「フィガロ先生、まだ寝てるんですか?」
陽の光から逃げるようにかぶっていた上掛けをひっぺがされて、一気に光が満ちたなかに連れ出される。眩しさに眉を顰めて、それから、駄々を捏ねるようにもぞりと寝返りを打った。そうすれば、案の定ミチルからもう、と体を揺さぶられる。少し膨らんだミチルの頬が簡単に想像できて、フィガロはたまらず笑い声を立てた。
「もうっ、先生起きてるじゃないですか!」
「ごめんごめん、ミチルが頑張って起こそうとしてくれるのが嬉しくて」
腰に手を当てて声を荒げるミチルの頬はやはり想像したとおり少しばかり膨らんでいた。
体を起こして、おはよう、とミチルの頭を撫でながらフィガロが笑みを深めれば、それをますますこども扱いされたと思ったのか今度は唇を尖らせて、少しばかり拗ねたおはようございますが返ってくる。だからか、フィガロがベッドから降りたのを見届けたミチルはすぐにパッと扉へと向かってしまった。
「早く身支度してください! 朝食先に食べ終わっちゃいますよ」
「はいはい、すぐ行くよ」
そんなミチルの催促の声を背に、椅子に掛けていた白衣へ手を伸ばせば、フィガロ先生、とちいさく呼ばう声が聞こえた。それに振り返ると、扉に半分隠れるようにしながらもミチルが満面の笑みでこちらを見ている。
「フィガロ先生、お誕生日おめでとうございます!」
そのままパタンと扉が閉じて、パタパタ……と駆けていく足音が遠ざかる。自然と頬が緩むのがわかった。
くすぐったい。とても。
自分の誕生日なんて味気のないものだと思っていた。
だって祝いの言葉なんて聞き飽きるほど聞いてきたのだ。けれどそれは、魔法使いも人間もフィガロに貢物をしてはそれに託けて己の願いを口にしていく、そのための前置きのようなもの。フィガロだってそれになにか感傷を抱くことなどなかった。いつもより貢ぎ物が多いかな、くらいの感覚だけで。ただ、それだけの日だった。
それが変わったのは双子とオズと共に過ごしていたとき、それから南の国で開拓に携わるようになってからだ。――それからかつての「あの子」と過ごした、たった一回もそうだったかもしれない。
純粋な、フィガロを祝うためだけのことば。今、ここに存在しているだけで、寿がれていること。
「……たまんないね」
ぞくぞくと背に走る高揚感で笑い出してしまいそう。ふわふわとして、なんだか体が軽くなるような。
こういうものが欲しかったのだ。ずっと。
「ふふ」
このところずっと、あまやかなぬるま湯に浸かっているみたいだ。
それから食堂でも口々に祝いの言葉をもらって、調子に乗っていつもより少しばかり詰め込みすぎたかもしれない朝食を摂って、席を立つ。
「それじゃあ、フィガロ先生」
「はいはい、わかってるよ」
賢者の魔法使いたちの誕生日には賢者が張り切って祝いの席を設ける。会場は大抵食堂だから、その準備のために本日の主役様はその間食堂へは立ち入り禁止になる。ミチルやルチルはその準備に参加するから、さてどうしようかな、と頭を巡らせたところに朝食の席にはいなかった黒髪が視界の端に映った。
「あ、レ」
「フィ、ガ、ロ、ちゃーん」
「フィガロちゃんや」
今日は我らとおでかけしーましょ! と両側から腰の辺りに双子に抱きつかれて、フィガロの声はかき消された。双子がやってきた方向の奥には渋い顔をしたオズもいる。
「え?」
「「じゃ、オズちゃんお願い!」」
そのオズははぁ、と至極面倒くさそうにひとつため息をつきながら呪文を唱えた。途端に、ひやりとした空気がフィガロを包む。
「うわ、さむっ。行き先くらい言ってから連れてきてくださいよ。北はまだ冷えるんだから」
ここがどこか、なんて聞かなくてもわかるくらいに見慣れた室内に外の景色。大体この四人でいくところなんてそんなに選択肢があるわけもない。北の、オズの城だ。
オズが暖炉に火を入れる。ゆるりと冷えた空気が動いたのがわかった。炎のゆらめきとパチパチと薪の爆ぜる音はフィガロも嫌いではない。
