに彼等が交流を持ち始めたのかは分からない。だが、メリュジーヌとだけは交流するようになった少年は日に日に元気を取り戻しており、皮と骨になっていた腕には子供らしい丸みが戻っていたのだ。





     一説によると、大人と子供では体感時間が異なるらしい。
     大人にとっては一年がとても早く感じるのに対し、子供の一年は季節を肌で感じ、日々目新しい体験にきらきらと瞳を輝かせる。道端に咲くマルコット草でさえも、初めて見る子供にとっては新鮮に感じるのだろう。
     その純粋さを喪ってしまった大人からしてみれば、正直羨ましい。自分にもあった筈のその純粋さを人は何処へ置いてきてしまうのか。
     そんなくたびれた大人のぼやきなど、どうでも良い。だが、カフェ・リュテスのカウンターから見える例の御仁の瞳には、大人達が喪ってしまった純粋さがまだ宿っている気がするのだ。そう、特に。あの少年を遠くから見守っている時には。

    「おや? ヌヴィレット様! こんな所でお会いするとは奇遇ですね」
     いつもの指定席で寛いでいた麗人へ声を掛けたのは、ダーモヴィル雑貨店の店主・ブシコーだ。ダーモヴィル雑貨店は食材から生活雑貨までを扱う、フォンテーヌ市民にとってはなくてはならない店である。今日は仕入れの帰りだろうか。声を掛けられたヌヴィレットが「ああ、ご苦労」と労いを返していた。
    「いつもの配達は若い者へ任せておきました。今年はタマネギが豊作だったそうですよ」
    「そうか、幸甚だ。商談は上手くいったらしいな」
    「ええ、お陰様で。いや、それがね。ルミドゥースハーバーに、ショシベルって船乗りの男がいるでしょう? そこに入った新人が凄いんですよ」
     ブシコーはやや興奮気味に、その新人とやらの話を教えてくれた。年の頃はまだ十五、六歳の若者なのだが、計算がとても速く、璃月の言葉も理解している。地頭が良いのか彼がまとめた書類は非常に分かりやすく、更には恵まれた体格で荷物さばきも早いそうだ。
    「何が凄いって、彼の交渉術ですよ。あの歳でドア・イン・ザ・フェイスを完全に理解している」
    「ほう?」
    「ピトが港の仕事を紹介したそうですが、それも納得しましたね。彼は孤児なのだそうですが、勿体ない」
     そう饒舌に語るブシコーの興奮がこちらにまで伝わってきそうだ。それはヌヴィレットも同じであるのか、満足げにブシコーの話へ耳を傾け、深く頷きながら相槌を打っていた。
    「非常に才気溢れる若者なのだな。素晴らしい」
    「ええ。可能ならば彼へ然るべき教育を受けさせて、行く行くはフォンテーヌの中枢でその才能を活かして欲しいものです」
    「なるほど。本人がそう望んでいるのだろうか?」
     鋭いヌヴィレットの指摘へ、それまで興奮気味に話していたブシコーがグッと言葉を詰まらせる。
    「本人がそう望んでいるのならば、私が然るべき教育機関を紹介しても構わないが」
    「……はあ、それが……」
     住処も身寄りも無く、日々の生活をジャンクパーツ拾いや配達のバイトで食いつないでいた少年は、ある日ラスティ・ラダーを訪れたのだと言う。新聞で配達のバイトを募集しているのを見た、と。だがラスティ・ラダーは、フォンテーヌの裏社会を航行する錆びた船。配達するのは表には出せない情報や、危険物だ。子供のお使いで任せられる物ではない。
    「そこで対応した操舵手……ピトが、彼の非凡な才能に気が付いたそうでして」
     ピトは華やかさと歪さを同時に有するフォンテーヌの裏社会を、上手く航行してきた男だ。人を見る目はかなり長けている方だろう。類い希な少年の才を見抜き、こんな裏の世界ではなく日の当たる道を進むべきだと、港の仕事を紹介したのだと言う。
    「ピトやショシベルが学校へ通わせてやる、と言っても彼は頑なに拒んでいるそうでして。それどころか、家を紹介してもらうのも断ったとか」
    「……ほう?」
    「誰の世話にもなりたくないそうです。彼の境遇は分かりませんが……よほど人を信用できない思いをしてきたのでしょうね」
     人買いや虐待から逃れてきた子供は、心に深い傷を抱えているものさ。本人がその気になるまでそっとしておいてやれ。ピトは何かしら心当たりがあるのか、それ以来は少年に関して口を挟んでいないそうだ。
    「それならば仕方ない。そのような少年がいる、と私も心に留めておこう」
    「ヌヴィレット様にそう言っていただけると心強い」
     ブシコーはお邪魔しましたと小さく頭を下げ、夜の営業に向けて店へと戻った。話を終えたヌヴィレットはいつものドリンクで唇を湿らせ、下水道の入り口へと目を向けている。そこでは仕事を終えたらしい一人の少年が、夕空を見上げながらガーリックバケットに齧り付いていた。その少年へトコトコと顔なじみのメリュジーヌが近づき、美味しそうなスープを手渡している。少年は笑顔でそれを受け取り、メリュジーヌと談笑しつつ細やかな団らんを楽しんでいた。
     メリュジーヌにしか笑顔を見せなかった少年が少しずつ人とも話し始めた時のことを、アルエは何故だかよく覚えている。

