パレ・メルモニア特製ランチセットA・デーツナン付き 文化の都フォンテーヌの正式な神座が空席となってから、早数年。
諭示裁定カーディナルもその役目を終え、それに伴い歌劇場で行われる裁判からは歌劇的な要素も徐々に省かれ、様々な事が少しずつ変わろうとしていた。新生フォンテーヌ、と呼ぶには少々大袈裟かもしれない。だがその影には、いまのフォンテーヌの象徴とも言える最高審判官の姿がいつもあった。
「……うわ……少し遅かったか……」
共律庭期待の新人、アイオーヌ。
フリーナの退任時は新人であった彼も、今では部下を抱える一人前の共律官へと成長していた。繊細ですぐに考え込んでしまう性質は変わらないが「彼は共律庭と言う名の畑に生まれた、新種の大根さ」。そうアイオーヌを評したのは、元共律官で現カフェ・リュテスオーナーのアルエだ。
先輩達の歪んだ愛情を一身に受け成長したアイオーヌは、現在ランチタイム真っ只中のパレ・メルモニア社員食堂に立っていた。今日は運送部に寄っていたせいで少し出遅れてしまった。そのせいか、社員食堂内には人が溢れかえっている。
「参ったな……廷地区のレストランはもっと混雑しているだろうし……」
パレ・メルモニアへ社員食堂ができたのは、つい最近のこと。今まではフォンテーヌ内の他企業と同じく廷地区で使えるランチチケットを配給していた。
だが市街地へと繋がるリフトの混雑緩和と、職員達の仕事効率改善の為に、パレ・メルモニア内へ社員食堂が開設されたのだ。ちなみに一般人も利用可能である。
「はぁ……仕方ない。ランチだけ受け取って外で食べるか」
新人の頃は、よくパレ・メルモニアの裏手で海を眺めながらランチを食べていた。心の余裕が出てきたせいか、ただ諦観の境地へ達しただけなのか。どちらかと言えば後者だ。食堂ができてからは、ここで一人ボーッとランチをするのが日々のルーティンへ加わっている。
今日はカモメが居なければ良いのだけど。
そんな事を考えつつランチの列に加わっていると、窓際の席からこちらへ向かって手を振る人物へと気が付いた。
「おい、アイオーヌくん!」
「ロアルテさん?」
「ここなら席が空いているぞ」
諦め気味のアイオーヌへ声をかけてきたのは、共律庭の先輩であるロアルテだ。大雑把な人物ではあるが、なんだかんだと新人の頃から世話になりっぱなしではある。昼飯くらい一人で静かに食べたいのだが、たまには仕方がない。先輩方の席へお邪魔するかと、ランチセットAのプレートを手に窓際へと向かった。
言い訳をすると、窓際の席はとても人気があり食堂内でも一番混雑しているエリアなのだ。そのせいで気が付かなかっただけだ。決して見ない様にしていた訳ではない。
「…………」
「ヌヴィレット様。こいつ、隣でいいですか?」
「アイオーヌか。うむ、ご苦労」
窓際の席にいたのは、共律庭の先輩であるロアルテと、元法廷書記官のスメイヌ。そして、フォンテーヌ最高審判官であるヌヴィレットだ。
ここに座れと言うのか? しかも、ヌヴィレット様の隣に?