「それでどうしたんですいきなり」
「どうしたも何も」
「夜までそなたは手持ち無沙汰じゃろうて、せっかく連れてきてやったのに」
「ねー?」
「ねー?」
「それは、どうもありがとうございます」
「かわいくなーい」
「かわいげなーい」
顔を見合わせて頬を膨らませる双子、我関せずとばかりにさっさと定位置に座って暖炉を眺めているオズ。なんともまぁ、昔懐かしい光景とも言えるだろう。
……ずいぶんと、変わってしまったものもあるけれど。
まったく、とちいさくため息を吐いて、些か乱暴にソファーに体を沈めた。どうせここには取り繕う相手もいない。勝手知ったる人の城だ。
呪文を唱えてティーセットを呼んで、紅茶を淹れる。今日の主役だろうが何だろうが、この四人でいるときに、紅茶を淹れるのは大抵フィガロの役割だった。
「俺にだって予定があるとは思わなかったんですか。俺が予定を狂わされるのが嫌いなのはおふたりだってご存知でしょう」
「えー、だって」
「だって、ねぇ」
ふっふ、とにんまりと顔を見合わせて、愉快そうに揃って目を細める。その顔は嫌な予感しかしない。
「ちゃんとレノちゃんには許可とったもん」
「……は?」
何か、聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。レノックスに許可。……何の、なんてわかりきっているけれど、思わず漏れ出た声は掠れた。そんなフィガロの反応に気を良くしたのか、小憎たらしい笑みを並べて、双子がきゃっきゃっとわざとらしくフィガロを挟んでソファーに腰掛ける。
「フィガロちゃんとどこかお出かけでもするんかの? って聞いたら『特に予定はないですね』なんていうから」
「じゃあ我らがフィガロちゃん借りてもいいかの? って聞いたら『どうぞ』って言ってくれたもんね」
ねー、じゃない。確かに取り立てて予定を決めてはいなかった。けれど、実際フィガロはレノックスへ声をかけようとした。した、し、レノックスの方もきっと相手をしてくれるだろうとは思っていたけれど。
「……なんでレノなんです」
「えっ、聞いちゃう?」
「言わせちゃう?」
「いや、やっぱりいいです」
何をどこまで知られているのかは知らないが、碌なことにしかならない。
だって、その質問はどう聞いても想い合っている者同士――言ってしまえば恋仲であるふたりにとっての記念日をどう過ごすのか、というものだろう。
南の国で、フィガロだって若い恋人たちへ揶揄い混じりに訊ねたことがある。そのときは、お互い顔を見合わせてはにかむふたりを微笑ましく眺めていたものだけれど。
同じ問いかけを、まさかフィガロがされることになるなんて思いもしなかった。
そんなものを親代わりのようなふたりから言葉にされるのはあまりにもいたたまれない。
レノックスは、おそらく、いや、絶対にその意図はわかっていない。ミチルのようなこどもを連れ出すときの保護者への許可くらいに思っていそうだ。フィガロはもうとっくに二千歳を超えているのだけれど。
はぁ、とわざとらしくため息を吐いて、天を仰いだ。顔を見られたくないし、かといって隠して仕舞えばそれこそ双子の思う壺だろう。
なぜフィガロはひとりでこんな目に遭わないといけないのか。
そうは思うけれど、例えばここにレノックスもいたとして本人はそんなに表情を変えないくせして、余計に話の種を与えてしまいそうな気がする。なにせ双子は千年単位でオズの仏頂面から表情を読んできているのだから。
「かっわいいのう」
「今になってそなたのそんな顔が見られるとはの」
にんまりとからかう表情のくせに、声にはしっかりと情を乗せてくる。見守られて、慈しまれている、というのがわかってしまう。いつまで経ってもこのふたりの前ではフィガロは「弟子」なのだ。だから結局のところフィガロはこのふたりに強くは出られない。
「別にレノとはそんなんじゃないです」
