【クロスオーバー】有料記事をシェアします 僕はポートフォリオを二種類作っていて、片方は「この人なら大丈夫かな」と思った相手にしか見せない。スヴェンの場合は早かった、確か彼のところでアルバイトを始めて半年もしないうちに「見てあげよう」と言われた(僕の師匠は一流ファッション誌の仕事を受ける程の実力者なのだから、当たり前だけど「見せてあげる」じゃなくて「見て貰う」になる)
警察無線を盗み聞きして駆けつけた事件現場やICUのベッド、或いはそれを模したモデル達の写真。ぱらぱらっと半分程目を通しても、彼は特に講評を加えない。ただ「デジタルとフィルム、どちらが好きだい」と尋ねられた。
「そりゃあ、デジタルの方が使い勝手は良いと思います」
「フィルムも案外悪くないよ。味と個性が出る」
今考えれば、あれは僕の才能が凡庸だから、せめてそう言うところは拘れって意味だったんじゃないかと思う。スヴェン自身はデジタルカメラを使ってる訳だし。
それはそうとして、恐らくあの作品集がジャックを紹介してくれるきっかけになったのは間違いなかった。僕が既に有力なコネを持っていて、しかもそれが年上のちょっと怖い相手だって言うのも安心の担保になったのだろう。
僕より二つ年上のジャックはコロンビアの大学院に通う、あのグレスラー・オイル・カンパニーの御曹司。スヴェンと一緒にマンハッタンのコンドミニアムで暮らす、文字通り天上人だった。そんな大物をミューズと言うか、ナボコフの小説に登場する女の子のように好き放題扱っているスヴェンも、好き放題にさせているジャックも、どっちも頭おかしいと思う。けれどまあ、芸術家なんて皆何処かしら変わった所があるものだ。
で、そのジャック・グレスラーだけど、彼はテキサス生まれだから、フライドチキンを凄く上手に作る。こんな特別な日にスタジオへ篭ってる皆に振る舞ってあげようと思ったらしい。スヴェンはしばらく「そんな気を遣わなくて良いんだよ、彼らはこれが仕事なんだから」とか何とか電話越しにぶつぶつ言っていた。けれど最後は溜息をついて「もう肉を買っちゃった、だって?」と首を振る。
結局、僕がコンドミニアムまで揚げたてを取りに行く事になった。マフラーを巻いていたらスヴェンに五十ドル渡されて「ソーホーの『スイート・リハブ』でル・ミエルを二つ買って持って行ってくれ」と、それってトライベッカにあるこのスタジオから彼のコンドまでの直行じゃなくて、思いっきり遠回りしろって事だよね? と内心舌打ちしたけれど、仕方ない。名前は伏せるけど、あのシャネルの専属をやってるモデルが、キンキンに冷やしたベリーニと下剤の飲み過ぎで腹を壊して、ずっとトイレに篭ってるから、撮影終了は日付が変わるかどうかと言う時間になりそうだった。多分僕が戻ってきた頃には、スヴェンもシャッターを切り始めているだろう。
一本二十ドルするクソ高いケーキを買って、パーク街にあるスヴェンの家まで急ぐ。
すっかり夕闇に染まった林檎の街は、ベイクド・アップルみたいなシナモンとバターの擽ったくなるような匂いじゃなくて、くり抜かれた芯の方じみていた。暖房の効いた部屋の綺麗なキッチンで打ち捨てられて、後三十分後にはディスポーザーへ放り込まれる。林檎としては、種子とか本当に重要な方はそっちにあるのに、人間が食べないって理由だけで簡単に捨てられてしまう。実際固くて美味しくない、それにどこか、植物特有の青臭さも感じる。
三十三番街との交差点で騒いでいるのは救世軍かと思ったけれど、どうやらガザ侵攻に対する抗議活動らしい。それともウクライナ支援の方だろうか。前者だったら嫌だ、会う人会う人に当て擦られた思い出が蘇って不愉快な気分になる。(穏当なシオニストである家族の中で、僕は唯一の即時停戦推進派だ)
ブザーを鳴らした時どころか、家へ上げて貰っても、相当ブスッとした表情だったんだろう。ジャックは僕の顔を見るなり「寒い中、有難う」と申し訳なさそうに微笑んだ。右目に付けられた黒い革製の眼帯まで、下げられた眉尻のせいで微かに上下する。
