期限付き〝恋人ごっこ〟する~(以下略)③ 夏に発売予定のアルバムは、休止前最後のツアーの主題となる大切な一枚だ。
HiMERUはESビルに併設されたレコーディングスタジオへと急いでいた。腕時計が示す時間は十六時を過ぎたところで、開始予定時間を越えてしまっている。撮影が押してしまったからなのだけれど、自分のせいで集まってくれているスタッフのリスケをさせてしまうのはいただけない。
スタジオの重い扉をグッと力を入れて開くと、中からリード曲のメロディと歌声が聞こえてきた。思わず小さく息をつく。良かった、こちらもまだ前の誰かが終わっていなかったらしい。
(この声……)
すぐにわかった。一語一語が聴き取り易い、力強くはっきりした発声。きちんとボイストレーニングを積んでいなければ出せない声。
心地良いその声に耳を傾けているとHiMERUに気付いたディレクターが手招きしてきた。何度か一緒に仕事をしたことがある彼は数多くいるレコーディングスタッフの中でも三十代半ばと比較的若い方で、気さくな人柄もあって気の良い兄貴分のような付き合いをしている。彼が今日のディレクションの主軸であることに、張り詰めていた緊張感が少し解れた。
「お疲れ様です。遅れて申し訳ありません」
「いやいや大丈夫。こっちも延びてるし」
「何か問題でも?」
声を潜めたHiMERUに、彼は「逆、かな」と愉し気に笑ってみせる。
「天城くん調子良いみたいでね。こっちからお願いして何パターンか録ってみてるところ」
「そうですか」
確かに、スピーカーから空間にあふれ出す燐音の歌声は踊るようにリズミカルだった。かと思えば、誘いこむように深く響いて。聞いているこちらの胸も弾んでくるようだ。知らずHiMERUの口角も上がる。燐音の歌は好きだ、昔から。
録音ブースの透明なガラス越し、集中しているらしい彼はHiMERUの存在には気づいていないようだった。
「――不思議だよな」
視線をブースの中に向けたまま。ぽつりとディレクターは呟く。
「クレビと仕事させてもらうたびに思うんだけど。天城くんとHiMERUくん、普段の声質全然違うじゃない?歌い方も実は結構違う。ソロパートだとよくわかるね」
天城くんとHiMERUくん、そう口にしながら、彼の握るペン先がピッピッと跳ねて次にゆらりと波を描く。二人の歌い方を端的に図で表すように。
「それなのに、一緒に歌うとおもしろいくらいハマる。同じ音がする。どっちかに寄せようとはしてなくて、重なって混ざって新しい音が生まれてる感じ」
「……そう、でしょうか」
「そう。相性が良いんだろうね。さすがダブルセンター」
君たち二人でないと出せない。
さらりと告げて、アウトロが消えると同時に彼はマイクのスイッチをオンにする。「オッケー!良かったよー」とブース内に響いた声に、ヘッドホンを外した燐音は振り返って初めてHiMERUの視線に気が付いたようだった。少し驚いたような顔をして、それから自慢げにピースサインを送ってくる。ああもう、あんたのレコーディングが良かったのはわかった。ずっと聴いていたんだから。
満足そうに出てきた燐音と交代でブースに足を踏み入れる。次はHiMERUの番だ。
どうやらニキとこはくの収録はこの後のようで、イントロに続いて聞こえてきたのは録ったばかりのただひとりの歌声。ヘッドホンを耳に押し付けるように両手を添える。ちらりと視線をブースの外に向けると、ガラス越しに不敵に笑う碧い瞳と視線が絡んだ。
(相性が良いって?)
わざと挑発するように笑い返してやる。
知っている、もうずっと前から。
引けを取らない歌を歌ってみせるからそこで聴いていれば良い。
***
窓の外から聞こえてくる雨の音が、小さなバラード曲のようだと思った。ふ、と浮き上がる意識に引き摺られるようにして瞼をそっと上げる。フットライトのオレンジ色にぼんやりと染まる寝室。
(――なんじ……?)