あぁ、少し拗ねたような物言いになってしまった。けれどフィガロにできるのはこんな形ばかりの抵抗のみだ。……双子が興味を示している以上、どうせ無駄に終わるのなんて分かりきっている。
「えぇ? やることやってるのに?」
「レノちゃんもそういうことしちゃう子なの?」
「ちょっ……と、オズもいるんですよ」
「フィガロちゃん、オズちゃんのことなんだと思ってる?」
「一応オズちゃんだってもう二千歳は超えてるよ?」
「……うるさい」
眉間に皺を寄せて、むすりとした顔でオズが言う。けれど言わせてほしい。フィガロが双子の前でこども扱いされるように、フィガロにとってはどれだけ強大な魔力を持とうが、普段は友人のように付き合っていようが、手のかかる弟弟子なのだ。可愛げがないところが可愛いのもまぁ、わかるくらいには。
「……あれは、そういうことをするような男じゃないだろう」
ぱちくりと、オズの言葉に目を瞬かせた。そういえばレノックスもオズとは気質が合うと言っていた気がする。ふたりで酒を飲んだこともあるのだとか。
「ふぅん。おまえ、ずいぶんレノのことをかってるんだね」
「レノックスとの時間は静かで過ごしやすい。誠実な男だともわかる。あれがおまえの傍にいるのなら問題はないだろう」
ふ、とちいさくオズの表情がやわらかくなる。なんだ、その、まるでアーサーを、中央の魔法使いたちを見るような目、は。
「オズちゃんもフィガロちゃんのこと心配してたんだね」
「何だかんだでフィガロに懐いておったからのう」
「うるさい、懐いてない」
よしよし、とオズの頭を撫でる双子と、それを鬱陶しがりつつ適度に受け入れてるようなオズにとうとうフィガロの羞恥心も膨れ上がる。
「……っ、だから、違います!」
ポッシデオ、と半ば自棄のように唱えて、フィガロは魔法舎の自分の部屋のベットに着地する。
「あーもう……」
両手で顔を覆う。耳の奥で双子の笑い声が聞こえる。それにまたオズが鬱陶しがっている様子も思い描ける。
まったく。本当に、そんなものではないのに。
「おまえ、俺を連れ出すの許可したんだって?」
せっかく今年もおまえがエスコートしてくれるものとばかり思っていたんだけどな、なんて少し拗ねたように言ってみれば、別に去年だって大したことはしていないだなんて素っ気ない返事が返ってくる。
誕生日から数日後、フィガロはレノックスと連れ立って南の国へと戻ってきていた。双子に絡まれた腹いせとばかりに、普段よりうんと苦くした苦茶をレノックスに振る舞っても、大きく表情を変えたりはしない。けれど、確かにその眉根が顰められたのを見て少しばかり溜飲を下げた。
「なぜ、俺に聞くのだろう、とは思ったんですけれど」
「こういうことしてるからでしょ」
ほら見ろ。やっぱりレノックスは気づいていない。――それは、レノックスにとっては、自分達の関係性から連想できる揶揄いだと思いもしなかったのかもしれないけれど。
ベッドに座るレノックスの足を跨いで、フィガロもベッドに膝をつく。そのまま唇を重ね合わせた。
「……にが」
「あなたが淹れたんでしょう」
ポイ、とシュガーをひとつレノックスの口へ放り込んで、もう一度舌を絡ませた。口直し、というには深くなったそれに、たまらず肩に乗せていた手のひらに力が篭った。
キスをしながら裾から手を忍ばせて、直に肌へ触れる。レノックスの身体に触れるのはどこか安心する。鍛えられた身体は、がっしりとしているのに、どこかやわらかで触りごごちがいい。肌なじみがいいというか。
こういう身体を普段はきっちりと服の下に隠して、夜の気配を微塵も感じさせないのもたまらない。
「参ったよ、スノウ様とホワイト様には揶揄われるし、オズはなんだか変な顔して俺を見るし」
そのままレノックスも一緒に引きずるようにころりとベッドへ転がって、広い胸板に頬を埋めながら腰に腕を回した。陽の光をたくさん浴びた、草の匂いがする。
真昼の、昼寝にぴったりの、健全なにおい。
すぅ、と深く呼吸をすると、とろりと条件反射のように瞼が重くなった。
