ある一日の終わり 南の国に腰を落ち着けてから、もう何年経っただろう。一日の仕事を終え、夕食を済ませたレノックスは、コーヒーを啜りながらぼんやりと部屋の中を見渡した。
床も壁も木張りの、丸太小屋のようなこの家は、自分で少しずつ修繕をするうちに、だいぶ使い勝手がよくなってきた。いま、マグカップを置いているこのテーブルも椅子も、自分で切り出した木材から作ったものだ。はじめは生木のような色だった天板も、今では馬の毛のような褐色に変わって、ところどころ傷や汚れもついている。レノックスは、ゆっくりとテーブルの凹みをなぞった。ざらざらとした、塗料に覆われていない生の木材の感触を指先で追う。それは、存外好ましいものだった。きれいに直してしまってもいいけれど、特段その必要を感じない。手元のカップにふたたび視線を落とす。ゆっくりと上る湯気は、香ばしいコーヒーの匂いをまだたっぷりと含んでいた。
かつては想像もしなかったような暮らしだ。煤で真っ黒になりながら暗い坑内で働いていた頃、軍隊に入り抗争に明け暮れていた頃、それから各地を放浪していた頃。四百年以上の時を経て、今が一番おだやかだ。人間だったら、もうとっくに死んでいて、南の国にはたどり着けなかったに違いない。炭鉱の過酷な労働で命を落とす子どもや若者も多かったし、革命軍の戦闘で犠牲になる仲間も大勢いた。そもそも、人間には数百年も旅をするなんてことはできない。もし人間だったら、これほどの経験をする前に死んでいたはずだ。長命であることは希望でもあり、同時に絶望でもある。もっと早く、生まれて数十年で死んでいれば経験する必要がなかったであろうことを、この身に受け止めなければならない。魔力と引き換えに、あらゆる魔法使いたちが背負う宿命でもある。
コーヒーをひと口飲んで顔を上げると、ちょうど正面に見える入り口ドアを叩く音がした。何となく気配で誰が訪ねてきたのかはわかったけれど、返事をするより、ドアノブがガチャンと音を立てるほうが早かった。
「やあ、レノ。こんばんは」
南に来てからというもの、フィガロはふらっとレノックスの家に立ち寄ることもあれば、羊たちを連れて移動している最中に、上空から突然声をかけてくることも多い。何かとレノックスのことを気にしてくれているようで、頻繁に顔を合わせる。
「こんばんは。この時間にいらっしゃるのは、めずらしいですね」
「急患を診てきたんだ。夜間診療ってやつだね。ああ、でも命に別状はないから大丈夫」
「それならよかったです。……あの、コーヒー飲まれますか」
「うん、ありがとう……って、レノ。鼻、どうしたの」
フィガロは、急に表情を変えてレノックスの傍に寄ってきた。何を言われているのか見当がつかなくて、レノックスは目をぱちぱちとさせる。
「……えっと」
「鼻の頭に、けっこう生々しい傷があるけど」
言われて指で確かめてみると、まだ出来たてのやわらかい瘡蓋の感触があった。思ったより範囲が広いようで、レノックスは驚く。
「もしかして、気づいてなかった?」
「はい」
「仕方がないからフィガロ先生が治してあげよう。ほら、こっち向いて」
フィガロはレノックスの顔の前に手をかざした。指先から、ほんのりと薬草や消毒液の匂いが漂う。呪文を唱える声が聞こえたので、レノックスは無意識のうちに目を閉じた。何となく、フィガロが魔法を使う瞬間を見てはいけないような気がしてしまった。
「ありがとうございます」
「化膿してはいなかったけど、よく平気でいられたね。もちろん、どこでつけた傷なのかも心当たりはないんだよな」
「ありませんね。まあ、昔は怪我が日常茶飯事でしたから」
「でも、今はそうじゃないだろ」
フィガロは、ため息混じりに笑った。ここに来てから、身長のせいで思わぬ場所に頭をぶつけることは時折あっても、羊たちが突然噛みついてくることはない。
「そうですね。……すみません、コーヒー淹れてきます」
レノックスは立ち上がってキッチンに向かった。湯を沸かしながら、生傷が絶えなかった時代のことをぼんやりと思い出す。正義のためとは言え、あの頃は日常的に多くの血が流れた。そんな中、多少怪我をしても動けたのは、基礎体力や魔法の力もあっただろうが、それ以上に、革命を成し遂げたいという揺るぎない目標があったからではないか。集団の目標というのは、時に個人では成し得ないような風景を見せることがある。そんな体験が、幾度となくあった。声を張り上げ革命の先頭を行く人の背中が、ふと脳裏に蘇る。
「レノ!」
自分を呼ぶ声が聞こえた。その声は、だんだん大きくなる。
「レノ! レノックス!」
声は、こちらに向かって何かを必死に訴えている。しかし、何を伝えようとしているのかがわからず、ただ叫び声だけがこだまする。
「レノ! お湯こぼれるよ!」
気がつくと、目の前のケトルから蒸気が噴き出して蓋がカタカタと動いていた。レノックスはあわてて火を止め、こぼれた湯を拭う。
「どうした? いつになくぼーっとしてるじゃないか」
「……昔のことを思い出してました」
急に生々しい過去が蘇り、レノックスの鼓動は速くなっていた。動揺しているのが顔に出ているのか自分ではわからないが、できるだけ平静を装い、まるで何事もなかったかのように戸棚からコーヒーを取り出す。沸かしすぎた湯を少し置いてからドリッパーに注ぐと、コーヒーの粉が泡立ち、こぽこぽとやさしい音を立てはじめた。レノックスは、やっと落ち着いて息を吐く。
「……あの、フィガロ様」
「なに?」
「俺は……羊飼いに向いているでしょうか」
椅子に腰掛け足を組んでいたフィガロは、一瞬だけ虚をつかれたように目を開いた。でも、またすぐにいつもの表情に戻る。
「どうしたの、急に。もう何年も無事に羊たちと過ごせているじゃないか。きみが羊を預かってくれて、感謝している人も大勢いる。そもそも、動物は嫌いじゃないだろ」
「もちろん、その通りです。でも……」
「でも?」
「羊飼いは、羊の群れを率いる存在です。俺は……どちらかというと羊のほうなのでは」
そう言いながら、レノックスは昼間の風景を目に浮かべた。何十頭もの群れを移動させながら、草地を歩き続ける。眼下には、ところどころ土で汚れながらも分厚い毛をたくわえた羊の背中が延々と連なり、草を食んでいる。羊たちはみな、黙ってレノックスの後ろをついてくる。レノックスの目の前には、ただ広大な土地が広がるだけで――追うべき背中はどこにも見当たらない。
「別に、この仕事をきみに勧めたのは、何かの当て擦りでもなんでもないよ。それに」
フィガロは椅子を後ろに引いてテーブルに肘をつくと、レノックスを見据えた。
「きみは、羊ほど大人しくて従順な奴じゃないだろ」
そう言いながらフィガロの瞳がきらりとあやしく光ったように見え、レノックスは返事に詰まった。「そうですか」と小さくつぶやいて、淹れたてのコーヒーをフィガロの前にそっと置く。
「ありがとう。さっきのは、批判じゃないからね」
はは、と笑いながらフィガロはコーヒーを口にした。レノックスも対面に腰掛け、マグカップに残っていたコーヒーを啜る。この生活は、いつまで続くだろう。目を閉じると、さまざまな風景が瞼の裏で交差した。