レノフィで夢十夜「俺が石になったらさ、ひと欠片、土に埋めてよ」
フィガロが言った。
レノックスとフィガロのふたりで晩酌をしている時だった。魔法舎の屋上で、星を眺めながら酒を飲んでいた。いつもは互いの部屋を行き来することが多いのだが、たまには趣向を変えようとどちらともなく言い出したのだ。
また質の悪い冗談を言っているなと思いながら、レノックスは「フィガロ先生は千年先も生きておられそうですが」と返した。
実際、フィガロはこの先、千年も二千年も、レノックスが石になった後も変わらず生きているような気がした。彼の師匠であるスノウとホワイトの双子が――いや、スノウが数千年も生きているそうだから、フィガロにもあり得ないことではない。何より、彼は既に二千年も生きているのだ。
「俺だっていつかは石になる。君よりも先にね」
レノックスは、返事をしなかった。この話を、続けたくなかったから。
この世に生まれた以上、誰にだって死は訪れる。死こそが最も平等であるとは誰の言だったか。そうであっても、いまこの酒盛りの場でする話題ではないだろう。レノックスは美味しい酒と料理を、穏やかに楽しみたかった。しかし、メメント・モリ、楽しい酒盛りの場だからこそなのか、あるいはアルコールの効果による感傷だろうか。フィガロはこの話題を続けるようだった。
「大きな貝で穴を掘ってそこに石を埋めた後、その貝を墓印に置いて。それで、百年待っててよ」
フィガロはそう言って、真っすぐレノックスを見つめた。フィガロの瞳のなかの榛が、星のように夜闇に輝いていた。その輝きがとてもはっきりしていて、レノックスには彼が死ぬとは到底思えなかった。
しかしその瞳の輝きで、フィガロは口ではいつも通りに冗談のようなことを言っているが、実は珍しく非常に真剣なのだとわかった。わかりました、と答えそうになって、約束になってしまうと気づき、レノックスは答えに窮した。
レノックスのその様子を見て、フィガロはそれだけで満足したらしい。穏やかに笑って、レノックスのグラスに酒を注いだ。レノックスは返事の代わりに、彼のグラスに酒を注ぎ返した。なみなみと。
それから程なくして、厄災を打ち破ったあと、春の暖かな日にフィガロは石になった。彼は自身が石になることを随分前から悟っていたらしかったことを、レノックスはその時になって知った。
フィガロの石を形見分けるとき、レノックスはちいさな欠片を手に取った。フィガロがいつか、ひと欠片土に埋めてほしいと言っていたのを、叶えようと思ったからだ。
レノックスの様子を見たスノウが、「もっと大きな石にしたらどうじゃ」と言った。彼は静かな声で「我なら、ホワイトの石は誰にもやらんがのう」と付け加えた。
レノックスは、思わず、スノウを見た。スノウの怜悧な目が、真っすぐにレノックスを見ていた。手のひらの上にあるちいさな欠片の、その重さがにわかに気になりだした。心の奥底の感情がさざ波だっているのがわかる。
何と返事をしたらいいのか、逡巡し、それからレノックスは大きく息を吸った。
「土に埋めようと思っていて」レノックスは答えた。「あまり大きなものを埋めると、荒らされてしまうのではないかと」
「そうか」スノウは短く返すと、石を箱に仕舞い込んだ。「オズ」
「これを、そなたの城に仕舞っておいてくれぬか」
「わかった」
箱は瞬く間に消えた。
「いつでも、取りに来ると良い」オズが言った。
レノックスは手のひらにある小さな石を握りしめて、「ありがとうございます」と礼を言った。
フィガロの石は、診療所の裏手、湖の畔に埋めた。
貝の墓標の前に座って、夕陽を眺めた。湖面に橙色の光が反射している。
あの時は、悪い冗談だと思っていたのに、フィガロは本当に石になってしまった。少しだけ持ち重りのする、小さな石に。彼の石は彼の瞳に似て、星が輝いているかのように煌めいていた。その石をもう一度見たいと思ったが、墓を掘り返さなかった。彼の言うことを信じて、百年待とうと思ったからだ。そして、魔法使いで良かったと思った。魔法使いは長命だ。人間ならばその一生をかかっても百年待つことはできないが、魔法使いなら百年待っていることが出来る。
時々、晶やミチル、ルチル、ファウストが、レノックスの様子を見に来た。
ある日、晶が「これを隣に植えてもいいですか」と石ころ大の球根を持って来て、いくつか墓の近くに植えた。
「なんの球根ですか」
「百合です。なんだか、夏目漱石みたいだなと思たので」
「ナツメソウセキ」
「俺の世界の小説家です。夢十夜という作品があって、女の人が男の人に、百年墓の傍で待っていたら逢いに来る、と言って亡くなるんです」
「その男の人は、百年待ったのですか」
「はい。百年待って、女の人は百合になって逢いに来たんです」
なるほど、とレノックスは思った。フィガロは博識で、以前の賢者とも関りがあったという。その賢者は晶と同じ国から来た人物だったそうだから、どこかで聞いたことがあったのかもしれない。
「なら、墓のそばに座っていれば……」
「物語ですよ。でも、そうだといいですよね」
晶が来たのはそれっきりだった。彼の場合は石ではなく、骨になった。晶の骨は石よりもずっと軽く、小さかった。
レノックスは、晶が植えた球根の世話をして、百年を過ごすことにした。その球根は、土が合わなかったのか、なかなか芽を出さなかった。しかしレノックスが諦めずに世話を焼き続けたら、年に一本ずつ咲く花が増えていった。それは白い百合だった。時期になると、年々辺りが白い花でにぎわうようになり、その芳香が骨に染み込むほどに香った。しかし墓の方は変化がなかった。それでも墓の近くから動く気にはならなかった。
月日が経つにつれ、墓標にしていた貝殻は形が崩れていった。貝殻の代わりに、近くに落ちた星の欠片を置いた。丸い星の欠片は、ひとの体温ほどの温かさだった。長らく忘れていた温度を懐かしみながら、レノックスは石に触れた。
百合の世話を続けて、もうどれだ経ったのかわからなくなったころ、声がした。
「ねえ、百年間墓の前でずっと待て、とは言わなかったよね」
見ると、一面咲き誇る白い百合の花の間で、星の瞳をした少年が笑っていた。
「すごいことになってるな。これ、君がやったの?」
百合は、百年の間にずいぶん増えて、湖畔は大きな群生地になっていた。
現れた少年は華奢で、また色素も薄く、そのためか朝露のように儚く見え、レノックスは思わず彼に駆け寄って、ぎゅっと抱きしめた。
「ちょっと、レノ、苦しいよ」
「フィガロ先生……」
「もう先生じゃないよ」
「フィガロ様……っ」
「いまはただの子どもだよ」
「……フィガロ」
「うん。お待たせ」
抱きしめた体のあたたかさが、いつか触れた星の欠片を思い起こさせた。しかし石とは違う柔らかな感触に、じんと胸中が締め付けられるような心地がした。