――どうしようかな、久しぶりにするつもりで帰ってきたけれど、このまま眠ってしまってもいい気がする。
とくりとくりと穏やかな心音も、高い体温も、おっとりとした低い声もいっとう眠気を誘うものだ。
「……フィガロ先生? 眠ってしまいますか?」
「ん、……こら、くすぐったいよ」
軽くくすぐるように唇が降る。背中に回された腕は寝かしつけというには、少々意図を持ちすぎていた。
「なに、珍しいね。レノからこうするの」
「誘うだけ誘って、おあずけはないでしょう」
仕切り直しとばかりに両手を引き起こされて、ベッドの上に座らされた。まだ少し、微睡の中にいるようなフィガロのシャツのボタンをレノックスの無骨な指が、ひとつずつ外していく。
もう何度だって体を重ねてはきたけれど、こんな風にされるのは初めてかもしれない。初めてレノックスと肌を重ねたときだって、もっと性急というか、なし崩し的だったというか、気づいたらそうなっていた、というのがぴったりだった。
それでも何故だろう。
単に着替えを手伝われているだけのようにも感じるほどに、レノックスの手つきは色を感じない。まるでフィガロが小さなこどもになったみたいだ。聞かん坊のこどもを寝間着に着替えさせているような。
「ふふ、おまえでもそんなこというんだね」
「おまえでも、とは?」
「スノウ様とホワイト様がさ、言うんだよ。俺ばっかりがレノを振り回しているんじゃないかって。たまにはレノのわがままだって聞いてやれって。まったく余計なお世話だよ」
確かにレノックスはフィガロへあまり希望のようなものを言わない気がする。言うのはレノックス自身の願いというより、誰かにとっての願いや、誰かのための祈りだ。だから言ってしまえば……少しだけ意外だった。こういう関係になってからも、あまりレノックスから誘うようなことはなかった気がするからだ。
――いつだってフィガロの方が嗾けて、レノックスがそれを受け入れる。
「はは、少しそのときのあなたを見てみたかったですね。スノウ様とホワイト様の前では、フィガロ先生もどこかかわいらしくなりますから」
「おまえね……そんなこと言うキャラだっ……いや、そうだなおまえも中央の男だった」
まったく、そうやってその気もなく誑かしていくんだからそら恐ろしい。普段寡黙なおことから発せられるまっすぐすぎる程の口説き文句の威力の大きさを本当にわかっていない。本人には口説いているつもりはないのかもしれないけれど。
「俺が言わない、というよりあなたが先に叶えてしまうんですよ」
「え?」
シャツを剥ぎ取って、それからインナーに手をかける。自分ばかり脱がされるのも癪なのでフィガロもレノックスの上着に手をかける。すぽ、と頭を抜いて上半身が裸になればいくら南の国とはいえそれなりに肌が冷える。
「先程のわがまま、の話ですけれど。きっとあなたなら、こうして時間をとってくださるんだろうな、という予感があって」
「なにそれ、俺がまるで好き者みたいにいうね。っていうかレノにもそういう俺とやりたいこと、みたいなのあったの」
「別にこういった行為に限らず、ですけれど。南の国でなくても、例えば魔法舎での晩酌でも、どこかへの夜の散歩でも」
――あなたがそこそこには、俺といる時間を気に入ってくださっているのかな、というのはわかるので。
これは慢心……になるんですかね。それとも期待なのかな。調子に乗っているだけなのかもしれません。
うっかりセーターを脱がしかけていたところだったから、表情を見れなかったのが惜しい、と思ってしまった。
そのままぐい、と引っ張ってレノックスの上半身からも服を剥ぎ取れば、タートルネックの口からすぽんと抜けた頭をふる、と左右に振った。その仕草はこどもめいているのに、晒された体躯は雄々しい。そっと肩に触れる。そこから、筋肉の盛り上がりに沿って腕、から指先へと辿っていく。レノックスはぱちくりと、目を瞬かせながらされるがままだ。この腕で、今から抱かれる。
「レノも調子に乗ることもあるんだねぇ。しかも俺のこと、で」
