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    つじ_

    @tsuzi_kakuri

    ちょっと癖

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    つじ_

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    子羊になってしまったクリック君のクリテメ 途中までおそらく暗いです

    変身 小さな違和感があった。
     どのようなと問われれば、上手く言語化するのが難しい程に小さな違和感。
     クリックがそれに気付いたのは、閉ざした瞼の向こうから感じる朝の気配に、眠気を振り払って応えようとした時だった。

     ぼんやりと、けれど確実に開けていく視界に映る部屋。宿舎の一室であり、間違えようのないクリック自身の部屋だ。それは例え目を閉じていたとしても内装を思い描くことが出来るくらいには見慣れていて、当たり前で、日常的な光景だった。
     そんな見慣れた光景の筈なのに、どこかがおかしい。妙な違和感の正体を探ろうと、クリックは視線だけを動かして辺りを静かに見やった。
     何故だか身体は動かなかった。右の肩口がずきずきと痛む。鍛錬に疲れた肉体が抗議でもしているのだろうと初めは思ったのだが、どうやら違うらしい。
     疲労により動けないというよりも、そもそも上手く動かすことが難しいといった具合だった。まるで動かし方をすっかり忘れてしまったかのような、そんな不安を煽る感覚だった。

     しばらくそうしている内に、クリックはある事に気が付いた。
     どういうわけか部屋が広く感じるのだ。というより、反対に自分が小さくなってしまったような感覚さえある。四方を囲む壁はクリックが記憶しているよりも遠く、最低限置かれた飾り気の無い家具達は、普段と比べていくらか上背があるように見えた。
     いや、実際のところそうだった。クリックがいつも身体を預けているこの寝台は、本来一人用の簡素なものである筈なのに、今は手足を広げてなお有り余るくらい、更に言えばまだ何人か横になれるくらいの広さを有しているようだった。

     これは一体どういうことだろう。酒に酔っている。そんな自覚はないけれど、もしかして飲んだ記憶を丸ごと無くしているんだろうか。

     そこまで考えて、まさかそんな筈は無い、と思い直した。仕事に支障をきたすような飲み方はしないと自負しているし、万が一にでも記憶が飛ぶ程の酒を飲んだのならば、他にも体調に変化が現れる筈だ。しかし今のクリックには、身体を動かしにくいというただ一つの点を除けば、頭痛だとか吐き気といった二日酔いを連想させるような症状はまるで見られない。
     
     では、自分にしては珍しいが熱でもあるのかもしれないな。そう思うことにしたクリックが、上手く動かない手をどうにかして自分の額に当てようとした時だ。違和感なんて話では到底済まされない、ある決定的な変化に気がついた。

     そこにあったのは手ではなかった。
     それは何かしらを把持するために進化を遂げた人間の手なんてものではなくて、もっと別の、例えば地面をできるだけ速く走る事に特化したような形状をしていた。
     平たく言うと、それは蹄と呼ばれるものだった。

     なんだこれは、と思わず声に出したつもりだった。
     しかし実際にはそうはならず、めえ、というか細い声がクリックの喉奥から漏れ出た。
     状況が全く飲み込めないまま、恐る恐る自分の身体に目をやる。蹄から続く手首は記憶にあるよりも随分と細い。それを隙間なく覆う白い和毛が、光を反射して輝く様子はいっそ眩しいくらいだった。

     今すぐにでも自分の姿を確認したかった。部屋の壁に立て掛けてある姿見に、今の自分を映したくて堪らなかった。おそらく人の姿をしていない事は確かだったが、一体どのような変化を遂げているのか知らないわけにはいかなかったし、また何かの間違いであればそれ以上の事は無い。

     そうしてクリックは身体を起こそうとして、何度もよろめく事になった。その間も相変わらず、右肩は痛みを訴え続けている。
     どうやら今の身体は人間のものと作りが大きく異なるようで、それがクリックを大変に混乱させた。二本の足で歩くことですらままならない。今まで何の問題もなく二足歩行をしてきた生き物が、突然四足で歩かなければいけないというのは、想像以上に神経を使うものらしい。
     生まれたての草食動物といった様子で、よろよろと姿見の前まで辿り着いたクリックは、目覚めた瞬間からあった違和感のその全てが、思い違いなどではない事をついに悟った。