「…………失礼します」
「ああ」
若手の立場とは、一般企業においても公務員でも変わらない。気を使うことだらけだ。ヌヴィレットがどうぞというのならばアイオーヌに拒否権はない。法廷へ出る重罪人の様な心持ちでトレイを置き、小さく唾を飲み込んだ。
ロアルテはそんなアイオーヌの心境へ気が付いているのだろう。ニヤニヤと向かいの席からその様子を眺めている。
「既婚者紳士のサロンへようこそ。独身貴族アイオーヌくん」
「はぁ……何でしょう。御伴侶様のご自慢大会でも催していらっしゃるのですか?」
「俺はただの女房の愚痴だが、こちらのお二人は新婚だからな。そんな所だ」
そう、ロアルテはもう結婚十年目なのだそうだが、スメイヌは昨年入籍をしたばかり。そして最高審判官であるヌヴィレットは、先週ハネムーンから戻ったばかりのまごうことなき新郎である。
「アイオーヌ、君は運がいい。いまはヌヴィレット様の惚気を聞かされていたところだ」
「あ、そうでしたね。ヌヴィレット様はスメールと稲妻をご訪問されたのでしたっけ? どうでしたか」
「うむ。両国共に独自の文化があり、非常に興味深い旅であった」
「スメールも稲妻も、非常に魅力的な国ですね。僕も独身時代に教令院は訪ねた事があります」
「ああ。以前、君からスメールの果物を土産に貰った記憶がある。あれはリオセスリ殿も美味いと喜んでいた」
スメイヌは共律庭から法廷書記官になり、共律官へと戻った経歴を持つ、変わり種である。そのお陰で、法廷書記官時代にヌヴィレットとも交流があったのだろう。
「ヌヴィレット様、スメールでは珍しい種族と交流なされたと聞きましたが?」
「ああ、アランパス殿のことか。スメールの森林を拠点とする素晴らしい料理人と交流ができた」
「料理人? それは意外ですね。どのようなきっかけで?」
「密林を散策中に声を掛けられてな」
「密林を、散策……? はぁ……」
「その際に水談義へ花が咲いて、意気投合してしまった」
「あー…………なるほど」
「スメールの水はとても複雑で、とても一口では言い表しがたい。だが、アランパス殿はスメールの水源について非常に豊富な知識を持っており、またこだわりも強い。私と気が合いそうだ。ああ、そうだ。活源水と言う水を紹介して頂いたのだが、これは非常に貴重かつ、とてもまろやかな口当たりで……」
これはどうやら、選択肢を誤ってしまったらしい。
「…………話が止まらなくなってしまいましたね」
「ヌヴィレット様……あのそれ……詐欺まがいのおかしな宗教勧誘とかでは……」
「シッ……! アイオーヌくん」
「伴侶様がご一緒でしたら大丈夫でしょう。詐欺師なんて何百人も見てきている方ですし」
「そ、そうですね……」
「活源水とは水天密林にある水源から汲んだ水だとか。アランパス殿の説明によると、この活源水で作ったスープは非常に美味で、芳醇な香りが特徴的らしい。ああ、ぜひ私のサロンでも紹介させて頂きたいと申し出たのだが……」
「はぁ……」
その後、ヌヴィレットの水談義はしばらく続いた。
「……ん?」
そしてアイオーヌくんは繊細で、ちょっぴり不幸体質である。それをつい忘れてしまったのは、今日のランチセットAがアイオーヌの好物ばかりで油断していたからだ。
「ヌヴィレット様……それは?」
ロアルテもスメイヌもそれぞれランチセットを前にしているが、ヌヴィレットだけが違う。可愛らしいメリュジーヌのステッカーが貼られたランチボックスに、モノトーンの球体が数個収まっているのだ。
よくぞ聞いてくれた。そう言わんばかりにヌヴィレットはキラキラと瞳を輝かせ、球体を手に誇らしげに語り始めた。
「これは稲妻の軽食で、おにぎり、と言う」
「鬼斬り……? それは……稲妻らしいネーミングの食べ物ですね」
「はは、違うぞアイオーヌくん。ライスを食べやすい形に握り具材を中へ入れた、軽食だそうだ」
「へぇ……」
「稲妻を訪問した際に食したのだが、ライスがふんわりとして瑞々しく、具材との相性も悪くなかった」
「それを伴侶どのが再現して、持たせてくれたんだとさ」
「ああ。昼食はいつも水分で済ませていると旅行中に話をしたら、叱られてしまってな。仕事をしながらでも食べられるようにと、持たせてくれたのだ」
「はは! ヌヴィレット様は尻に敷かれるタイプになりそうだ。ずいぶんと愛されていますね」
「うむ…………」
あ、珍しい。