     ある日、アルエが開店準備をしていると、常連客のメンタに声を掛けられたのだ。メンタの後ろには警戒心丸出しの少年がおり、珍しいこともあるものだとアルエは目を丸くした。
     ──いらない新聞を、分けてほしい。
     少年は消え入るような小さな声で、願いを口にした。それならばお安い御用だ。寝床にでも使うのだろうかと思っていたのだが、量はいらない、できるだけ新しい物が欲しいと少年は言う。どうやら求人欄が目的であったらしい。
     それからアルエは、客の忘れ物である新聞や雑誌、学術書などを、下水道へ続く輸送パレット置き場へ置くようになった。不法投棄に当たるのかもしれないが、その様子を見ていた最高審判官様は何も言わなかった。奇械に関する学術書が良くなくなっていたので、彼はマシナリーに興味があるらしい。
     そんな彼が珍しくゴシップ雑誌を眺めていたのは、一緒に本を眺めていたメリュジーヌに占いが見たいと言われたからだ。
     自分の星座が分からない。そう話しながら彼等が開いたページには、我らが最高審判官様の特集ページが組まれていた。アルエの記憶でも、その特集ページに掲載されていたヌヴィレットの写真はとても写りが良かった。
     ──……かっこいいな。
     ぼそ、と少年の口から零れた小さなこころ。思わず本音が零れてしまい、少年は恥ずかしくなったのだろう。慌てて他のページを捲り何か言い訳をしていたが、メリュジーヌはニコニコと嬉しそうに笑っていた。そりゃ、ヌヴィレット様だもの。とても素敵な方なのよ。と。不法投棄を見逃して貰っている身として、それは同感だ。彼ほど最高審判官の地位に相応しい人物もなかなか見当たらないだろう。
     少年が憧れるのも無理はない。そして思春期の少年がそれを認めるには、素直さが足りないことも。
     顔を真っ赤にして違うと言い張る少年の頬は林檎みたいにつやつやで、捻くれた大人としては、純な初恋を奪うとは罪ですねと君の足長おじさんに教えてやりたい。いや、髪長お兄さんか? まあ足も髪も長いのだから、どちらでも良いだろう。
     その人はいつも君のことを見ているよ。そう教えてあげたいが、カフェのオーナーとして客のプライバシーは守らねばならない。守秘義務というやつである。