     そこにいたのは、一匹の子羊だったのだ。

     子羊になってしまった。
     目が覚めたらどういうわけか、真っ白でふわふわの子羊になってしまっていた。そんなふざけた事実を一体どうやって受け入れられるだろうかとクリックは思った。
     けれど何度見てみても鏡に映し出されるのは、狼狽えた様子で鏡の前を行ったり来たりする、ろくな羊角もまだ生えていない小さな子羊の姿だった。


    「クリック?いつまで寝ているんだ。この間も遅刻したばかりだろう」

     ノックの音が響く。まさか、友人が寝汚い自分を見兼ねて起こしにでも来てくれたのだろうか。
     目を覚ましてから随分と時間が経ってしまっていたのだと、その時初めて気が付いた。その善意を向けられたのが今日でなければどれだけ喜ばしい事だったか、同時にどれだけ素直に彼に向かって礼を言えたか分からない。
    「ごめんオルト、今日は部屋から出られそうにないんだ。具合が悪くて…」
    「…なんだ?今の声…」
     しまった、とクリックは思った。自分は今や声までもが人間ではなく、すっかり羊のそれとなってしまっていた事を、あまりの衝撃に失念していたのだった。

    「おい、何かあったのか?開けるぞ」
     ドアノブがゆっくりと回る。どうしてか鍵が開いている。閉め忘れた記憶は無いにも関わらず、外からの力によって確かに扉が開かれようとしている。
     ああ、ベッドの下に潜り込んで隠れれば良かった。そうすれば少なくともこの瞬間はやり過ごせたかもしれない。部屋の主が不在だと思い込んだ彼が出て行った隙を狙って、より人のいない場所へと移動できたかもしれないのに。
     けれどクリックがそう思い至ったのと、ぽかんと口を開けて固まる友人と目が合ったのとは殆ど同時だった。

    「こひつじ……」

     オルトがそう言い終わるより早く、クリックは駆け出していた。さっきまであんなにも歩行に手こずっていたのが嘘のようだった。こんなに細い体躯にも関わらず、しっかりと地面を蹴って走れるのだから不思議だ。クリックは生まれて初めて草食動物の身体のつくりに感謝していた。
     棒立ちになったままのオルトの横を抜け、勢いよく部屋を飛び出した。そのまままばらに行き来する聖堂騎士の間を縫って、脇目も振らずに駆けていく。肩が酷く痛んだが無視した。

     視界が白で塗り潰される。これからの事は何も考えていない。ストームヘイルの凶暴なまでの白魔が、容赦なく子羊の小さな身体に襲い掛かる。
     脚が重かった。ただでさえ頼りない程に細い脚が、雪に埋もれて上手く動かせない。身体を覆う柔らかな和毛は、とても極寒に耐えうるようには出来ていなかった。
     身体に雪が降り積もる。感覚が希薄になっていく。がくりと雪の上に倒れ込み、そのまま意識を手放しそうになった時だ。

    「クリック君?」

     聞き慣れた声が、子羊の耳に優しく触れた。

     自身に絶え間なく降りつけていた雪が、ぱたりと止むのを感じた。
     クリックが顔を上げると、一面の雪景色はいつの間にかどこかへ消え去っていた。どうしてか理由は分からない。代わりに燃える様な色彩が自分とその人とを囲んでいる。
     雪の代わりに褐葉が舞う。紅葉のとばりが降りた山々が連なる。その光景は間違いなくここがフレイムチャーチである事を物語っていた。
     ストームヘイルとこの場所を繋ぐ距離はとても短いとはいえない。またその道中も、決してやさしいものではない。
     ではどうして、いつの間に自分はここに辿り着いたのだろう。
     クリックは暫く考えを巡らせていたが、何よりも彼を驚かせたのは、突如として現れたその人が子羊の正体を一目で見抜いた事だった。

