寒い朝には 冷めたコーヒーは、不味い。今、俺の目の前にはコーヒーの入ったマグカップが置かれていた。冷めきって嵩が減ったことを示すように、水面から少し上の壁面には茶色の輪が残っている。それは、このマグカップに熱々のコーヒーが注がれてから、かなりの時間が経過していたことを物語っていた。今朝は、今季最高に冷え込むって言ってたもんな。とは言え、熱いシャワーを浴びたばかりの俺には、この寒さが心地よく感じられた。俺はTシャツとトランクスだけを身につけて、椅子へ座った。
キッチンにある白木のテーブルで遅めの朝食を取ろうとしていた俺は、目の前にあったコーヒーを一口だけ含んだ。室温と同じになったコーヒーは、まるでアイスコーヒーのように冷たくなっていた。だが、その風味はアイスコーヒーと呼ぶには程遠く、冷めたせいで味も風味も薄く感じられた。それでも舌の上に残るガツンとパンチの効いた苦味で、中身は俺好みの深煎りローストのコーヒーだったとわかった。きっと、淹れたてだったら美味かっただろう。
このコーヒーを淹れてくれた主――香は、俺の部屋のベッドで惰眠を貪っている。時計の針は、もう十時半を過ぎようとしているのに、まだ起きてくる気配はない。……寝たのは、ついさっきだもんな。当分起きては来ねぇだろう。俺は再びコーヒーを、口へ流し込んだ。
そう。何を隠そう、香は一度起きて、このコーヒーを淹れてくれてたんだ。俺を目を覚まさせるための、あっつあつのコーヒーをな。コーヒーを煎れてから俺を起こしに来た香は、何を思ったか、俺に目覚めのキスをくれた。いつもどおり、俺を蹴り起こせばよかったものの、『起きて、獠……』なんて優しい声を掛けられたら、万事休す。大人しく子羊ちゃんを逃してやるつもりだったが、喰う気マンマンになっていた愛棒とともに、香をベッドへ引きずり込んだ。
起きてから、シャワーを済ませていたのだろう。香からは清潔な石鹸の薫りが漂っていた。そんな香は、猥雑に汚したくなる。香も最初は離せだの喚いていた。だが、手と口と声で散々に蕩かせてやれば、身体を重ねる頃にはすっかり大人しくなっていた。俺は欲望のままに香を抱いた。
俺の熱が鎮まったころには、香は眠りに落ちていた。いや、気絶して落ちたと言った方が正しかったかもしれない。俺ももう一度、香とともに眠ろうと思ったが、目覚めの運動よろしく一汗を掻いちまった後だと、一向に眠気は来なかった。このまま情交の跡が色濃く残るベッドで一緒にいると、またムラムラしちまいそうだった。だから俺は、香だけを残しベッドから起き抜けた。
不味くて飲めねぇと思ったのなら、捨てて新しく淹れりゃいい。沸騰して十秒経った熱湯で淹れたインスタントコーヒーでも、新しく豆から挽き直したコーヒーでも。だが、何故かそんな気分にはなれなかった。あいつが俺のために淹れてくれた、このコーヒーを粗末にするなんてできない。捨てちまったら、あいつの気持ちまでも捨てることになりそうで――。
俺はマグカップに残っていたコーヒーを、一気に呷った。冷えたコーヒーが喉元を過ぎていく。熱冷めやらない火照った身体には、この温度ぐらいがちょうどいい。
「……まっず」
俺は空になったマグカップを、静かにテーブルへ戻した。いくら不味くても、一度(ひとたび)腹の中にいれちまえば、俺の血となり肉となる。そこに込められた思いも、俺と一つになるはずだ。
「ん〜……」
両手を高く上げて伸びをすると、身体の隅々にまでエネルギーが満ちていくような気がする。今日は、どんな一日になるのだろう。願わくば、面倒な仕事も、望まない客の襲来も、何もなければいい。とりあえず、香はまだ起きてきそうにねぇから、伝言板の確認にでも行ってくるか。それから、今度は俺が香のために、眠気覚ましのコーヒーを淹れてやろう。とびっきりの、苦いやつをな。
了