薬指の花「レノ」
扉が叩かれて、フィガロの声が外から聞こえた。
「いまいい?」
「はい。どうされました?」
扉が開いて、フィガロが部屋に入って来る。彼の手には、小さな箱。
「これ、指にはめて」
レノックスが箱を受け取って開けると、中には指輪が入っていた。銀色の指輪に、小さな緑色の宝石がひとつはめられている。慎ましやかな指輪だ。
「指輪?」
「今朝市場に行ったとき、君、また声をかけられていたじゃない。毎回丁寧に断っているのを見て、煩わしいんじゃないかと思ってさ。最近の人間は配偶者がいることを周知するために指輪をはめるだろう? だからこれがあれば、君に寄って来る人たちに余計な期待をもたせなくて済むんじゃないかな」
レノックスは左手の薬指に指輪をはめた。手をかざすと、窓からの陽光を受けて緑の石がきらりと輝く。銀の指輪に緑の石。まるで、フィガロの瞳のようだった。
つい最近(彼ら魔法使いにとっては百年ほど前であっても「つい最近」に分類される)になってから人間たちの間で広まった風習のひとつで、左手の薬指に指輪をはめていると、配偶者がいることを意味するのだという。結婚という約束を厭う魔法使いにとっては、とても縁遠い風習である。
けれど、たったひとり、レノックスは結婚指輪をはめた魔法使いを知っている。偉大なる魔女チレッタ。彼女の薬指に、結婚指輪があった。モーリス先生が苦労して貯めたお金を握りしめて買った、小さな石がついた指輪だ。チレッタが持っている数々の指輪の中で、その指輪が最も安価なものであったに違いない。けれど彼女は、どの指輪よりもモーリスから贈られた結婚指輪を大切に扱い、眺めるときにはいつもうっとりとした表情をしていた。彼女が、レノックスにとって初めて見た「結婚指輪をする魔法使い」だった。
よもや自分の指で宝石が輝くことになろうとは、レノックスは思いもよらなかった。フィガロとの交際は隠してはいないが、周知もしていない。互いに独身で、気やすい関係。そう思っていたので、まさか彼から指輪をもらうことになることも、予想だにしなかった。
今朝、レノックスはフィガロに帯同して市場へ行った。彼が魔術に使う素材を補充するためである。その後、市場にある露天で子ども達へ土産に渡す菓子を見ていた時、女性に声をかけられた。女性はこの辺りの露天商の娘だと名乗り、以前助けられたことへの礼と、好意を伝えてきた。
彼女は人間だった。レノックスは魔法使いであることは告げなかったが、この国の住人ではないことと、交際相手がいることを伝えて丁寧に断った。その間フィガロは菓子を購入していた。
涙を拭いながら立ち去る女性を見送って、ふうと息をついた時、
「ちょっと用事があるから、これを持って先に帰ってて」
とフィガロがレノックスに告げた。そして彼は荷物を渡すと、人混みに紛れて姿を消してしまった。今思えば、あれは指輪を買いに行ったのか。
フィガロの瞳のような指輪。少しだけ、フィガロが嫉妬したのかもしれない可能性に、嬉しくなっている己にレノックスは気がついた。
「嬉しいです、ありがとうございます」素直に、口に出す。
「どういたしまして」
「俺からも先生に指輪を贈ってもいいですか?」レノックスが提案する。
どのような反応をするだろうとフィガロを伺うと、彼は不思議そうに首を傾げていた。
「どうして? フィガロ先生もモテモテだけど、君みたいに口下手じゃないし、何より別に困ってないよ」
それは、フィガロの言う通りだ。彼は美しいため好意を寄せる人間も多くいるが、大抵は遠巻きに眺めて終わるので対応に困ることはない。彼の、優しげだがしかし圧のある美貌は、近寄りがたいのだろう。
レノックスは、フィガロが嫉妬心ではなく純粋にレノックスを案じて指輪を贈ってくれたことに気がついた。また、彼にとって薬指の指輪は、最近流行している人間の風習程度の認識で、そこに込められている心情は感知していないのだろう。
それでもやはり、レノックスは嬉しかった。
「そうですが、やはり、俺が心配なので、贈らせてください」レノックスは言った。純粋に好意を寄せる人間の他に、彼には信奉者も多い。そういった連中の方がずっと心配だ。もちろん、フィガロにとっては取るに足らない相手だろうけれど。
「心配、なんの?」
「フィガロ先生はおモテになるので」
「だから、困ってないってば」
「じゃあ、俺が困ります」
「じゃあってなに? なんで君が困るの?」
認識の前提が違うのだから、まあ、伝わらないか。しかし、思わず小さなため息が出た。
「ため息つかないでよ……」
「これを指につけていてください」
レノックスは花瓶に活けていた小さな花を一輪抜き取ると、茎を丸めて輪を作った。
レノックスはフィガロの手を取り、彼の左手の薬指に花の指輪をはめる。
「これ、アミュレットにしていた花だろう?」
「はい」
「いいの?」
「花はまた摘んできます。俺が指輪を買ってくるまでの代わりに、はめていて下さい」
「どうして?」
フィガロが再度、首を傾げる。賢い彼にもわからないことがある。心情の面は彼の不得意分野だ。
「予約です」
レノックスはフィガロの指先に口づけをした。
「指輪の意味、先ほどご自分でおっしゃていたじゃないですか」
レノックスのその言葉に、フィガロの賢い頭脳がすぐに答えを導き出したのか、さっと頬が赤くなる。自分がレノックスに指輪を贈ったことと、彼から贈り返されること。その意味を、彼は把握したのだ。
おそらく無意識に選んだだろう石の色が、彼の榛色の瞳と同色であること。それをレノックスに贈ること。そして『配偶者がいることを周知するために指輪をはめる』と言ったこと。つまり『レノックス・ラムの配偶者はフィガロ・ガルシアだ』とアピールしていることになる。
「ごめん、やっぱり外して……」
赤く染まった顔を逸らしながらフィガロが言う。レノックスに手を取られたままで、それ以上逃げようがなかった。
「いえ、外しません。嬉しかったので」
「こんな時に限って頑固を発揮しないでよ」
「フィガロ先生も、指輪をして下さい」
フィガロは、観念したのか、頷いた。
レノックスはフィガロの白い指に、赤い石が煌くのを想像する。その明るくて甘い、近い未来の幸福に、レノックスは小さく笑った。