    「テメノスさん、僕が分かるので」
    「うーん、すみません。羊さんの言葉までは分からないみたいです。でも、君はきっとクリック君ですよね」
     この子羊を自分だと認識してくれる人がいた。以前のクリックならば、間違いなく神に感謝を捧げているところだ。けれどこの奇跡は神ではなく、目の前のこの人物の推察力――今回に至っては少々鋭すぎる気がしないでもないが――によるものだと分かっているから、そうしなかった。代わりにめえと一声鳴いて、肯定の意思を表した。
    「君も中々不思議な子ですね。どうして子羊になってしまったの?」
     問い掛けながら、テメノスがひょいとクリックを抱き上げる。あまりに簡単にそうするものだから、クリックの中の矜持であるとかそういったものが、少しばかり傷付いたような気がした。
     散々駆け回った疲労を、今になって身体が訴え始めたらしい。細くて心配な位だと思っていたテメノスの腕の中があまりに安心出来るので、クリックはいつの間にかうとうとと微睡んでいた。そうして今度こそ、本当に意識を手放していった。

     
    ◆◆◆


     目を覚ますと、ひとりで小屋の中にいた。

     ここはどこだろう。あの人は一体どこへ行ってしまったのだろうか。

     一部屋しか無いこの小屋を、以前なら手狭に感じていただろうと思う。けれど今のクリックにとってはむしろ広すぎるくらいだった。
     そうして辺りを見回している内に、戸を叩く音がした。
     驚いて身を縮める。動作の一つ一つまでもがまるで本物の子羊になってしまったかの様で、クリックは苦笑した。

    「目が覚めました?」
     靴の音を響かせながら室内へと入ってきたのはテメノスだった。彼はそのまま、クリックの目の前にそっと器を並べていく。
     今になって気付いた事だが、この身体はどうやら空腹だったらしい。鼻腔をくすぐる匂いがして、思わずそれらを覗き込んだ。一つはミルクの満たされた鉢。もう一つは果物、小さく切られた根菜と、何やら干し草の盛られた皿だった。
    「今の君が何を食べるのか分からなくて」
     それとも身体が子羊だから、ミルクだけでいいのかな。流石に肉は食べられませんよね。そんな事を呟きながら、そっとクリックの頭を撫でる。柔らかな感触が気に入ったらしい。暫くの間、クリックは自分の頭を好きにさせていた。
     
     この小屋はクリックの為にあてがわれたものらしかった。テメノスが仕事の合間に時間を作って、ここを訪れてくれるという。
     有難いと思った。もしも外に放り出されたままだったら、うっかり魔物の胃袋に収まる事になっていたかもしれない。それか脱走した家畜と間違われて回収され、その一生の殆どを、毛を蓄えては刈られる日々に費やす事になっていたかもしれない。あるいは新鮮なラム肉にかこうされて、臭み消しの為の香草と心中する羽目になっていたのかもしれない。

     テメノスの気遣いに感謝した。だが、今のクリックはそれを伝える言葉を持たなかった。代わりに一声めえと声を上げ、用意してくれた鉢に口を付けようとして、――正確には一口だけ付けて――すぐに止めた。
     ミルクの表面に波紋が静かに広がった。クリックはどこか気まずいような心地で、それが徐々に収まっていく様をじっと見つめていた。
     人前で、それもよりによってこの人の前で、動物のような格好で何かを口にするのが少し躊躇われた。

    「…では、ゆっくり食べて下さいね。私は戻ります。ここには出来るだけ来るようにしますから」
     クリックの心の内を察したのかは分からない。テメノスは子羊の背を優しく撫でると、戸口へと向かった。
    「大丈夫、きっと元の姿に戻れますよ」
     そう言ってテメノスは笑った。

     
     クリックは鉢をすっかり空にしてしまってから、窓を打つ風の音に耳を傾け、ひとり考え事をしていた。
     テメノスは、クリックが人間の姿に戻れる可能性について、少なくとも希望を持っていない訳ではなさそうだった。もちろんそれはクリック自身も同じだ。また以前と同じ様に過ごせるのなら、それ以上に望むことはない。