いつもの場所、枕の横に置いてあるはずのスマホに手を伸ばそうとして、けれど動けないことに気付く。
(あ、そうか……)
HiMERUの背後から長い腕が回されて、抱きこむように動きを封じられている。その腕の持ち主も、自分も素肌を曝け出したままだった。いつの間にか眠りの淵に落ちていたらしい。
どうにか引き抜いた右腕で手繰り寄せた端末の、画面に表示された時刻は午前二時。最後に時計を見たのが日付が変わってすぐくらいだったから、思ったほど寝落ちてはいなかったようだ。
それよりも。気持ちよさそうに寝息を立てているこの男、夜のうちに自分のアパートに帰ると言っていなかったか?明日(もう今日だけれど)はユニット仕事の前に個人的な用事があるとかなんとかで。終電はとっくに過ぎているけれど、近くの駅前まで歩けばすぐタクシーを捕まえることができるだろう。
「……あまぎ」
身体を柔らかく受け止めてくれるベットから上半身を起こし、未だ目を閉じたままの燐音に声をかけてみる。掠れてしまったその声は、雨音しか聞こえないベッドルームに良く響いた。ううん、と咳払いを一度して。
「起きて下さい。帰るんでしょう?」
むき出しの肩を揺さぶってみる。うぅ~……と嫌そうに眉が寄ったから、あまぎ、ともう一度呼びかけながらぺちぺちと頬を軽く叩くと、まるで苦行を受けているかのようなしかめ面でようやく目が開いた。
無言で伸びてきた腕に後頭部を撫でられて、そのまま引き寄せられる。端整なカオが近付いて。唇が触れ合いそうになる直前、隙間に掌を差し込んで止めた。それは約束違反。
「……メルメルは俺っちを帰してェの?」
少しだけ、不機嫌そう。寝ているところを起こされたから?……それとも。
「――帰る、って言ったのはそっちだろ」
恋人(仮)が何を言っているのか。セックスだけしてお互いスッキリしたらそれでお終い。後はゆっくり良い夢を。
そうやって始まった、期限付きのごっこ遊び。それで良いはずだろう?
HiMERUの瞳が揺れているのを見て取ったのか、開きかけた口を静かに閉じた燐音は背を向けるようにして身を捻ると、一度伸びをしてから起き上がった。ベッドのスプリングがギシリと鳴く。
それから「げ、雨降ってンじゃん」と呟いた声はもういつも通りだったから、HiMERUもその背中から目を逸らして、脱ぎ捨てたままだった下着を拾い上げた。
合鍵くれれば勝手に帰るのに。そんな言い分を却下したのももう何度目か。
玄関で靴紐を結びなおしている燐音を、素肌にパーカーを羽織っただけの薄着で静かに見下ろす。彼が外に出たらまた鍵を閉めなければならないので。
寝癖で後ろ髪が潰れていたから、指先でちょいちょいと直してやる。なァに?と見上げてきた顔は少し締まりがない。
「別に。……これ、持ってって下さい」
以前やむを得ず買ってそのままだったビニール傘を貸してやることにした。必要無くなったら捨ててくれて構わないし。
「二度寝して仕事に穴を空けたりしないでくださいね」
「そっちもなァ」
「HiMERUが寝坊するとで、も……ふぁ」
言ったそばから欠伸を一つ零すと、傘を受け取った燐音が小さく笑った。
「じゃ、また後でェ。――おやすみ」
金属の擦れる音をほとんど漏らさず静かに閉じられた扉。世間は寝静まっているという時間を考慮して、できるだけ音が響かないように。
「……」
立ち去る足音はすぐに聞こえなくなった。
それからカチリとゆっくり鍵をかけると、閉まった無機質なドアをじっと見つめて息を吐く。
一人になったこの瞬間はいつも少しだけホッとする。良かった今日もあいつは割り切って帰って行った。この胸の中にもやもやと渦巻くおかしな感情を無視することができた。
少しだけホッとして――戻った寝室で、色濃く残る他人の気配に息を飲むのだ。
口を開けたままのゴムの箱をチェストに片付けようとして、中身が空になっていることに気付く。もう十二回。いや、一晩に複数個使うことの方が多いし、リビングでする時などソファを汚したくなくて(一回目の時に懲りた)HiMERUにも使うことがあるから、実際はもっと少ない回数で一箱消費していることになる。それがもう……何箱目?空箱はすぐに二箱を越えて、破いたパッケージを数えることを止めた。何度身体を交えたか、数えてしまうなんてどうかしている。
「……大きいの買わせるか」
今度買いに行く時は得用パックにでもしようか。どうせすぐ使い切るのだから。
空箱を握り潰してゴミ箱に投げ捨てると同時、ピコンとスマホが鳴った。見ると「タクシー捕まった。傘、今度返すな」と短いメッセージ。
「捨てて良いのに」
律儀な奴。……また近いうちにここに来る、その理由付けだったりするのだろうか。
シトシトと降り注ぐ雨のせいもあるのだろう、重い身体を倒すようにしてベッドに転がる。シャワーを浴びたいのだけれど、思い出したかのように襲ってくる眠気に勝てそうもなかった。あと三時間……四時間は眠れるか。
皺の寄ったシーツは僅かに湿って冷たくて、自分のものではない、けれど嫌ではない匂いがふわりと漂う。この天気では仕事前に洗濯しても乾かないかもしれないな、と頭の片隅で思いながら、HiMERUの意識は雨音の中へ沈んでいった。