     メロピデ要塞。
     かつて追放された者達が水神エゲリアの慈悲により、その力を借りて築き上げられた、水の底の要塞。フォンテーヌの司法システムに属していないその場所は、今の時代では水の下の監獄として存在している。
     いわば無法地帯とも呼べるそこで旧友が死亡したとの噂を耳にしたのは、とある雨の日だった。
     旧友がメロピデ要塞へ更迭された罪状は、金融商品取引法違反。執律庭に所属していた彼は、金に困り金融情報を貴族達に流していた罪で投獄された。情報を流せと脅迫を受けていた、とも供述していたそうだ。だが、彼の訴えはいつの間にか揉み消されてしまい、その結末は謎の獄中死だ。
     シトシトと今日も涙雨が降り注ぐヴァザーリ回廊を眺めつつ、旧友と泥酔しながら歩いた思い出が脳裏へ浮かぶ。アルエにできるのは、そっと目を瞑り十字を切ってやるだけだ。
     そのうちに客がやって来たので、アルエは営業スマイルを作りカフェ・リュテスオーナーの顔へと戻る。
    「──事件?」
     カウンターへやって来た常連客が手にしていたのは、今朝のスチームバード新聞だ。そこには、孤児を保護していた慈善家夫婦が惨殺されたと記されていた。犯人は、かつて夫婦に保護されていた少年A。犯人も重傷を負い意識不明だそうだが、意識が戻り次第取り調べが行われるそうだ。
    「……こりゃまた、随分ときな臭い……」
     その慈善家夫婦の名前には見覚えがある。新聞を手にしていた常連客も同じなのだろう。常連客である白髪のトゥレルと言う男は、現役時代に警察隊や特巡隊へ属していた、超が幾つも付くエリートである。トゥレルはアルエの言葉へ深く頷いた。
    「こいつは、アレだろ? 人身売買の噂があったきな臭いご夫婦」
     彼等の悪い噂は有名だった。保護した子供達を裏で売買しているだとか、補助金を不正受給しているだとか。だが、彼等にはなにか強い後ろ盾でもあるのだろうか。正義心の強い者が幾度か不正を暴こうと試みたが、全て失敗に終わっていた。
     アルエの記憶は正しかったのか、トゥレルは肯定しつつ深い溜め息を零す。
     ──この犯人の子も、他の子供達を助けたかったんだろうな。情状酌量されそうだ。
    「…………」
     それはそうだ。年端も行かない子供が、自らの命を賭して兄弟達を解放したのだ。詳細はまだ調査中とのことだが、世論は少年の肩を持つに違いない。
     それから数日、フォンテーヌ廷では事件の話題でもちきりだった。
     綺麗なドレスを着て泥遊びもしたことなさそうなご婦人が、少年の罪は許されるべきだと甲高い声で語る。毛先までピシッと髭を整えた紳士が、夫婦の所業は許されるべきではないと正論を吐く。彼等はきっと、腐りかけたパンを食べて石畳の上で寝る生活なんて、想像もできないのだろう。
     彼等は正しい。だが果たして、それは本人が望んでいる結末なのだろうか。
    「……今日も雨が止まなかったな」
     さあさあと石畳を打つ雨音を聞きながら、アルエは閉店準備のためテラス席のパラソルを閉じていた。くわえ煙草をしたままだが、雨で湿っているせいかとても不味い。灯が消えたそれをアッシュトレイへ放り込むと、ポツンとずぶ濡れのまま道端で佇む人影を見付けた。
     足が長くて、髪も長い。その人はサーンドル河へと続く下水道の入り口をじっと見下ろしており、感情の読めぬ顔のまま、ただそこに佇んでいた。
     犯人の顔写真は公表されていない。だが、噂好きなご婦人が「犯人はこの子だそうよ」と、慈善家達に養子として引き取られていた頃の写真を見せてきたのだ。色の濃い短い髪に、綺麗な青い瞳。アルエが知っているよりも少し幼い少年の姿が、そこには写り込んでいた。
     あれから最高審判官様はカフェへやって来ない。メンタもマレショーセ・ファントムの仕事が忙しいのか、珈琲を飲む時間も無いらしい。
     畳んだパラソルを手にアルエは店へ戻り、扉を閉めた。