     でももし戻れなかったとしたら。これからずっとこの姿のままだったら。そうしたら、聖堂騎士としての自分は一体どうなってしまうのだろう。
     実際のところ自分は今、無断で聖堂機関を抜け出ている事になっている筈だ。周りの人々は、特にオルトはそれについてどう思っているんだろうか。
    怒っている。呆れている。それとも心配しているかもしれない。彼の眉間に刻まれる皺を、自分のせいで深くしてしまったのなら申し訳ない。
     自分はこの姿でいる限り、ここであの人に匿って貰わなければきっとまともに生きていく事も叶わない。けれどテメノスにだって生活や仕事がある。もっと他に考えたい事があるだろうに、彼の負担になりたくなかった。
     彼の心配事の一つとして、彼の中に僅かも存在していたくはなかった。



     戸を叩く音がした。
     何もない部屋というのは、こんなにも簡単に時間の感覚を失わせるのだという事を、クリックはこの姿になってみて初めて知った。
     一体どれくらいの時間が経ったのか見当もつかない。がばりと勢いを付けて起き上がると、やはり右肩に鈍い痛みが走った。
    「すみません、起こしてしまいました?」
     そっと小屋に足を踏み入れたテメノスは、クリックが食事を終えた器を覗き込んで、ふむ、と小さく頷いた。次からこの子羊に何を差し入れるのが望ましいかを、今この瞬間のうちにすっかり理解してしまったようだった。
    「他になにか欲しいものは……ああ、ごめんなさい、話せないんでしたよね。クリック君は、私の言葉は分かっているの?」
     肯定のつもりで、めえと鳴く。けれど子羊が本当に言葉を理解しているのか、それとも意味もなく鳴いているのか、彼にはその判別がつかないかもしれない。クリックはテメノスに対して羊の声で返事をする度に、そういう不安に見舞われていた。
     心が繋がっていれば余計な言葉などいらないと誰かが言っていた。それでも実際に言葉を交わす事ができないというのは、こんなにも距離を感じさせるものなのだな、とクリックは思った。
     
     
    ◆◆◆


     それからまた、どれくらいの時間が経ったのだろう。
     テメノスは、クリックが出来るだけこの空間で過ごしやすいように工夫を凝らしてくれていた。けれどその聡明な頭を子羊の生活の為に使わせてしまう事について、クリックは度々申し訳なく思っていた。
     自分はいつ元の姿に戻れるんだろう。聖堂機関での自分の扱いは、一体どうなっているんだろうか。クリックは時々そんな事を考えながら、多くの時間をそこで過ごした。
     寝転がってみたり、蹄が木の床を叩く音に耳を傾けてみたりして、そうしてこの何もない部屋で、意味のない行動に意味を見出す事に一生懸命になっていた。
     
     する事が無かった。というのもこの身体では、以前のように空いた時間を鍛錬に使うことなど到底できそうになかったからだ。またいくら鍛えたところで、それを発揮できるような体躯ではないと理解していたからだった。
     この蹄では、もうどう頑張っても剣を握れそうになかった。

     
     戸を叩く音がした。
     ここでテメノスを迎えるのは、もう何度目になるか分からない。途中から数えるのをやめてしまった。それよりも、テメノスがクリックに向ける笑顔に少しずつ陰りが見え始めた事の方が、他の何より気掛かりだった。
     テメノスはきっと疲弊しているのだ、とクリックは思った。彼はいつ終わるとも分からないこの日々に心を摩耗させている。そしてその原因を作っているのが他ならない自分であるという事も、クリックはよく理解していた。

    「子羊くん」

     空いた器を片付けながらテメノスがぽつりと呟いたので、クリックは顔を上げてその視線を受け止めた。以前ならば、見上げられるのはクリックの方だった。

    「また君の声が聞きたいな」

     そう言って彼は力無く笑った。彼がそんな事をこぼしたのは、クリックの姿が変わってしまって以来初めての事だった。
     子羊じゃありません。返した言葉はきっと、テメノスには届いていない。