ふふ、と口元を綻ばせただけのはずが、なんだかおかしくなってしまってとうとう笑い出してしまった。
「いけませんでしたか」
「いーや、その逆。もっと調子に乗ってみせてよ」
おまえにそうされるのは、気分がいい。
くしゃくしゃと少し固い髪をかき混ぜながら、そう言って見せればレノックスはぱちくりと目を瞬かせる。
だって、誰にでも優しくて誠実なおとこが覗かせる傲慢さはどこか独占欲にも似ていて悪くない。
ほら、と煽るように首を傾げれば、そのまま素直に口が塞がれる。ぴたりと重なる肌は、やっぱり馴染みがよかった。
自分以外の体温がすぐ傍にある朝は、いつにも増して起きるのが億劫だ。自分以外の体温でも温められた寝具の心地よさったらない。
「フィガロ先生、そろそろ起きられませんか」
「んん……まだいいじゃない。おまえはこんな朝でも変わらないね……」
「今日は叱ってくれるミチルはいませんよ」
すでにレノックスはベッドから降りて、服を着込んでいる最中だ。まったく余韻もなにもあったもんじゃない。
早く起きてください、と素気無く言い返されて、それでもフィガロはベッドの中で枕を抱き込んでうつ伏せになってレノックスを見上げた。
「ほんと、おまえ俺には当たり強いというか扱いが雑だよね。ファウストにはあんなにも誠心誠意、尽くすっていうのに」
そうやってわざとらしく拗ねたようにため息を吐いても目の前の男の表情は変わらない。
「だってあなたがそれをご希望なんでしょう」
変えた方がよろしければ変えますけれど、とレノックスは言うけれど、まだそこはわかっていないのか、わかっていてとぼけているのか。
「いらないよ。どうせ『同じ』にはならない」
ああいう、たったひとりに捧げられる真摯なものを欲しくはあるけれど、フィガロが仮にレノックスからそれを受け取ることができるのなら、それはもうフィガロが欲したものではなくなっている。誰かと同じ質量の愛ならいらない。ましてや、同じ種類であるのに、傍目にはわからない程の、ほんの少しの差だったとしても自分の方が少ないだろうとわかってしまうものなんて。
どんな方向へ向いていようが、唯一がいい。
しゃがみ込んできたレノックスと視線があって、その顔はどこかやわらかくて徐にキスをされた。まるで、機嫌取りのような、甘えたキス。
「えぇ、なんで今?」
「なんだかお可愛らしいと思ったので」
「おまえのツボがわからないよ……」
そのまま腕をぐい、と引かれて昨夜を逆回しするようにインナーとシャツを着せられる。流石に下着とスラックスは自分で身につけた。そして立ち上がったフィガロにまたキスがひとつ。
まるでよくできました、と言わんばかりの。
「おまえね……」
「嫌でしたか」
「嫌じゃないよ…わかってて言ってるだろう」
戯れに背中を叩いてみても、鍛えられたそこはびくともしない。けれどそこには確かに昨夜フィガロがつけた傷がある。恋仲というには甘さが足りないような気がするし、けれど体だけかと問われればそれにははっきり「ノー」と言えるだけのしっかりとした情はある。
「あ、あれが飲みたいな。レノのスープ」
「そう仰るだろうなと思って作ってありますよ」
こういう時間をフィガロが気に入っているとレノックスは言うけれど、それはレノックスがこうやってフィガロを甘やかしているからに他ならない。ベタついても、押し付けがましくもない、フィガロにちょうどいい温度で。
そういえば言い忘れていたような気がしますけれど、とレノックスがフィガロを振り返る。
「俺はあなたと過ごす時間を望んでいますよ。こうやって、あなたが俺を選んでくださるのは嬉しいです」
改めて告げられた言葉に、フィガロはぱちくりと目を瞬かせる。そんな、閨での言葉の返事のようなものを今、こんな朝の光の中で。じわじわと、受け取った言葉が体に染み渡ってこそばゆい。ああ、もう。
「……遅いんだよ!」
先程よりは力を込めて背を叩いて、それから――胸ぐらを掴んでキスをした。