「鼻先まで真っ赤だよ」
「外は氷点下かも」
「ごめん、僕が届けに行こうと思ったんだけど」
そんな事スヴェンが絶対許さないと分かっているのに、取り敢えず口にしとけば誠意になると思っているその建前が、ちょっとイラッと来る。カウンターテーブルに置かれたケーキの箱を見た時、彼が然程嬉しそうな顔をしなかったのも。
「スヴェンから」
「余計な気を遣わせちゃったな」
冷蔵庫へ入れちゃおうと思ったんだろう。甘いココアみたいな肌色をした手は、一度白地に黒い植物模様の描かれた箱を手に取って、けれど結局テーブルに戻す。
「まだ全部揚げ終わってないんだ。もう少し掛かるから、それ食べて待ってて」
「これ、どう考えてもスヴェンが君と一緒に食べる為に買わせた奴だよ」
「ケーキならもう注文して、さっき届いた」
彼、忘れちゃってるんだろうね、とぼやきながら、エプロンの紐を締め直す。ジャックが向き合ったコンロで、鍋はまるで土砂降りのような音を立てていた。
暇さえあればスヴェンに抱かれているせいか、ぴったりしたデニムに包まれたジャックの尻は体格の割に大きく肉感的で、何となくエロい。そもそもスヴェンは最初、ジャックの養父、あの伝説的黒人男性モデルでドルチェ&ガッバーナの美神、アーニー・ハンターと付き合っていたそうだ。どう言う経緯で息子の方に手を出したかは分からない。あの右目だって、愛人を寝取られた父親が殴ったせいだとか、旅行中事故に巻き込まれたとか、はたまたベビードールの虫除けに嫉妬深いスヴェンが熱いコーヒーをぶっかけたとか、何にせよ、控え目に言ってクソな話だった。
でもそれって、僕だけは絶対に糾弾しちゃいけない話だ。今は墓の下にいる父さんは、自分の息子がセックスフレンドとだらだら関係を続けていると知ったら、拳骨の一つじゃ済まさない。
僕もしょっちゅう、もう終わりにしようって頭をよぎる。シカゴとニューヨークは距離が開き過ぎてるし。僕がこっちでモデルの卵をつまみ食いしているのと同じように、トムだってちょくちょく男を咥え込んでいる節があった。彼はハンサムだから仕方ないけどね……でも幾らかっこいいとは言え、いや、だからこそ、三十半ばのお兄さんを八時間ぶっ通しで抱く二十一才なんて、僕位のものじゃないだろうか(僕だってちょっとは世間を知ったから、あのタイプの容姿であの年頃のボトムは案外需要が少ないと、ちゃんと知っている)
「ルー」
「んー?」
「ケーキ、食べないの」
「食べる」
「僕も食べたい。お皿とフォーク、棚の中にあるよ」
棚の中にあるよ、じゃないんだよ、普通は「取って」ってプリーズ付きで言うものなんだよ。何だか今日のジャックは、いつもに増してふわふわしている。もしかしたら少し酒でも飲んでいるのかも知れない。
結局チキンは揚げ終わってしまって、緑と赤のペーパーナプキンを敷いた巨大なタッパーに詰め込まれ、更に保冷バッグへ収められる。スタジオへ持って帰る時にはちょっと冷めてるかも。だって二十ドルのケーキは滅茶苦茶美味しい、最初の一口はザクっと行ったけど、思わず呻き声を上げてしまうほど。蜂蜜とオレンジとホワイトチョコのクリームが最高で、ちびちび削るように食べる。それに、温かい部屋でようやく指先まで体温を取り戻せて来たんだ。もう一度クソ寒い外へ出たいなんて、誰が思うだろう。
何ともない顔のまま、四口位でケーキを食べ終わったジャックは、ブラックコーヒーを啜りながら、隣の僕を眺めている。やっぱりぼんやりした顔つきのまま。
「撮影、今夜中に終わりそう?」
「エーファの腹具合次第かな。下痢してトイレから出て来ないんだ。下痢してるふりなのかも知れないけど……でもまあ、日付が変わる頃にはスヴェンも帰って来るんじゃない」
「良かった」
そう言った瞬間を、僕はうっかり目撃してしまった。まるで花が開いたように美しい、けれど人間の温かさを感じない微笑み。
これって絶対、二十三才が浮かべていい顔じゃない。もっと年老いた、少なくとも三十過ぎ位の……