     それでも戸を叩く音は、日に決まった数だけ必ず響いた。
     それはテメノスが無理をしてでもここを訪れている事を意味していたし、同時にそれだけ彼の時間が奪われているという事も示していた。
     クリックは、テメノスが今でも少なからず自分に抱いている希望を、戸を開けられるその度に裏切ってしまっている事を知っていた。優しい彼が、それを決して口にしたりはしないという事も。
     
     そして彼のこれからの為に、自分がどうするべきなのかも分かっていた。


    ◆◆◆


    「クリック君?」

     器を回収しに来たテメノスが、心配そうに名前を読んだ。皿も鉢も、もう随分前に中身を入れた時とそっくり同じ状態で、全く手つかずのままだった。
     小屋の片隅では蹲った子羊が、外敵を見るような目でテメノスの姿をじっと見据えている。

    「クリック君、具合が悪いの?」
     子羊の返事は無い。
     張り詰めた空気を感じ取って、テメノスは少しばかり緊張した。クリックの様子がどうやら普通ではない事を、既に見抜いてしまっていた。
     こつり、と出来るだけ小さく抑えた靴の音が部屋に響く。床がぎいと悲鳴を上げてそれに応える。今の彼を少しでも刺激してはいけないかもしれない、とテメノスは思った。
     ゆっくりと、一人と一匹を隔てた距離が縮められていく。それがやがて触れ合えるくらいになる頃、テメノスはそっと身を屈めて子羊の目を覗き込んだ。
    「……どうしたんですか?」
     子羊の返事は無い。けれど見つめ返すその目は、これ以上自分に近づくなと警告しているようだった。
     クリック君、ともう一度子羊の名前を呼んで手を差し伸べた。その動作は、彼と初めて出会った日の事を思い起こさせた。

    「……!」
     手に痛みが走った。
     蹄が床を叩く音が響く。子羊が駆け出して、外敵との間に再び距離を置く。
     自分はこの子羊に噛まれたのだと、テメノスは少し遅れて理解した。手の甲に滲んだ赤が、それが間違いなどではないという事を何より確かにしていた。
     どうして、と言いかけた言葉を飲み込む。子羊が変わらず自分に向けるその目を見て、まるで手負いの動物のようなその姿を見て、ある一つの考えに思い至ったからだった。
    「…まさか私が分からなくなってしまったんですか、クリック君」
     クリックの精神までもが人間のものではなくなってしまったのではないか。そういう意味でテメノスは問いかけたが、子羊の返事はやはり無い。威嚇するような姿勢をこちらに見せたまま、警戒を僅かも緩めようとはしない。
     テメノスは言葉も無く、自分を敵と判断しているこの動物の姿をじっと見つめた。気を抜くと今すぐにでも壊れてしまいそうなしじまが、一人と一匹の間を埋めていた。
     この子羊の中に確かにいたはずの青年の姿は、もうどこにも見当たらない。

     どこにも見当たらないように見えた。
     
     
    「……君は本当に嘘が下手だな」

     引き結んでいた口をそっと開いて、テメノスが呟いた。その言葉を受けて、もう人間の言葉なんて通じない筈の子羊が、僅かにたじろいだような様子を見せた。
     その人はそれに構わず続ける。流れる空気は、まるでこの場で審問でも行われているかのような緊張感を含んでいた。
    「それで騙せるとでも思ったんですか?私も随分と馬鹿にされたもんですね。分かりますよ、君の考えている事くらい」

     クリックは、動物の威嚇の仕方なんてものは知らない。人間なのだから当たり前だ。けれど、それでもこんな下らない芝居を続けなければいけなかった。強く決心したはずの心が、この人をいざ目の前にすると簡単に崩れてしまいそうだった。