     今晩の雨は、道端で佇むあの人が流しているものなのかもしれない。

     それから暫くのあいだ、少年が起こした衝撃的な事件は下世話なゴシップ誌の紙面を賑わせていた。紙面を飾るのは少年が恋をした最高審判官様ではなく、慈善家夫婦が子供達を保護していた屋敷の写真だった。実行犯である少年の写真が出回らなかったのは、パレ・メルモニアから厳しい規制がかけられたからだとの噂もある。
     だが規制などなくとも、今の論調で少年の写真を掲載するのは、編集部の首を絞める行為にも等しい。それくらいに、少年は無罪だと言う世間の声が大きく膨れ上がっていた。
    「……お? こんにちは、トゥレルさん」
     ひときわ人の多い本日のエピクレシス歌劇場で、事件を教えてくれた常連客のトゥレルの姿を見付けた。
     本日のチケットは即日完売。
     そりゃあ、そうだ。今日はいま最もホットな事件、養父母殺害事件の初公判である。しかも今日は、フリーナ様と最高審判官様のお二人が顔を揃えるらしい。こんな大事件は滅多にない。我先にとチケットを求めてエピクレシス歌劇場へ押し寄せる人々の波を、アルエはどこか辟易しながら横目で眺めたものだ。
    「トゥレルさんも観劇……いや、傍聴かい?」
     彼ほどの名士ともなれば人脈と肩書きですんなりと中へ入れるはずだ。アルエの予想通り、トゥレルも判決を見届けたいと足を運んだらしい。
    「ああ、いや。私は友人の墓参りへ行った帰りなんだ。店へ戻って今から開店準備をするさ」
     メロピデ要塞でその生涯を閉じた旧友。彼の墓へ花を捧げてきたのだが、この公判が終わった後には討論の場を求めた人々が、カフェへ殺到するだろう。貧乏暇無し、公務員の安定した給与を捨てた身としては、故人を悼む暇もなく日銭を稼がねばならない。
    「今の論調ならば、情状酌量……無罪になるかもしれないな」
     諭示裁定カーディナルや最高審判官様がどんな結論を下すのかは、天のみぞ、いや天でも水神様でも分からない。だが、その流れになるであろうことは明白だ。
     しかし人生経験豊富な老紳士は、意外にもアルエと同じ思考であるらしい。少年は兄弟を助けたかった。自分が救われたいのではない。当事者でもない者達がただの正義感で無罪だと主張するのは、その無垢な願いを踏みにじってしまうのではないか、と。
    「……ハハ、年の功ってやつだな。トゥレルさん。まだまだ耄碌していなさそうだ」
     アルエが言語化できなかった思いを、老紳士はすらすらと口にしてくれた。更に意外であったのは、老紳士の人生はそこいらの娯楽小説の比ではないほど愉快だと言う事実だ。
    「えっ……? トゥレルさん、看守も勤めていたのかい? そりゃ……本当にエリート中のエリートだ」
     警察隊、特巡隊。銃の腕を買われた若き日の紳士は様々な部隊を転々とし、メロピデ要塞の看守として派遣されていた事もあるそうだ。だからこそ、要塞の環境がいかに劣悪なのかを身をもって知っている。少年へ有罪判決が下れば投獄は免れない。だが、少年の思いを踏みにじる訳にも行かない。そこが悩む所なのだと。
    「……そうだな。だがそれこそ、私たちが心を痛めた所で何も出来ない。せいぜい彼の幸運を祈るだけだぜ」
     ──いらない新聞を、分けてほしい。
     メンタに連れられた少年の小さな声が、アルエの脳裏へ蘇る。
     あの下水道へ続く坂道にあった輸送パレットも、今はもう全て片付けられている。少年はもうここへ戻れない。見守り続けてきた足髪長おじさんも、そう思ったからだろう。不法投棄禁止、と貼られていた紙が、昨夜の雨で剥がれかけていた。
     もっと強力な糊で貼り付けた方がいい。もっと早いうちに、足髪長おじさんが姿を見せてやった方が良かった。だがそれは机上の空論であり、後の祭り。
    「……いまあの子が一番欲しいものを与えてやれるのは、貴方だけだ」
     足髪長おじさん、いや。お兄さんか?
     まあ、どちらでも良い。どんな結末を選ぶのか、物語を終わりとするのか続くとするのか、選べるのは舞台へ上がった者達だけ。
     歪な真珠のようなこの国を、いつか変えたい。酔うとそれが口癖であった今は亡き友を思い浮かべ、アルエは人の流れに逆らい巡水船乗り場へと歩き出した。
    「──だから、酔っ払いは嫌いなんだ」
     歪な真珠を喉の奥まで詰め込まれ窒息してしまった、友よ。いくら酒を飲んでも、もうかまわない。だからせめて、未来ある少年に歪な檻を打ち破る力を与えてやってくれ。
     