こみ上げる衝動へ我慢出来なくなって、「ちょっとごめん」と席を立つ。寒い廊下へ出ていくのが嫌だったから、リビングの隅でスマートフォンをタップする。
最初は留守電に繋がったけど、三十秒もしない内にトムは折り返してきた。
「ルー?」
「ごめん、仕事中?」
「いや、今日は15時に終わった。今から社内のパーティーだ」
ロッテリーマシン製造会社の社長をしているトムは、本来ジェフ・ベゾス寄りの起業家なんだろうけど、買い取った会社から元からの役員をなかなか追い出せず(スーツの上着に肩パッドを一定以上入れている人間を射殺しても、公共の福祉の観点から無罪になるって判例が州の最高裁に無いだろうかと、以前彼は真顔で言っていた)そんな古臭い社内行事を行わなければならない。
「どうした、何かあったのか?」
明らかに鬱陶しい仕事を前にしても、彼はそんな気持ち露ほども表に出さず、心配そうに尋ねる。何だか鼻がつんとなった。
「何でもない……ごめん、クリスマスプレゼント、アマゾンなんかで買って」
「何だって?……いや、今朝も巻いて出社したよ。君はセンスがいいね、秘書に褒められた」
「ラルフじゃなくてポロだし」
「気持ちだけで嬉しいんだ」
「トムのも今朝届いたよ。ロードバイク、まだ乗ってないけど、春になったら使うから」
「冬に自転車は寒いもんな……」
あんた本当に馬鹿だな、と罵りたいし、どうしようもなく彼とヤりたくてしょうがないし。あのむっちりした胸元を揉みしだいてザーメンをぶっかけてやりたい、これぞホワイト・クリスマスだ──なんて言ったら、トムは余りの下品さに恥ずかしがって怒るかも。でも知ってる、彼だって嬉しいんだ。何せ彼は、ちょっと虐められるのが好きだから。
「二十八日にそっち帰るよ。来年の二日まで泊めて」
「実家へは……」
「帰らない。喧嘩になるの目に見えてるし。今年の最後と来年の最初、ずっとトムといたい」
実際のところ、こんな熱烈な感情を吐露する程、僕はトムの事を愛していないのかも知れない。けれど今のところ、このポーズを受け入れてくれるのは彼だけだ。やっぱり彼を切るなんて出来ない。しかも、こんなゆっくりと、明らかに高揚している溜息をつかれたら。
「分かった。気をつけて帰っておいで」
「うん。トムも頑張って。ポインセチア持ってくよ。ベッドサイドに置いて、花が萎れるまでずっとファックしようね」
「ルー!」
通話を終えて戻れば「僕の家でエロ通話しないでよ」とジャックは呆れ顔。再びケーキに戻り、フォークでクリームを極限まで薄く削ぎ落として口に入れながら、僕は本心からにっこりしてみせた。
「クリスマスなのに、恋人と会えないのって辛いよね。まあ、スヴェンは明日休みか」
「君は?」
「友達とメキシコ行くつもり。この時期あっちのモルグは盛況だから、遊びついでに一杯写真撮って来るよ。また見せてあげる」
「いらない。僕、怖いのは好きじゃないんだ」
へえ、そう。と、眼帯を見ながら肩を竦めてやれば、ジャックは残りのケーキにグサリとフォークを突き刺した。僕の口の中へ突っ込みざま、反対の手で保冷バッグを押し出す。
「早く持って行ってあげてよ。冷めるだろう」
まあ、ちょうど潮時だ。これ以上ここでダラダラしてたら暴発して、うっかりジャックとヤっちゃうかも。トムは案外欲張りだから、自分の取り分が減らされたら少し拗ねるかも知れない。
この街の人間で、聖夜に好きな人と会っている人間は全体の何パーセント位なんだろう。意外と多くないんじゃない? 残念だけど、ニューヨークは途轍もなくシビアだから。
じゃあね、と言う代わりに投げキッスを送っても、ジャックは無視して踵を返す。まだ揚げられていないフライドチキンは大皿一杯分を優に超える。どう考えてもスヴェンと二人で食べきるには多過ぎる。
若い愛人のせいで胃もたれしてる師匠の姿を想像したら愉快で、僕はうきうきした気分のまま、イルミネーション瞬く寒空へ再び飛び出した。