    「私の事を心配しているんでしょう?これ以上、ここに来させたくないんですよね」

     もうこの子羊の中にクリックはいない。そういうことにしなければテメノスはきっと、ここからいつまでも離れられなくなってしまう。クリックを置いていく事が出来なくなってしまう。
     
    「……それとも本当に、私が分からなくなってしまったの?」

     これが最後の質問だと言うように、殊更はっきりと尋ねる。
     それでもクリックの返事は無かった。テメノスは子羊に向けていた視線をゆっくりと下に落としてから、ひとつ息をついた。

    「……そうですか」

     また木の床がぎしりと音を立てたので、クリックは思わず身構えた。テメノスが、自分を無理にでも連れ出そうとするのではないかと思った為だった。
     けれど実際にはそうはならなかった。テメノスは子羊のいる方向ではなく、戸口に向けて歩みを進めていた。
     
    「…扉は開けておきますから」
     小さくそれだけ言って、テメノスは振り返る事もなく小屋を後にした。
     あとには一匹の子羊と、部屋を満たす沈黙だけが残された。


     いつの間にか陽が落ちていたらしい。薄闇の中に、かたわれ月が浮いていた。
     開け放たれた扉から月を眺めながら、あの人は騙されてくれただろうか、そうであればいいとクリックは考えていた。
     いや、聡いあの人の事だ。自分なんかに騙される筈がない。きっと全て分かっていて、それでも出ていってくれたのだ。クリックはひとりきりでぼんやりと、そんな事も考えていた。

     結局のところ、テメノスがこの子羊に向けていた眼差しは最後まで、クリックという人間に向けていたものと全く同じだった。


    ◆◆◆


     
     小屋にはそれから誰も来なかった。
     ひとり、じっと目を閉じていると、よく騎士として剣を振るっていた時のことが思い出された。

     自身に宿ると言われた清い炎を信じて、まっすぐに歩んできた日々。理不尽に立ち向かい悪を叩っ斬り、力無き者の力になる。あの人はそれを青臭いと笑って、それでも自分を認めてくれた。それが本当に嬉しかったのだと、今更になって気が付いた。
     この意識まで完全に子羊のものになってしまったのなら、どれだけ楽になれただろう。けれど精神だけは人間のまま今も変わらずここにあって、それがクリックの心をいつまでも苛み続けていた。
     それでも、あの日々が自分の中から永遠に失われてしまうよりはずっといい。きっとそうに違いないとクリックは思った。

     そうして日々の記憶を反芻して、思い出すのはやはりあの人の事だった。
     あんな態度をとっておきながら、本当は今すぐにでも帰ってきて欲しかった。また子羊だなんて言って揶揄って、それに言い返す自分を見て微笑んで欲しかった。
     けれど同時に、これで良いと思っていた。自分にはもうあの人を守る事も、隣で共に戦う事も出来ない。無力な子羊の元に帰ってくる義理なんてどこにも無いのだから、自分の事なんて忘れて幸せに過ごしてくれていればそれでいい。
     部屋の中にはただ音も無く、埃と時間が積もっていった。



     小屋を訪れる者はもういない。
     あの人が自分という枷から解放されたのだと知った子羊は、騎士だった頃の日々を夢想しながら、身体を縮めてひとり眠りについた。

     


    ◇◇◇



    「君、それでそんなに顔色が悪いの」

     宿屋の一室。僕の話を黙ってじっと聞いていたテメノスさんが、困ったように眉根を下げながら言う。
     水を打ったような静けさが耳に痛かった。そのうち隣室の客が、部屋を出る支度を始めたようだ。壁一枚を隔てて聞こえてくる物音や声が、やけに大きく響いている。
     なんとなく気まずくて、歯切れの悪い返事をする。そうしながらも僕は、僕を揶揄うのが半ば趣味のようなこの人が、今の馬鹿らしい話を笑い飛ばさなかった事を少しばかり疑問に思った。

    「あの…笑わないので?悪夢にうなされてすっかり寝不足だなんて、そんな子供みたいな話…」
    「笑うどころか怒ってますよ。夢の中の私は随分と薄情なんですねぇ。君、普段から私の事をそんな風に思ってるの?」
    「そ、そういうわけでは……!」
    「なんてね、冗談です」