     判決、有罪。
     少年はなにひとつ隠さず全てを供述、肯定し、審判は予定よりも早く閉廷した。最高審判官は最後まで何も語らず、ただ静かに有罪の判決を下し、少年はメロピデ要塞へと収容された。
    【スチームバード新聞・社会面より】





     もしアルエがカフェのオーナーではなく小説家の道を選んでいたら、フォンテーヌの伝記を執筆しようと試みたかもしれない。それほどに、目まぐるしい変化があった。
     棘薔薇の会カーレスの死、フォンテーヌ科学院の爆発事故、予言の襲来、大洪水、水神の退任。どれかひとつ選んだとしても、劇の台本が分厚くなってしまいそうだ。自分に文才が無くて本当に良かった。
     無事に予言を乗り越えたフォンテーヌには様々な変化が訪れ始めており、新しい風がそこかしこで吹いているのを感じる。
     今日の天気は快晴。雨の多いフォンテーヌですが、その雨季が年々短くなっています。朝の天気予報でもそんな話が出ていたっけ。

    「おー……まーた剥がれているな。枢律庭のやつら、糊の代金までケチりやがって……」
     不法投棄禁止。そう書かれた紙が壁から剥がれ落ち、カフェのテラスへと飛んできていた。もう何度こうやって無駄な張り紙を拾い集めたのか分からない。不法投棄禁止ポスター蒐集家なんて趣味があったら、全部譲ってやりたいくらいだ。
    「どうせ後で誰かサボりに来るだろ。その時に突き返しておくか」
     アルエの予想通り、ランチタイムのピークを少し過ぎた所でお馴染みの共律庭メンバーがやって来た。今日は祝日なので、休日出勤の貧乏くじを引かされた可哀想な後輩達だ。
    「いらっしゃい。そろそろサボりに来るかと思っていたぜ」
    「それは語弊がある。より良い労働環境を築き上げる為の議論を交わす時間さ」
     ついでに美味い珈琲があれば最高だ。そういつもの屁理屈を捏ねる共律官へ肩を竦めて応え、人数分の珈琲をサイフォンへ入れる。アルエがかつて勤めていた頃に比べ、共律庭のメンバーもだいぶ変わった。以前ならばこうして皆でゆっくり珈琲を楽しむ余裕すら無かっただろう。
     アルエは準備ができた人数分の珈琲を運んでやりつつ、お茶請けに皮肉もサービスしてやった。
    「休日出勤とはいえ随分と余裕だな?」
    「あ、いえ。ナタ出張から戻ってきたばかりで、明日ヌヴィレット様に提出する書類だけ先に……」
     真面目にお茶請けを受け取ってしまったのは、共律庭期待の新人アイオーヌだ。ナタにも大きな変化があったと聞いている。その調査も含め、彼が選ばれ向かわされたのだろう。
    「なるほどね。明日ヌヴィレット様に書類不備を鋭く指摘されて泣く準備か、ご苦労」
    「ち、ちがいますよ……! 不吉なこと言わないでください。うう……」
    「ハハッ! そうならないように、公爵の書類を参考にしろって指導していたのさ」
     公爵、メロピデ要塞の新しい管理者、リオセスリが持つ爵位だ。前任の管理者は彼との決闘を前に逃亡し、そのまま水の下のトップへ座したと言われている。だが、元囚人であった彼が管理者となってからは要塞の環境が激変し、今では刑期を終えてもそのまま居座る者すら存在しているとか。
    「リオセスリ公爵か。彼はすごぶる優秀らしいな」
    「あ、はい。書類も手直しせずにお渡しできると、イメナさんも喜んでいます」
    「ああ、要塞との連絡係の彼女か」
    「例の予言の時に現れた巨大船は、カルチャーショックでしたからね。メロピデ要塞管理者へ就任するハードルが限りなく高くなったに違いない」
     それはそうだ、とその場に居た誰もが苦笑いを零す。元囚人であった彼に爵位を与えると最高審判官様が言い出した時は、そりゃもう議論大好きな貴族連中が盛り上がったものだ。癒着、贔屓、公正無私の理念はどうしたのだ、と。
     結論として、権力の癒着でも最高審判官様の気が触れていた訳でもなかった。本人の実力や能力を正当に評価していただけだ。
     だが、贔屓に関してだけは、少々あるのではないだろうかとアルエは考えている。
     それも仕方がない。雨の日も晴れの日も雪の日も、健やかなる時も病める時も、足髪長おじさんはずっと彼を見守ってきたのだ。少しくらい贔屓があったとしても、少年の血の滲むような努力を鑑みれば、お釣りがくるだろう。