少々照れ臭いのだろう。ヌヴィレットは珍しく嬉しさが隠し切れていない表情で、自慢の愛妻おにぎりへぱくりと噛みついていた。先ほどおにぎりはふんわりとして瑞々しいと話していたが、そんな頬の形が変わるほどもっきゅもっきゅと咀嚼せねばならない、噛み応えがある物なのだろうか。いつもはクールビューティーと言う単語が似合うヌヴィレットが、餌を頬張りすぎたリスみたいな顔になっている。おにぎりの食感がどうも想像できない。
「パンやナンみたいに千切って食べる物ではないのですね」
「ああ、私も最初はそうして食べていたのだが。ライスがほぐれてしまい上手く食べられなかった」
──はは、ヌヴィレットさん。これはサンドイッチみたいに齧り付いて食べる物さ。
「リオセスリ殿にそう教わったのだ」
「成る程、公爵様は我々庶民の生活にもお詳しいですからね」
「そういや、スメイヌくんの奥方は公爵様とも交友があったな?」
「ええ。深海の環境問題の件で。メカフィッシュについて公爵様のお知恵を拝借した事があるとか」
「その分野においてリオセスリ殿の持つ知識は、研究員にも値するものだろう」
「はい。公爵様の博識さにはリノレアも驚いていました」
「うむ、彼は勉強熱心だ。そのせいか話題の引き出しも多く、あまりの楽しさに時を忘れて朝まで話し込んでしまう事も多い」
伴侶へ向けられる賞賛がよほど嬉しいのか。表情こそ変わらないものの、ヌヴィレットの周囲へぽんぽんと喜びの花が咲くのが分かる。
水底の公爵。フォンテーヌ最高位の爵位を持ち、メロピデ要塞管理者であるリオセスリは、先日ヌヴィレットと正式に入籍したばかりの伴侶殿である。ヌヴィレットとリオセスリが公私ともに仲が良いのは、いつの頃からか周知の事実となっていた。癒着だとか公正性がとか陰口を叩く輩もかつては皆無ではなかったが、事実リオセスリの有能さと交渉ごとの巧みさは他の追随を許さないものだった。彼は結果で、その能力を世に示したのだ。
ヌヴィレット様と公爵様は、二人で仲良く釣りにも行くご友人。フォンテーヌの中枢を担う二人が仲良いのは平和の象徴だと。そうして気が付けば周知の事実となっていたが、メリュジーヌ達だけはどうも様子が違った。
ヌヴィレット様は公爵といらっしゃる時が、一番安心しておられますから。
どんな会話をしていた流れでかは忘れてしまったが、ある日受付係のセドナがそう話していた覚えがある。ヌヴィレットにとって公爵は特別な存在。メリュジーヌ達の特別な視覚には、最初から二人がそう映り込んでいたらしい。
「あ、いた。ロアルテさん~」
「お、リアスくんか。どうした?」
「枢律庭の方が経費の件でって。探していましたよ」
「出張経費に土産代を混ぜすぎたかな……そうか分かった。いま行く」
マレショーセ・ファントムのリアスに呼ばれ、ロアルテは先に席を立ってしまった。アイオーヌはその光景を見て、ヌヴィレットとリオセスリの関係に勘付いてしまったあの日を思い出す。
──あの日アイオーヌは、今のロアルテと同じように枢律庭へ向かっていた。
枢律庭へ向かう途中には、小規模な談合を行う小部屋が並んでいる。とある部屋の扉が開いていたので閉めておこうとしたのだが、まだ中に人が居るのに気が付いた。部屋の中には見覚えのある背の高い男性が二人。ヌヴィレットとリオセスリだ。なにかの会合の後だろうか。
ヌヴィレットは柳眉を逆立て、酷く怒っているようにも、落ち込んでいるのかにも見えた。そんなヌヴィレットをリオセスリは宥め励ましていたらしいが、埒があかないとでも思ったのだろう。ぐっとヌヴィレットの顎を強引にすくい取り、そのまま──キスをしていた。
何が一番驚いたかと言うと、その唐突なラブシーンに驚いていない自分にだった。あ、やっぱりそうか。そうすんなり納得できてしまったのだ。それはおそらく自分だけではない。この場面をロアルテやスメイヌ、いや、フォンテーヌ市民の誰が見たとしてもだ。あ、やっぱり。と、同じ感想を抱くだろう。
リオセスリが隣に居る時のヌヴィレットは、いつも見ているこちらまで心が凪いで行くような、そんな穏やかで満たされた顔をしている。その答えが、あのキスシーンへすべて詰まっていたのだ。
その証拠に二人の入籍が報じられた時には、いつもはシニカルで辛辣なフォンテーヌの世論が、祝福ムード一色に包まれた。スチームバード新聞にコメントを求められた元水神のフリーナが「あのヌヴィレットの面倒を一生見られるほど肝が据わった人物なんて、彼くらいさ。お幸せに!」と答え、更にお祝いムードが加速したものだ。