     やられた、と僕は肩を落とす。
    「君が本物の子羊になってしまっても、見捨てて置いて行ったりなんかしませんよ。そうですね、大聖堂の周りの草でも食べてもらおうかな。いくら刈っても伸びてきて困ってるんですよ」
    「ふざけないでくださいよ!」
     僕が思わず声を上げると、彼はいつものようにくつくつと笑った。しばらくそうしていた後、細めたままのその慧眼で、僕の右の肩口に視線を移す。
    「…悪夢の原因は、その怪我ですか?」
    「………」

     確信は無い。けれど恐らくそうに違いなかった。
     先日、魔物との戦闘で負った怪我。彼の迅速な処置のおかげて大事には至らなかったが、だからといって無視出来る程に小さな傷では決して無かった。
     もちろんその後は剣を振るう事なんて出来ず、それどころか後ろで守られる始末だ。自分を庇いながら戦う彼をただ見ている事しか出来ない無力感は、相当に耐え難いものだった。

     剣にも盾にもなれない自分が情けなかった。もしこの怪我が原因でこれから先、二度と剣を握れなくなってしまったら。そうしたらその時は、騎士である事をやめなければいけなくなるかもしれない。
     お守りすると、隣で共に戦うと誓ったあの人は、そんな僕の姿を見てどう思うだろう。
     幻滅されるのが怖くて、失望されるのが恐ろしくて、肩を覆う痛みはそんな不安を際限なく煽るのに充分すぎた。だからあんな悪夢を見たのだと、そう言われても否定は出来ない。

    「…君の腕は確かに頼りにしています。でも、もし君が何らかの理由で剣を手離す事になったとしても、私は落胆したりなんかしませんよ」
    「………でも」
    「逆の立場なら君はどうなの?もし私が大きな怪我かなにかで、何も出来なくなってしまったら」
    「…落胆なんてしません。僅かも」

     ね、と彼はまた笑った。

    「どうあっても君は君ですよ、少なくとも私の中では。だからすぐには難しいかもしれませんが…どうか安心して下さい」
    「………」
    「というか君ね、そんな夢にうなされるくらいなら、初めからあんな無茶しないことですよ。いい加減になさい」
    「え!?」

     まさかこの流れで怒られる事になるとは思わず、面食らってしまった。ぽかんと口を開けたままの僕に彼は構わず続ける。
    「私がどれだけ心配したと思ってるんです?心労が祟って職務に支障をきたしたら、責任とってくれるんでしょうね。ああ全く心臓に悪い」
    「す……すみません……」
    「分かったなら安静にしておきなさい。まだ完治したとはいえないんですから。ほら、眠れないなら紙芝居でも読みましょうか?」
     結構です。放っておいたら本当に紙芝居の準備を始めてしまいそうだったので、僕は食い気味にそれを突っぱねた。それを受けた彼が小さく笑う。ついさっきまで怒っているようだったのに。本当にこの人には、気持ちを振り回されてばかりいる。
     てきぱきと寝台に身体を沈めさせられる。寝かしつけられている小さな子供のようでばつが悪かった。そうやって意識のやり場に困っていると、彼の温容な視線と目が合った。

    「君がもし本当に子羊になったら、天気のいい日に一緒に散歩に行くのも楽しいかもしれませんね。飽きないように毎日色んな草を食べさせてあげますから、安心してください」

     うーん、毎日草はちょっと勘弁願いたいな。たまには肉が食べたいけれど、羊の身体じゃ難しいのかな。
     そんな事を考えている内に、心地よい気怠さで瞼が重くなっていく。寝不足の身体はどうやら、草よりも肉よりも睡眠を欲していたらしい。
     そのまま優しい声に誘われるようにして、僕はゆっくりと無意識の海に沈んでいった。

     まだ少し肩は痛んだ。けれどきっと、あの夢はもう見ないだろう。不思議とそんな気がした。
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