     今日のフォンテーヌは、快晴。
     暑すぎず寒くもない爽やかな風がマルコット草を揺らすなか、人の少なくなったテラス席へ馴染みの客がやって来た。彼がここへやって来るのも、随分と久し振りだ。今日は連れと一緒らしい。
     いつもの席へ腰を下ろす常連客へアルエは「お久しぶりです」と声を掛け、注文を取りに行く。
    「今日はお休みですか? 珍しい」
    「ああ、たまには休まねばとメリュジーヌ達に叱られた」
    「はは! マレショーセ・ファントムに目を付けられたとなれば、仕方がありませんね。ご注文は、いつもので良いですか?」
    「うむ、私は潮の一息を。君は?」
    「俺は珈琲、ミルク多め砂糖二つで頼む」
    「かしこまりました」
    「ああ、それと……マドレーヌを三つ」
     にこ、と。少年の頃となんら変わりの無い、青い瞳が懐かしそうに細められる。
     そうだろうね。昔から甘い物が好きなんだろうなとは思っていた。パレ・メルモニアから要塞へと戻る帰り道も、よくマドレーヌを買いに来てくれたね。子供の頃に食べたマドレーヌが本当に美味しかったんだ、と。照れ臭そうに話してくれた。
     注文の品をテーブルへ運ぶと、ここへ来る前に二人で家具屋を回って来たのだろう。あのベッドが良かったとか、あんなに大きな収納はいらないだとか、結婚を控えた恋人同士みたいな会話を交わしている。最高審判官様が郊外に屋敷を建てていると言う噂は、どうやら本当らしい。
     最高審判官様は珍しく長い髪をシニヨンにしており、一番上のボタンが緩められた白い首元からは、小さな赤い痕がチラリと覗いている。カップを持つ公爵殿の左手では、幸福の象徴である華奢な指輪が光っていた。お幸せそうでなにより。
     カフェ休憩を終えた二人は「馳走になった」とアルエに声を掛け、肩を並べてフォンテーヌ廷の街並みへと溶け込んで行った。新居の家具選びへと戻るのだろう。
    「……さ。俺も仕事に戻るとするか」
     良く晴れたフォンテーヌの青い空を見上げ、アルエは軽く背を伸ばす。
     きっと、あと少し。来年、来月、いや、もしかしたら来週かもしれない。スチームバード新聞へはパレ・メルモニアからの正式な声明が掲載されるのだろう。最高審判官様のご成婚。お相手は発表されないかもしれないが、逆にそれが人々の興味を煽るのだ。
     名家の令嬢、異国の姫君、人気の舞台女優、精霊のお嬢様、パレ・メルモニアの職員、もしかしてメリュジーヌの一族。一番最初に名前が挙がるのであろうフリーナ様は「冗談も休み休み言いたまえ!」と、可愛らしく否定する姿が目に浮かぶ。
     店主の予想は、と常連客に尋ねられた時の答えは、もう決めている。

     ──今日の空と同じくらい綺麗な瞳をした、とても聡明な人じゃないかな、と。

     その日が雨模様だったらどうしようか。
     まあ、いい。それも守秘義務と言うやつだ。


    【了】
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