公爵側の立場や意図を尊重し式は内々で行い、パーティも身内だけの慎ましい物であった。別日にはメリュシー村やペトリコールへも二人で訪問し、水の下の住民たちからも祝福を受けたとか。
例の予言以来、フォンテーヌは少しずつ変わろうとしていた。水の上と水の下。華やかな水の都フォンテーヌを支える二人の慶事は、新しい時代の始まりを実感させてくれたのだ。
「……──ヌ。聞こえているか?」
「……えっ あ、はい!」
ハッと、ヌヴィレットの声で現実へと引き戻された。満腹になってきたせいでぼんやりしてしまったのだろう。気が付けばスメイヌも席を立ってしまっており、ヌヴィレットと二人取り残されてしまった。アイオーヌからしてみれば、人生においてできるだけ避けたい状況ベスト3に入るだろう。
「はは、すみません。ついぼんやりと……」
「かまわない。慣れぬ部下の教育で日々疲れているのだろう」
「ああ、いや……ハハ」
ヌヴィレットは優しい。同期であるグラヴィエは新人の頃ヌヴィレットが声を掛けてくれたのが励みになったと話していた。それはアイオーヌも同じなのだが、どうも自分は考え込みすぎて緊張してしまうのだ。新人の頃よりかは上手く立ち回れるようにはなってはきたが、やはり自分はロアルテやスメイヌみたいには振る舞えない。
すると、ヌヴィレットは何を思ったのだろう。冷や汗が止まらないアイオーヌを見て、フッと目元を微笑ませた。
「アイオーヌ」
「はい……?」
「君は以前パレ・メルモニアをぼろぼろの機械仕掛けの時計だ、と評したらしいな?」
「……ぅ、……ど、どこからそのお話を……」
「ロアルテとスメイヌからだ」
アイオーヌの頭の中で、先輩二人がニヤニヤといやらしい笑いを浮かべている。してやられた。ああやっぱり、共律庭の職員なんて自分には向いていないのだ。
以前のアイオーヌならば、この時点で首へロープをかけて辞表を書き始めていたかもしれない。だが様々な波瀾万丈を乗り越え、彼もまた成長していた。どうせ死ぬのならば、もろともだ。
「……ッ、ヌヴィレット様……!」
「うむ」
ケセラセラ、なるようになれ。そんな呪文を心の中で唱えつつ、アイオーヌはキッと顔を上げた。
「せ、せ、せ、僭越ながら申し上げます……!」
「ああ。聞かせてくれ」
「確かに私は、パレ・メルモニアの現状に関して常々そう感じており、ます……!」
公正で合理的。その信念のもと、パレ・メルモニア全体を良い方向へ導く。それが共律庭の意義だと強く信じ厳しい試験を乗り越えて、パレ・メルモニアへと就職した。だが、現実は厳しかった。古い価値観、伝統を重んじるあまりの風通しの悪さ、手続き書類関連の煩雑さ。あれもこれもと整理されないまま付け足された時計は、今や歪な輝きを放つだけとなってしまっている。
「どんなに美しい時計でも、あれもこれもと付け足すだけでは輝きを失って行くだけです」
「……ふむ」
「ゼンマイに油を足さねば、いつかは必ず動かなくなってしまう。フォンテーヌの象徴であるこの美しい時計を整備するのは、いまなのではないでしょうか?」
テイワット大陸の中でも科学力や貿易関係において、フォンテーヌは一歩先を進んでいる。だが、中枢機関の処理能力や実行力が前時代的すぎるのだ。伝統を重んじるとは言っても、これではいつか深刻な機能不全に陥ってしまうだろう。
大規模な事故により爆発霧散してしまった科学院では、プネウムシアに依存しない新しいエネルギーを人工的に生成し、それを運用するシステムが開発されたそうだ。あと数年もすれば、新しいエネルギー源が現実的になるだろう。
「歌劇要素を排除した裁判も、代替エネルギーも、新しい時代の到来を実感させてくれます。ならば、我々パレ・メルモニアもいま変わるべきでは?」
ああ、さようなら。僕のホワイトカラーの日々。昇進したらエスタブレさんにプロポーズをしようと夢見ていたが、どうやらその日はやって来ないらしい。
だがヌヴィレットは意外なことに、アイオーヌの話へ興味深く耳を傾けている。うっすらと微笑んでくれている気すらしてしまうのは、希望的観測と言うやつだろうか。
「……──ふむ。理想論としては申し分ないが、現実的とは言い難い」
「そ、そうです、よね……申し訳ありません、ヌヴィレット様。貴重な昼休みにこんなお話を……」
「だが、一理ある」
「…………えっ?」
希望的観測に傾倒しすぎて、白昼夢でも見ているのだろうか。夢ではないと気が付いたのは、ヌヴィレットがメリュジーヌのシールが貼られた可愛らしいランチボックスの蓋をパチンと閉めた音でだった。あの岩石みたいなおにぎりを完食したらしい。
「以前、同じ例えを耳にした事がある」
「同じ例え……?」
「ああ。その時はパレ・メルモニアではなく、水の下にある施設についてだがな」
──今のメロピデ要塞は、例えればボロボロの時計さ。あちらこちらにガタがきていて、抜本的な解決が必要だ。
「豊富な知識と強い志を持つ新任の管理者はそうして積年の埃を払い、壊れた箇所の修理へいまも尽力している」
「…………」
それは、間違いない。ヌヴィレットの伴侶殿であり、あのメロピデ要塞の最高管理者である、リオセスリの事だろう。リオセスリが管理者に就任して以来、メロピデ要塞の環境が大幅に改善されたのは有名な話だ。洪水へ襲われた際に出現した、あの巨大な船のことも。要塞が保有する技術力を目の当たりにした市民達の間では“水の下の屈強な門番”なんて、二つ名で呼ばれている。
「アイオーヌ」
「は、はいっ……!」
「パレ・メルモニアの改革には、時間が掛かるだろう。利権や私欲、様々な思惑が複雑に絡み合い、一筋縄では行かない。私の一存では決められない事も多々存在する」
「……はい。承知して、おります……」
「だが、足を止めてはならない。思い悩む事もあるだろうが、信念は貫くために存在する意思だ」
「……ヌヴィレット様……」
「君らしく振る舞いたまえ、アイオーヌ」
──あんたらしく、振る舞えばいいさ。
それはかつて、小部屋でキスをしていたリオセスリがヌヴィレットにかけていた言葉である。なるほど、伴侶殿がヌヴィレットへ及ぼす影響は想像していたよりも大きいらしい。ヌヴィレットの中ではそれほど彼の存在が大きい、と言うことなのだろう。
このパレ・メルモニアの社員食堂も、要塞内にある特別許可食堂のシステムを参考にしたと言われている。カチカチおにぎりも、壊れた時計の修理も、信念を貫く大切さも。彼等は互いに、なくてはならない存在なのだろう。
最高の伴侶殿を得られて本当に良かったですね、ヌヴィレット様。
そう心の中で改めて祝福をしつつ、先に席を立とうとしたヌヴィレットへ軽く会釈をした。今度グラヴィエと飲みに行った時にでも、ヌヴィレット様はやはり優しい人だったよ。と、そんな話で盛り上がろう。
「……む、」
「ん?」
フォンテーヌ最高審判官と、パレ・メルモニア期待の星。そんな二人の充実したランチタイムが美しく締められようとした、その時。何かを思い出したのか、ヌヴィレットは唐突に不愉快だと言わんばかりの顔をし、くるりとアイオーヌへ再び向き直った。
「言い忘れていたが、アイオーヌ」
「はい……?」
「君が食べているのは、特製ランチセットAだな?」
「ええ、そうですけど……?」
「提供されるランチセットは栄養士の管理の下、バランス良くメニューが定められていることは私も重々承知している」
「はぁ」
「だが今日のAセットだけは、私は許せない」
「…………え?」
そう言われてみれば、ロアルテとスメイヌはランチセットBを食べていた。Aセットを食べていたのはアイオーヌだけだ。それが世渡り術のひとつであったとアイオーヌが気が付けるのには、まだあと数年必要そうだ。
「胃に乾燥剤を詰め込むようなものだろう。君は些か水分の重要性への認識が足りないらしい。今度、私のサロンへ足を運ぶように」
「ええっ い、行きたくな……、……い、いや、はい……喜ん、で……」
貴重な休日まで上司の顔を見たくない。それは、古今東西老若男女に共通した、労働者の悲しい願いである。
【本日のランチメニュー】
①パレ・メルモニア特製ランチセットA
ラタトゥイユタッセス・デーツナン付き
②パレ・メルモニア特製ランチセットB
スペアリブのロースト・ザイトゥン桃のスパークリングワイン付き
──帰宅後。
「お、残さず全部食べてくれたのかい?」
「うむ、非常に美味であった」
「活源水とやらで炊いたライスは確かに美味かったが……おにぎり、固くなかったか?」
「ふむ? 確かに稲妻で食した物よりかは噛み応えはあったが……」
「あれ、あんまり固く握っては駄目らしいな。全力で握って圧縮してしまった」
「なるほど。だが、咀嚼する分は長く味わえるだろう?」
「ああ、はは。おにぎりの味をか」
「いや、幸福の味と呼ぶらしい。アランパス殿からそう教わった」
【了】